なぜ?はフラッシュバックを引き起こす~なぜ?という言葉は使ってはいけない

 世界は常に多要因です。

 それも、私たちが想像する以上に多くの(無数の)要素でできています。

 だから、「車を動かす」という限定されたことでさえ、いまだに完全な自動運転は実現できていません。

それは、世の中の多要因さの故です。

 想定以上の要素がロングテールのように列をなしていて、それが予期せぬ事態を生むということです。

 

 例えば、社会学や心理学などの調査データを分析した際に、明らかに「Aの原因は、どう考えてもBだろう」と思うような事柄でさえ、多変量解析などにかけると、数十個の要因が列挙された結果がアウトプットされます。しかも、各要因の影響は想像以上に小さいのです。

 しかし、私たちは、物事を単純化してとらえます。

 特に人間の行動に関しては、”近代的な人間観”のバイアスも強いので、人間は基本的には理性的、合理的であり、行動にはなにか「理由」がある、と捉えてしまいます。

 しかも、多くの場合その理由は“ひとつ”である、という考え方です。

 こうしたことは、まったく正しくありません。

 ほとんどの場合、私たちは、環境からの刺激を受けてただ無意識に行動しているだけ、意識のレベルではあとから理由付けしている、というのがせいぜいなところなのです。

 

 こうしたことがあるために、カウンセラーや、コーチング、(もしかしたらビジネスマンも)の世界では、質問の際に「なぜ WHY?」という言葉を使ってはいけない、ということが、ある種の“常識(コツ)”として存在します。

 それは、上記のように、世界は多要因であり、人間は何か単一の明確な理由で行動しているわけではないため、なぜ?と尋ねると、正しい答えが出てこなくなるからです。

 

 にもかかわらず、もしなぜ?と問うとどうなるか?

 問われた人は、意識の中で最もアクセスしやすい事柄や情報、後付けのもっともらしい理由を原因として挙げてしまうことになります。

 例えば、「なぜ、あなたはそれを買ったんですか?」と聞いても、「単にほしかったから」とか、「色がいいと思ったから」というような感じです。
 あるいは、通りのいい“理由”を挙げるだけとなります。

 もちろん、それは本当の原因ではありません。

 人間は社会的な動物ですから、社会的にまともに見えることを“理由”としてあげようとするバイアスも働きます。
(評価懸念などと言う専門用語で表現されることもあります) 

 その結果、回答している当人も、問うた側も粉飾された、意味のない情報を取り出してお互いにもっともな“理由”をもって、原因が分かったと思い込んで(騙されて)しまうことになります。

 その”理由”を元に企業が商品を開発・改善して発売したら全然売れなかった、、、というのはよくある失敗のストーリーとされます。

 

 こうしたことがわかっているため、正しくは、必ず、WHAT(何が),WHEN(いつ),WHERE(どこで) といったことを具体的な要素を尋ねることになります。

 例えば、「なにがそうさせたのですか?」「一番最近したのはいつですか?」といった聴き方です。

 そうすると、ある行動を取り巻く具体的な事柄(要因)を明らかにしていくことができます。
 
 そうやって舞台装置にスポットライトを当てるようにしていくと、なんとなくその状況を取り巻く背景(要素)が互いに見えてくるわけです。(※カウンセリングや病院の問診というのもある意味こうした活動とも言えますね)

 

もっといえば、事実を確認するだけでも行動変容が起きたりするわけです。

例えば、
 中田豊一 (著)「対話型ファシリテーションの手ほどき」
 などは名著ですね。

 途上国での支援の際の質問の仕方を描いていますが、質問のし方だけで、本当の意味での事実が明らかになり、それによって現地の人たちが自発的に改善に動き出すさまが描かれています。

 

 

 こうしたことを踏まえた上で、ここからが、トラウマや生きづらさに関することですが、

 もし、あなたが自分の過去の行動や他人の言動について頭の中で「なぜ?」と問うているとしたら、それは意味のない問いをしていることになります。

 さらに言うと、トラウマを負っている場合のなぜ?は実は私たちの頭の中ではフラッシュバックを引き起こす言葉であるからです。

 特に、簡単な理由付けで処理できないトラウマ経験、ハラスメント経験の場合、なぜ?というと、頭の中でぐるぐると思考が渦巻くようになります。
 それは、思考しているのでも、内省しているのでもなく、実は、ただフラッシュバックが起きているだけです。

 地雷原をむやみやたらに歩き回るようなもの、といってもいいでしょうか?

 なぜ、家族はあんなことをするのか?

 なぜ、私はあのような目に遭ったのか?

 なぜ、私はこうなのか?

 すると、
 正しい答えに至ることはなく、相手の不全感に巻き込まれていくかだけか、相手の不気味さに恐れと怒りを感じるようになったりします。

 なぜ?という問いによって地雷を踏み、ぐるぐるとその時の情景が再演されるだけになります。
 このように、なぜ?という問いは、フラッシュバックの引き金であり、自ら苦しい状態を引き起こすだけのものなのです。

 

 そして、なぜ?という問いは、最後は“ほぼ必ず”「自分が悪い」という間違った結論に着地するだけになります。

 もちろん、それは正しい答えでも、思考しているのでもありません。

 間違ったプロンプトを放り込んで、CPU(脳)が意味なく暴走しているだけです。
 結果「思考中毒」に陥ってしまっている場合もよくあります。

 
 そして、ハラスメントの加害者(親とか友だちとかパートナーとか)の仕込んだプログラムに乗って、「お前が悪い(自分が悪い)」に陥ってしまうことになるわけです。 

 

 

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「みにくいアヒルの子」という状態

 

“社会”こそがおかしいのだ、“社会”こそが問題なのだ、ということを前回の記事にも書かせていただきました。

参考)→「“It’s the society,the community stupid”(“社会”こそ問題なのだよ、愚か者!)」
 

 そして、その際の社会とは、ダイレクトに「社会の制度が~」「現在の社会が~」といった意味での「社会」とは異なり、私たちを日常で取り巻くローカルなコミュニティや人間が不全感を抱えて規範を騙る状態や機能不全をまずは“社会”と呼んでいます。

 結局、生きづらさの原因をたどると、“社会(環境)”の理不尽を個人が引き受けさせられていることこそが、私たちの生きづらさのすべてであるといっても過言ではありません。
クライアントの状況を見ていて、現時点でわかる究極因はそこにあります。

 クライアントの頭や心がおかしいのではありません。

 

 

 そして、“社会”の問題を「自分のせいだ」「自分がおかしいのだ」と思わせる偽装がいくつかあり、その罠にかかり、“社会”の理不尽を自分のものとしてしまい、どうしても、そうではないと思えない、自分は大丈夫と思えない状態こそが「生きづらさ」であるということです。

 白鳥が、アヒルとして劣っていると責められて「みにくいアヒルの子」と思わせられている状態です。

 ここからサッと逃れる方法を探そうとしているのが私の臨床での取り組みになります。

 

 

 機能不全な社会における日常の経験や体験というのは、究極のマインドコントロール装置、といってもいいくらいに作用します。
 
 
 長期にわたり、何度も何度も「あなたはおかしい」とつきつけられる経験を重ねることで自分は「みにくいアヒルの子」で、それはどうしても否定できない、と”作られた事実”を重ねられていってしまうのです。

 そして厄介なのは、身近な親族が絡んでいるケース。

親だけおかしいなら「親がおかしくて自分はそうではない」とわかりやすくて良いのですが、親族が絡むとそうは見えなくなる。

 親戚というのは一見、「立派で」「物わかりがよく」見えますから、その親族から「自分がおかしい」とされたり、反対に加害者である親を評価されたりするとわけがわからなくなる。

 あるいは、学校でのいじめの経験、職場でのハラスメント経験が重なるようなケースも厄介です。

 学校でも、一見、「イケていて」「人気があって」「運動もできて」「勉強もできて」「ものがわかってて」「バランス感覚があって」などという同級生がいますから、その友だちたちから「おかしい」「ダメだ」とされることの衝撃は簡単なものではありません。

 会社も同様です。

「家のみならず、学校でも、職場でも自分がおかしいとされるなら、もうこれは確定された事実なのだ」となってしまうのです。

 そうするとみにくいアヒルの子の状態から逃れられなくなります。
 

 

 

 しかしながら、「家も、学校も、職場もおかしい(It’s the society,the community)」ということが実際に存在するのです。 

 ハラスメントの罠は日常のそこここに存在します。

そのような状況の中に家で親に「みにくいアヒルの子」とされたトラウマを抱えた子どもが行けば、学校でもいじめられる、職場でも否定される、ということは普通に起こります。

 そのことをもって、「自分はやはり確定された事実としておかしいのだ」と思う必要はないのです。

 立派に見える親族も同様で、親もおかしいなら、親族も同様の文化を背負っていて、立派に見えているけど実態は変な人たちである場合も多いのです。

 学校もそう、会社もそうです。自分に対してハラスメントをしてくるようなおかしな環境でも「優等生」が存在します。
 社会問題となったカルト宗教でも、その教団に適応し、実績を上げて出世し、立派に見える人たちが記者会見で登場している様を見ればよく分かります。
 ナチのアイヒマンやハイドリヒのようにおかしな集団の中でも仕事がバリバリできて出世する人がいるのです。
 しかし、適応できた彼らがまともか?といえば、そうではありません。
 適応できないことのほうがまともさの証なのです。

 
 白鳥であるあなたは、白鳥ゆえにいじめられて、苦しみますが、それはあなたのおかしさを示すものではありません。環境がおかしいのです。

 みにくいアヒルの子とされた白鳥が自分を取り戻す道は、よいアヒルの子を目指すことではありません。
 ちゃんと不適応を起こして、自分はある日ではない、と気づき、白鳥へと戻ることです。
 

 ベストセラー『窓際のトットちゃん』は、みにくいアヒルの子にされかけたトットちゃんが、移った学校でのびのび育っていく様子が描かれているわけですが、“社会”は人間というものをちゃんと理解できておらず、さらにいえば、“社会”は子どもの気質(個性)、激しさを恐れるものなのです。

 会社でも、ちょっと率直な物言いをしたらすぐに「問題社員」扱いとなります。

 社会(ローカルコミュニティ)自体がおそれや不全感を隠し持ちながら立派なふりをしていて、その立派なふりを見破られて「王様は裸だ!」とされることを“社会”は極度に恐れる、ということなのかもしれません。

 

 

 

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もっといい加減に、というダブルバインド

 

 ここ数回の記事では、「わけのわからなさ」「いい加減さ」というものにこそ、自分の足場があるのではないか?ということをお伝えしています。

(参考)→「わけのわからなさを承認できていないと、他人のおかしさにも拘束されやすくなる

 乳幼児などは、ある意味、わけのわからなさ、いい加減さの塊のようなものです。
 

 それらを受け入れてもらうことで、安心安全(愛着)というものを感じていくことができます。

  その、足場を作る、本来の自分に戻るという際に、もう一つ罠となるのが、反面教師や偽の役割を背負わされる、追いやられるという問題です。

 
 アダルト・チルドレンや、ヤングケアラーといったことがまさに典型ですが、家族が機能不全に陥ると、その中で才気ある子どもは、その役割を埋める、埋めさせられることを背負わされます。

 家族はいい加減に、わけのわからないことをしているのですが、自分は「きっちり」「ちゃんと」ということを強いられる。

 自分が「わけのわからなさ」「いい加減さ」を見せると受け入れてもらえずに、否定されるということが生じます。

 もちろん、家族がおかしな価値観に支配されていて、子どもの「わけのわからなさ」「いい加減さ」を受け入れないという場合もあります。これもある種の機能不全です。

(参考)→「機能不全家族に育つと、自分が失われて、白く薄ぼんやりとしてしまう

 

 そんな中で育つと、自分というものは段々と失われて、「きっちり」「ちゃんと」という部分だけ、役割や立場だけが自分となってしまいます。

 生の素材の風味や地味はできる限り脱臭して、削ぎ落とした料理を作るようなものです。食品サンプルのような自分が出来上がってしまい、本来の自分に戻ろうにも抵抗が生じてうまく戻れなくなります。

 そうした状態の中で、カウンセリングやセルフケアに取り組んでみても、本来の自分≒何やら立派な存在 みたいにすり替わってしまって、足場になるようでならない、ということも生じてしまいます。

 

 更によくあるのが、周囲や家族が「あなたは真面目だから、もっといい加減にならないと」とか、「もっと気楽に」といったアドバイスをしてくることです。

 こうした場合の「いい加減さ」「気楽さ」というものは、見かけは「わけのわからなさ」「いい加減さ」を示しているようで、実は本当のいい加減さではありません。

 

 あくまで周囲にとって都合の良い「わけのわからなさ」「いい加減さ」であり、結局そうした言葉を通じてその人を否定しているだけだったりします。
「あなたは真面目だから、もっといい加減にならないと」とか、「もっと気楽に」というアドバイスが、暗に「あなたは真面目てつまらない人間」というような前提を刷り込むような結果になってしまい、自分のほんとうの意味での「わけのわからなさ」「いい加減さ」に戻ることを妨げます。

 そのアドバイスに沿って、「わけのわからなさ」「いい加減さ」になろうとしても、アドバイスに従うということ自体が自分を失う結果をもたらしたり、「そうはなりたくない」という反発を生むなどして、本当の足場にはならないのです。

 あるいは、エッセイや自己啓発本が唱えるような、「気楽に」とか「いい人はやめよう」といったことや、「老荘思想」みたいなものにも足場はありません。読んだ一瞬気持ちよくなるだけです。
 
 
 まさに自分の中にある自分の「わけのわからなさ」といったものを見つめ、捉えて肯定していくことにこそ、足場ができていきます。

 だんだん、周りが大したことがない、ということが見えてくるのです。

 

 

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ログインを阻むもの~“私は~”を出すと否定されると思わされてきた

 

 これまでの記事で見てきましたように、私たちがこの社会と生き生きと関わるためには、主体性を持って向き合うことが必要になります。
言い換えると“私は~”で生きる。 「自分」というIDでログインすることが必須になります。

(参考)→「「私は~」という言葉は、社会とつながるID、パスワード

 

 この“私は~”というものを健全に出せば出すほど、愛着的世界に入り、世の中はこちらに優しく関わってくれます。反対に、“私は~”を隠して、回避すればするほど生きづらいものになってきます。
 主権を奪われて、他人の価値観で、他人の言葉で生きていくようになってしまうからです。

(参考)→「「私(自分)」がない!

 
 自分らしく生きていくためには「自分」のIDでログインする。“私は~”というものを表に開示していくということが求められます。

 ただ、多くの場合、そこには強い恐怖感がつきまといます。

 “私は~”を表に出したら、他人から攻撃される、否定される。あと、自分が独りよがりになってしまうのでは、といった不安です。過去に失敗してきた苦い思い出が蘇ってきます。

 

 そのために、“私は~”は殺して、理想的な人間を目指すニセ成熟状態となってしまうのです。

 スピリチュアルなもので回避したりすることはもちろん、“私は~”を回避するというのは、結果として他者に依存することになります。

(参考)→「ニセ成熟(迂回ルート)としての”願望”

 

 

 記憶では、今までの人生において“私は~”を出したから人から攻撃されたと捉えていますが、よくよく検証してみるとその反対だったりします。

 例えば親とか周りから理不尽に怒られたり、感情をぶつけられたりする場合も、相手はそれをローカルルールとして成立させるために「あなただから」と「あなたに問題があるから」因縁をつけることがよくあります。

 ただ、理不尽なことをされたり、感情的にされているのも嫌ですが、相手を支配するためには、自分の言動を理屈でコーティングしないと成り立ちません。
 ローカルルールは、相手に「自分が間違っている」と思わせて完結するという性質があります。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 理不尽を受けた側もローカルルールに巻き込まれて、「自分はおかしい」「“私は~”を出すと攻撃される」「自分だからだめなんだ・・」というふうに捉えてしまいます。

 そうすると、“私は~”を奥へと引っ込める。“私は~”を回避するということが身につくようになります。
 

 「私は~」を出すことを回避することで、生育の過程で内面化した他者の価値観が前面に出てくるようになります。
 特に他者のローカルルールが前に出てくる。

※解離の方は、父や母など強くハラスメントを仕掛けてきた方を内面化しているのため、父母と同じ否定的な言葉を発するようにもなります。

(参考)→「ローカルルール人格って本当にいるの?

 

 

 ローカルルールは自他の区別を越境するようにして「こうあるべき」「こうあるはず」というふうになりがちです。“私は~”というものを脇においた言動になります。

(参考)→「ローカルルールは「(ニセの)人間一般」という概念を持ち出す

 あるいは、自己不全感を癒やすために躁的になったり、自我肥大したように自分をアピールするような言動となることもよくあります。  

 その言動が他者の違和感を生みますから、さらに「おかしい」と指摘されるようになります。 

 本人は、自分が喋ったり行動したりしているため、まさか「私は~」を脇においているとは思いません。
 むしろ“私は~”を積極的に出して行動していると考えていますから、「おかしい」と指摘されると「“私は~”を表に出したからこうなった」と、回避を強化するようになります。

 さらに“私は~”を奥へと引っ込めるようになるのです。

 

 

 「自分のIDでログインする、といっても今まで「私」を出したら嫌われていたし、さんざん否定されて嫌な思いをしてきたから、それはできない」というのは、“私は~”を出すどころか、反対に“私は~”を回避する言動を取らされていたために起きていたのです。

 “私は~”を出すと否定される、というのは誤った強いられた条件づけだったわけです。
 

 
 本来“私は~”を出せば出すほど、自他の区別はつき、他人への侵害、他者からの侵害はなくなるものです。

 なぜなら、「私は~と思います」「私は~と感じます」といっている限りは、他者からも「あなたはそうなのね(私とは別)」で終わるからです。

 自他それぞれが適度に区切られた中で「つきあう」ことができるからです。

(参考)→「「私は~」というと、社会とつながることができる。

 

 

 しかし、“私は~”がなくなって、「人間全般」として言動するようになると、真逆となります。

「人としてこうあるべきでしょ?」ということから言動するため、他者には侵食的で強い違和感、反発を持たれます。

 他人の言動に対してもイライラが止まらなくなります。

 本当にあるべき行動をしてくれないし、こちらは“私は~”を抑えて我慢してがんばっているのに察してくれないという不満が湧き上がってくるのです。

 
 さらに、人とも馴染めず生きづらくなってしまうのです。

(参考)→「「察してよ!」で、自分の主権、主体性が奪われる

 

 
 “私は~”を出すことが問題の根源と思い込まされ、“私は~”を抑える方向に努力をするのか?
 
 “私は~”を出すことが解決の道と知り、“私は~”を出す方向に行くのか?

 全く真逆ですが、この迷子になっているかのような状態になっている方はとても多いです。

 というか、この迷子自体が生きづらさの本質といってもいいかもしれません。

(参考)→「あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服

 

 
 ローカルルールがもたらす「You’r NOT OK」の暗示がずっと効いてしまっているようです。
(参考)→「ニセの公的領域は敵(You are NOT OK)を必要とする。」 

 
 「“私は~”を出したら嫌な目に合う」という壁を越えることは、愛着を回復するためにも、自分の人生を生きるためにも一大ポイントといえます。
  

 

 

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