前回、トラウマを負っている方は、「常識(パブリックルール)」が弱い と書きましたが、これは、もちろん俗に言うような意味で「常識がない」ということではありません。
(参考)→「自我と常識(パブリックルール)が弱い」
むしろ、他人からどう思われているか? 迷惑をかけていないか? をものすごく意識しています。
「過剰適応」という言葉があるように、常識やルール、マナーということは意識しすぎるくらいに意識している。
過剰なくらい”常識的”です。
しかし、ここからが問題ですが、
一方で、自分がどこか変だ、と感じている。
なぜか、自分がマナーや常識というものがわからない感覚があって、それを人から指摘されるのではないか?と恐れている。
だから、過剰に意識しているのです。
(参考)→「自分がおかしい、という暗示で自分の感覚が信じられなくなる。」
さらに、トラウマを負った人が考える「常識」とは、他人の考えを忖度することだったりする。他人の頭の中を覗きにいって、相手の機嫌を損ねないような振る舞いが「常識」と考えていたりする。
本来は、他者の頭の中を経由せずに社会通念、社会でのルールをダイレクトに身につけるものが「常識(パブリックルール)」です。
他人の頭の中を忖度したものは「ローカルルール」です。
(参考)→「ローカルルールとは何か?」
他人が言う理不尽なことも含めてそれが「ルール」だとして守ろうとする、合わせようとしてしまう。
そうすると、段々と、ほんとうの意味での「常識(パブリックルール)」からはずれていってしまって、さらに自分の足場がわからなくなる。
結果として、パブリックルールに支えられて形成されるところの「自我」も弱くなってしまう。
人間は社会的な動物と言われるように、「自我」と「常識(パブリックルール)」とは、対の関係になっていて、「常識(パブリックルール)」の型がなければ「自我」は健康には成り立たないものです。
一方で、「自我」がしっかりしていないと、「常識(パブリックルール)」もうまく根付かない。
「自我」が曖昧なために他者の頭を忖度して、ローカルルールを常識だと勘違いしてしまう。
トラウマを負った人のもつ常識とは、過去に受けた理不尽への対応集になっています。
そうした状況を指して、「常識(パブリックルール)」が弱い、というのです。
●よろしければ、こちらもご覧ください。