常識、社会通念とつながる

 

 私たちが成長する、というのは、私的な状態を脱して「公的な環境」に身を置くようになることです。

 

 親とのかかわり、大人たちとのかかわりの中で、私的な情動を公的に表すための適切な表現方法を学んでいく。

 

 逆に言えば、「公的な環境」がなければ、私的な情動を自分にも他人にも分かるかたちで表現することはできない。表現できないものは身体にネバネバと滞留して、それがいわゆるトラウマ(ストレス障害)になる。 
 あるいは理不尽に漏洩して、境界性パーソナリティ状態と呼ばれる

 

 トラウマとは、長期にわたってそうした「私的な環境」に置かれてしまうこと、とも言えます。 

 

 
 震災など災害がトラウマになるのも、災害の衝撃もありますが、それ以上に、災害後に私的な状況に置いてきぼりにされてしまうこと(孤独)。実際に、自殺が多いのは災害が起こった直後ではなく、数か月、数年以上たってからとされます。

 絆を強調したり、コミュニティでの声掛け、死者に対する合同での慰霊祭といったことは、「公的な環境」を維持するための工夫です。

 

 私たちは「公的な環境」にいることで、トラウマはその中で癒されていくと考えられます。私的な環境にいるとトラウマを処理することができず、身体などの不調となって現れます。

 

 ストレスは、まずは、自分の体内のストレスホルモンで処理をしますが、それができない程に大きなものは、社会のネットワークに流して処理をしていくものだからです。
 よく、「ファン、サポーターの応援が力になりました」とスポーツ選手などが言うのは、大舞台のストレスをネットワークに流すことで対処しているからかもしれません。
 これも、「公的な環境」を作り出す工夫です。
 

 

 身近な親などを通じて、私たちは社会への橋渡しをされますが、家庭とは社会へ出るための準備の場、ローカルネットワークですから、ある時、そこから自分を思い切って切り離して、社会というクラウド「ワールドワイドウェブ」につながる必要がある。

 

 そのための儀式がまずは2度にわたる「反抗期」であり、世に出る「就職(しごと)」になります。

 

 反抗期で、ローカルネットワークの象徴である親を精神的に“殺して”、自我を確立していく。そして仕事を通じて、本当の意味で社会とつながっていきます。

 

 もちろん、現代は“会社”社会、会社という組織を介したつながりであるため、会社が機能不全を起こして歪んでいると(モラハラ、パワハラ)、会社がおかしな私的環境(ローカルネットワーク)となってしまって、社会というクラウドと十分につながることが妨げられてしまうことにもなりかねません。

(参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 

 

 

 私たちが意識する際に最も大切なことは、「社会通念」「常識」とつながる、ということ。

 
「社会通念」「常識」というのは、長い歴史や伝統の中で紡がれたもので、現在も、社会を構成する無数の人のネットワークでできているもの。

 古代から芸術や政治、経済の理想というのは、その目に見えるようで見えない「社会通念」「常識」(輿論)≒イデアというものをいかに具現化するか、というところにあるといわれています。
 

 

 天才的な芸術家や政治家がイタコのようにそれを降ろしてきて表現する存在とされます。

 

 凡人である私たちも天才的とまでいかなくても、普段言葉には出せませんが、「社会通念」や「常識」というものを体感して生活しています。
 心身が健康な常態であるとき、私たちはそれを中心軸に感じ取って、落ち着いて生活することができます。
 「公的な領域」で生活している状態です。

 

 心身が不安定な時、「社会通念」や「常識」を十分には感じ取ることができません。外部からやってくる否定的な感情に振り回されてしまって、イライラして、バランスを欠いた感覚にとらわれてしまいます。
 自分が何やら常識から離れているかのように感じてしまい、自信を失ってしまいます。

 社会が自分の敵に回ったかのような、疑心暗鬼に陥ってしまうこともあります。
 「公的な環境」を維持できず、「私的な領域」で生活している状態です。

 

 

 「家」の中というのは、避難場所としては機能しますが、実は、「社会通念」や「常識」≒イデア とつながるにはとても不向きな場所です。
 家系、親の偏った常識、価値観というローカルネットワークの呪縛されてしまうからです。

 

 学校や会社も実はとても難しい場所で、正しく機能すれば「社会通念」や「常識」への仲介となる場所でもありますが、中間集団として、偏ったローカルネットワークとなりやすい場所でもある。それがハラスメントやいじめとなって現れる。

(参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 そのため、小中学校などでも、できる限りローカルネットワーク化しないように、社会学者などがクラス単位ではなく、科目単位で編成するような組織作りを提案していたりします。

 

 
 社会に出ていくときには、支配しようとしてくる人がいたり、機能不全のローカルネットワークにからめとられたりすることがあります。それらはすべて公的環境を騙った「私的な領域」です。

 

 世にあるノイズに対抗するために、自己啓発などの考え方では、個人の成長によって果たそうとしてきました。
でも、それはとても難しい。
 なぜなら、自分の頭だけで自分のアイデンティティを確立させてという作業は、天才的な哲学者でも難しいことだから。なにより、人間は構造的にクラウド的存在だから。

 

 

 機能している社会には、「常識」や「社会通念」というものが悠然と存在している。
 

 

 「常識」や「社会通念」は、何気なく街や職場で出会う素朴な人たちとのかかわりで感じることができます。

 

 本来の「常識」や「社会通念」とは、多元的であり、“人それぞれ”というわきまえがあって押しつけがましくなく、でも、人々に太い幹のような基準を与えてくれるもの。

 そうしたものを内面化する。自分は「公的な環境」という光の道を常に進む。「私的な領域」の闇をのぞき込んだり、かかわろうとしない。
(もっともらしく見えても、生きづらさを感じるならば、それは歪な「私的領域」です。)

 

 そうすることで、ハラスメントや生きづらさから解放されていきます。 

 

 

(参考)→「あなたの苦しみはモラハラのせいかも?<ハラスメント>とは何か

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

「仕事」や「会社」の本来の意味とは?~機能する仕事や会社は「支配」の防波堤となる。

 

 近年、ブラック企業や組織内のパワハラ、モラハラなどがニュースでも取りざたされることが多くなってきています。人が持つハラスメント、といった負の傾向に焦点が当たるようになってきたことは、健全な傾向かもしれません。

(参考)→「あなたの苦しみはモラハラのせいかも?<ハラスメント>とは何か

 

 筆者も会社員の経験がありますが、モラハラ、パワハラが横行していた職場をいくつか経験しています。そんな経験をしていると、会社や仕事って嫌で、億劫なものだと、思えてきます。

 引きこもりなどで、働くことができていない方などはいらっしゃいますが、そうした方たちにとっても、社会や特に会社というのは「恐怖の対象」でしかないようです。

(参考)→「ひきこもり、不登校の本当の原因と脱出のために重要なポイント

 

 

 その恐怖の場所に、家族などから、無理矢理、「働きに行け」とけしかけられることはとても恐ろしいことです。
養育環境に問題があった場合は、「家庭という地獄」から、「社会(会社)という別の地獄」へと、理解のない家族に追い立てられるというとても理不尽な図に見えます。

 

 「働く」という言葉自体に拒否反応があって、例えば、医師やカウンセラーから「働きに行くにあたって、どんなことが妨げとのなっていますか?」とニュートラルな質問されただけで、「この治療者は暗に仕事に追いやろうとしているのではないか?!」「何もわかっていない」とラポールが途切れてしまうこともあるくらいです。
 

 

 そういうネガティブなイメージもありますが、一方で、「仕事」は、悩みからの回復では要になるものです。統合失調症でもそうですが、「仕事」や「役割」があると、症状が軽快することが知られています。

(参考)→「統合失調症の症状や原因、治療のために大切なポイント

 反対に、ずっと部屋にこもっている、家にこもっている状態ではなかなかよくなりません。
 やはり、人間はクラウド的であり、社会的な動物であるために、他者からの期待、そして社会の中での位置づけがなければ十分には生きていけないのです。

 

 

 

 ただ、多くの人にとって、「会社」や「仕事」っていうのは鬼門であり、厄介なもの。そうすると、そもそも「会社」や「仕事」とは何か? について捉えなおす必要があるようです。
 

 

 

 あまり知られていませんが、実は、現代の「会社」というのは、それを機能させることで「自由を守るための場所」「反支配の砦」として構想されました。
 

ピーター・ドラッカーという経営学の祖とされる人がいます。十年ほど前に「もしドラ」という本が流行りましたが、日本でも著名で、経営者の中にもファンが多いです。

 
 ドラッカーは、1909年にオーストリア、ウィーンで生まれました。大学教授の父を持ち、子どものころからフロイトやシュンペーター著名な知識人たちとも面識があったそうです。ナチスが政権を取った後、イギリス、アメリカへと移住し、「マネジメント」など現代の古典ともいうべき著作を発表していきました。

 

 ドラッカーが仕事を始めたころは、商業社会から産業社会(大規模な工業や企業が主役となる)への転換点であり、その混乱の中でナチス、共産主義など全体主義が台頭しはじめた時代でもありました。

 そうした時代で、来るべき産業社会の中で自由を守るために必要なものとしたのが「マネジメント(とそれによって適切に運営される会社)」だったわけです。

 なかなか難解で、実際にその著書を読んだ人は少ないとも言われる本ですが、そこに書かれていることは、極端に言えば「人が人を支配しあわないような組織の作り方のメソッド」でした。

 ※支配というのは、経営者から従業員、だけではなく、従業員同士、従業員から経営者への支配も含みます。
  

 

 そのためにドラッカーの本には、経営者の心得、組織作り、マーケティング、給与の設定の仕方などまで細かく書かれています。時代を先取りしたような、時代を超えた本質を示しているため、今でも高く評価されています。

 特に戦後の日本企業は、ドラッカーの経営論の申し子ともいうべき存在でした。

 
 ブラック企業などが取りざたされる一方で、働きがいのある会社としてしられたり、生き生き働いている人たちがいるのも事実です。

 

 家族に置き換えればわかりますが、機能している家族は、安全基地としてメンバーにとってはなくてはならないもの。反対に、機能不全家族というのは、ストレスに満ちた環境になる。ちょっとした運営の仕方の違いで、機能するかしないかは大きく分かれる。

(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 

 「会社」も、ドラッカーが考えたように「反支配」という視点で適切に運営されれば、実は私たちが受ける社会や家からの圧力やハラスメントの砦となってくれる場所でもあるのです。

 近代化するプロセスでの会社というのは家父長的な「家」の呪縛から逃れる場所でもありました。
 個人が一人ではできない力をふるうことができる。事業によっては何千万、場合によっては何億、何十億という単位のプロジェクトにかかわれるのは、会社という組織があるためです。

 

 「仕事」「用事」もそれがあることで、人同士をつなげる媒介となったり、私たちを守ってくれるものです。   

(参考)→「100%理解してくれる人はどこにもいない~人間同士の“理解”には条件が必要

 

 

 会社に属するメンバーにとって、機能する会社の第一のポイントは何かといえば、「位置と役割」を提供してくれるかどうか?にあります。会社の中にいれば、自動的に働き甲斐があるというわけではありません。

 そのなかで自分にふさわしい「位置と役割」が与えられていなければ、潜在的に失業しているのと、何も変わりません。

 

 高度成長期の会社は、いろいろと問題はありながらも、メンバーがやりがいを持ってモーレツに働けたのは、日本全体が成長期で、働けば働くほど会社も結果が出たからです。そして、成長がもたらす豊さが「位置と役割」を自然と与えてくれました。

 「売り上げはすべてを癒す」という言葉がありますが、社内で細かな問題はあっても、好業績で結果が出ているうちは皆幸せなのです。

 

 反対に、精緻にマネジメントしているような会社でも、業績が悪い会社はメンバーのやる気も下がるし、雰囲気はギスギスするし、ブラック企業として問題になるような問題も起きやすい。
 特に、社会全体の成長率が下がっているときに、売り上げ至上主義で厳しく社員にあたるような会社は最悪で、結果は出にくいのに、メンバーには厳しいものだから、
社員に自殺者が出たりといったような問題を引き起こしてしまいます。
 

 

 実は、自分にとって良い会社を選ぶときには、相性云々も大事ですが、会社や属する業界自体が業績が良いかどうかは大切なポイントです。業績が良いというのは、その会社が社会から必要とされている(位置と役割がある)ということであり、当然そのメンバーもそのように評価されているということだからです。
 反対に業績が悪い常態が続くと、「不要」として社会から退場(倒産)させられてしまいます。
 

 

 さらに、可能であればなんらかの「技術」を身に着けられるようになると、業績などの変動に対して、自分の位置と役割をまもりやすくなります。

「技術」や手に仕事があるということは、仕事の主体性を自分中心にすることができるということ。

 実際、筆者の経験でも、会社内で社内で自分の位置を守るためには、業績の良い部署にいるか? あるいは自分だけの経験、技術が必要でした(エキスパート職)。
それがないと、年とともに厳しくなっていき、「位置と役割」を奪われて、生殺与奪を他人にゆだねてしまうことになるのです。
 

 

 社会学者なども指摘していますが、
 「生きづらさ」の問題というのは、本来は社会、経済的な問題でした。
 現在は、個人の心の問題とされてしまう(私事化、個人化)。でも、それは間違いで、やはり構造の問題であることに変わりはありません。

(参考)→「あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服

 

「生きづらい」と感じているならば、それはまず第一に、「経済・社会問題」であり、次に「人間関係」であり、最後の最後が自分の問題ということが常識です。

 

 今、状況から抜け出せないのは、当人の問題というよりは、社会構造の問題であったり、その中でうまく社会の階段を上ることをアシストできなかった家族の機能不全問題であります。

 社会は低成長、ゼロ成長の時代ですから、成長の果実を得て、自分たちの「位置と役割」を実感しにくい。
 IT化やグローバル化で、かつてはあったような単純な仕事は日本にはなくなりつつある。
 会計士や税理士のような資格が必要な仕事でも、IT化されたり価格競争などでかつてのような仕事はなく、仕事にあぶれてしまう。
 さらにAI化の波が来ているため、将来安泰な仕事はどこにもない。

 

 現代は、私たちが人間らしく生きるために必要なもの、人づきあいの要件でもある「用事」「仕事」が徐々に失われていく社会です。かなり難しい時代の中で揉まれて生きているのが私たちです。

 
 そんな私たちが感じる不安や恐れを、「個々人の意識、心の問題だ」なんていう人がいたら、どうかしています。

 先に取り上げたドラッカーは、
 「位置と役割を持たない者にとって、社会は不合理に満ち、計算できず、かつとらえどころのない存在である。位置と役割を持たなければ社会からつまはじきにされる。根無し草の目に社会は見えない。彼らにとって社会は半分しか見えない。半分しか意味がなく、半分は暗闇という予測不能な魔物の世界にすぎない。自らの意思ではその生活の糧さえどうすることもできない。何がどうなっているかを理解することもできない。」

 

 「魔物の世界」とは、まさに、引きこもりで苦しんでいる人が感じる、社会への恐怖の感覚をそのまま言い当てているようです。

 仕事や会社とは、「位置と役割」がなければ、計算できない、不合理で、おそろしい魔物として立ちはだかりますし、「位置と役割」があると、「支配」の防波堤ともなります。

 私たちは、自分の尊厳、自由を守るためには、何とかして自分の「仕事(位置)」を獲得する必要があります。

 機能している「職場」や「仕事」というのは、「家」や「養育環境」からの悪影響から自由になれる場所になりえるのだ、ということを知ることはとても大切です。

 

 もちろんトラウマ(ストレス障害)などの影響で、社会恐怖が先行している場合もありますが、実は、「位置と役割」がないことが、生きづらさの原因の一つとなっている。「卵が先か鶏が先か」というようにねじれ合っている。そのため、「生きづらさ」から逃れるためには、家にずっといても解決は訪れず、社会の中で「位置と役割」をなんとか獲得していく必要があります。

 

 成人した後の家(実家)とはあくまで緊急避難先で、長期の滞在には適さないのです。家族の呪縛にとらわれたり、仕事に就けない期間が長くなることで条件は悪化し続けていき、身動きが取れなくなるためです。
 中国古典でも「恒産なくして恒心なし」といいますが、本当の“安全基地”である「自分の家」は、自ら経済的に自立して築く必要があります。

 

 上にも書きましたように大変な時代なので、なかなか長期に安定した仕事を得ることはだれにとっても難しい。
 それでも、就職支援、就労支援、カウンセリングなどもうまく活用して、働くためのスキルを身に着け、したたかに経験を積み重ねていく。
実際に、それまでうまく働けなかった方が、就労支援を経て、生き生きと活躍しているという例はたくさんあります。

 

 また、仕事を得たことで、それまでの悩みが緩和していった、というクライアントさんがいます。
 (以前にも書きましたが、人とのかかわりの中にいるほうが実は悩みは軽くなる)

(参考)→「他人といると意識は気をつかっていても、実はリラックスしている

 

 もちろん、職場はうまく選んでいく必要はありますし、右から左へと容易なものではありませんが、生きづらさの解決のためには、避けて通れないものです。

 医師やカウンセラー、そして公的サービスと連携していくことで、徐々に「位置と役割」を得て、悩み、支配から自由になる階段を上っていくことができます。
言葉を変えれば、一人で悩んでいた状態から、大変な時代に生きる私たちと共に悩めるようになっていきます。

 

 

 

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「安心安全」と「関係」

 私たち人間が自分らしく生きいていくうえで必要なものとは何でしょうか?

 これまでの記事でも書きましたが、人間は有限で循環しながら、秩序を形成し、成熟していくのですが、
 現時点で分かっている知見からみると、 
 そのかなめは
 「安心安全」であり、次に「関係」なのだといえそうです。
  

 最も大切なのは「安心安全」です。それをいかに確保するか?ということ。

 近年再注目されている「愛着」がどうして大事かといえば、幼いころに、親との絆という形で「安心安全」の感覚をワンパッケージでインストールできる効果があるから。
 (参考)→「「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 

 

 母親(父親)に十分に抱きしめられた。適切に応答されてきた経験があることで、世界は秩序があって、安心安全なのだ、と感じることができます。親が、「安全基地」として機能するため、成長の過程での探索も抵抗なく行うことができるようになります。「関係」の形成も後押ししてくれます。

  前回の記事では批判的に紹介したロジャーズの来談者中心療法も、それがなぜ効果があるか?といえば、外では得られない「安心安全」を提供しているから、と考えられる。

 

 もし、いろいろな要因から安定した「愛着」が得られなくても、それが「安心安全」のことなのだ、ととらえれば、取り組みようがあります。

 逆に、「愛着」を“親子の絆”というように狭くとらえてしまうと、“絆”という何やらウェットな関係を取り戻そうと必死になって、親はそれに応えてくれずさらに傷つく、ということになりかねません。

 さらに、「愛着=絆」と考えると、解決のために何をしていいかわからなくなったり、複雑な行為を想像してしまいますが、「愛着=安心安全」と捉えれば、いろいろなアプローチが考えられます。
 

 

 

 安心安全を回復する方法について、いくつかの視点があります。土台となるのは、身体の内部の安定性を高めること。そのために、睡眠、食事、運動、といったことがある。

 どうして、睡眠や食事、運動が有効なのか?といえば、身体のレベルから「安心安全」を取り戻す効果があるから。以前も書きましたが、どんな暗示の言葉などを駆使しても、それはあくまで促進剤であり、体内の治癒力にはかなわない。医療、薬もあくまで治癒力を助けるためにある。

(参考)→「結局のところ、セラピー、カウンセリングもいいけど、睡眠、食事、運動、環境が“とても”大切

 

 

 マインドコントロールなどで悪用されますが、睡眠、食事、運動を制限されると内的安定性が急減し、とたんに人間の精神面での安定は下がります。逆に言えば、それらの質が高まると、精神面の安定は高まるということ。

 

 また、“身体”とは、私たちにとって一番手前にある“自然(世界)”です。
 身体が安定すると、私たちと“自然”としての身体との信頼が高まり、結果、世界に対する信頼も回復していきます。
 パニック障害は典型的ですが、身体への信頼が下がると、世界とのつながりが断絶し、「安心安全」感も急激に下がるのです

 「愛着障害(不安定型愛着)」が原因で悩みを抱えている方の問診を詳しくとると、睡眠、食事、運動に何らかの問題があることがほとんど。ある意味とても、努力家で、能力が高かったり、ということもあるので、自分はもっともっと頑張らなきゃ、と努める結果、「内的な安定」にとって大切な要素が犠牲になって、「安心安全」が不足して、という悪循環に陥っている。

 

 

 私たちは、回避や防衛といった意図しない問題行動をとってしまうのも、「安心安全」がないから。身に迫る危険からなんとか自信を守るために回避や防衛を起こしている。回避や防衛は脳に備わった安全装置ですが、放置しておくと社会生活を送る上ではなかなか厄介なことになりえます。

 認知行動療法などでは、「認知の歪み」が悩みの原因である、と考えますが、実は違います。認知は悩みの原因ではありません。「安心安全」がなく追い込まれた結果として、最後に認知は歪み、問題を起こすのです。
 原因ではなく結果であり、原因のように見えるのは二次的な問題を生み出す元になっているため、と考えられます。

 

 愛着の研究の知見などから考えると、「安心安全」の欠如こそが悩みの真因の一つと考えられます。 悩みの原因を、深層心理だとか、未知なる何か、に求めてしまうと、いかにアプローチをしたらよいかがわからなくなってしまいますが、「安心安全」を回復させればいいのだ、と考えればシンプルになります。

 

 

 例えば、安心安全には、「経済力」も重要。 俗に、「金持ち喧嘩せず」といわれるのは、経済力が安心安全を担保してくれたり、心理的な安定の元となっているため。
「金持ちブーム」というのも、お金があってうれしくない人は基本的にいませんが、生きづらさを抱える人が「安心安全」を求める本質が下地にあるのではないかと思います。

 ただ、すべてを「心理」に求めるのはおかしい。TVや新聞を見ていれば貧困などが問題となっているように、お金にまつわる生きづらさとは「社会的な問題」であることが基本。
 かつてであれば、自殺をしたら「景気が悪いせいかしら」など、と要因を社会に求めるのが普通であって、個人の心理のせいにするのはどこか変なのです。心理学ブームや新自由主義(自己責任の強調)の影響であると考えられます。
 マクロの経済からすれば、個人の努力なんて塵程度のものでしかありません。たとえば、急成長する会社があれば、それは経営者の力もあるけど、基本は時代のおかげ。人間は環境にはあらがえません。

 

 お金の問題を自分の責任とは思わず、社会の問題、政治の問題としてとらえることも大切。そうすると、これまで自責で苦しんでいたものがとたんに軽くなりますし、そのほうが実際に良い方向へと改善していきます。自分の意識の問題だ、なんて言っている状態の時のほうが物事はうまく回らなくなります。

 

 社会の要因から来ている生きづらさが個人に転嫁されることを社会学では「関係性の個人化」といいます。
(参考)→「あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服」 

 

 カウンセリングの役割というのは、「安心安全」が定着するサポートを行うことです。「安心安全」が確保されない要因はいくつもあります。
 生活習慣の乱れもそうですし、運動不足もそう、愛着が不安定で安心安全のパッケージがないこと、ハラスメントなど現在の環境の悪さ、家庭の問題、経済的な問題、など、そこを切り分けて、内的安定を高めて、呪縛で罪まみれになったクライアントさんの“冤罪”を明らかにしていく。「安心安全」を回復させていく。

 

 「安心安全」を確立するためには、最終的には「関係」が不可欠。
「関係」というのものには、社会的な呪縛も大きく、ここをいかにして乗り越えるかは、重要なテーマとなります。

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

私たちは、“個”として成長し、全体とつながることで、理想へと達することができるか?

 

トラウマを負っていて、愛着が不安定だと、安心安全がないために、「愛」を強く求める傾向があります。

 

家族に「愛」を求めます。
でも、家族からは「愛」は得られません。

 

なぜなら、前回描きましたように、愛とは、神にしか提供できなものだからです。人間には愛は提供できない。求めれば求めるほど、孤独や嫉妬、絶望を感じるようになる。

 

愛が得られないことで、怒りがたまります。
その結果、怒りが脳に帯電して、ショートしやすくなり、解離を起こしたりするようになります。

あるいは愛の代わりに「幻想」を求めるようになります。

本来の自分らしくは生きられなくなります。

その結果、また、自分を責めて、解離を起こして、を繰り返すようになります。

 

解決したいと考えて、医師やカウンセラーに「愛」を求めます。でも、治療者からも愛は得られません。

なぜなら、繰り返しになりますが、「愛」は神のものだから。

人間からは得られない。サポートするはずに医師やカウンセラーからも得られない。最初は得られる気になるのですが、結局は得られない。

その結果、「最低な奴ら!!役に立たない!なんで私に無条件の愛をくれないんだ!」といって、治療者に怒りをぶつけるようになります。
(「愛」が得られるというぬか喜びと失望(スプリッティング)、この状態をさして、境界性パーソナリティ障害と呼ばれます。)

世界最高の医師やカウンセラーからも、「愛」は得られない。

スピリチュアルのグルからも「幻想(ファンタジー)」は得られるけど、「愛」は得られない。

 

「愛」を求めてさまようことになります。

愛を求める一方で、あまりの生きづらさから誰ともかかわりを持たず、自分は自分として生きたい、という願望も持ちます。これもかなえることができない。

しかし、愛は求めれば求めるほど、孤独、絶望がやってくる。それは、神のみが可能なもので、人間にはスペックオーバーだから。
人類愛というように自分と同じ“人類”であることを前提として期待しますが、相手は自分と同じように考え、感じ、行動してくれません。すると、やがて、相手を「人間ではないもの」として排除しようとしたり、人間以下のものとして支配しようとすることになります。結局、孤独に陥ってしまいます。

 

こうした状況を越える方法として、何か人間を越える全体とつながろうとするアイデアが出てきます。それがスピリチュアルなどが唱える「全体性」の概念です。

 

残念ながらこれも、実現することはかないません。それらも結局、人間がこしらえた、作り物の概念でしかないものだからです。人間が作り上げたものなので、多様性をそぎ落として単純化したものを至上の概念としているだけ。

 

「愛」が別の概念にすり替わっただけです。スペックオーバーのものを戴いてしまうと、結局孤独や排除、支配、そしてそれを癒しごまかすための「幻想(ファンタジー)」という循環に陥って問題は解決しないのです。

「全体性」は、個で生きることを求めて行き詰まった先に登場してくる、全体主義と似た精神構造からくる願望でしかなく、結局、待っているのはニセ神様で、そこで支配されることになります。幻想を提供されて、解決からは遠ざかってしまいます。結局、幻想が覚めたら孤独であることに気づくことになります。
(参考)→「ユートピアの構想者は、そのユートピアにおける独裁者となる

 

 

実は、この人間の本質にかかわる問題では、カウンセリングの始祖ロジャーズも手痛い“敗北”を喫しています。

来談者中心療法で注目を浴びていた気鋭のロジャーズが、哲学者マルティン・ブーバーと対談したときのことです。
ロジャーズは、個としての人間には無限の成長可能性があると熱弁しますが、ブーバーには全く響きません。

それどころか、ブーバーは「人間が個として発展していくことは、ますます人間らしさを失っていく」とします。
ブーバーは、「私は個人(indibidual)ではなく、人間(persons)の見方だ」といいます。
ブーバーにとって人間とは、個ではなく、世界とともにある存在、出会いや関係によって存在するものだと考えていたためです。

 

 前回の記事でもメカニズムを書きましたように、近代の仕組みの根底にはキリスト教がありますが、キリストが理想としたことは神との直接のつながりを通じて個として完成することです。しかし、それはあまりにも理想が高すぎて、凡人には届きません。すると、私たち人間は「愛」を求め、個として完成しようとすればするほど、人とつながることができず、孤独へと陥ってしまう。これはD・H・ロレンスなどが提起した問題ですが、同様の洞察をブーバーも感じていたと考えられます。結局、人間は関係の中にあるものだと。

 個人主義が成熟したように見える欧米でも純粋に個人で生きれているわけではないようです。
(参考)→「なぜ人は人をハラスメント(虐待)してしまうのか?「愛」のパラドックス

 

 

 

社会的ひきこもりで知られる心理学者の斎藤環氏も、ロジャーズの理想はまさに、全宇宙と自己との調和を目指すニューエイジ的なビジョンそのものとし、「真空の中でも生きられる「個人」という存在の価値を至上のものとして、その個人の空間を侵害する外敵を徹底して排除しようとする。言い換えるなら、個人の無限の可能性は、世界とのかかわりなくしても成立するという信仰」であるとしています。 さらに、「「ひきこもり擁護派」の人たちがあれほど頑迷なのかがわかってきた。」「彼らは自覚なきロジャリアンなのだ。」と人間を理想的に捉えて柔軟性を欠く援助者を批判しています。

 

 自身がロジャーズ派であると自覚がなくても、現代のカウンセリングや自己啓発などの基礎はロジャーズの思想が土台にあります。そのロジャーズ自体、存命中に寄せられた様々な疑問(なぜ、受容するだけでクライアントは成長できるといえるのか?など)に対して結局、有効な説明、証拠を提供できないまま亡くなっていきました。日本ではあまり自覚されていませんが、カウンセリングはその基礎自体が危うい前提の上に展開されている部分があって、そのことも理解したうえで用いる必要があるのです。

 自己啓発とか、ポップ心理学、スピリチュアルなどが唱える、煩わしい人間関係をすべて断って、「個」として本当の自分を見つけて成長し、無限の可能性が開花する、といった理想はどうやら実現が難しいようです。それどころか、孤独に陥ったり、かえって支配され生きづらさが増す反動があるということです。

 半世紀近く前から、識者からはすでに指摘されて、そして、ある程度決着がついていたことですが、一般の私たちのところにはなかなか届いていない知識です。届かないまま、右往左往させられて、ということが起きてきました。

 

 実は、愛、全体性といった、壮大な概念や理想などなくても実は私たちは人とつながり自分らしく生きていくことができるのです。

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

理不尽さを「秘密」とすることは、トラウマ、生きづらさを生む

 

トラウマを負った人は、自分のウソや隠し事をする代わりに、家族など周囲の理不尽さを内側に隠し持つようになります。
いわゆるアダルトチルドレンとは、「依存症の親を持つ子ども」という意味ですが、親が酒を飲んで、くだを巻いたり。親同士がケンカをしていることであったり、あるいは、母親が男性を連れ込んでいる姿であったり、ということを「秘密」として隠し持つようになります。

 

 

(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 

 

「自分」のウソや隠し事は健全な自我を育みますが、環境からもたらされる理不尽さを「秘密」として隠し持つことはトラウマとなり生きづらさを生みます。

なぜなら、トラウマとはストレスや理不尽さを記憶として処理できない“記憶の失調”のことを言うからです。

 
私たちは通常、ストレスや理不尽な目にあったときは、ストレスホルモンが急上昇して、理不尽さに感情をぶつけることで、それらを中和して処理します。脳内では偏桃体や海馬がそれを担います。理不尽さは記憶として整理されて収められていきます。
しかし、理不尽さを当たり前のこととして、「秘密」として内面化することになれてしまうと、それが条件づけられてしまい、ストレスホルモンのセンサーが狂い、偏桃体や海馬が機能しなくなっていきます。理不尽さは記憶として処理されず、冷凍保存されて残ってしまうのです。
またストレスのセンサーが狂うことで、例えば、嫌なこと、理不尽な目にあっても、その場では対処できなくなってしまうのです。
何にも感じずに固まるか、血の気がスーッと引くような感じになります。

そして、その場ではクールに対応していますが、のちにストレスホルモンが上昇してきて、自分の中では、反省大会、次回へのシミュレーションなど、頭のぐるぐる回りが始まって、家でもリラックスできず、眠れない夜を過ごすことになるのです。

 

 

 

例えば、筆者も実家が自営業で、子どものころは夫婦げんかが当たり前でした。
ある時、自営業の父親について、お客さんの家に配達にお手伝いに行きました。その際にその家に子どもがいて、筆者が玄関先で配達が終わるのを待っていると、大人が見ていないときに筆者に意地悪をしてくるのです。
「お前なんでここにいるねん、しばくぞ」と耳元で囁いてくるのです。
大人が見ている時は、その意地悪な子どもは知らんぷりをしています。

筆者は、そのことが怖くて固まってしまっていました。

なぜ、子どもがそのようなことをしてくるのか、まったく意味が分かりませんでした。そして、反撃もできず、それは父親にも言えずに、理不尽さはその意地悪な子供と筆者との間の「秘密」となってしまったのです。

おそらく筆者の場合は、夫婦げんかなどで理不尽さが条件づけられているところに、外での理不尽を経験しても、血の気が引いて対処できなくなっていたということだったのだと思います。
こうしたことはパターンとなって、大人になっても苦しめられるようになります。

 
レイプなどの被害者は、レイプという出来事自体もひどいことですが、なにより、加害者との間に「秘密」を抱え込むことが、とてつもないダメージとなってしまうのです。

 

 

 

震災などの自然災害や事故でもこうしたことは起こります。災害はあまりにも理不尽な出来事です。それを周囲とうまく共有できずに「秘密」として抱え込むと、最初は淡々としていても、ある時うつ状態になってバタンと倒れてしまいます。

 
会社でもそうです。
職場では理不尽さは横行しています。それをうまく発散できれば良いですが、真面目な人ほど抱え込んでしまいます。会社という閉鎖空間の中で理不尽な上司の発言、無理な目標は会社や上司との間の「秘密」となってしまい、家族にも言えずにトラウマとなって苦しめてしまうのです。
いつしか、真面目な人は、他人の理不尽さを引き受ける「ゴミ箱(ガーベージ)」として扱われてしまいます。

 

 

 

機能不全家庭の親や、自己啓発のグルやブラック会社の経営者などが言うように、「愚痴を言うな」というのは、まったくのデタラメで、愚痴を言うことは良いことです。
理不尽なことを「秘密」とせず、それは理不尽だ、と宣言することですから。ぐちぐち、ぶつぶつと、愚痴は言ったほうが良いのです。

 
このように、理不尽さは都度はねのけて、外側にはき出し、適切に「外部化」する。そして、自分の内面は隠し持つことで健全な自分ができて生きやすいとなります。

 

 

 

しかし、トラウマを負っている人は、その逆に、自分とは関係のない理不尽な出来事を「内面化」させられ、自分の隠し事は隠し持つことを許されないまま、ニセ成熟で大人びた状態で生きさせられているのです。

 

そして、自分の「隠し事」を持とうとしても、それがやましい「秘密」のように感じられてしまい、自我を確立させることができなくなったり、成熟が遅れてしまいます。

 

 
トラウマを負った人は、人に対して内面を開示しない人になってしまうか、逆に、(まれに)何でも開示する、妙にあけっぴろげな人になったりして、どちらにしても本当の意味で人とつながることができなくなってしまうのです。

 

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

 

ウソや隠し事がないと生きづらさが生まれる

 

ウソをついたり、隠し事をするのは、発達の過程ではとても重要だとされます。ウソや隠し事をすることで、自と他との区別が初めてできるからです。ウソや隠し事を通じて人間は自我を確立していくのです。
(育児や発達の本を読むと登場してきます。)

 

人間とはクラウド的な存在です。
自分というものが初めから存在しているわけではなく、外来要素を内面化して束ねているのが自分です。オープンなスマートフォンのような状態です。スマホ本来の機能は何もない。

ただ、写真やメールなど自分のデータを暗号化して外から読み取れないようにしたときに、はじめてその部分が「自我」になる。

だから、ウソや隠し事はとても大切なのです。

 

 

機能している健全な家族、安定型愛着の家庭であれば、ウソや隠し事もある種のユーモア(諧謔)で対応されます。
「なんちゃって!」が通用することがすごく重要です。
もちろん、「ウソや隠し事はダメよ」とはなりますが、実際は「ウソや隠し事もときにOK」「仕方がないな(人間というのはそういうものだ)」として柔軟に運用されているわけです

(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 

 

機能不全家族の場合は、逆に、とても厳格に真面目に運用されます。人間のイメージが宗教画のように清らかで完璧です。そこでは、「ウソをつくな!」といって、ウソや隠し事は封じられてしまいます。

 

 

 

あるいは、親が機能していないために、子供が「優等生」となり、親代わりにしっかりしている、という場合もあります。

そこでは、子供がしっかりしているから自我が芽生えているか、というとそうではなく、子どもらしいうそや隠し事ができないまま、子役のようにニセ成熟として親代わりを演じているだけです。ですから、大人になってから「自分がない」という状態になり、苦しむことになります。

 

 

 

ブラック会社やカルトなどはある種の機能不全職場ですが、そこでも、「ウソや隠し事は厳禁」で「社員は素直であること」が強いられます。上司が「俺の目を見ろ!」として、ウソや隠し事がない状態を強います。

社員は隠し事なく、会社の指示に従う。それがいいように聞こえますが、全然そんなことはありません。

昔、元ソニーの社員が書いた「できる社員はやり過ごす」という本がありました。つまり、上司も万全ではないので、健全な組織では、時に上司の指示をやり過ごしたり、部下たちは自分たちの裁量でこっそり開発したり、仕事を進めたりしていた、ということです。

 

 

最近はやりのガバナンスというと、すべてが透明で、指示が徹底される、というように思われていますが、健全な職場というのはそうではなありません。機能する家庭のように、ある意味いい加減で、社員それぞれは秘密はありますが、全体としては成果を上げるように頑張っている、というものです。

 

 

 

トラウマを負った人は、過度に真面目です。隠し事ができません。建前と本音が嫌いです。使い分けることができません。それはピュアでいいこととされますが、実は、真面目で隠し事ができないことが、「自分がない」という生きづらさを生んでいるのです。

そして、“本当の自分”を外に求めてさまようことになります。

 

(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 

 

 

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「接する」のではなく「信じている」

トラウマを負った人の特徴として、自分や他人、世界に対して、直接ありのままに「接する」のではなく、「信じている」ことがあります。

 
理不尽な経験をしてきていて、世の中や人間というものは、安心安全ではない、と感じています。

そのため、直接「接して」はあまりにも危ない、ために
ありのままの他者、世界に、ではなく、いったん抽象化(ファンタジー)したものを「信じる」ように接しています。

 

 

そのため、他者や世界について、見たくないものは回避しようとします。信じるかどうか?なので、抽象化したイメージにそぐわないととても腹が立ったり、こき下ろしたりするようになります。

 

ありのままの他者や世界は、良いものも悪いものもほどほどに同居しているものですが、そうした真ん中がありません(二文法的認知)。

例えば親に対しても、ありのままに見ればよいわけですが、抽象化したイメージとしての親(親´)と接し続けています。
ですから、実態としては愛情が持てないご両親だったり、過去には理不尽なことを重ねてきていても、それがわかっていながら、イメージとしての親(本当は愛してくれるはず)をずっと追い続けて、イメージ通りに動いてくれない親に対して、腹が立って、小突いてみたり、口論になったりするのです。

 

 
自分自身に対しても同様です。自信自身に対する時も、ありのままの自分と接するのではなくて、抽象化した自分(自分´)を信じています。
スティグマ感を背負い、罪悪感があり、自分に自信がありませんが、それらは、周囲から背負わされた抽象化されたイメージです。

ありのままの自分はとても汚れていると思いこまされているために、抽象化したイメージ(少しマシな自分)を信じるようにしているのです。

そのイメージを信じてしまうので、いつまでも、自分に自信が持てないままになってしまいます。

 

 

 「自他の区別」がつかない原因の一つは、抽象化したイメージを通じて世界や自分と接しているからです。

イメージだから、区別や距離が取れないのです。現実の自分や他者をありのままに見れれば、区別は距離は明らかにとることができるのです。

 

 

 

このことに気づくだけでも、結構変化が生じます。
ありのままの他者を見る、ありのままの世界を見る、ありのままの自分を見る、ということができると、生きづらさは、ぐっと良くなってきます。