因縁は、あるのではなく、つけられるもの

 私たち人間は、自動的に原因の帰属を考えようとする性質があります。災害などの不幸が起きたときも、「偶然だよ」とあっけらかんととらえる人は少ない。何か理由を求めたくなる。
 自分が悪かったのではないか、と考えてしまいす。

 

 おそらく、人に原因を求める考えというのは、一つには万能感のなせる業です。愛着不安があるほど、万能感も強くなり、理由づけもより行ってしまう傾向があると考えられます。もう一つは、安心安全感がないため。安心安全がないために、理由をつけて秩序をこしらえたくなる。 もう一つは、算数障害。一個体の影響力を過大に見積もりすぎ。最後は未熟さのため。人間というものが行う理不尽さの仕組みを知らないことが背景にあります。

 人間というのは、意識と無意識の世界を行ったり来たりしている生き物で、常に催眠すれすれの状態にあります。脳も未成熟で、すぐにショート(発作)したり混乱を起こしたりします。そのため、人格が変わっちゃっておかしな言動に走ったりすることは日常的に起こります。

 皆さんも、人から急に失礼なことを言われたり、訳が分からないような言動をとらえたりした経験がおありだと思います。でも、訳がわからないから、何かの思い違いだと思って、スルーしてしまっている。実は人間の本質にかかわっている。

 

 さらに、いじめの研究でもわかっているように、人間は、閉鎖的な共同体の中では、おかしなローカルルールがはびこらせてしまう。ローカルルールを常識だとすぐに思い込んでしまって、多様性を欠き、たまたま目に留まった人物を支配しようとしたり、いじめの対象としてしまう。学校や会社、家庭がそうです。

 ※トラウマを負っていたり、発達障害などで体質的にストレスを処理しにくく、脳が帯電しやすいため、相手の解離や発作を引き起こしやすくなると考えられます。

 

 
 家庭でも、子どものイライラすることがありますが、最近では、ホルモンなどの失調、その背景には栄養不足や代謝の異常なども原因として指摘されています。

 でも、人間は理由なく行動することを認めたくないため、相手に原因を帰属します(「あの子は、ぐずぐずして、言うことをきかないから」と) 

 

 ホルモンや脳の発作が原因だとしたら、相手のせいだとすることはまったく意味をなさなくなります。
 チンピラが、「ムシャクシャしていて、気に入らないつらのやつを殴った」という言い訳と何の差もありません。
 人間は、無意識が先にあり、理由は後付けてこしらえる生き物なのです。

 ケンカを吹っ掛けたりすることを、「因縁をつける」といいますけど、人間関係の1階部分を言い当てた、とても興味深い言葉です。因縁とは”原因”、”理由”といった意味です。「因縁がある」といわずに、しばしば「因縁をつける」という。つまり、因縁とは客観的にそこにあるものではなく、相手から無理やりこじつけられるものだということです。これも裏ルールの一つといえそうです。

(参考)→「世の中は”二階建て”になっている。

 ハラスメントとは、自分の中で起きた解離や発作、ホルモンの異常でイライラしていたり、支配欲が沸き起こっているのに、それを偶然目の前にいる相手に原因を帰属する(因縁をつけるて、呪縛する)行為といえます。

 虐待、いじめなどはまさにそう。 

 過去に親からひどい目にあったのも、因縁をつけられていた、ということです。
 日大の選手も、たまたま変な指導者に巡り合って、因縁をつけられた。
(だから、お前が悪いんだ、というメッセージが隠れていて、真面目に受け取って考えてしまうと呪縛で苦しくなるのです)

 真に受けることの背景には、過剰な客観性も手伝っています。
 (参考)→「「過剰な客観性」

 

 因縁をつけられたら、「そんな因縁かけられる筋合いはない」として、理由など考えず、真に受けず、漫才のツッコミのように言い返したり(「なんか、嫌な感じだな」「やめてくださいよ~」)、因縁を相手に返したり、やり過ごしたりすることが必要です。

 ※因縁を返す方法の一つが、心にお願いして返す、という方法もあります。
 (参考)→「「心に聞く」を利用して悩みを解消し、本来の自分に戻る方法

 

 トラウマを負うと、外から吹っ掛けられた因縁が自分の存在そのものから発しているように錯覚してしまって、「自分はどこか根本的におかしい、間違っているに違いない」と思ってしまうのです。

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

理由を考えると、呪縛にかかる~ハラスメントは偶然に

 

 カウンセリングをしていて、質問としてしばしば聞かれることの一つに
「自分の親は、なぜあんなひどいことを(自分に)してきたんでしょうか?」

 ということがあります。

 ひどいことをされるというのは、自分にも理由があるんじゃないか? という趣旨のようです。

 結論から言えば、

 「偶然(たまたま)です。≒あなたに原因はありません」 

 ということです。

 最近、日大のアメフト部の事件が話題になっています。

 強権的なハラスメント体質が事件の背景にあるのでは?と指摘されています。
しごきの対象となることを「ハマる」といって、どうも、その選手の能力や行いには関係なく(たまたま)ターゲットにされていた、そうです。

  ハラスメントにおける対象選択の偶然性をよく示しているように思います。

 
 いじめやハラスメントの研究などによると、いじめの対象になるのは、偶然でしかないとされます。

(参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 

 

 私たちは、いじめにあうのは、いじめられる側にも何かいじめられやすさがあり、問題があると思っていますが、それ自体、どうやらかなり間違った思い込みであるようです。

 例えば、芸能人でも、ロンドンブーツ1号2号の淳さん、AKBの指原さんなどは、いじめにあったことがあるそうですが、現在の活躍からは想像がつきません。

 ハラスメント(いじめや虐待など)は、本人の問題に関係なく、偶然に、たまたまやってくるもの、なのです。

 
 しかし、偶然であることに気が付かず、「理由」を考えると、ハラスメントが仕掛ける精神的な呪縛から抜け出せなくなってしまいます。頭がグルグル回って、最後はやっぱり自分が悪いのでは?何か自分でも気づかない人から好かれない弱点があるのでは?という不安がよぎります。ハラスメントは、呪縛を与えるために理由を考えさせたいのですから、理由など考えてはいけない。

 

 一番よくないのは、他人に理由を聞くことです。他人は一生懸命原因を考えて、親切にも伝えてくれます。「あなたの~~なところがよくないのかも」「もっと愛想よくしたらいいのかも」など。
 
すると、呪縛はさらに強くなります。

 
 物事には自分を中心として因果があると考えるのは、万能感のなせる業で、どう考えてもおかしい。実際は、もっと大きな因果の流れがあって、それにたまたま遭遇するかどうか、でしかありません。

 社会科学の研究でも、社会問題が、一人の人物に原因が還元されることはありません。経済の状況があり、社会のムードがあり、その中に巻き込まれるように人々は動いているものです。
 さらに、社会はあまりにも多因子であるため、単一の原因に還元されるケースは皆無に近く、そのため「原因などなく、解釈だけがあるだけだ」と言われるほどです。

 

  ※明治維新の前に、お侍が欧州に視察に行くのですが、当初の体験記などを見ても、異国が優れているから学ぼうという意識はあっても優劣という意識は見られませんでした。ただ、ある時から、文明国と未開国という劣等感になっていきます。これも、欧米側の差別意識などに触れ、理由を考えてしまい、呪縛にかかったためかもしれません。

 なぜ、欧州が先に近代化を果たしたかについては様々な仮説がありますが、今もって確定したものはありません。極論すれば、どうやらこれも偶然の代物。近代化したほうが優れているという絶対的基準もないのですが、理由を考えることはろくでもありません。最後は劣等感へと落ち込んでしまいます。

 

 私たちが直面する理不尽な出来事も、おかしなムードが先にあり、相手の内的な都合でイライラが始まり、それを目の前のたまたまいた自分が因縁をつけられているだけ。

 
 その偶然が、家族の場合は、因縁が、さも密接に関連があるかのような気になり、妥当性ありとして真に受けてしまいます。でも、どこまで行ってもたまたま(偶然)です。

 冒頭の質問であれば、たまたまおかしな親に出会っただけ、自分の素質とは全く関係がないのです。

 シマウマは、なぜ自分がライオンに襲われたかは、考えない。
 愛着が安定している人も、自分に関連付けることは少ない。

 一方、トラウマを負っている人は、世の中をありのままにとらえる機能が失調しているためか、何でも自分に帰属させてしまう傾向が強いのかもしれません。

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

 

「ホーム(自陣)」がなく、いつも「アウェイ(敵地)」

 筆者が学生のころ、ローマでサッカーを観戦しに行った時です。スタジアムはすごい熱気で、あちらこちらで発煙筒がモクモクとたかれていました。チャント(応援の掛け声)が唸るように飛び交い、選手が激しくプレーしています。

 

 しばらく観ていると筆者の後ろから発煙筒が飛んできて足元に転がってきました。そして、足元に置いてあったペットボトルが溶けてしまいました。ほかにも、特殊ガラスの観客エリアを区切る壁を乗り越えるファンがいたり、すごい雰囲気の中で試合するものだな、と思った経験があります。女性や子どもを連れては、ちょっと心配ですね。

 試合している選手たちも、もしかしたら、グランドになだれ込んできて自分がどうなるか?って不安に思うかもしれません。

 

 そこまでのことがなくても、相手のファンからヤジが聞こえたり、精神的にタフではないとなかなか耐えられないな、と思います。
 日本のプロ野球でも甲子園で試合するのはビジターチームは嫌でしょうね。

 

 スポーツでは、ホームゲームは有利で、アウェイ(敵地)は不利だとよく言われます。
 そのため、例えば、海外サッカーでは、アウェイは引き分けで良しとするようなところがあります。国際試合では特にそうです。

 ホーム-アウェイの勝率の違いですが海外では顕著で、日本のJリーグなどは差は緩やかなようです。
(Jリーグ開幕当初は、アウェイのほうが強いチームもあったそうです。)

 その違いは何か?といえば、「安心・安全」感の差と考えられます。
 (家族連れでも安心して見れるというのは、Jリーグの特徴だそうです。)

 

 スポーツ選手も、「安心・安全」な中で試合ができるとパフォーマンスは上がりますが、ないとどうしても力を発揮することはできません。「安心・安全」感というのは、食事、睡眠など生活面からも影響します。そのため、オリンピックでも自国開催の選手はやはり有利になります。

 

 ホーム-アウェイのパフォーマンス差の現象は、生きづらさ、トラウマといった悩みを抱える人にも当てはまります。悩みの中にある人は、「ホーム(自陣)」がないか、あっても少ないという特徴があります。

 

 世の中が常に「アウェイ(敵地)」であるという感覚。

 

 自分の家でさえ「ホーム(安心・安全)」ではない。口うるさい家族がいて、心ないことを言われないか?とびくびくしている。

 

 職場などは「アウェイ(敵地)」そのもので、おどおどしてしまう。

 能力を発揮するためには、「ホーム」であることがとても大切です。

 たとえば、自分の地元、自分が知ったお店だと、余裕をもって応対することはできますね。でも、知らない場所だと、途端に借りてきた猫みたいになります。

 トラウマを負った人は、力がないわけではありません。「ホーム」感覚がないだけです。
 「アウェイ」だから、全体を把握できず、判断にも自信がなく、行動も遅くなるのです。
 

 ただ、周囲の人は、頭の中で起きていることを理解してくれません。「あの人は能力がない」として否定的な評価をしてきます。直観的には自分はできる、と思うのですが、「ホーム」ではないため力が発揮できずにいつも負けたり、良くても“引き分け”で悔しい思いをしてしまいます。(「クソ!これがホームだったら、バカにしたやつら、コテンパンにしてやるのに!」って思います。)

 でも、どんなに頭を「ホーム」にしようと頑張っても、どうにもならず、スキル、経験が積みあがらないのです。

 

 前回、学力についても書きましたけども「ホーム」感覚が高い方は、余裕があり、判断や行動が的確に動くことができます。
 わからないことがあっても、世の中には秩序があって、適切に対処すれば、必ず解決策を導くことができる、という信頼感があります。自分が知った環境であれば、余裕をもって対応することができます。

(参考)→「世界に対する安心感、信頼感

 

 
 ただ、トラウマを負った人は、本来は「ホーム」であるはずの現実の世界が、負の暗示によって「アウェイ」に変えさせられてしまい、うまく付き合えなくなる結果、さらに「アウェイ」感は深まり、怖くてどうしようもなくなります。

 「ホーム」感覚を取り戻したくても、手掛かりがない。

 「ホーム」感覚が、現実の世界でうまく作れないと、どうなるか?
 スピリチュアルなど、ファンタジーの中に「ホーム」をこしらえて、そこを拠点に活動するようになってしまいます。
 (人によっては、希死念慮で、死によって「アウェイ」から去りたい、と思って不幸にも試みる方もいます。)

 ただ、ファンタジーはファンタジーに過ぎませんから、一時の避難所たりえても、根本的な解決にはなりません。

 

 悩みの中にある方は、片足は、負の暗示で「アウェイ」にさせられた現実に、もう一つの足は空想の中のファンタジーに、とにまたがって苦しみながら人生をサバイバルをしています。

 

 ホーム、アウェイというと、オセロを思い出します。安定型愛着の方は、四隅のいくつかがすでに自分の陣地なので、どこに行っても、比較的容易に「ホーム」にすることができます。余裕をもって仕事をしたり、人と接することができます。これがいわゆる「非認知能力」というものかもしれません。

 

 でもトラウマを負った人は、四隅に自分の陣地がありません。毎回、自分で「ホーム」にしなければならないので、ヘトヘトです。だから、一見、人見知りで、人が怖くて、人が億劫です(本当は対人恐怖でも人見知りではないんですけどね。ただ毎回のオセロがとても面倒なんです)。やっぱり、内心くやしさをいつも感じているし、自分の本来の力を直感しています。「クソ、ホームだったら、こんなことにはならないのに!」と。

 

 カウンセリング、セラピーというのは、ある意味、仮の「ホーム(自陣)」を提供するものです。その石は小さくちっぽけですが、うまくいけばじわじわと「ホーム(自陣)」を広げていくことを助けてくれます。

 
 

 

→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

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「ハウルの動く城」にみる、呪いの呪縛と自由のプロセス

 

宮崎駿監督の映画で「ハウルの動く城」という作品があります。

ソフィーという女性が、魔法使いハウルに出会い、その中で、魔女に呪いをかけられておばあさんになってしまうお話です。

 

ハウルという魔法使いは、魔法で自分の城(動く城)を作って動かしています。

 

ハウル自体の評判は芳しいものではなく、
人の心臓(心)を奪って食べるとか、国に仕える偉い魔法使い(母親?)からも危険視されています。

 

ハウル自体も呪いを背負って生きていて、
そこから脱しようともがいて、戦っています。

 

大きく見える城もハリボデで実は中身はぐちゃぐちゃだったり、
本当は魔法が怖くて、まじないで何とか防いでいたり、
また、ハウルはいくつもの名前を持っていたり、
(「ハウルって一体いくつ名前があるの?」と尋ねられるシーンでハウルは、「自由に生きるのにいるなだけ」と答えます。)
とっても子供っぽかったり、

トラウマを負った人の姿をよく表している、と思います。

→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

トラウマを負っていると、
ハリボテのように虚勢を張っていても内面はぐちゃぐちゃ、
自分も他人を傷つけるような言動をしてしまったり(心を奪ったり)、
いくつもの名前を持っているのは、自分というものがよくわからない状態
実年齢に比べて子供っぽく、周りの人たちは大人だと見ています。

 

魔法使い、というのはセラピストの姿とも重なります。
魔法で呪いを解けそうなものですが、実際はなかなか解けませんし、魔法使い自体も呪いに翻弄されていたりします。
(最後は魔法ではなく、愛の力で呪いは解けていくのですが・・)

 

ハラスメントの研究をされている大阪大学の深尾葉子准教授は『魂の脱植民地化とは何か?』という本の中で
「「魂の脱植民地化過程」の描画として本作品を観ると、透徹した一貫性、徹底した描写、完璧なまでのストーリー展開と人物配置で構成されている。」

「「城」は人間の内面世界をそのまま具像化したものであり」「物語全体は、心と魂の乖離を乗り越え、呪縛の快方に向かうプロセスとして展開する」

「ここには、さまざまな精神疾患、たとえば、自閉症や分裂症といった心の病を生きている人々の内面ばかりではなく、「正常」だとされている人々が日ごろ気づかないようにしている心の内奥や魂との断裂、魂との乖離しつつ外面的に構成されているいくつもの人格、そういったものが、見事に視覚化され、映像化されている」としています。

 

 

親子関係、発達、様々な心の悩み、そしてトラウマが解消されていくプロセスと重ねてみると、とても面白い。様々な示唆に富む作品です。

 

原作はこちら↓

 

 

 

→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

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