私たちが海外旅行に行った際にしばしば経験することですが、飲食店の人が日本のように愛想がありません。
笑顔がなく、ムスッとした表情で注文を訪ねてくる。飛行機の機内のフライトアテンダントでさえ、無表情だったり。
よほど高級店で高額なお金を払うのでもなければ、笑顔で気の利いたサービスは得られないことも多い。
そんなことを経験すると、「ああ、日本はいいな」と思うわけです。日本でも、小さな店でも、笑顔で愛想よくしてくれますので。
ただ、「関係」の基本を考えていくと、どうも外国のほうが普通なのかも?と思えてきます。
日本は世間の延長でできているためか、ご近所に愛想をするような感覚で、サービス業でも笑顔で接客してくれますが、それは当たり前ではありません。
本来の“当たり前”とは何かというと、実は「気づかい」とは信用を得たものにのみ与えられる特別サービスであり、無料で当たり前に提供しあうものではない、ということです。
私たちのコミュニケーションというのは階層状になっています。
(参考)→「世の中は”二階建て”になっている。」
世界は、混とんとしていますから、すべてを信用しては危ない。また、人間も動物ですから、支配欲、攻撃欲、嫉妬、様々な私的情動にまみれてもいます。
1階部分では、そのネガティブな感情も入り混じる世界で、私的情動といったノイズをキャンセルする場所です。関係する相手を選別するところです。
自分に合わない相手、関係するタイミングではない相手とは関係を持たずさよならします。
関係を持つにふさわしい相手であれば、1階のチェックが終わり2階に上がることができます。
2階部分とは、公的な環境が整えられた場でそこで初めて信頼のコミュニケーションを交わすことができます。
安心してやり取りができます。
通常のコミュニケーションとは、2階部分で行います。
さらに、その上、3階部分があります。実は、「気づかい」というのは、その3階部分で提供されるものです。
3階部分では、本当に気心が知れた者同士が相手の内面(私的領域)に立ち入ることが許され、互いに気づかいをしあう場所です。
気づかいは誰もが得られるものではありません。本当に信頼できるもの同士でなければ得られません。
図にすると、
1階部分 2階部分 3階部分
公私混沌 → 公的 → 私的 という 構造になっています。
3階部分で交わされる、本当に気心が知れた親友同士のような「関係」というのは、特別なものです。
それは、2階部分の公的な環境に支えられています。
関係が停滞(腐れ縁)すると、2階の公的な環境が失われて、3階部分の私的なやり取りが悪く作用し、「相手から失礼なことを言われた」「もたれられてしんどい」というようなことになってしまいます。
長く続く良い関係というのは、相手へのリスペクト(2階部分の公的環境)が土台となっていて、うまく更新、循環をしているものです。
関係作りがうまい人というのは、1階での選別がしっかりしていること、1階→2階→3階 へと駆け上がるのがスムーズであるということと、なにより、2階の公的な環境を維持することが上手であるということだと思います。
会員制の、心地の良いラウンジや、高級店を想像すればわかりやすいかと思います。
1階部分 会員証のチェック(入会)
↓
2階部分 安定した心地よいサービスの提供
↓
3階部分 VIPのみの特別サービス
といった感じでしょうか?
「人を信頼して、裏切られた!もう人と付き合いは嫌だ」「気づかいばかりでヘトヘト」となっているのは、いきなり3階部分からスタートしたり、会員制度(階層構造)がうまく機能していないお店のようなもの。
私たちが、大人になる、大人の付き合いができる、というのは、こうした1階-2階-3階 という階層(会員制)構造を築くことだといえます。
「そんなことしたら、高飛車になって、堅苦しくてツンツンしそう」というかもしれません。
そんなことはありません。ツンツンにはなりません。
なぜなら、1階部分では、社交辞令(儀礼)を大事にします。
それは具体的には、「挨拶」です。
昔、筆者が会社に入って、新人研修に来たベテラン社員が、挨拶の大切さを説いた際に印象に残っている話があります。
それは、
「ニュースで、犯人が捕まった際に、近所の人が『いつもちゃんと挨拶をしてくれていい人でしたけどねぇ・・』というでしょう?捕まるくらいだから本当にいい人かどうかはわからないわけだけども、犯罪を犯したとしても、挨拶しているだけで『いい人』といわれる。そのくらい挨拶には力があります。」
ということでした。
筆者もそうなのですが、人が苦手、挨拶が苦手だ、という人は、挨拶に、3階部分で行うような「気遣い」「相手の内面に立ち入る」といったことを盛り込んでいるからではないかと思います。だから疲れて嫌になってくる。
挨拶というのは、「気づかい」などは盛り込まず(心もこめず)、形式的に、でもたくさん、しっかり行う。
外交儀礼ですから、心を込めなくてもいい。形こそが大事。
子どものころ、大人を見て、外面ばかりで嫌だな、と思っていましたが、でも悔しいけれども、儀礼は大事。
トラウマを負った人の多くは、「心こそが大事」ととらえ、どちらかというと形を軽んじ、さらに、1階-2階-3階 という構造がなく、いきなり、3階部分の「気づかい」を1階部分に持ち込んで、人と接しようと思います。
(参考)→「「形よりも心が大事」という“理想”を持つ」
でも、人間世界はそのようにはできていないため、冷たくあしらわれて、心がへとへとになって、傷つくのです。
例えていうなら、外国の税関や大使館に、形式を踏まないまま、「真心」だけで「入国させてください」とおしかけるようなもの。
「誠に申し訳ございませんが、正式な手続きを踏んでからお越しください。」といわれてしまいます。
人間関係においてであれば、まずは挨拶からスタートして、信頼関係ができれば親しくやり取りをする。さらに、仲良くなったら、内面に立ち入る、ということです。これを実際は早いスピードで行っています。
どうして、トラウマを負った人は、この階層構造が転倒してしまうか?といえば、一つには、養育環境(家族)において階層構造が機能不全を起こしていた、ということです。それによって本来の構造がわからなくなってしまっている、ということ。
もうひとつ重要な点としては、社会においては、しばしばそれを「気づかいが足りない」という言い方で表現されるため、勘違いしてしまう、ということです。
実は、ここでいう「気づかい」とは、3階部分の「気づかい」ではなく、1階部分の「形式(挨拶、儀礼)」を求められているということ。
それを、「気づかいをしないといけない(心を込めないと)」と真に受けて、本当に親しい人だけの特別サービスであるはずの「気づかい(3階部分)」を1階部分に持ってきてしまうのです。
その結果どうなるかといえば、過剰適応でへとへとになってしまう。
「気づかいをしているのに、なぜか認めてもらえない」。
それどころか1階部分の形式を欠いているために「気をつかえない奴」と否定されてしまう。
訳が分からなくなってしまうのです。
本来、1階部分で大事なのは、心を込めず、軽い気持ちで形式的に挨拶。形式こそが大事。
先日の記事で紹介しました外国では、もしかしたら、そういう構造がしっかりできているのかもしれません。
(参考)→「社会性を削ぐほど、良い「関係」につながる~私たちが苦しめられている「社会性過多」」
皆、1階部分だ、と割り切って気軽に儀礼を交わしている。だから、人々が気楽に付き合えている。電車の中で隣り合った人が雑談をしたりする。
(日本は〝世間”や〝空気”の社会なので、3階部分がいきなり1階に来るような転倒を起こしやすい。階層構造の転倒の果てに、恐怖症を引き起こしていることが、「対人恐怖症」の本質といえるかもしれません。)
(参考)→「対人恐怖症、社交不安障害とは何か?真の原因、克服、症状とチェック」
1階-2階-3階という「関係」の構造が再度整理されて、慣れてくれば、1階部分から2階部分までは、かなり早いスピードで駆け上がることができます。(3階部分については、特別な人だけ、ですが。)
「関係」の再構築のためには、階層構造を理解することがとても大事です。理解するだけでも、人間関係はかなり楽になります。
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