日常の安定とは“つまらないもの”

 

 トラウマを負っていると、いつもどこか生きづらさを感じています。居場所がない感覚。どこかに落ち着ける場所を求めています。
 
 身体から説明すると、コルチゾール(ストレスホルモン)の値が高く、テンションのコントロールができないため、自然体という感覚、リラックスしている、という感覚が乏しいために、たとえ家にいたとしてもリラックスできないのです。

 

 また、つまらないと思っているのは、「本来の日常とはエキサイティングであるはずだ」と思わされてきたから。
実際、養育環境で接した日常が、夫婦喧嘩、親の不安定さなど異常ながら、確かにエキサイティングであったため。一方、厭世的で日常は無味乾燥で意味がないというものだという間違ったメッセージにも接してきたためです。

 テストで良い点を取った、ちょっとしたお手伝いをした、といった日常でのちょっとしたことに対して肯定的なコメントがない。家族で外出をしたら文句ばっかり、喧嘩ばかり。親戚同士でも悪口。親が自分の満たされなかった人生や世の中の不満を述べる。

 

 日常が無味乾燥でつまらないものと感じるのも当然です。
 そこを超えるのは、エキサイティングな体験にアクロバットに飛躍するしかない、と感じるのも無理はありません。

 

 エキサイティングなことはそうそうありませんから、苦しさを抑えリラックスするためには、何か刺激が必要になる。

 人によっては、アルコールとか、
 別のケースではSEXとか、
 ギャンブルとか、
 あってはいけませんが薬物とか、

 ある程度のところまでテンションを持って行かないと落ちない。

(参考)→「依存症(アルコール等)とは何か?真の原因と克服に必要な6つのこと

 

 

 そうした人からすると、日常はつまらない、と感じてしまう。ハワイなど海外リゾートにでもいるのでなければリラックスできない。お祭りでもないとつまらない。

 

 ただ、その感覚というのは実はとても不健康な感覚です。リゾートにでも行かなければリラックスできない、というのはストレス(トラウマ)を負った心身の失調で、健康な状態であればテンションのコントロールを日常の中で自然に体がしてくれるものです。

 

 海外などに行かないとリフレッシュできないビジネスマンも、企業戦士としてかなりトラウマを負っているかもしれません。

 トラウマのない人、安定型愛着の方は、どんなふうに感じるかというと、日常の何気ないものにじんわりと安心や幸福を感じることができます。

 

 日常の安定とはつまらないものです。ただ、そのつまらないものこそが良い。そこにこそ幸福がある。そうした感覚があります。

 

 

 「いや、それは凡人の感覚で、自分は特別な才能があるから、常に刺激を求めるのだ」と、もし思っているとしたら、その方はおそらく「パーソナリティ障害かもしれない」と診断されます。 
 自己イメージが肥大化している。世の中をニュートラルには把握できないわけですから。

 

 もちろん、それで実際に活躍、成功できる人はいて、経営者や芸能人にはそういう方は少なくありません。
トランプ大統領などは極端な例かもしれません。
 

 最初の出発が、不安定な刺激を求めるスタイルであったとしても、途中からシフトチェンジして、成熟、安定していく必要があります。

 トラウマがケアされていくと、徐々に日常の“つまらなさ”に幸福を感じられるようになります。物事をありのままにとらえられるようになってくる。その中にじんわりと本質をつかむことができるようにもなる。

 

 日常の安定とは平凡でつまらないものですが、つまらなさがなければ安定もないし、その安定の土台がなければ、高い建物は立たない。エキサイティングなものに目指す安定、幸せはない。

 

 トラウマから抜け出すためには、大きな理想ではなく、日常の本当の姿に目を向けてみる。日常とは何か?と考えてみる。

 

 エキサイティングなものを求めずに、つまらなさに浸ってみる、すると、これが日常というものが映画のセットのようなハリボテだと感じさせられていただけで、一生をかかっても捉えきれないくらいに奥深く、豊かなものだと感じられるようになってきます。

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

私たちは相手から見ると、思っている以上によく見えている。

 

 トラウマを負っている人は、「自分のことをダメだ」と思い、自信がなかったり、「根底ではダメなところがあってそれがバレないか」と不安に感じていたりします。

 

 では、実際はどうか?というと、思っている以上に相手からはよく見えていたり、能力がありそう、とみられていたり、怖いと思われていたりします。

 そのことに気が付かずにいて、へりくだったりするものだから、関係性が崩れてひどい目にあったりします。
 
 

 

 相手から見ている姿がわからないのはなぜか?といえば、一つには、養育環境の問題。本来、親は適切なコミュニケーションを通じて、子どもの等身大の自己像の形成を後押しします。

 根拠のない健全な自信、適切な感情表出、内臓感覚と外的なパフォーマンスとの一致(腑に落ちる、という感覚)、等身大の人間観(良い‐悪いだけではなくて、等身大で人間をとらえる)

 といったことがあることで、世界や自分との付き合い方が身に付きます。

 

 しかし、不適切な養育環境に置かれていた場合、そうしたことが十分に身に付きません。

 社会に出たら、客観的な姿を誰も教えてはくれません。
 支配欲、嫉妬、投影などいろいろな思惑が絡みますから、「自分がどう見えるか教えてくれ」とアドバイスを求めると、こちらをやり込めるようなことを言われたり、客観的な情報を得ることはとても難しい。

 

 そのために、自分が何者か、どう見えているか、わからずに、妙に自己卑下してしまうか、自己肥大してしまうか、といったことを起こしてしまいがちです。

 

 ただ、自己イメージが低いこととは別に、物理的には一個の人間として存在している。
 また、サバイバルしてきていることもあって、能力や感性は人よりも高かったりもする。
 そうした雰囲気をかもしれいるので、人からは案外良く見えていたり、怖く見えていたりする。

 まわりも、最初は、すこし怖いかんじで接するけども、妙にペコペコしてきたりへりくだったりするものだから、
 「なんだこいつは?!」「自分たちより下のくせに能力がありやがって」と嫉妬も混ざり、ハラスメントを仕掛けられたりするのです。

 

 本人にしてみたら、
 自分はダメだ → 本当はすごいかも → ハラスメントでマイナス評価
 
 と評価が何度も切り返されてしまうので、混乱を起こして、さらに自分が何者かがわからなくなってしまうのです。何が起こっているかは誰も教えてくれません。
 

 

 対策としては、自分は相手から見ると、思っている以上によく見えている。と知ること。

 そのうえで、前回の記事にも書きましたが、ペコペコしない、へりくだらない。さらに対等で接することを意識することです。そのほうがうまくいく。

(参考)→「

 

 身体的な過緊張でテンションをコントロールできない状態(ストレス応答系の失調)の場合は、トラウマケアなどで常態に戻す取り組みをしてもいいでしょうし、自分で行う場合は、定期的にウォーキングやヨガなどを行うとよいです。

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

「気をつかえ」という言葉を真に受けてはいけない

 トラウマを負ってしまうと、対人関係がうまくいかなくなります。

 根底には人に対する怖さもあり、だんだんおっくうになり、自分を守ることを優先するようになります。
 人に対して働きかけることがとても面倒なことと思えてきます。

 でも、内心はとても気を使ってへとへとです。

 

 ホルモンの働きから説明すると、常にストレスホルモン(コルチゾール)が高い状態で推移している。普通の人なら、10段階で2,3くらいの状態で、トラウマを負った人は、5,6で生活している。

 だから、人とはテンションが合わない。空回りしてしまう。

 感情表出と内的な緊張とが連動していないために、能面のような表情にもなる。

 

 さらに、ここぞというときは、テンションが上がりすぎて動けなくなる、あるいは逆に下がって対応できなくなるために、実際の状況では、「動きが悪い」「気をつかえない」という評価が下されてしまう。

 

 次からは、「気をつかおう」とさらに気を回すために、緊張の平均値も上がってしまって、さらに動きが悪くなる。
 また、周りから責められる、という悪循環にはまってしまいます。

 

 

 実は、社会生活においては、「気をつかう」場面というのはほとんどありません。必要なのは、形であり“儀礼”。

 社交の最上位のものは政治の外交ですが、大国、小国に限らず、気をつかってぺこぺこしたりはしない。
 一方、儀礼は尽くす。大事な相手になると、丁重にもてなす。でも、それは気をつかうこととは別種のことです。

 

 周囲の人が、「気をつかえ」という場合に求めているのは、“儀礼”であり、“行動”です。そのためには、気や心は込めず、淡々と行う。

 

 スポーツでも試合でできることは、練習で染みついた無意識的な動きだけです。意識したら(気をつかったら)失敗する。

 

 

 トラウマを負った人は、そこを混乱させられている。「気をつかえ」という言葉を真に受けて、本当に気をつかわされてしまう。

 

 気をつかう、というのは、3階部分の特別サービスです。日常では必要ありません。

 気は使わずに、あたかもホテルマンやお店の店員のように、淡々と、丁寧なあいさつをする。それだけでいい。そして、1階から2階へと昇っていく。

(参考)→「関係の基礎3~1階、2階、3階という階層構造を築く

 

 

 トラウマを負った人が経験してきた理不尽な環境では、気をつかうことを要求されてきました。それは、人を支配するおかしな環境だから。
 親やいじめの当事者は、被支配者に対しては気をつかわせてへとへとにして、力を奪う。

 親は、自分のイライラやゆがんだ感情のはけ口に、「お前みたいなダメな奴。もっと自分に気をつかえ」と振り回していたわけです。

 

 モラハラが横行する職場もそうで、どこかの協会の終身会長ではありませんが、周りは気をつかって忖度させられて、振り回される。

 「気をつかう」というのは、3階部分の特別サービスであり、それを日常の1、2階部分から要求されること自体がおかしいのです。

 

 私たちは日常の場面で気をつかうことはありません。儀礼、プロトコルだけ守っていればよい。それらも固定的ではなく、状況や時代に即して学習、更新される。

 

 トラウマを負ってきた人が経験してきた「気をつかう」ことを強要されることはエネルギーを奪うハラスメントです。それが内面化して、防衛のスタイルともなり、へとへとになるまで気をつかってしまう現在の姿になっているのです。私たちが、普段「気をつかっている」行為は、実はハラスメントの理不尽な命令を忠実に実行しているとも言えるのです。

 

 

 

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適応するとはルール無用になることではない~自分にとっての“正義”の感覚を身に着ける

 

 人間というのは、クラウド的な存在で、内的外的に環境からの影響で生きている生き物です。理性的な存在ではない。

 そのため、「公私の区別があいまいな環境」に陥ると、すぐに解離しておかしな言動をとり始めます。

 例えば、イライラ。

 イライラの原因はいろいろです。

 ただ、多くの場合、環境からやってくるものを自分のものと錯覚してしまう。他者が感じているイライラを自分のものと思ってしまう。

 あるいは、内面化している父母のイライラを自分のものとしていることもあります。

 

 安定型愛着の場合、イライラを公的な表現へと昇華したり、キャンセルしたりすることが比較的上手ですので、イライラに巻き込まれにくいのですが、不安定型(トラウマを追っている)の場合、簡単に巻き込まれてしまいます。

 

 人間の素朴な信念に、「原因があるから結果がある」ということがあるためにこのイライラは、自分のせいではなく、目の前の人間のせいだ、ということで「因縁(原因帰属)をつけたくなります」

 そこで、「あなたの仕事ぶりが気に入らないのよ」とイライラを相手のせいにする。

 解離した意識の上ではそれはいかにももっともなため、因縁をつけている本人も自分がおかしいとは気が付きません。

 

 人間の行う原因帰属の大半は間違っています。
 特に自分のイライラの原因は他者にはありません。

 ただ、もっともらしく、因縁をつけているだけ。

(参考)→因縁は、あるのではなく、つけられるもの

 

 

 先日の記事でも書きましたが、本来、健康な状態の人というのは、コミュニケーションはシンプル。

(参考)→「「関係」の基礎~健康的な状態のコミュニケーションはシンプルである

 

 

 明らかにだれが見てもイライラして当然という際にはイライラしますが、おかしな因縁をつけることは少ない。

 それは、うれしい時にはうれしい、悲しい時には悲しい、怒るときには怒る、というように公的な表現への消化が適切になされてきた(愛着)ために、おかしな状況で起こるイライラに巻き込まれにくいのです。

 

 おかしな状況で起こるイライラは、「ここはイライラするところではない。」

 因縁をつけられても、「私には関係ない」と直感することができます。

 
 
 一方、トラウマを負っている人は、すべての責任は自分にあるとしていますから、
 (個人主義的な心理主義も共犯関係にありますが)
 「相手のイライラもすべて自分のせい」
 「理不尽な因縁もすべて自分のせい」
 としてしまい、何が正しいか、正しくないかがわからなくなってしまっています。

 全方位のゲリラ戦を戦っているような感覚で、すべてに備えて、へとへとです。
 

 

 それは、例えば、子供のころに母親が自身のイライラを「あなたのせいよ!」と子供(本人)のせいにしてきたり
 など理不尽な環境で自他の区別、善悪の区分けが混乱させられてきたためでもあります。

 理不尽なことが渦巻く現実の環境に適応する、とは、ルール無用になることではありません。

 適応とは、何が健康なルールで、何がそうではないか、を見極められることで、あとは、そのルールを持って、「これはおかしい(と感じる)」「これは正しい(と感じる)」と自分で見極められることです。

 

 自分の中で、自分にとっての“正義”の感覚が身につくことも、自分らしく生きていくための条件といえます。

 

 そのためには、ルール無用で適応するのではなく、まずは健康な状態に人間のルールとは何かを明確にすること。
そして、そこに当てはまらないものはキャンセルすること(敬して遠ざける)。

 

 
 健康な状態の人間のルールというのは、先日の記事にも書きましたように、

 ・コミュニケーションはシンプルである、ということ、
 ・成熟した人間とは公的な存在であること(公的な環境を維持する大切さ)
 ・関係の階層構造(階層で構造化する)
 といったようなことです。

(参考)→「「関係」の基礎~健康的な状態のコミュニケーションはシンプルである

    →「「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

    →「関係の基礎3~1階、2階、3階という階層構造を築く

 

 こうした原則を破ってくるケースは、どこかおかしい。要注意して対応する。
 

 ナチスとかカルトとかもそうでしたが、巧妙に善悪の基準が分からなくしてしまいます。
 機能不全家族もまさにそうで、厳格なローカルルールで、公的な善悪の基準を壊してしまう。
 

 そこに育った人は、善悪の基準がないために、自分というものがなかったり、反対に妙に頑固になったり、何でもかんでも気を使って、適応してしまうために不適応を起こしてしまうのです。

 

 そうした状況では、いくらコミュニケーションの本を読んだり研修を受けてもダメで、まずは、親からの価値観や、理不尽な状況で受けたトラウマを捨てて、原則に還ること。

 そこから、スタートして、もう一度、自分にとっての正義の感覚を回復させていくことが必要になります。

 

 

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