世の中は”二階建て”になっている。

 

 私たちが、世の中で耳にする道徳律として、
「良いことをすれば返ってくる」

「誠実でなければならない」

「自分よりも相手を優先しなければならない」

などがあります。

 

 こうしたことは実現できるように努めることが人として良いと教えられます。
しかし、なかなかそうはいかずに、要領の良い人が結果として得をしたりすることがあります。

 

 道徳律をなぞるように頑張るのですが、うまくいきません。相手に出し抜かれたり、自分だけ損をしたり、誤解されて悔しい思いをしたりします。周りから見れば馬鹿正直で、わきが甘い、と思われることばかりしてしまいます。

 

 なぜでしょうか?

 これはトラウマを負った人は裏ルールが分からない、ことに起因します。

 

 

 実は、世の中の二階建てになっているのです。

二階建てとは、一階部分と二階部分に分かれているということです。

 世の中の一階部分は、負の感情や力関係、ノイズなどの世界です。

 人間は、嫉妬や不安、見栄、劣等感や自己優越感、所有欲、権力欲といったさまざまな感情を持つ生き物です。頭には邪念が浮かびノイズが飛び交っています。

 

 こうした中で、ノイズを中和し、他者と適切な距離を保ち、時に不適切な関係は選別して、自分を守りながら、コミュニケーションを確立します。国でいえばさながら国境、警備隊、の役割の世界です。

そして、安全を確保したうえで、二階の部分を確立することができます。

 

 

 二階の部分とは、信頼、協調、正義、正直さといったことです。ここでは相手と信頼関係を結びことが大切になります。国でも信義に基づいて交易をしたり、交流を図るような部分です。


 トラウマを負っていない安定型の人は、こうしたことを当たり前のこととして、成長の過程で身に着けていきます。

 しかし、野暮なこととして言葉には出しません。

 
 トラウマを負った人たちは、世の中を一元的にとらえてしまっています。一元的とは、建物でいえば一階のみの平屋建てとして真に受けて理解しているということです。

 

 トラウマを負った人は、裏ルールを学ぶ機会を回避せざるを得なかったために、身に着けていないことが多いのです。さらに、理不尽な目にあってきたために強い正義感、理想主義を持っていることも多く、一階部分のようなことは毛嫌いしてしまいます。

 

 そのため、一階部分を確立しないまま、二階部分のみで社会と関係を取り持とうとして、衝突したり、やり込められたり、相手から支配されたりしてしまうのです。

 

 

 トラウマを負った人が、裏ルールを習得する頃には、世の中がとても嫌なもの、面倒くさいものと感じられるようになってしまいます。裏ルールが分からないことは、他者とうまくつながれず孤独を感じる原因にもなるのです。

 

 

 

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“裏ルール”が分からない

 

 世の中には、表立っては表明されなかったり、あるいは当事者たちも言語化できていない“裏ルール”があります。
トラウマによるダメージを受けると、世の中の裏のルールが理解できなくなる、ということが生じます。

 
 トラウマを負った人が見る世界とは、表立っての部分だけです。裏の部分が見えずに、結果として相手からやり込められたり、損をしたりしてしまいます。

 


 トラウマを負っていると、自分がどこやらおかしい、根源的に間違っている、という恐れを常に持っています。また、汚い大人(親など)を見てきていますから、そのため、清く生きたい、という願望を強く持っています。

 


 成長(成熟、発達)するためには人生の経験が必要になります。例えば学校では、友達同士のもめごとや、先輩との付き合い方、といったことを身をもって経験しながら、人との距離を学んでいきます。

 

テストの前に平気で「勉強してないよ」とウソをつく同級生を見て、

グループではきれいごとを言いながら、陰口を言う同級生を見て、

部活の怖い先輩への太鼓持ちを経て、

人間の実態を知ります。

 


 しかし、人間関係のどろどろとした“表の成熟ルート”は、恐怖を感じて通ることができません。人間の感情が大嫌いです。そのために、“回避するルート”を通ろうとしてしまいます(通らざるを得ません)。

 

 同級生たちよりも、ピュアで、でも、大人びた(マセた)感覚があります。一時、同級生たちよりも世の中が分かったような感じがあります。

 しかし、高校、大学、社会人と進むにつれて反転してきます。人とうまく付き合えなくなるのです。

 

 なぜなら、“裏ルール”が分からないからです。実際の世界とはかなり違うのです。

 

 戻って裏ルールを体得しようとしても、今度は、過緊張、過剰適応といった、身体的な失調が邪魔をします。人と接しても、自然体でいることができずに、人の輪の中に入っていくことができなくなるのです。


 すると、さらに、人との関係を回避して、実際の世界とは遠ざかって行ってしまい、孤独を感じるようになるのです。

 

 

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赤ちゃんもノイズをキャンセルしているのかな?

 

 赤ちゃんをお世話したことのあるかたは経験があるかもしれませんが、赤ちゃんは、お腹がすいた、眠い、オムツを変えてほしい、など要望を伝えるためかよく泣きます。

 

 普通は、その要望が満たされると泣き止みます。

 

 

 ただ、しばしば、大人ではよくわからない理由で泣くことがあります。

なにをしてもだめ、多くの場合、母乳を与えて何とかしのぐ、ということも多いのではないでしょうか?

 
 それ以外に、ビニール袋をクシャクシャして音を出したり、鈴を鳴らすと泣き病むことがあります。

 お腹の中で聞こえる音に似ているから落ち着くのではないか?と言われています。

 


 ただ、ふと思うのは、赤ちゃんもノイズを受けていて、それで泣いていることもあるのかも?ということです。

 

 音(ノイズ)を聞かせると、そのノイズでノイズをキャンセルさせているのかもしれない、と感じることがあります。

 


 著者の親せきの子どもも、1、2歳のころに、ちょっとボールを落としただけで、「ああ」と自分を激しく責めるそぶりを見せていた時期がありました。

 そんな幼いころに、自己否定や、自分を責めるような高度な心理的な在り方を外から学ぶ、ということはできないでしょうからは、とても違和感がありました。

 その子はとても繊細な子だったので、もしかしたら、外からのノイズ(支配とか)の影響を受けていたのかもしれません。

 


 私たち大人も、ふとよぎる思いにどうしようもなくなる時があります。ストレスで苦しい時ほど、通勤中はウォークマンなどで、音楽をずっと聴き続けたい衝動に駆られるときがあります。

 

 

 通常は、たんに音楽で気分を盛り上げて、ということだと解釈していますが、もしかしたらそれもノイズをキャンセルしようとしているのかもしれません。

 

 

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「接する」のではなく「信じている」

 

 トラウマを負った人の特徴として、自分や他人、世界に対して、直接ありのままに「接する」のではなく、「信じている」ことがあります。

 
 理不尽な経験をしてきていて、世の中や人間というものは、安心安全ではない、と感じています。

 

 そのため、直接「接して」はあまりにも危ない、ためにありのままの他者、世界に、ではなく、いったん抽象化(ファンタジー)したものを「信じる」ように接しています。

 

 

 そのため、他者や世界について、見たくないものは回避しようとします。信じるかどうか?なので、抽象化したイメージにそぐわないととても腹が立ったり、こき下ろしたりするようになります。

 

 ありのままの他者や世界は、良いものも悪いものもほどほどに同居しているものですが、そうした真ん中がありません(二文法的認知)。

 

 例えば親に対しても、ありのままに見ればよいわけですが、抽象化したイメージとしての親(親´)と接し続けています。

 ですから、実態としては愛情が持てないご両親だったり、過去には理不尽なことを重ねてきていても、それがわかっていながら、イメージとしての親(本当は愛してくれるはず)をずっと追い続けて、イメージ通りに動いてくれない親に対して、腹が立って、小突いてみたり、口論になったりするのです。

 

 
 自分自身に対しても同様です。自信自身に対する時も、ありのままの自分と接するのではなくて、抽象化した自分(自分´)を信じています。

 スティグマ感を背負い、罪悪感があり、自分に自信がありませんが、それらは、周囲から背負わされた抽象化されたイメージです。

 

 ありのままの自分はとても汚れていると思いこまされているために、抽象化したイメージ(少しマシな自分)を信じるようにしているのです。

 

 そのイメージを信じてしまうので、いつまでも、自分に自信が持てないままになってしまいます。

 

 

 「自他の区別」がつかない原因の一つは、抽象化したイメージを通じて世界や自分と接しているからです。

 イメージだから、区別や距離が取れないのです。現実の自分や他者をありのままに見れれば、区別は距離は明らかにとることができるのです。

 

 

 

 このことに気づくだけでも、結構変化が生じます。
 ありのままの他者を見る、ありのままの世界を見る、ありのままの自分を見る、ということができると、生きづらさは、ぐっと良くなってきます。