幻想の構造~心理療法やセラピーも現実を知るためにある

 人間というのは、おそらくは動物の中で唯一、抽象的な概念や、想像を用いる生き物です。
そのために、高度な社会を築くことができました。

 概念や想像を共有することで、共同体の枠組み、規範や帰属意識が醸成されて社会が形成されています。
科学でも概念を操作することで、発展してきました。

 さらに、ミラーニューロンを介して人同士がつながり、抽象的な価値観が内面化されている、とも考えられています。

 抽象的な概念を用いることは大いなるメリットをもたらしましたが、同時にデメリットももたらしました。現実を回避することで、問題が大きくなってしまうこと、幻想の中に逃避してしまうことが起きることです。

 

 もともとの私たちは単なる自然物であって、そこには罪も何もないわけです。

 ただ、安心安全が脅かされて、閉鎖的な共同体が持つローカルルールを内面化したりすることで、呪縛とも呼べる幻想(「自分はダメだ」といったこと)を強く持たされてしまう。
 

 

 安定した環境で育っても、ある程度は幻想が入るのですが、安定した環境で内面化したものは、安心安全が確保されているため、多様性があり、変化可能であり、不要ならば循環して「排泄」されていきます。そして、新しい環境に合うものを獲得していくことができます。

 特に反抗期では顕著に「排泄」が行われて、親の価値観はいったん捨ててしまい、再解釈をされることになります。

 その経験があるため、社会に出ても、価値観を真に受けずに、ある程度自分で選択できるようになります。

 

 抽象的な考え、感情は、外部からもたらされます。そのために「関係」はとても重要で、私たちの判断も関係のネットワークによって支えられます。できるだけ多様で、緩やかな関係を多く持てると、安定は増しますし、安心安全があることでより良い関係を持つこともできます。

 

 もちろん、健康な成熟を見せる人も、誰しもほどほどに「幻想」を持っています。ただ、安心安全が担保されているため、多様で柔軟で選択可能性があるのです。
 意図的に、幻想と戯れたり、「ふり」をしたり、また現実に戻ってきたりすることができます。

 

 反対に、トラウマを負っていたりして不安定な場合は、安心安全がなく、さらに関係が少ないため多様性がなく、
「幻想」が信仰のようになってしまいます。
 あたかも「幻想」が、現実をふさいで窒息させてしまうような形になってしまうこともあります。

 

 さらに、「幻想」から抜けるために、さらに別の幻想を持ってこうとそして、屋上屋を重ねる、といったことになります。ますます解決から遠ざかってしまう。
 (先日の記事で書いた、「愛」「全体性」とか無限の観念をもって対抗しようとすることはこうしたことを指します。)
 実際、壮大な理想を唱えた人たちが最後は嫉妬の塊となって仲間を殺したり、テロリストになったりすることは過去の歴史的事件を特集したTV番組を見ればしばしば出てきます。

 図にすると、

  本来の自分 ← 内面化した価値観(呪縛) ← 別の幻想
       

 ますます本来の自分が分からなくなる・・・

 本当は、

  本来の自分 ← 内面化した価値観(呪縛)
            ↑
      これを除いて“現実=本来の自分”に触れるのがセラピーの役割。

 

 ここで、「“現実を知る”っていうと、今の自分で我慢しろ、とか」「自分は結局ダメだ、と告げられるのでは?」と思うかもしれませんが、そうではありません。

 

 例えば、イルカや、犬、自然に触れるようなセラピーがありますけど、そうしたものが教えてくれるのも、やっぱり「あなたは大丈夫」ということです。
 (人間のカウンセラーが言っても、なかなか信じてもらえませんけども・・)

 

 〝現実”のほうが面白いし、楽しいし、優しいし、美しい。

 人間が頭でこしらえた「自然」と、「本物の自然」とを比較すればわかりますが、当然、実際のほうがはるかによいものです。
 私たちは、セラピーを通じてそこに還っていく取り組みをしているわけです。

 

 仏教の「覚る(さとる)」というのも、あたかも学者のように世の中や自分をありのままに見る、というだそうです。(だから、仏教には、いわゆる神といった概念はなく、まるで唯物論みたい、といわれます。)
でも、そちらのほうが、悩みからは抜けやすいと、お釈迦さまは発見した。

 

 理屈はそうだけど、やっぱり幻想が欲しい・・
 
 という場合は、“戯れ(たわむれ)”として利用すればいいかもしれません。すこしすっきりしたら、また現実に戻ってきたらよいのではないでしょうか。

 本当に苦しい時は、幻想を希望に変えてでもしなければ立ち向かえないくらいに、生きづらいものですから。

 でも、幻想を希望にしたままでは、生きづらさからはなかなか抜けれません。だんだん「幻想」に嫌気がさしてきて、飽きてきて、「なんだ、結局、引き寄せとかなんとかいっても、そんなもの当たらないじゃないか!やめた!」「自分は自分だ」と思った瞬間からうまくいったりもするのです。

 そうしたことを、依存症治療の世界では、「底をつく」というそうです。底をついて現実に触れると、幻想がパーッと晴れて、「あれ?自分って本当は能力あるんじゃんか!?」って気がつけるようになります。
  

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

ブリーフセラピー・カウンセリング・センター公式ホームページ

お悩みの原因や解決方法について

 

循環する自然な有限へと還る

 

 「愛」やそれによって完成する「個人」とは、神様のみが達することができるレベルであるならば、人間にとって必要なのは、そういったものではない、ということになります。

 もともと人間に自然物、動物としてつながる能力はあるとすれば、「愛」や全体性など、無限の概念などは不要です。それは人生の旅が終わった後や共同体の神話としてあればいい。

 「でも、愛が必要ないってちょっと冷たいんじゃない?」と感じるかもしれませんが、
 先日も書いたように、特に日本では、「愛」は比較的最近広まった言葉で、それ以前は、「情」とか、「慈悲」とか、「恩」とか、「義理」とか、といったものであったわけです。
 私たちが生きる上では、“有限の”情や慈悲のやり取りで十分間に合う。

 

 有限のものは安全だし、楽しい。
 なぜなら、必要がなくなればなくなってくれるし、必要ならば自然に表れてくれるから。

 貸し借りの収支で計算してくれるから、非常に合理的。 
 

 反対に、無限のものは、非合理、理不尽。
 無限のものは病的で、おかしなものであることが多い。

 ギャンブル依存、アルコール依存症などに見られる、“無限の”欲求は、私たちを苦しめ、破滅に導きます。

 普通だったら、飲みすぎたら嫌になる。遊びすぎたら疲れて、飽きる。
 これが動物としては普通のことで、そうしてバランスをとっているし、飽きるから新しいことに興味がわいてくる。
 
 身体が健康であれば、また興味は自然とわいてくるもの。
 

 
 トラウマを負った人が感じる罪悪感も、“無限”
 どこまでも、自分を責めて、罪を償わないといけないような申し訳ない感覚に襲われ続ける。
 普通なら、嫌なことでも、寝たら薄れていって、だんだん飽きてくるもの。
 

 人との関係で苦しむのも、それが無限になってしまっているから
 どこまでも尽くさなければならない、どこまでも関わらなければならない、気を使わなければならない。
 一時の関係のはずが、更新されずにずっと続いていく。

 普通なら、関係は日々変わって(有限で)更新されていくものなのです。

 

 仏教でも「諸行無常」というように、
 人間をはじめこの世にあるものは、本来すべて有限です。

 そこに、無限の観念をかぶせようとしたり、無限だと思いたい、一つになってつながれる全体が欲しい、という心情が苦しみを生む、ということです。

 
 すでに、「情」とか「慈悲」とか、「義理」とか、自然で、便利なものがあるのに、そこに、「愛」という無限の観念や、スピリチュアルな「全体性」といったものをもってきてしまう行為は、実は、アルコールのように一時渇きをいやしてくれますけど、そのあと新しい苦がわっと襲ってくるだけ。

 無限が欲しくなるのは、自然物である自分自身を信じられないからです。

(参考)→「「無限」は要注意!~無限の恩や、愛、義務などは存在しない。

 

 孔子とか、ゴータマも、神秘的なことを聞かれても質問には答えなかったそうです。
 よくわからない、とか、敬して遠ざけよ、といってはぐらかした。
 それは賢者は、有限の人間にとって、サイズの合わない無限は害にしかならないと知っていたから。

 反対に、ニセモノは無限や絶対を謡い、神秘的なことに簡単に答えてくれます。無限の富、無限の安心、絶対の幸福、千年の繁栄とか、、
  

 有限なものというのは、良いものです。
 記憶も有限だから、嫌なことを忘れられるし、ストレスも消失する。

 
 トラウマなどの病は、代謝の循環がうまく働くなって、無限になってしまっている事から起きます。

 悩みを克服するためには、無限の概念に飛びついたりすることではありません。
 それではもっと苦しくなってしまうのです。

 悩みを克服するというのは、循環する自然な有限へと還っていくことです。

 

 

私たちは、“個”として成長し、全体とつながることで、理想へと達することができるか?

 

 トラウマを負っていて、愛着が不安定だと、安心安全がないために、「愛」を強く求める傾向があります。

 

 家族に「愛」を求めます。
でも、家族からは「愛」は得られません。

 

 なぜなら、前回描きましたように、愛とは、神にしか提供できなものだからです。人間には愛は提供できない。求めれば求めるほど、孤独や嫉妬、絶望を感じるようになる。

 

 愛が得られないことで、怒りがたまります。
その結果、怒りが脳に帯電して、ショートしやすくなり、解離を起こしたりするようになります。

あるいは愛の代わりに「幻想」を求めるようになります。

本来の自分らしくは生きられなくなります。

その結果、また、自分を責めて、解離を起こして、を繰り返すようになります。

 

 解決したいと考えて、医師やカウンセラーに「愛」を求めます。でも、治療者からも愛は得られません。

 なぜなら、繰り返しになりますが、「愛」は神のものだから。

 人間からは得られない。サポートするはずに医師やカウンセラーからも得られない。最初は得られる気になるのですが、結局は得られない。

 その結果、「最低な奴ら!!役に立たない!なんで私に無条件の愛をくれないんだ!」といって、治療者に怒りをぶつけるようになります。
(「愛」が得られるというぬか喜びと失望(スプリッティング)、この状態をさして、境界性パーソナリティ障害と呼ばれます。)

 世界最高の医師やカウンセラーからも、「愛」は得られない。

 スピリチュアルのグルからも「幻想(ファンタジー)」は得られるけど、「愛」は得られない。

 

「愛」を求めてさまようことになります。

 愛を求める一方で、あまりの生きづらさから誰ともかかわりを持たず、自分は自分として生きたい、という願望も持ちます。これもかなえることができない。

 しかし、愛は求めれば求めるほど、孤独、絶望がやってくる。それは、神のみが可能なもので、人間にはスペックオーバーだから。
 人類愛というように自分と同じ“人類”であることを前提として期待しますが、相手は自分と同じように考え、感じ、行動してくれません。すると、やがて、相手を「人間ではないもの」として排除しようとしたり、人間以下のものとして支配しようとすることになります。結局、孤独に陥ってしまいます。

 

 こうした状況を越える方法として、何か人間を越える全体とつながろうとするアイデアが出てきます。それがスピリチュアルなどが唱える「全体性」の概念です。

 

 残念ながらこれも、実現することはかないません。それらも結局、人間がこしらえた、作り物の概念でしかないものだからです。人間が作り上げたものなので、多様性をそぎ落として単純化したものを至上の概念としているだけ。

 

 「愛」が別の概念にすり替わっただけです。スペックオーバーのものを戴いてしまうと、結局孤独や排除、支配、そしてそれを癒しごまかすための「幻想(ファンタジー)」という循環に陥って問題は解決しないのです。

 「全体性」は、個で生きることを求めて行き詰まった先に登場してくる、全体主義と似た精神構造からくる願望でしかなく、結局、待っているのはニセ神様で、そこで支配されることになります。幻想を提供されて、解決からは遠ざかってしまいます。結局、幻想が覚めたら孤独であることに気づくことになります。
(参考)→「ユートピアの構想者は、そのユートピアにおける独裁者となる

 

 

 実は、この人間の本質にかかわる問題では、カウンセリングの始祖ロジャーズも手痛い“敗北”を喫しています。

 来談者中心療法で注目を浴びていた気鋭のロジャーズが、哲学者マルティン・ブーバーと対談したときのことです。
ロジャーズは、個としての人間には無限の成長可能性があると熱弁しますが、ブーバーには全く響きません。

 それどころか、ブーバーは「人間が個として発展していくことは、ますます人間らしさを失っていく」とします。
ブーバーは、「私は個人(indibidual)ではなく、人間(persons)の味方だ」といいます。
ブーバーにとって人間とは、個ではなく、世界とともにある存在、出会いや関係によって存在するものだと考えていたためです。

 

 前回の記事でもメカニズムを書きましたように、近代の仕組みの根底にはキリスト教がありますが、キリストが理想としたことは神との直接のつながりを通じて個として完成することです。しかし、それはあまりにも理想が高すぎて、凡人には届きません。すると、私たち人間は「愛」を求め、個として完成しようとすればするほど、人とつながることができず、孤独へと陥ってしまう。これはD・H・ロレンスなどが提起した問題ですが、同様の洞察をブーバーも感じていたと考えられます。結局、人間は関係の中にあるものだと。

 個人主義が成熟したように見える欧米でも純粋に個人で生きれているわけではないようです。
(参考)→「なぜ人は人をハラスメント(虐待)してしまうのか?「愛」のパラドックス

 

 

 

 社会的ひきこもりで知られる心理学者の斎藤環氏も、ロジャーズの理想はまさに、全宇宙と自己との調和を目指すニューエイジ的なビジョンそのものとし、「真空の中でも生きられる「個人」という存在の価値を至上のものとして、その個人の空間を侵害する外敵を徹底して排除しようとする。言い換えるなら、個人の無限の可能性は、世界とのかかわりなくしても成立するという信仰」であるとしています。 さらに、「「ひきこもり擁護派」の人たちがあれほど頑迷なのかがわかってきた。」「彼らは自覚なきロジャリアンなのだ。」と人間を理想的に捉えて柔軟性を欠く援助者を批判しています。

 

 自身がロジャーズ派であると自覚がなくても、現代のカウンセリングや自己啓発などの基礎はロジャーズの思想が土台にあります。そのロジャーズ自体、存命中に寄せられた様々な疑問(なぜ、受容するだけでクライアントは成長できるといえるのか?など)に対して結局、有効な説明、証拠を提供できないまま亡くなっていきました。日本ではあまり自覚されていませんが、カウンセリングはその基礎自体が危うい前提の上に展開されている部分があって、そのことも理解したうえで用いる必要があるのです。

 自己啓発とか、ポップ心理学、スピリチュアルなどが唱える、煩わしい人間関係をすべて断って、「個」として本当の自分を見つけて成長し、無限の可能性が開花する、といった理想はどうやら実現が難しいようです。それどころか、孤独に陥ったり、かえって支配され生きづらさが増す反動があるということです。

 半世紀近く前から、識者からはすでに指摘されて、そして、ある程度決着がついていたことですが、一般の私たちのところにはなかなか届いていない知識です。届かないまま、右往左往させられて、ということが起きてきました。

 

 実は、愛、全体性といった、壮大な概念や理想などなくても実は私たちは人とつながり自分らしく生きていくことができるのです。

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

ブリーフセラピー・カウンセリング・センター公式ホームページ

お悩みの原因や解決方法について

なぜ人は人をハラスメント(虐待)してしまうのか?「愛」のパラドックス

虐待とまではいかなくても、なぜ、親が子に、理不尽なことをするのでしょうか?

 

最近分かってきている仮説としては
どうやら、動物でも、育児放棄や子殺しといったことが見られるように、人間も含めて動物には、養育のために親子密着するベクトルと、自立やさらなる繁殖のために離れるベクトルとを両方持っているようです。なので、子どもを遠ざけたくなるような気持ちも自然とわいてしまう。

通常は、そのベクトルとの葛藤を、親という公的役割が統合して、子育て~自立までが成立していると考えられます。

 

さらに、人間に特徴的なこととして、複雑に発達した脳はショートしやすく、すぐに解離を起こしまうことがあります。感情が発散できないことで側頭葉が充血してイライラしたりもする。自分がイライラしている原因を目の前の人に帰属して”因縁もつける”。
(自身が不安定な養育環境に置かれてきた場合はなおさらのことで、発達障害などは生まれる前の環境が不安定で、そのためこうした現象をより強く起こしやすくなります。)
自分が神化したような錯覚を起こして、他者を罰したり、排除したりすることを当然と思うようになる。閉鎖的な空間ではそれが起こりやすくなります。

(参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 

他の犯罪と同様に、残念ながら、虐待自体はなくならない。人間の特性を理解したうえで、悲惨なことが怒らない環境を作る、ということが対策となるようです。

 

 

もう一つ、とくに現代人にとって厄介なのは、「愛」という概念の存在です。
現代の私たちが「愛」としているものの根拠はキリスト教にあるとされます。日本人にとっては、「愛」は外来の思想なのです。

昔の日本人には、「愛」は今のような意味ではなく仏教用語で執着を指すような言葉だったようです。戦国時代にキリスト教が入ってきたときには、「御大切」といった訳が当てられたそうです。人が人に施すものは、日本だと「慈悲」「情」とかそういう言葉が相当するものだと考えられます。

 

キリスト教の愛というのは、公式にはアガペー(神からの愛)ということなのですが、神の愛というくらいですから、人間にとってはかなりハードルが高い。スペックが違いすぎる。

 

人間が実行しようとするのは、素人がプロ野球選手のユニフォームを着てその気になるといったようなもので、能力は伴わず、幻想の中でその気になって酔う、といった状態に陥ってしまいます。

神の愛だから人間には無理だ、とわきまえればなおよいのですが、人間なら愛があるべきだ、と考えられるようになったため、愛のあるふりをして、さらにそれを建前に相手を裁いたり、支配したり、ということが横行するようになりました。

親も子供に嫉妬したり、兄弟間でえこひいきしたり、感情のままに理不尽にふるまうことは当たり前にあります。
それらを「愛」で糊塗するため、親本人も自身の行為の理不尽さや横暴さに気がつきません。

さらに、それを受け入れない相手を「(愛を受け入れないから)人間ではない」として責め立てるようになります。
これが、ストーカーもそうですが、現代のいじめや虐待、ハラスメントの背景にある心性と考えられます。

実際、宗教戦争や人種差別など、自分の考えを受け入れない相手を「人間ではないもの」として排除していった歴史とも重なります。人種差別などは虐待の究極のものですね。

 

なんといっても、ヤハウェとは「熱情の神」「嫉妬の神」(英訳では、Jealous God)という意味ですから、自分のいうことを聞かない相手にはとても苛烈です。
もともと神は嫉妬の塊であったのですが、キリストの唱えた「隣人愛(人類愛)」のおかげで、民族宗教から普遍宗教へと成長することができました。
ただ、「愛(人類愛)」でくるまれていても土台は嫉妬、不完全な人間が扱う場合、地金が現れて格段に残酷な性質を帯びてしまいます。その愛が通じなければ、「人間じゃない」ということになってしまうのですから。

 

親子の例に戻ると、理不尽さ(ハラスメント)を受けた子にとっても、「愛」という概念の影響を振り払うことは難しく、自身も「本当は親は自分を愛してくれているはず」という幻想に入ってダメージを癒さざるを得なくなります。
そして、自身も「愛」を盾に解離して、人を裁く側に回ってしまうことにもなります(ハラスメントは連鎖する)。

 

 

「愛」という概念がなければ、もっとシンプルです。

子どもに対して不適切な対応の親がいれば、「親としてなっていない(役割を果たしていない)」と捉えればよいですし、子どもにとっても「お父さんお母さんは、自分を大切にしてくれない」という認識で済むわけです。

自然と、親を「機能」としてとらえ、変な幻想は入りにくい。

 

親子の関係以外の問題でも、あてはまります。

私たちは、人とのつながりを求めます。
そこに、そもそも人間にはスペック過多の「愛」を持ち出すと、他者と自分との違いに絶望して、孤独に陥ってしまいます。合わない人は徹底排除、そして自分も支配、過干渉される恐れがぬぐえません。
(愛を持ち出せば持ち出すほど人同士はつながれず孤独になるパラドックスは、イギリスの作家D.H.ロレンスなどが指摘しています)

反対に、「愛」という概念を持たなければ、そもそも異なる人間をありのままにとらえやすくなるし、解離して幻想に入りづらくなります。

親子だって、情の水準が下がることもあるし、愛想が尽きることもある、それらは健全なことです。
血のつながっていても気が合わず、理解できないことは多い。そういうもの。

ただ、公的人格として親の役目は果たす。

「愛」とは言わず、情けや慈悲でお付き合いをしていれば、親子はもちろん、人同士はつながることができ、人間らしくいられそうです。

私たちにとっては疑うこともない言葉ですが、「愛」とは、実は外来の概念で、もたらす反動も大きいことを知ることもとても重要です。