幻想の構造~「心に聞く」やセラピーも現実を知るためにある

 人間というのは、おそらくは動物の中で唯一、抽象的な概念や、想像を用いる生き物です。
そのために、高度な社会を築くことができました。

 概念や想像を共有することで、共同体の枠組み、規範や帰属意識が醸成されて社会が形成されています。
科学でも概念を操作することで、発展してきました。

 さらに、ミラーニューロンを介して人同士がつながり、抽象的な価値観が内面化されている、とも考えられています。

 抽象的な概念を用いることは大いなるメリットをもたらしましたが、同時にデメリットももたらしました。現実を回避することで、問題が大きくなってしまうこと、幻想の中に逃避してしまうことが起きることです。

 

 もともとの私たちは単なる自然物であって、そこには罪も何もないわけです。

 ただ、安心安全が脅かされて、閉鎖的な共同体が持つローカルルールを内面化したりすることで、呪縛とも呼べる幻想(「自分はダメだ」といったこと)を強く持たされてしまう。
 

 

 安定した環境で育っても、ある程度は幻想が入るのですが、安定した環境で内面化したものは、安心安全が確保されているため、多様性があり、変化可能であり、不要ならば循環して「排泄」されていきます。そして、新しい環境に合うものを獲得していくことができます。

 特に反抗期では顕著に「排泄」が行われて、親の価値観はいったん捨ててしまい、再解釈をされることになります。

 その経験があるため、社会に出ても、価値観を真に受けずに、ある程度自分で選択できるようになります。

 

 抽象的な考え、感情は、外部からもたらされます。そのために「関係」はとても重要で、私たちの判断も関係のネットワークによって支えられます。できるだけ多様で、緩やかな関係を多く持てると、安定は増しますし、安心安全があることでより良い関係を持つこともできます。

 

 もちろん、健康な成熟を見せる人も、誰しもほどほどに「幻想」を持っています。ただ、安心安全が担保されているため、多様で柔軟で選択可能性があるのです。
 意図的に、幻想と戯れたり、「ふり」をしたり、また現実に戻ってきたりすることができます。

 

 反対に、トラウマを負っていたりして不安定な場合は、安心安全がなく、さらに関係が少ないため多様性がなく、
「幻想」が信仰のようになってしまいます。
 あたかも「幻想」が、現実をふさいで窒息させてしまうような形になってしまうこともあります。

 

 さらに、「幻想」から抜けるために、さらに別の幻想を持ってこうとそして、屋上屋を重ねる、といったことになります。ますます解決から遠ざかってしまう。
 (先日の記事で書いた、「愛」「全体性」とか無限の観念をもって対抗しようとすることはこうしたことを指します。)
 実際、壮大な理想を唱えた人たちが最後は嫉妬の塊となって仲間を殺したり、テロリストになったりすることは過去の歴史的事件を特集したTV番組を見ればしばしば出てきます。

 図にすると、

  本来の自分 ← 内面化した価値観(呪縛) ← 別の幻想
       

 ますます本来の自分が分からなくなる・・・

 本当は、

  本来の自分 ← 内面化した価値観(呪縛)
            ↑
      これを除いて“現実=本来の自分”に触れるのがセラピーの役割。

 

 「心に聞く」も“幻想”を聞くのではなく、“現実”を知るためにある。
 (参考)→「「心に聞く」を身につける手順とコツ~悩み解決への無意識の活用方法

 

 

 ここで、「“現実を知る”っていうと、今の自分で我慢しろ、とか」「自分は結局ダメだ、と告げられるのでは?」と思うかもしれませんが、そうではありません。

 心に聞くと、「あなたは力があるよ」「あなたは大丈夫だよ」って言ってくれます。 

 でも、多くの場合は、「自分で勝手に考えた慰めにすぎない」として無視してしまうのです。

 例えば、イルカや、犬、自然に触れるようなセラピーがありますけど、そうしたものが教えてくれるのも、やっぱり「あなたは大丈夫」ということです。
 (人間のカウンセラーが言っても、なかなか信じてもらえませんけども・・)

 

 「心」が告げてくれるみたいに、〝現実”のほうが面白いし、楽しいし、優しいし、美しい。

 人間が頭でこしらえた「自然」と、「本物の自然」とを比較すればわかりますが、当然、実際のほうがはるかによいものです。
 私たちは、セラピーを通じてそこに還っていく取り組みをしているわけです。

 

 仏教の「覚る(さとる)」というのも、あたかも学者のように世の中や自分をありのままに見る、というだそうです。(だから、仏教には、いわゆる神といった概念はなく、まるで唯物論みたい、といわれます。)
でも、そちらのほうが、悩みからは抜けやすいと、お釈迦さまは発見した。

 

 理屈はそうだけど、やっぱり幻想が欲しい・・
 
 という場合は、“戯れ(たわむれ)”として利用すればいいかもしれません。すこしすっきりしたら、また現実に戻ってきたらよいのではないでしょうか。

 本当に苦しい時は、幻想を希望に変えてでもしなければ立ち向かえないくらいに、生きづらいものですから。

 でも、幻想を希望にしたままでは、生きづらさからはなかなか抜けれません。だんだん「幻想」に嫌気がさしてきて、飽きてきて、「なんだ、結局、引き寄せとかなんとかいっても、そんなもの当たらないじゃないか!やめた!」「自分は自分だ」と思った瞬間からうまくいったりもするのです。

 そうしたことを、依存症治療の世界では、「底をつく」というそうです。底をついて現実に触れると、幻想がパーッと晴れて、「あれ?自分って本当は能力あるんじゃんか!?」って気がつけるようになります。
  

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

ブリーフセラピー・カウンセリング・センター公式ホームページ

お悩みの原因や解決方法について

 

私たちは、“個”として成長し、全体とつながることで、理想へと達することができるか?

 

トラウマを負っていて、愛着が不安定だと、安心安全がないために、「愛」を強く求める傾向があります。

 

家族に「愛」を求めます。
でも、家族からは「愛」は得られません。

 

なぜなら、前回描きましたように、愛とは、神にしか提供できなものだからです。人間には愛は提供できない。求めれば求めるほど、孤独や嫉妬、絶望を感じるようになる。

 

愛が得られないことで、怒りがたまります。
その結果、怒りが脳に帯電して、ショートしやすくなり、解離を起こしたりするようになります。

あるいは愛の代わりに「幻想」を求めるようになります。

本来の自分らしくは生きられなくなります。

その結果、また、自分を責めて、解離を起こして、を繰り返すようになります。

 

解決したいと考えて、医師やカウンセラーに「愛」を求めます。でも、治療者からも愛は得られません。

なぜなら、繰り返しになりますが、「愛」は神のものだから。

人間からは得られない。サポートするはずに医師やカウンセラーからも得られない。最初は得られる気になるのですが、結局は得られない。

その結果、「最低な奴ら!!役に立たない!なんで私に無条件の愛をくれないんだ!」といって、治療者に怒りをぶつけるようになります。
(「愛」が得られるというぬか喜びと失望(スプリッティング)、この状態をさして、境界性パーソナリティ障害と呼ばれます。)

世界最高の医師やカウンセラーからも、「愛」は得られない。

スピリチュアルのグルからも「幻想(ファンタジー)」は得られるけど、「愛」は得られない。

 

「愛」を求めてさまようことになります。

愛を求める一方で、あまりの生きづらさから誰ともかかわりを持たず、自分は自分として生きたい、という願望も持ちます。これもかなえることができない。

しかし、愛は求めれば求めるほど、孤独、絶望がやってくる。それは、神のみが可能なもので、人間にはスペックオーバーだから。
人類愛というように自分と同じ“人類”であることを前提として期待しますが、相手は自分と同じように考え、感じ、行動してくれません。すると、やがて、相手を「人間ではないもの」として排除しようとしたり、人間以下のものとして支配しようとすることになります。結局、孤独に陥ってしまいます。

 

こうした状況を越える方法として、何か人間を越える全体とつながろうとするアイデアが出てきます。それがスピリチュアルなどが唱える「全体性」の概念です。

 

残念ながらこれも、実現することはかないません。それらも結局、人間がこしらえた、作り物の概念でしかないものだからです。人間が作り上げたものなので、多様性をそぎ落として単純化したものを至上の概念としているだけ。

 

「愛」が別の概念にすり替わっただけです。スペックオーバーのものを戴いてしまうと、結局孤独や排除、支配、そしてそれを癒しごまかすための「幻想(ファンタジー)」という循環に陥って問題は解決しないのです。

「全体性」は、個で生きることを求めて行き詰まった先に登場してくる、全体主義と似た精神構造からくる願望でしかなく、結局、待っているのはニセ神様で、そこで支配されることになります。幻想を提供されて、解決からは遠ざかってしまいます。結局、幻想が覚めたら孤独であることに気づくことになります。
(参考)→「ユートピアの構想者は、そのユートピアにおける独裁者となる

 

 

実は、この人間の本質にかかわる問題では、カウンセリングの始祖ロジャーズも手痛い“敗北”を喫しています。

来談者中心療法で注目を浴びていた気鋭のロジャーズが、哲学者マルティン・ブーバーと対談したときのことです。
ロジャーズは、個としての人間には無限の成長可能性があると熱弁しますが、ブーバーには全く響きません。

それどころか、ブーバーは「人間が個として発展していくことは、ますます人間らしさを失っていく」とします。
ブーバーは、「私は個人(indibidual)ではなく、人間(persons)の見方だ」といいます。
ブーバーにとって人間とは、個ではなく、世界とともにある存在、出会いや関係によって存在するものだと考えていたためです。

 

 前回の記事でもメカニズムを書きましたように、近代の仕組みの根底にはキリスト教がありますが、キリストが理想としたことは神との直接のつながりを通じて個として完成することです。しかし、それはあまりにも理想が高すぎて、凡人には届きません。すると、私たち人間は「愛」を求め、個として完成しようとすればするほど、人とつながることができず、孤独へと陥ってしまう。これはD・H・ロレンスなどが提起した問題ですが、同様の洞察をブーバーも感じていたと考えられます。結局、人間は関係の中にあるものだと。

 個人主義が成熟したように見える欧米でも純粋に個人で生きれているわけではないようです。
(参考)→「なぜ人は人をハラスメント(虐待)してしまうのか?「愛」のパラドックス

 

 

 

社会的ひきこもりで知られる心理学者の斎藤環氏も、ロジャーズの理想はまさに、全宇宙と自己との調和を目指すニューエイジ的なビジョンそのものとし、「真空の中でも生きられる「個人」という存在の価値を至上のものとして、その個人の空間を侵害する外敵を徹底して排除しようとする。言い換えるなら、個人の無限の可能性は、世界とのかかわりなくしても成立するという信仰」であるとしています。 さらに、「「ひきこもり擁護派」の人たちがあれほど頑迷なのかがわかってきた。」「彼らは自覚なきロジャリアンなのだ。」と人間を理想的に捉えて柔軟性を欠く援助者を批判しています。

 

 自身がロジャーズ派であると自覚がなくても、現代のカウンセリングや自己啓発などの基礎はロジャーズの思想が土台にあります。そのロジャーズ自体、存命中に寄せられた様々な疑問(なぜ、受容するだけでクライアントは成長できるといえるのか?など)に対して結局、有効な説明、証拠を提供できないまま亡くなっていきました。日本ではあまり自覚されていませんが、カウンセリングはその基礎自体が危うい前提の上に展開されている部分があって、そのことも理解したうえで用いる必要があるのです。

 自己啓発とか、ポップ心理学、スピリチュアルなどが唱える、煩わしい人間関係をすべて断って、「個」として本当の自分を見つけて成長し、無限の可能性が開花する、といった理想はどうやら実現が難しいようです。それどころか、孤独に陥ったり、かえって支配され生きづらさが増す反動があるということです。

 半世紀近く前から、識者からはすでに指摘されて、そして、ある程度決着がついていたことですが、一般の私たちのところにはなかなか届いていない知識です。届かないまま、右往左往させられて、ということが起きてきました。

 

 実は、愛、全体性といった、壮大な概念や理想などなくても実は私たちは人とつながり自分らしく生きていくことができるのです。

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

ブリーフセラピー・カウンセリング・センター公式ホームページ

お悩みの原因や解決方法について

自分にも問題があるかも、と思わされることも含めてハラスメント(呪縛)は成り立っている。

 最近報じられている「目黒5歳女児虐待死事件」では、女児が残したノートの“反省文”の悲痛な内容に、虐待死させた親に対する怒りや、政治、行政などの再発防止に向けての要望が寄せられているようです。
 わずか5歳の子が、自分が悪いと思い込まされ、反省する様は本当に痛ましいものです。

 この事件には、ハラスメント(虐待)の構造がよく表れています。
 

 

 まず、ハラスメントは妥当な根拠なく偶然にやってくるということです。

(参考)→「理由を考えると、呪縛にかかる~ハラスメントは偶然に

 無垢な5歳の子に罪があるわけはなく、まさに「因縁をつける」というように、相手に罪を着せて、理不尽な行為の根拠をでっちあげます。
 反省文の中に表れているように、自責の念を刷り込んでいます。
 そのために、20個近い毎日やるべきことをルールとして設定して、守らない女児を“罰して”いたようです。

 人間とはだれもが不完全ですから、毎日たくさんのルールを設定されれば、大人でも何らかの瑕疵が出るものです。

(参考)→「因縁は、あるのではなく、つけられるもの

 

 こうした事件を起こすような親でさえ根拠をでっちあげなければならないということからわかるように人間というのは自身の行動を正当化する理由を必要とする生き物ですし、実は、ハラスメント(虐待)というのは、暴言・暴力だけでは成り立ちません。

 
 筆者が昔読んだ本の中で、ある評論家は、「殴る、というだけでは人は言うことを聞かない」といったようなことが書かれていました。
 つまり、相手を支配、服従させるためには暴言・暴力という圧力だけではだめで、相手を精神的にコントロールする必要があります。

 そのためには「罪悪感の植え付け」を行います。

 罪悪感の植え付けには、根拠が必要になります。
 勝手なローカルルールを都合よく設定して、それを破っているということを根拠に相手を責めることになります。
 そして、自分はその場のルールをつかさどる「ニセ神様」としてふるまいます。

 ハラスメント ≠ 暴言・暴力 
 ハラスメント = 暴言・暴力 + 罪悪感の植え付け

 
 本来、ルールを設定できる権利はあるのは本物の神様だけで、私たち人間にとってのルールとはすべてが「なんちゃって」の便宜的な決め事でしかありません。

 なんちゃっての決め事は、共同体の歴史の中でもまれることで多元性を担保した「常識」となります。
(参考)→「「常識」こそが、私たちを守ってくれる。

 

一方、解離してニセ神様のようになった人間が都合よくこしらえたルールは、偏ったローカルルールに過ぎず、支配の道具として使われるものです。

 虐待死した女児の家と同様のことは、それが形を変えたり、薄まった形で、会社や学校、ほかの家庭などでも見られます。
特に会社などは、ローカルルールのかたまりで、ちょっと油断すればハラスメントが生じます。

 

 

 ハラスメントを受けている方がよくおっしゃるセリフは、
 「私にも悪いところはあるんです/あるかもしれません」ということ。

 今回の虐待死した女児の反省文の内容とどこやら似たこと(≒自分が悪い、ということ)をおっしゃるのです。

 

 私たちが知らなければならないのは、
 自分にも問題があるかも、ということを思わされること自体がハラスメントなのだということ

 職場でも、家庭でも、恣意的にルールを設定して「お前は全然できていない」と(神ではなく)不完全なはずの“人”がいうことを、
真に受けて、「自分はできない人間だ」と思い込まされる。
  
 昔、姑が隅のホコリをすくい取って「ここがまだ掃除できていない」と嫁をいびるのと同じようなこと。
嫁のことを思ってやった行為ではなく、その背景には嫉妬、支配欲、縄張り意識といった動物的な行動でしかありません。

 

 自責感や、自信のなさを感じている方はたくさんいらっしゃいますが、

 自身が当たり前と考えている自分を責める気持ち、自分がだめだという気持ちは、本当に根拠はあるのか?

 根拠と思っているものは、人間が勝手に動かしたゴールポスト(ローカルルール)ではないのか?
 因縁をつけられ、罰せられていただけではないか?

 「いや、事実自分は、ダメな人間で、これまで失敗してきた。」という思っている方の自責感も、それは、今回不幸にも殺された女児の“反省文”に見られる刷り込まれた罪悪感と同じではないか? 

 
 どうやら、私たちは、根拠なく自分が悪いと思い込まされて、呪縛され、現在に至っているようです。
ただ、“呪縛”というと恐ろしく感じるものですが、よくよくみれば不完全な人間が作ったハリボテでしかない。

 こうしたことを少し距離を取ってみるだけでも、呪縛は軽くなっていきます。

 

 

(参考)→「あなたの苦しみはモラハラのせいかも?<ハラスメント>とは何か

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

ブリーフセラピー・カウンセリング・センター公式ホームページ

お悩みの原因や解決方法について

私たちはクラウド的な存在であるため、呪縛もやってくる。

 人間が呪縛にかかってしまうもう一つの理由は、
人間がクラウド的存在である※ということがあります。
 ※スマホのように、ネットワークを前提に設計されていて、ネットワークが切れたら十分に機能しない、ということです。

(参考)→「人間、クラウド的な存在

 

 人間は関係の中で生きています。

 よく指摘されますが、
 「自分探し」というものは、自分をいくら探しても、自分は見つからない。

なぜかと言えば、自分とはそれ自体単独で存在しているのではなく、“関係”でできているため。

 もっと具体的に言えば、社会の中での「位置と役割」があってはじめて「自分」というのは成り立つものだということです。公的な存在が社会の中での自分です。その「位置と役割」は他者からの承認で成り立っているからです。

 

 10、20代のころに「自分とは何か?」という問題にぶつかりやすいのは、知恵や社会性が急速に高まる一方で、社会の中での「位置と役割」があいまいだから。
 同じ年頃に活躍する芸能人やスポーツマンたちが妙に立派に見えるのは、「位置と役割」が早くに与えられているため。

 社会の中での「位置や役割」というものは、自分でというよりは、本来外からやってくるもの。
 いくら能力があっても周りが認めなければ、「位置と役割」は満たされない。

社会からの承認には3層あります。
 Having(報酬、称賛など)
 Doing(社会的な職業、役割など)
 Being(存在の承認)

です。

 下から上へと満たされていくのが本来です。

 Being は主として家族から承認されることで満たされます。「愛着」がその代表です。
 Doing は社会的な仕事をすることです。もちろん主婦業も含まれますが日本社会ではまだまだその承認度は十分ではありません。
 Having は収入といったことですが、これも近年は、労働の過酷さに対してリターンが十分ではなかったり、成果主義がうまくいかずにかえって報酬が不本意なモノとなっていたりもします。

 「私」そのものが周囲から承認されることを必要としていて、悩みがあるという方は、どれかの層に瑕疵があります。
 また相互にも関係していて、Beingがなければ、Doingは得にくい、Doingがなければ、Havingも得にくい。Havingなければ、Doing,Havingがなければ、Beingがうまく維持できない。

 発達障害の方が生きづらいのは、育てにくさや、養育環境の不十分さから愛着(Being)を形成しづらい。職業に就く際に多くの困難を抱える(Doing,Having)といったことがあるためです。

 周囲からの得られるものが「承認」だけであればよいのですが、「呪縛」も同時に入ってくることがある。

 呪縛になるのはどういった場合かといえば、関係が閉鎖的な場合や、少ない筋からの承認に頼らざるを得ない場合です。依存症も一つのことにしか頼れない場合に生じますがそれと似ています。承認先が少ない場合、多元的であることが担保されずに、呪縛的な関係になってしまいやすいのです。

本来であれば、できるだけ、メッシュ(網の目)のように複数の緩やかな関係からの承認であることが望ましい。

 

 核家族や、成人してからも親と同居していたり、介護での世話や、特定の職場に依存してしまうような環境も呪縛を生みやすい。あと、経済的に追い込まれた場合も同様です。

 人とのかかわりが切れてしまうと誰でも容易に足場や自信を失い、路上生活者や生活困窮者に追い込まれますが、まさにこれもある種の呪縛といえそうです。

 

 このようにしてみるとよくわかるのは、私たちの悩みは「心理」の問題ではないということです。
 ほとんどは、家族の問題であり、社会の問題であり、経済の問題である。つまり、「関係」や「社会」の問題であるということです。
 

 関係の問題であるのは、冒頭にも書きましたように、そもそも人間がクラウド的な存在であるからです。

 

 例えば、職場や学校などは、それ自身自分を傷つける場所にもなりますが、「しごと」というネットワークに接続しなければ「私」は確立されず、悩みは抜けません。
 
 生きづらさや悩みを抱えていながらずっと家にいる、といった場合は、公的な支援を受けて、働きに出たほうが悩みは解決しやすい。これは、構造的な問題ゆえです。

 

 一方、「ひきこもる」というのも実は解決のための手段で、仏陀が出家して覚ったように、いったんクラウドを遮断して、リトリート(退却)して、そこで心身を整えて、社会に復帰するために有効な手段であることもあります。
 精神科医の中には、ひきこもる、ということを統合失調症の治療の手段として積極的に評価している方もいます。

 ただ、ひきこもる先がしがらみの多い実家であった場合に、汚言、罵倒、無理解、憐みや非難のまなざしに呪縛されて、さらに抜け出しにくくなります。

 できれば、身体がある程度回復したら、家族外の人たちと多くかかわり、回復の足場としていく必要があります。

 人間はクラウド的な存在で、クラウドによって存在しますが、うまくつながれないとネットワークは呪縛となって苦しめることになります。

 

 もし、仮に、スマホがクラウドになっていることを知らない人がいて、ネットワークにつながっていないスマホをなんとか機能するよう修理しようとしても、いつまでたってもうまく動かない、ということが起こりえます。「あれ?なんで表示されないんだろう?」と。

 

 私たちも同様で、悩みにある時に、自分がスタンドアロン(自分だけで存在している)だと錯覚していると、外部からの影響を切断することばかり考えて、結果、なかなか良くならない。
 ウイルス(呪縛)が入ってくることを恐れて、ネットワークを切断していてはスマホ(人間)は機能しません。

 自分はクラウトだと知り、ウイルスも入ってくる前提で対処することを考える。
 呪縛を防御、キャンセルし、「位置と役割」(承認)を得なおすためにはどうすればよいのか?を考える必要があります。

 

 ポイントは、人間の場合のウイルス(呪縛)とは、ネットワークの接続先が少数で、閉鎖的な環境でないとうまく作用しない、という事です。

 ネットワークがたくさんつながっている多元的な環境では呪縛の効果は弱くなる。逆に、閉鎖的で、ごく少数のネットワークにしかつながれない環境において、人間関係は呪縛や支配となって作用する。
 家族以外に全く知人や友達がいない環境ではどうなるかといえば、想像上の家族が唯一のネットワークとなって呪縛的に作用することになります。
 (参考)→「他人といると意識は気をつかっていても、実はリラックスしている

 できるだけ、しがらみのない緩い関係をたくさん持つ。趣味でもいいですし、仕事でもよいです。

 どうしても、知人や友達もいない環境で家族からの呪縛からも逃れたいのであれば、自然が豊かな環境や動物などと暮らすと良いのかもしれません。自然や動物がもたらす安心安全感が私たちの足場を作ってくれます。そこで一時リトリート(退却)して、足場ができたら、社会の中で承認が回復していくように徐々に取り組んでいく。
 

 

 私たちはクラウド的存在であるために
 悩みは心の外からやってくるし、解決の足掛かりも心の外からやってくるのです。

 

 

「汚言」の巣窟

 筆者が、久々に実家に帰って、親の発言を聞いてみると、「とても言葉が汚い!」と思うことがあります。

 TVを見て文句ばっかり。世の中に皮肉ばかり。
 何についても否定から入る。

 いちいち注意するのもキリがないくらい、汚言、悪口が当たり前になっています。

 聞いているとこちらの頭がおかしくなってきそうです。
体調が万全ではなければ、自分ももしかしたらこんな風に言われているのか?なんて人間不信、社会不信に陥ってしまうかもしれません。

 あらためて、「ああ、自分はこんな環境で生きてきたんだな」と感じたりします。

 

 街でも、ちょくちょく目にする光景に、汚言が止まらなくなっているお父さん、お母さん。子供連れのお母さんが、自転車の後ろに子供を乗せたまま、イライラして、子ども相手にずーっと汚言を吐き続けている。子供は小さいために、自転車に乗りながらおもちゃをもって平然としています。
 もちろん、平然していていますけど、無意識に脳はダメージをうけているのでしょうけども。

 以前、筆者がテニス用具店に行った際に、ずーっと家族に暴言をぶつぶつ吐き続けているお父さんがいて驚いたことがあります。筆者はとても聞いていられず、店を出てしまいましたが・・

 

 クライアントさんに聞いてみると、口の悪い家族に囲まれている、というのはケースはとても多い。経済的に自立できない中、親と一緒に住まざるを得ず、口の悪い家族に囲まれて汚言まみれの中で過ごしてい足りといったケース。

 言葉には、とても強い力がありますから、まさに呪縛のような影響力があります。

 そうした汚言まみれの中を生きているため、本来の力が発揮できなくなる。

 特に、閉鎖的な家庭の中は、まさに「汚言の巣窟」といってもいいような状態です。  

 口の悪い家族は、家の外では外面よくすましているのに、家の中では言いたい放題です。

 

 「汚言癖」という病気がありますが、おそらく、私たちは遺伝的にそうしたものを誰しもが持っていて、家庭内という閉鎖的な環境ではそれらが発火して、止まらなくなるのかもしれません。

 

 トラウマティックな世界の対称として、落語的な世界があります。落語に登場する江戸っ子(上方の町人)は口が悪いようなイメージがあります。

 ただ、口は悪いが愛嬌、ユーモアがあり、人を傷つける感じがありません。

どうやら、口が悪いことが必ずしも、呪縛につながる汚言となるとは限らないようです。

 

 では、呪縛になる汚言と、そうではないものとの違いはどこにあるのでしょうか?

 

 その違いは、

  ・自己愛の強い個人としての発言ではなく、分をわきまえた立場からの発言であること。
  ・上に関連して、ユーモア、愛嬌があること。

 という点ではないか、と思います。

 

 呪縛となるような汚言を吐く家族というのは、まさに自己愛が満たされない個人であるということ。
 本当は大事に扱われてよいはずの自分が認められず、満たされず、世の中から無碍な扱いを受けている。
 不全感から解離して“神化”して超越的なポジション、あるいは本当はすごいはずの特別な自分を認めろ、といった立場から世の中に対する呪詛や裁きのような言葉を吐いているわけです。
 もっともらしいことをいっていても、妬み嫉みでしかない。
 自己愛にひびが入って、“恨み”という放射能が漏れ出すような醜さがあります。

 そのため、聞いている側はうんざりするのです。

 ※少し前にはやったニーチェは、まさにこういう状態を批判していました。
 現代人というのは、満たされずにルサンチマン(妬み、嫉み)のもと突き動かされてしまいやすい、として、もうそれはやめようよ、といってその方策を哲学としてまとめていたわけです。

 

 一方、分をわきまえた立場、というのは、簡単に言えば、カウンセリングなどで目指そうとする、愛着が安定した、成熟した人格です。分をわきまえるとは、自他の区別がつき自己イメージが適切なサイズに収まっているような状態。

 愛着が安定しているため、「個人」として自立しなければならないという強い衝動もなければ、満たされずに恨みを抱く必要もない。そのため、嫉妬も比較的小さく、少なくて済む。

 落語の登場人物のように、口が悪くても、分をわきまえているので、相手を裁くという感じではなく、等身大の目線で、本音をぶつけている清々しさがあります。

 さらに、正論を吐いた時も、「なんちゃって!」という諧謔(ユーモア)も付加されていて、多元性への目配りがあり、押しつけがましくありません。

 これらは、機能している家庭で見られる状態です。
 機能している家庭は、家族の中で閉じきらずに外に開かれているために、ローカルルールの横暴さがありません。
 (参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

トラウマを抱える方にとって家族は、まさに前者の状態、
 家庭が「汚言の巣」になっていることも、呪縛の大きな要因になっているようです。

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

ブリーフセラピー・カウンセリング・センター公式ホームページ

お悩みの原因や解決方法について

因縁は、あるのではなく、つけられるもの

 私たち人間は、自動的に原因の帰属を考えようとする性質があります。災害などの不幸が起きたときも、「偶然だよ」とあっけらかんととらえる人は少ない。何か理由を求めたくなる。
 自分が悪かったのではないか、と考えてしまいす。

 

 おそらく、人に原因を求める考えというのは、一つには万能感のなせる業です。愛着不安があるほど、万能感も強くなり、理由づけもより行ってしまう傾向があると考えられます。もう一つは、安心安全感がないため。安心安全がないために、理由をつけて秩序をこしらえたくなる。 もう一つは、算数障害。一個体の影響力を過大に見積もりすぎ。最後は未熟さのため。人間というものが行う理不尽さの仕組みを知らないことが背景にあります。

 人間というのは、意識と無意識の世界を行ったり来たりしている生き物で、常に催眠すれすれの状態にあります。脳も未成熟で、すぐにショート(発作)したり混乱を起こしたりします。そのため、人格が変わっちゃっておかしな言動に走ったりすることは日常的に起こります。

 皆さんも、人から急に失礼なことを言われたり、訳が分からないような言動をとらえたりした経験がおありだと思います。でも、訳がわからないから、何かの思い違いだと思って、スルーしてしまっている。実は人間の本質にかかわっている。

 

 さらに、いじめの研究でもわかっているように、人間は、閉鎖的な共同体の中では、おかしなローカルルールがはびこらせてしまう。ローカルルールを常識だとすぐに思い込んでしまって、多様性を欠き、たまたま目に留まった人物を支配しようとしたり、いじめの対象としてしまう。学校や会社、家庭がそうです。

 ※トラウマを負っていたり、発達障害などで体質的にストレスを処理しにくく、脳が帯電しやすいため、相手の解離や発作を引き起こしやすくなると考えられます。

 

 
 家庭でも、子どものイライラすることがありますが、最近では、ホルモンなどの失調、その背景には栄養不足や代謝の異常なども原因として指摘されています。

 でも、人間は理由なく行動することを認めたくないため、相手に原因を帰属します(「あの子は、ぐずぐずして、言うことをきかないから」と) 

 

 ホルモンや脳の発作が原因だとしたら、相手のせいだとすることはまったく意味をなさなくなります。
 チンピラが、「ムシャクシャしていて、気に入らないつらのやつを殴った」という言い訳と何の差もありません。
 人間は、無意識が先にあり、理由は後付けてこしらえる生き物なのです。

 ケンカを吹っ掛けたりすることを、「因縁をつける」といいますけど、人間関係の1階部分を言い当てた、とても興味深い言葉です。因縁とは”原因”、”理由”といった意味です。「因縁がある」といわずに、しばしば「因縁をつける」という。つまり、因縁とは客観的にそこにあるものではなく、相手から無理やりこじつけられるものだということです。これも裏ルールの一つといえそうです。

(参考)→「世の中は”二階建て”になっている。

 ハラスメントとは、自分の中で起きた解離や発作、ホルモンの異常でイライラしていたり、支配欲が沸き起こっているのに、それを偶然目の前にいる相手に原因を帰属する(因縁をつけるて、呪縛する)行為といえます。

 虐待、いじめなどはまさにそう。 

 過去に親からひどい目にあったのも、因縁をつけられていた、ということです。
 日大の選手も、たまたま変な指導者に巡り合って、因縁をつけられた。
(だから、お前が悪いんだ、というメッセージが隠れていて、真面目に受け取って考えてしまうと呪縛で苦しくなるのです)

 真に受けることの背景には、過剰な客観性も手伝っています。
 (参考)→「「過剰な客観性」

 

 因縁をつけられたら、「そんな因縁かけられる筋合いはない」として、理由など考えず、真に受けず、漫才のツッコミのように言い返したり(「なんか、嫌な感じだな」「やめてくださいよ~」)、因縁を相手に返したり、やり過ごしたりすることが必要です。

 ※因縁を返す方法の一つが、心にお願いして返す、という方法もあります。
 (参考)→「「心に聞く」を利用して悩みを解消し、本来の自分に戻る方法

 

 トラウマを負うと、外から吹っ掛けられた因縁が自分の存在そのものから発しているように錯覚してしまって、「自分はどこか根本的におかしい、間違っているに違いない」と思ってしまうのです。

 

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

ブリーフセラピー・カウンセリング・センター公式ホームページ

お悩みの原因や解決方法について

理由を考えると、呪縛にかかる~ハラスメントは偶然に

 

 カウンセリングをしていて、質問としてしばしば聞かれることの一つに
「自分の親は、なぜあんなひどいことを(自分に)してきたんでしょうか?」

 ということがあります。

 ひどいことをされるというのは、自分にも理由があるんじゃないか? という趣旨のようです。

 結論から言えば、

 「偶然(たまたま)です。≒あなたに原因はありません」 

 ということです。

 最近、日大のアメフト部の事件が話題になっています。

 強権的なハラスメント体質が事件の背景にあるのでは?と指摘されています。
しごきの対象となることを「ハマる」といって、どうも、その選手の能力や行いには関係なく(たまたま)ターゲットにされていた、そうです。

  ハラスメントにおける対象選択の偶然性をよく示しているように思います。

 
 いじめやハラスメントの研究などによると、いじめの対象になるのは、偶然でしかないとされます。

(参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 

 

 私たちは、いじめにあうのは、いじめられる側にも何かいじめられやすさがあり、問題があると思っていますが、それ自体、どうやらかなり間違った思い込みであるようです。

 例えば、芸能人でも、ロンドンブーツ1号2号の淳さん、AKBの指原さんなどは、いじめにあったことがあるそうですが、現在の活躍からは想像がつきません。

 ハラスメント(いじめや虐待など)は、本人の問題に関係なく、偶然に、たまたまやってくるもの、なのです。

 
 しかし、偶然であることに気が付かず、「理由」を考えると、ハラスメントが仕掛ける精神的な呪縛から抜け出せなくなってしまいます。頭がグルグル回って、最後はやっぱり自分が悪いのでは?何か自分でも気づかない人から好かれない弱点があるのでは?という不安がよぎります。ハラスメントは、呪縛を与えるために理由を考えさせたいのですから、理由など考えてはいけない。

 

 一番よくないのは、他人に理由を聞くことです。他人は一生懸命原因を考えて、親切にも伝えてくれます。「あなたの~~なところがよくないのかも」「もっと愛想よくしたらいいのかも」など。
 
すると、呪縛はさらに強くなります。

 
 物事には自分を中心として因果があると考えるのは、万能感のなせる業で、どう考えてもおかしい。実際は、もっと大きな因果の流れがあって、それにたまたま遭遇するかどうか、でしかありません。

 社会科学の研究でも、社会問題が、一人の人物に原因が還元されることはありません。経済の状況があり、社会のムードがあり、その中に巻き込まれるように人々は動いているものです。
 さらに、社会はあまりにも多因子であるため、単一の原因に還元されるケースは皆無に近く、そのため「原因などなく、解釈だけがあるだけだ」と言われるほどです。

 

  ※明治維新の前に、お侍が欧州に視察に行くのですが、当初の体験記などを見ても、異国が優れているから学ぼうという意識はあっても優劣という意識は見られませんでした。ただ、ある時から、文明国と未開国という劣等感になっていきます。これも、欧米側の差別意識などに触れ、理由を考えてしまい、呪縛にかかったためかもしれません。

 なぜ、欧州が先に近代化を果たしたかについては様々な仮説がありますが、今もって確定したものはありません。極論すれば、どうやらこれも偶然の代物。近代化したほうが優れているという絶対的基準もないのですが、理由を考えることはろくでもありません。最後は劣等感へと落ち込んでしまいます。

 

 私たちが直面する理不尽な出来事も、おかしなムードが先にあり、相手の内的な都合でイライラが始まり、それを目の前のたまたまいた自分が因縁をつけられているだけ。

 
 その偶然が、家族の場合は、因縁が、さも密接に関連があるかのような気になり、妥当性ありとして真に受けてしまいます。でも、どこまで行ってもたまたま(偶然)です。

 冒頭の質問であれば、たまたまおかしな親に出会っただけ、自分の素質とは全く関係がないのです。

 シマウマは、なぜ自分がライオンに襲われたかは、考えない。
 愛着が安定している人も、自分に関連付けることは少ない。

 一方、トラウマを負っている人は、世の中をありのままにとらえる機能が失調しているためか、何でも自分に帰属させてしまう傾向が強いのかもしれません。

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

ブリーフセラピー・カウンセリング・センター公式ホームページ

お悩みの原因や解決方法について

 

「ホーム(自陣)」がなく、いつも「アウェイ(敵地)」

 筆者が学生のころ、ローマでサッカーを観戦しに行った時です。スタジアムはすごい熱気で、あちらこちらで発煙筒がモクモクとたかれていました。チャント(応援の掛け声)が唸るように飛び交い、選手が激しくプレーしています。

 

 しばらく観ていると筆者の後ろから発煙筒が飛んできて足元に転がってきました。そして、足元に置いてあったペットボトルが溶けてしまいました。ほかにも、特殊ガラスの観客エリアを区切る壁を乗り越えるファンがいたり、すごい雰囲気の中で試合するものだな、と思った経験があります。女性や子どもを連れては、ちょっと心配ですね。

 試合している選手たちも、もしかしたら、グランドになだれ込んできて自分がどうなるか?って不安に思うかもしれません。

 

 そこまでのことがなくても、相手のファンからヤジが聞こえたり、精神的にタフではないとなかなか耐えられないな、と思います。
 日本のプロ野球でも甲子園で試合するのはビジターチームは嫌でしょうね。

 

 スポーツでは、ホームゲームは有利で、アウェイ(敵地)は不利だとよく言われます。
 そのため、例えば、海外サッカーでは、アウェイは引き分けで良しとするようなところがあります。国際試合では特にそうです。

 ホーム-アウェイの勝率の違いですが海外では顕著で、日本のJリーグなどは差は緩やかなようです。
(Jリーグ開幕当初は、アウェイのほうが強いチームもあったそうです。)

 その違いは何か?といえば、「安心・安全」感の差と考えられます。
 (家族連れでも安心して見れるというのは、Jリーグの特徴だそうです。)

 

 スポーツ選手も、「安心・安全」な中で試合ができるとパフォーマンスは上がりますが、ないとどうしても力を発揮することはできません。「安心・安全」感というのは、食事、睡眠など生活面からも影響します。そのため、オリンピックでも自国開催の選手はやはり有利になります。

 

 ホーム-アウェイのパフォーマンス差の現象は、生きづらさ、トラウマといった悩みを抱える人にも当てはまります。悩みの中にある人は、「ホーム(自陣)」がないか、あっても少ないという特徴があります。

 

 世の中が常に「アウェイ(敵地)」であるという感覚。

 

 自分の家でさえ「ホーム(安心・安全)」ではない。口うるさい家族がいて、心ないことを言われないか?とびくびくしている。

 

 職場などは「アウェイ(敵地)」そのもので、おどおどしてしまう。

 能力を発揮するためには、「ホーム」であることがとても大切です。

 たとえば、自分の地元、自分が知ったお店だと、余裕をもって応対することはできますね。でも、知らない場所だと、途端に借りてきた猫みたいになります。

 トラウマを負った人は、力がないわけではありません。「ホーム」感覚がないだけです。
 「アウェイ」だから、全体を把握できず、判断にも自信がなく、行動も遅くなるのです。
 

 ただ、周囲の人は、頭の中で起きていることを理解してくれません。「あの人は能力がない」として否定的な評価をしてきます。直観的には自分はできる、と思うのですが、「ホーム」ではないため力が発揮できずにいつも負けたり、良くても“引き分け”で悔しい思いをしてしまいます。(「クソ!これがホームだったら、バカにしたやつら、コテンパンにしてやるのに!」って思います。)

 でも、どんなに頭を「ホーム」にしようと頑張っても、どうにもならず、スキル、経験が積みあがらないのです。

 

 前回、学力についても書きましたけども「ホーム」感覚が高い方は、余裕があり、判断や行動が的確に動くことができます。
 わからないことがあっても、世の中には秩序があって、適切に対処すれば、必ず解決策を導くことができる、という信頼感があります。自分が知った環境であれば、余裕をもって対応することができます。

(参考)→「世界に対する安心感、信頼感

 

 
 ただ、トラウマを負った人は、本来は「ホーム」であるはずの現実の世界が、負の暗示によって「アウェイ」に変えさせられてしまい、うまく付き合えなくなる結果、さらに「アウェイ」感は深まり、怖くてどうしようもなくなります。

 「ホーム」感覚を取り戻したくても、手掛かりがない。

 「ホーム」感覚が、現実の世界でうまく作れないと、どうなるか?
 スピリチュアルなど、ファンタジーの中に「ホーム」をこしらえて、そこを拠点に活動するようになってしまいます。
 (人によっては、希死念慮で、死によって「アウェイ」から去りたい、と思って不幸にも試みる方もいます。)

 ただ、ファンタジーはファンタジーに過ぎませんから、一時の避難所たりえても、根本的な解決にはなりません。

 

 悩みの中にある方は、片足は、負の暗示で「アウェイ」にさせられた現実に、もう一つの足は空想の中のファンタジーに、とにまたがって苦しみながら人生をサバイバルをしています。

 

 ホーム、アウェイというと、オセロを思い出します。安定型愛着の方は、四隅のいくつかがすでに自分の陣地なので、どこに行っても、比較的容易に「ホーム」にすることができます。余裕をもって仕事をしたり、人と接することができます。これがいわゆる「非認知能力」というものかもしれません。

 

 でもトラウマを負った人は、四隅に自分の陣地がありません。毎回、自分で「ホーム」にしなければならないので、ヘトヘトです。だから、一見、人見知りで、人が怖くて、人が億劫です(本当は対人恐怖でも人見知りではないんですけどね。ただ毎回のオセロがとても面倒なんです)。やっぱり、内心くやしさをいつも感じているし、自分の本来の力を直感しています。「クソ、ホームだったら、こんなことにはならないのに!」と。

 

 カウンセリング、セラピーというのは、ある意味、仮の「ホーム(自陣)」を提供するものです。その石は小さくちっぽけですが、うまくいけばじわじわと「ホーム(自陣)」を広げていくことを助けてくれます。

 
 

 

→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

ブリーフセラピー・カウンセリング・センター公式ホームページ

お悩みの原因や解決方法について

ローカルルールやファンタジーから離れ、”現実”へ

 

 負の暗示をいかにして除いていけばよいのか?

 世の中が無秩序に見える、のであれば、
 世の中の秩序、現実を知る、ということは、その解決の助けとなります。

 

もう一つのヒントは、悟りを開いたとされるゴータマ・ブッタがどのようにして苦から楽になったか、にあります。

 仏教は、「覚りの宗教」と呼ばれます。

 仏教は、世の中の摂理を何の期待も、執着も盛り込まずに捉える。幻想(執着)から覚醒して世界をありのままに見る。これが「悟り」とよばれるものです。

 

 世がこういう理想であるべき、というファンタジーもありません。

 そのため意外ですが、本来の仏教には、神様とかそういう要素は出てきません。
 梵天とか、マーラとかがそういう存在は出てきますが、それらはゴータマが生きていた時代にすでにあったインドの神様たちのことで、仏教そのものには神という要素はないそうです。

 むしろ、仏教はファンタジーを持たないことで苦から自由になる、というものです。

 かなり理知的な哲学で、現代哲学の現象学なども仏教から影響を受けているとされます。

 

 仏教の悟り、ということからわかることは、親や環境から入った負の暗示、から逃れるというのは、理想に逃れる、ということではなく、ありのままの現実を見る(覚める)、ということ。

 

 なぜなら、理想やファンタジー、というのも結局は暗示(脳内に発作、解離を起こすもの)でしかなく、新たな苦を生み出すものでしかないからです。あるファンタジーから逃れるための手段として一時的ならば、もしかしたら許されるかもしれませんが、根本的な解決にはならない。
 どうして自己啓発とか、スピリチュアルなど理想を語るものが解決にはならないかというのはこうしたことにあります。結局、別の発作の種を脳内にもたらすものでしかない。

(参考)→「ユートピアの構想者は、そのユートピアにおける独裁者となる

 

 

 ただ、仏教のように覚るということは、私たち凡人にはちょっとハードルが高い。

ではどうするのか?といえば、

 

 もう一つのヒントは、学問とか、“常識”の力を借りる、ということです。

 “常識”というのは、決して今の世の中の俗な意味での常識、といったことではありません。
 また、特定の個人や団体の常識、でもありません。うまくいかない現実を受け入れろ、といったシニカルな意味でもありません。
 歴史等を背景としたもので、世の中が多元的であるということを踏まえてありのままの人や世の中に向き合う姿勢のこと。

(参考)→「「常識」こそが、私たちを守ってくれる。

 

 

 例えば、「家族」といったテーマについても、今の世の中の当たり前や個人の価値観ではなく、歴史的に見て、家族とは何か?家族の機能とは何か?といったことをしっかりと押さえる。

 あたかも、自然科学者が研究対象を見るような目で世の中を見てみる。

 そうすると、人間にとっての「家族」というものの本質が見えてきます。今の世の中で当たり前とされる家族像も特定の条件がなければ成立しない一時的な姿でしかないこともわかってきます。

 人間にとっての家族というものの意味が分かると、私たちが苦しんでいる家族は、実は当たり前ではなく、「機能不全家族」であることが見えてきます。逃れられない現実だと思っていたことが、実はファンタジーであったことが分かります。
(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全」 

 

 

 そのように歴史に根差して、”常識”から照らしてみると、鉄壁のように見えていた呪縛の壁も、実はハリボテであることが見えてくる。ハリボテなので、捨てても悔いはないし、そこから自由になることもできるのです。

 「家族」「恋愛」「仕事」「会社」、そして「人間関係」など、個人の価値観で語るのではなくて、一度徹底的に、歴史や社会学などの知見も借りながら、棚卸して整理することが必要かもしれません、そうするだけでも、呪縛を解くスクリプトたりえます。

 

 知見も借りて棚卸し、というとなかなか厄介だという方は、例えば、カウンセラーと対話しながら、家族の本質とは何か?人間関係とは何か?社会とは何か?仕事とは何か?を一緒にとらえていくと、誰でも呪縛を解き、現実を見る助けとなります。

 

 発達障害の方が受ける、SST(ソーシャルスキルトレーニング)などは、まさにこうした機能があって、生活や仕事について、本質を踏まえながら、その手順などを自分に合う形で学んでいきます。
 無秩序に見える世界を秩序立てていく作業をともにしていくわけです。

 

 定型発達の方でも、本来カウンセリングというのは、安全な環境でありのままの現実を見るために、秩序をもたらすためにあります。

 決して、同情されたりするためにあるのでも、
 甘い理想を語られたり、慰められたりするのでも、
 自己責任だとか、選択だといった、個人主義のローカルルールから、うまくいないことを責められたりするためにあるのでも、ありません。

 

 理想(ローカルルールやファンタジー)へと回避せずに、安心安全を醸成しながら、 徐々に、ありのままの現実の中へと入って、発作(呪縛)を取って、目を覚ましていく。セラピーの様々な手法の本質というのは、このためにあります。

 

 

 

→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

ブリーフセラピー・カウンセリング・センター公式ホームページ

お悩みの原因や解決方法について

“安心・安全”がないと、負の暗示に飛びついちゃう

 

 負の暗示というのはどうすれば入るのか?
もし、入り方が分かればその自由になる方法のヒントも得られそうです。

 

 筆者が、昔読んだ本の中で、人間は力で殴られても内心、コノヤローと思うだけで、相手の考え方を変えることはできない。ということが書かれてありました。

 意外にも、暴力といった形での圧力そのものでは相手の考え方を変えさせることは難しい。

 

 一方で、価値観の根底を揺るがせるようなことをすると、人間は新しい価値観に飛びつく。比較的容易に相手の考えを変えさせることができます。

 洗脳や自己啓発セミナーなどは、罵倒したり、否定したりして、価値観を揺るがせて、新しい価値観を刷り込む。

 価値観を揺るがせる、というのは何か?といえば、安心、安全を奪う、ということです。もし、暴力も相手を変える力を持つとすれば、安心安全を根底から奪うような場合。 

 
 安心安全を奪うというのは、ただ、自分のホームがあって、外来から何かがやってくる、という形ではありません。
 

 

 この世界が無秩序で、安全だと思えない、というような感覚。訳がわからないような感覚。

 

 これが負の暗示を一番もたらすものではないかと考えられます。

 なぜかというと、世界そのものが訳がわからないために、その世界に、仮の秩序をもたらさないと、とてもじゃないけど生きていくことができない。そのために負の暗示に飛びついてしまう。

 

 そこで、まったく多様性も、普遍的でもないけど、親などから入れられた、おかしなローカルルールを受け入れてしまうようになる。※ローカルルールというのは、常識のふりをした偏ったルールのこと。
 あるいは、外からのローカルルールから自分を守るために、自己の内側にローカルルールを作り上げる(防衛とか、回避とか言われるもの)。

 これが負の暗示の本質ではないか?と考えられます。

 

 この世が根本的に無秩序で、安心安全ではない、という感覚は、2つのものから来ます、

 一つ目は、愛着不安から。養育環境が悪いという点から。私たちが想像する、親の不適切な育児が原因で、機能不全家族でといったようなことから、

 

 あともう一点、先天的な体質の問題。自律神経、免疫系、内分泌系、脳内伝達物質といった体内で秩序をもたらすような感覚などが、生まれつき不安定であるという点。この2点目は、あまり大きくは指摘されないことですが、結構多いものです。いわゆる育てにくい子とされるケース。
その代表的なものが発達障害とか、甲状腺疾患などを抱える人たちとなります。

 客観的な事実として、親の対応はそれほど悪くないけど、子どもは育ってから、書籍などの情報や過誤記憶から、「周りはひどい人ばかり!」ということを声高に言うようになって、周囲は苦慮する、という場合です。
 (もちろん、本当に親の対応がひどいケースと区別はつきにくいのですが)

 

 以前にも書きましたが、最近は、非認知能力といわれるもので、安心安全というのは、学力など世の中を渡っていくときの基盤となるものです。

 安心安全がないと、落ち着いて世の中の秩序についての知識を明らかにして、自分のものにする、という感覚がわかない。

 ちょっとわからないことがあると、投げ出したくなります。
(参考)→「世界に対する安心感、信頼感

 

 まだ、学校の勉強はまだよいのです。きっかけがつかめれば攻略できる、ということが分かりますから。
 

 一番厄介なのは、人間関係です。
 人間は、きまぐれだったり、すぐに解離(発作)しておかしくなったり、ということが日常茶飯事です。
 安心安全という感覚がない人からすれば、人間というのは最も高度な問題です。

 一方、安心安全という感覚がある方からすれば、人間関係にも、コツがあり、ルールがあり、それさえ守ればなんでもないよ、ということなのです。

 

 挨拶、とか、根回しとか、季節や、人生のタイミングでの贈答品を交換するだとか、そういうプロトコルはその基本なのだと思います。
 ただ、トラウマを負った人は、そういうことは毛嫌いしがちですけれども。
 
 このブログで書いたような裏ルールというものは、さらに上級編で、人間のネガティブな感情を否定せずに自分も纏っていかなければ、周囲とはペースは合わせることはできない。
(参考)→「世の中は”二階建て”になっている。

 

 頭でわかっていても、トラウマを負ってしまうと、根本から「怖い」という気持ちがわいて、うまく対応できなかったりします。

 そうすると、世の中、人間関係に対して、勝手なローカルルールを作り出したり、ファンタジーに頼ってしまうようになり、世の中をありのままに見れなくなってしまうのです。

 

 発達障害の人は必ずファンタジーに傾倒するとされますし、私たちでも、不安になると願掛けやおまじないをしたくなったり、苦しい仕事や勉強の際は、自分独自のルールやファンタジーの世界を作り出して、逃げようとしたりします。

 トラウマを負った人も、非常事態モードだから、安心安全感がないために、負の暗示にかかりやすい。
 

 安心安全ではない、という感覚から、しがみついてしまったローカルルールやファンタジーのことを、負の暗示、というのだと思います。

 負の暗示から逃れるためには、私たちはどうしてもテクニックにばかり目が行きがちですけど、それよりも
「安心安全」という感覚を、内的、外的にも取り戻すのか、ということが一番のポイントになります。

 (なぜ、運動睡眠がセラピーよりも大事なのか、そしてなぜトラウマケアなのか、ということの秘密はここにあります。)

 

 

→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

ブリーフセラピー・カウンセリング・センター公式ホームページ

お悩みの原因や解決方法について