健康な人間のコミュニケーションというのはシンプルなものです。うれしいときはうれしい、悲しいときは悲しい、怒るときは怒る。
(参考)→「「関係」の基礎~健康的な状態のコミュニケーションはシンプルである」
反対に、心身の状態が不健康な人は、うれしいときに怒ったり、悲しいときに喜んだり、怒っているときに何も言わなかったりします。そうした状態の親に育てられると、継続的なストレスとともに、対人関係の対応が混乱してきます。
過剰に人に合わせたり、裏読みしたり、心の機微を縫うようなファインプレーを必要としたりします。
うまく行けばいいですが、そうでなければ、「考え過ぎ」「裏を読みすぎ」て関係念慮、関係妄想となってしまいます。
トラウマを負った人の特徴として、「理不尽な指導者に憧れる」という心情があるように思います。
親が理不尽な対応をしてきたものですから、「理不尽だけど、本当は愛してくれているんだ」「本当は優しいんだ」というのが基底にあります。
その上で、「表面的には理不尽なんだけど、本当は気にかけてくれていて、さらに自分の才能を見出し、救い出してくれる」という、我慢強いマゾヒスティックな感情+生きづらさから一挙に救ってくれる人を求める気持ち、がどこかにあったりします。
「今はたまたま才能を見出す力のない人たちに囲まれているからで」「本当に才能を見いだせる人に出会えれば、自分は認められて、救われる」という感覚です。
世の中に転がっている、理不尽な指導者の逸話、エピソードにふれると、「ほらやっぱり」とその気持が裏付けられた気がします。
これは、決して本当は才能がない人の勘違い、といったようなことではありません。スーパーマンみたいにはなりませんが、トラウマを負った人には本来力があります。
自分も他人もそれを適切に認めていないことは事実。
その事に直感的に気がついているためにそのように感じます。「自分には本来は力があるのだ」、と。
ただ、こうした心性は対人関係での災厄も招きます。
たとえば、ブラック会社。
「厳しくされるのは自分が悪い、自分の成長のためだ」として、他の人はさっさっとやめているに自分だけやめない。現状に目を向けることができない。
たとえば、理不尽なパートナー
「相手もおかしいけど、自分にも問題があるのは確か」といって、他人からはやめときなさい、というのに、別れられない。別れようとすると経済的な条件などが不安がちらつく。
たとえば、自己啓発や、ビジネス、儲け話など
「ここでなら自分は認められるかも?」として、惹きつけられる。
どなど
妙に相手に支配されて、自分は息苦しい、理不尽さを余儀なくされてしまいます。
世の中は”結果として”理不尽なことがありますが、人が意図的にもたらした理不尽さというのはおかしい。
でも、理不尽な指導者への憧れがあるものですから、「この理不尽さに耐えてこそ、成長できる」としてそうしたツボにはまってしまいやすい。
もし、少しでも当てはまる所があれば、
「これって、理不尽な指導者への憧れかも?」として、ちょっと立ち止まってみることが必要です。
(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服」
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