あの理不尽な経験もみんなローカルルール人格のせいだったんだ?!

 

 私たちが、不快な経験を忘れられない、記憶から拭えないのは、
それは、「自分に問題があるのでは?」という考え、恐れがあるためです。

 

 自分に原因がある、という考えがアンカーとなって、悩みを払うことができなくなる(「自分に原因がないと思うと、独りよがりになる。自分が成長できなくなる」といったことを考える人は実はかなり多い)。

 

 「失礼なことを言われたのは、失礼なことを言われるにたる原因が自分にいくらかでもあるためでは?」

 とか、

 虐待といった明らかに加害者側に問題があることでさえ

 「ひどいことをされるのは自分に問題があるからだ」といったことや
 「呪われているからだ」
 「(結果として)自分は穢れてしまった」

 といった観念があるために、悩みはずっと消えなくなってしまいます。

 そして、次も同じ目に合うのではないか? と思うと、萎縮してしまったり、人と接するのが怖くなったりする。

 

 

 本来は人見知りではないのに、人と話すのが億劫になる人見知り状態になります。

 

 

 人というものは面倒でモンスターのような存在で、社会というのもいつどこから嫌なことが降ってくるかわからない、とてもつらく、恐ろしい場所だと感じられてしまいます。
 

 

 理不尽な出来事というのは、基本的に全ては偶発であり、自分に原因はありません。

 しかし、人から来たハラスメントというのは、まさか自分がハラスメントを行っています、と言う人はおらず、それを正当化しようとする理屈も同時に仕掛けてきます。そのため、「被害者側に問題がある」という偽りの正当化も含めて、ハラスメント行為が成り立っています。

 

 私的な情動によるものなのに、それがルールなのだ、正当なものなのだと騙ることを「ローカルルール」といいます。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 ローカルルールは意識して行われることもありますが、多くの場合、ローカルルールは人間の人格部分に感染して、ローカルルール人格を作り出します。

 

 そのローカルルール人格は、刺激によってスイッチ(変身)します。
 その刺激とは、自分の中の不全感、コンプレックスを刺激するような情報です。眼の前で相手が幸せそうだ、といったことなどです。過去の記憶がフラッシュバックして刺激となり、スイッチすることもあります。

 

 

 では、不全感のまったくない人なら起きないか、といえばそうではなく、嫉妬という動物的な刺激もあります。嫉妬はどれだけ自分を磨いても、抑えることができません。 

 どんな人格者でも、ローカルルール人格に変身することは起きるのです。
 ただ、その閾値が低いか高いかだけ。

 

 

 身体のコンディション、つまり栄養や、睡眠、運動がしっかり取れているかもかなり影響します。 睡眠不足だけでも、変身の閾値は急激に下がります。
 
 洗脳セミナーでは、睡眠を制限するなど身体のコンディション低下をうまく使って、ローカルルールを出席者の人格に感染させるのです。
 
 栄養の不足だけではなく、グルテンやカゼイン、カフェインの摂取なども変身のしやすさに影響します。 

 

 

 環境に追い込まれているときも、閾値は下がります。

 仕事で追い込まれているときは睡眠不足も相まって、メンバーにひどい言葉をかけたり、急に怒り出したり、ということがあるのはそのためです。

 

 

 

 人間というのは例外なく誰でもローカルルール人格への変身を起こします。
 
 そのため、

  気さくで人当たりのいい人が急に理不尽なことを言ったり、失礼なことを行ってきたり、
  
  仲良くしていた友達が急に自分を攻撃してきたり、

  公平であるべきはずの上司や教師といった人がハラスメントをしてきたり、

 といったことは日常茶飯事に起こります。

 

 

 

 ローカルルール人格というのはもっともなようでどこかおかしく、その言動には正当性がありません。

 だから、失礼なことを言われたり、されたりしたとしても、全く真に受ける必要はありません。

 

 例えば、
 日常生活で失礼なことを言われたり、理不尽な目にあっても、それはすべてローカルルール人格によるもの、全く真に受ける必要はありません。

 記憶にある、過去の対人関係でも様々な嫌な出来事も、すべてローカルルール人格によるものです。自分には全く原因はありません。
 

 すべて自分からバッサリと切り離して良い。

 

 

 ローカルルールとは、巻き込まれる人が必要ですから、「自分のせいかも?」と真に受けることでローカルルールは生きながらえます。

 

 

 一方で、 ローカルルールとは、根拠がとても薄弱ですから(私的情動でしかないので)、真に受けなくなると、魔女の魔法のりんごように消えてなくなっていきます。
  

 

 これまでも、心理療法は、様々な方法や考え方で、悩みで苦しむ人を免責しようとしてきました。
 しかし、「人格を一つ」と捉えてきた限界から、どうしても自責感(自分に問題がある)が被害者に残り続けたり、なぜ、あの人があんなことをしたのかがわからず、ぐるぐると理由を考えたり、相手をモンスターのように恐れたり、こき下ろしたりすることが頭の中で止まらない、ということが起きていました。

 

 

 人格が一つである、としているために、”いい人”であるはずの人たちがなぜ自分に対しておかしな言動を取るのかが腑に落ちず、結局自分にも問題があるに違いない、という思考を招き、結果ローカルルールを延命させてきました。

 

 

 自分の中にあるローカルルール人格がフィルタをして、情報を歪めて、関係念慮を起こすこともあります。
 それも自分では直感的におかしいと気がついていても、人格は一つと捉えているために、歪んだ情報を払うことができません。
 しかし、自分の中にも「本来の自分」と、「ローカルルール人格」がいるのだ、と明確にわかれば、自分の感じる違和感に基づいて、関係念慮に気づくことがもできます。

(参考)→「「関係念慮(被害関係念慮、妄想)」とは何か?

 

 

 

 臨床の中でわかった、「ローカルルール人格が存在する」という発見と、「私たちはしばしば人格がスイッチしている」ということが見えてきたことで、理不尽さの理由がどうしてもわからず自責感を持ち続ける、という悩みをしつこく残し続ける要因を打ち払うことができようになってきました。

(参考)→「モジュール(人格)単位で悩みをとらえる重要性~ローカルルールは“モジュール(人格)”単位で感染、解離し問題を引き起こす。

 

 

 

 長く苦しんできた悩みが取れることはもちろんですが、世界の見え方が全く変わってきます。

 

 自分がよって立つ常識や感覚を堂々と信頼してよいという自信。
 おかしいことは、ただおかしな存在によるものであるという確信。

 
 これから将来も、自分に問題があるために人から失礼なことをされるのでは!? と恐れる必要はなくなります。
 実際に理不尽なことは起きても、自分に原因を求めることなく、さっと払うことができるという自信が湧いてきます。
 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

ただ、そこに存在すること(Being)

 

 前回の記事で、責任を捨てると役割が出てくる、ということを書かせていただいた中で、例として、カウンセラーの本来の機能として、「そこに存在すること」と書きました。

(参考)→「無責任」になると、人間本来の「役割(機能)」が回復する。」 

 

 

 カウンセラーに限らず、「そこに存在する」というのは人間にとってとても根源的な機能とでもいえるものです。

 
 私たちは大自然の中にいるときそのことだけで癒されたりすることがある。
 イルカなど動物に接すると、それだけで癒されたりする。

 自然は、ただそこに存在しているだけ。動物もそこに佇んでいるだけ。

 

 
 理想ですが、実はうまくいっている治療現場では、「そこに存在すること」ということから治療の効果は生じている。

 

 心理療法とか薬とかそんなことは脇においておいて、ただ、話を聞いたりしていることで良くなっていくということはある。
 それは、傾聴とかそんなテクニックとかでもなく、そもそもの人間同士の関係がそうさせる。
 
 それは確かにある。筆者も経験することです。

 

 かなり重篤なケースなのに、
 「心理療法とか、カウンセリングはいいから、ただ雑談したい」ということを求められることはあります。

 そんなことをしているよりも治療をしたほうがいいのでは?と治療者側は頭では思いますが、でも、実際に雑談をしているだけのほうが効果があったりすることがある。
 

 それも「そこに存在すること」の効果なのかもしれない。
  

 

 

 クライアントさんの側でも、ただ「そこに存在すること」「そこに存在することで許されている」は心から求めていることではないかと思います。

 それは、私たち人間が持つ根源的な機能であり、土台である。

 そこを土台にして、私たちは社会的な活動を営むとされている。

 

 養育環境などこれまで過ごされてきた環境では、「ただ存在することは許されなかった」という方は多い。

 「そこに存在できない」ということを埋めるために、多動ともいうべき焦燥感で動き回ってみる。あれこれと人の気持ちを先回りしてへとへとになる。
 でも、「そこに存在する」ことはできずに、常に足元にはブラックホールが口を開けているかのような不安定さと空虚さを感じて生きている。

 それではとてもやりきれない。

 

 ただ、前回も書きました「責任」を捨ててみると、どうやら「ただ、存在する」ということが身近にあり、誰にでも備わっていることが浮かび上がってくる。

 

 

 では、「そこに存在する」とは、どのようにすれば可能になるのでしょうか? 

 ややもすると、存在することをなにやら次元の高いことだと感じてしまいそうです。高い人格を備えなければ、とか。トレーニングをして身に着けるものであるとか。

 そんなことはなく、健康な人であれば自然と実現していることでもあります。だから、それは難しいものではない。
 

 
 「ただ存在することができない」という方はどうすればよいのか?

 それは、「存在すること」が妨げられるケース、奪われる場面を見ていくと、「存在すること」の要件が見えてくるかもしれません。

 

 

 悩みにあるとき私たちが失うものは何か?というとまさに「そこに存在すること(Being)」。

 「そこに存在する」ということができなくなる。

 何か行動しなければ、とかき立てられる。追い立てられるようになる。何かをしていないと存在できない、何かを果たさないといる価値がない、と思わされる。

 

 
 「うつ」というのは悩みの症状でも中核的なものですが、エネルギーが下がる一方で、内心とても強い焦燥感に駆られている。

 エネルギーが下がるだけなら、冬眠のようにじっと休んでいればいいわけですが、焦燥感があるのに動けない、それでは価値がない、と感じることが自殺へと追い込んだりするのです。
(参考)→「うつ病の真実~原因、症状を正しく理解するための10のこと」 

 

 ただ、「そこに存在して」いればよいのですが、それができなくさせられる。

 

 

 「トラウマ」もそう。

 トラウマとはストレス障害からくる「非常事態モード」を指します。

 
 非常事態であるからただそこにいることが難しい。何かをしていないといけない、何かをしなければと、行動へとかき立てられる。

 そのうちへとへとになってきて、日常のストレスや人間関係には対応できなくなり、生きづらさを抱えるようになってくる。

 そこにいることができずに、内心は気づかいと緊張とで疲れ果ててしまう。

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

 

 悩みにある人は、
 「そこに存在する」という当たり前のことを回復したいと願っている。

 例えば、リラックスを感じたり、人とのつながりを感じたり、といったこともそうですが、そこにいて怒られない、攻撃されない、といった健康な人から見たら当たり前のことを欲している。

 

 
 「存在する」というのは、「Being」とも呼ばれますが、私たちにとって土台となるもの。

 機能不全家族、あるいはいじめにあったりなど不適切な環境で育つと、ただ「そこに存在する」ということができなくなる。

 何かをしなければいけない。と思われたりする。
 

 

 

 
 「存在すること」が妨げられるまでには順序があります。

 それは、

 1.安心安全が脅やかされる

 2.(公的な)関係・役割が切られる

 3.“(ニセモノである)責任”をかぶせられる
 
 
 ということ。

 それぞれはお互いを助長し、悪く循環するようにできています。

 

 安心安全が脅かされているから、落ち着いて関係を構築できない(1)。
 身体面でも自律神経が乱れているから、他者とペースが合わず孤立してしまう(2)。そうした状態は自分の責任だ(3)として、行動に掻き立てられて、「ただ存在しては価値がない」として、安心安全がさらに奪われる(1)。
 

 安心安全がないことで(1)、公的関係とのつながりが実感できなくなる(2)。私的領域(ローカルルール)に巻き込まれやすくなり、ローカルルールの中で支配されたり、嫉妬の渦で苦しめられたりする。その原因は自己責任であるとされる(3)。

(参考)「私的領域」は、公的領域のフリをすることで、強い呪縛となる。

 

 責任は無限であるために、いつまでたっても解消されない自責感、罪悪感に苦しめられ(3)、安心安全は常に奪われ続け(1)、誰ともつながれず孤独のままにされる(2)。

 

 といったようなループに入ってしまう。

 

 

 本来は、

 1.安心安全を感じている
 2.(公的な)関係・役割がある

 ために、おかしな責任がかぶせられそうになっても、「それ、私のではありません」と直感することができる。

 (参考)→「常識、社会通念とつながる

 この場合、3.は無責任であること  とすることができるかもしれません。
  

 

 カウンセラーとクライアントとの関係も同様で、
 良い関係は、治療同盟といいますが、上記のようだとされます。
 
 イルカや自然が最良のカウンセラーであるというのは、1~3が整っているから。
 
 

 

 近年注目されているオープンダイアローグが効果を上げるのも、クライアント、カウンセラー双方に、

 1.安心安全の保障(何事も合意なしに決められない。合意があるため、治療者側も一方的に責められない。)
 2.関係・役割の提供(クライアントも含めてそれぞれに役割があり、対話を通じて関係が作られる)
 3.無責任であること(責任ではなく役割があるため、1,2がさらに本来の機能を果たす)

 という要件が整っているからと考えられる。
  
 

 このように考えると、「ただ、存在すること(Being)」というのは、何やら精神的なことではなく、要件によって成立する、誰でも行えることだということが見えてきます。

 クライアント側、私たちにとってもそうで、「ただ、存在すること(Being)」とは、実は1~3の要件を整えることだといえそうです。

 

 
 ある種のセラピーや自己啓発でも、
 「そのままでいいんですよ」と存在を認めるようなワークがあったりしますが、うまくいかなかったり、その効果が長く続かないのは、1~3を整えないままに行われるからかもしれません。

 

 1~3を整えるためには、まずは、

 1.安心安全を確保すること   
   具体的には、栄養、睡眠、運動はしっかりと確保して身体の安全を整える。理不尽な環境は避ける。

 (参考)→「「0階部分(安心安全)」

 

 次には、
 3.無責任であること(免責されること)

   ローカルルールや責任という人間の身の丈に合わないものを疑い、棄てることで、本来の関係や役割を自然と浮かび上がり、感じられるようになってきます。

 そして最後に、
 2.(公的な)関係・役割が回復する
  
   公的な環境の中で、自分の役割を感じることができ、人とのつながりを回復することができます。  

(参考)→「常識、社会通念とつながる

 

   
 責任を棄て、浮かび上がってきた関係、役割(ネットワーク)が、「ただそこに存在すること」を位置づけ、意味づけ支えてくれる。
 それは高尚なことではありません。いわゆる愛着が安定していれば、そもそも提供されていたはずのものが戻っただけ。 

(参考)→「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 

 

 効果を発揮するカウンセリング、セラピーというのは、
 分析してみると、1~3の要素がしっかりと手当てされている。
 

 安心安全を確保し、ローカルルールや責任という呪縛から抜けることで、求めてきた「ただ、そこに存在すること(Being)」が回復してきます。
 (実際に、重い症状が急速に解決したり、というケースを目の当たりにすることがあります。)

 

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

ありのままの現実は「ニセの責任」を免責し、「ニセの責任」が免責されると、ありのままの現実がみえてくる。

 

 私たちは、「ニセの責任」を背負わされすぎて、「過責任」状態になっている。それによって、自分を守ることに労力を注がざるを得なくなって、本当に大切なことに責任が取れなくなる。主体的になれなくなる。

 「ニセの責任」からいかに自由になるかが、生きづらさから抜け出すポイントになる。

 

 本当を言えば、「機能している家族」「愛着」、というのは、免罪の装置として働きます。親が「安全基地」として存在し、「あなたは大丈夫よ」という態度、言葉で接してくれることで、免罪(代謝)が機能します。
 そして、成長する中で愛着が内面化し、自分の中でニセの責任を免責することができる。 

(参考)→「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 

 ただ、多くの場合、愛着に不安があり、免責が機能しなくなる。 
 親が親の機能を果たせず、親自身が「ニセの責任」発生装置になってしまい、子供を苦しめることになる。

 「ニセの責任」を免責する機能が内面化されていないため、「ニセの責任」がどんどん蓄積していってしまい、大変な苦労をすることになる。

 
 これが生きづらさや、トラウマ、であると考えられる。

 ※生きづらさとのメカニズムとは、社会学者によれば、「関係性の個人化」とされます。「関係性の個人化」とは、環境の影響などをすべて自分のせいだとしてしまうこと、です。

(参考)→あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服

 

 

 

 依存症の世界でも指摘されていますが、「底をつかない」と治療が機能しない、ということがある。つまり、依存症とはそれまでに背負ったさまざまな生きづらさを癒すための自己治療である、ということ。

 元プロ野球選手の清原さんなど、依存症に陥った人を見てもわかるように、とても繊細で強いストレスや生きづらさを抱えていたことがわかる。
 それを癒すために依存が必要であった。

 

 それを、周りが本人の責任のようにお世話をすると(イネーブリング)、周囲から「ニセの責任」が流れ込んできて、本人は余計に問題行動を起こすようになる。

 自助会など様々な場を通じて「ああ、自分には何もないんだな、もう神様、仏様にでも任せるしかない。」「結局、自分は自分だ」と底をついたときに、本当の回復が始まる。

 つまり、「底をつく」とは、「ニセの責任に気づき、免責される」ということだと考えられます。 

(参考)→依存症(アルコール等)とは何か?真の原因と克服に必要な6つのこと

 

 

 

 トラウマも同様です。

 トラウマの主要症状にフラッシュバックというものがありますが、まさに、自分にとってつらい体験が繰り返される。
ふつうは睡眠をとることで、徐々に薄れていって「免責」されていきます。

 しかし、トラウマの場合は、自分にとって過去のつらい経験、嫌な経験が、ずっと反復される。

 「自分は何も悪くないけども、嫌ない経験だったんです」という風にはならず、
 ほぼすべてのケースで、「自分が悪かった。迂闊だった」という恥や罪悪感が伴っている。

 もちろん、トラウマとは、外からやってきたイベントにすぎないのですから、「自分は何も悪くない」でいいわけですけども、自分の中に免責機能が十分に機能していない場合、あるいは周囲がおかしな理屈で、「あなたにも問題がある」といったように責めてきた場合などは、処理できずトラウマになってしまう。

 

 苦の原因というのは、「ニセの責任」にある。
 人間が持つ過剰な意味づけなどが誤った原因帰属がさらに「ニセの責任」を重くしてしまう。

 

 

 こうした側面について、「ニセの責任」から抜け出す方法を提示したもう一人の巨人は、ブッダです。

 ブッダの悟りというのは、要は、世界の仕組みをありのままに真に客観的に捉えることができれば、苦から逃れられるということ。  

 私たちは、嫉妬や支配など、様々なローカルルールに縛られて「ニセの責任」でがんじがらめになっている。ローカルルールの中で、それを解決しようとあくせくしているけども、新たな苦を生み出すだけ。

 

 さらに、過剰な意味づけが働いて、何気ないことにも「自分だけに」とか、「何か良いこと(悪いこと)が起こるに違いない」と思ってしまっている。

(参考)→「過剰な合理性や意味づけ

 

 でも、客観的に見たら、自分だけに、ということはない。

 自分の子供が死んだ婦人が、ブッダに相談した際に、「一度も死者が出たことがない家からカラシダネをもらってきなさい」といわれて、家々を訪問してみたら、「実は、私の家でも・・・」とか、「数年前に、子供が・・」となって、婦人が客観的な事実に目覚め、「ニセの責任(私の落ち度で子供が死んだ。私だけがおかしい)」が免責され、苦から解放されていった。 

 

 通常の人間というの、見栄など、軽い幻想を持って生きている。
 また、嫉妬や支配、あとは、精神障害などさまざまなノイズが飛び交っている。その処理をするために、因縁(ニセの責任)を他人にふっかけて何とか自尊心を保っている人たちもいる。それが社会ですが、裏ルールがわからない状態だと、真に受けてしまって「ニセの責任」を強化する材料とされてしまう。

 

 実際は、「自分だけが・・」とか、「自分が悪い・・」なんてことはない。

 

 そのありのままを捉える方法を「悟り」としてブッダは発見した。「因縁(ニセの責任)」から逃れるのが「解脱」ということなのかもしれません。
   

 実は、客観的に見れば見るほど、迷妄は取れてきて、本来の自分になってくる。

 

 「事実、現実」というと恐ろしいように見えていますが、

実際は、
 「(ニセの現実を回避するための)幻想」-「ニセの現実」-「ありのままの現実」と3層になっている。

 

 私たちが恐れる「現実」とは、「ニセの現実」。
「幻想」と「ニセの現実」の間にも、ニセの責任からもたらされるものすごい恐怖があるので、見れなくなりますし、「ニセの現実」とありのままの現実との間にもさらにものすごい恐怖があります。

 ですから、容易にそこをクリアすることができない。

 

 でも、「ニセの現実」は「ニセの責任」による罪まみれで、みじめで苦しいもの。「ニセの責任」が免責されてくると、ありのままの現実がちゃんとみえてくる。

 

 ありのままの現実は「ニセの責任」を免責し、
 「ニセの責任」が免責されてさらにありのままに客観的に現実が見える。

 そうするなかで生きづらさは徐々に無くなっていきます。
 

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

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原罪と免責

 

 私たちは、ニセの責任をたくさん背負わされて、本当に自分の人生に責任が持てなくなる。不調をきたしてしまう。
 

 本当に立ち向かわなくてはいけないときでも回避しようとしてしまったり、問題行動を起こさざるを得なくなる。

 それは、責任を回避するいい加減な性格だから、ではなく、責任を背負わされすぎてしまっていて、それ以上背負うことができないから。

 認知のプロセスがゆがめられてしまっていますから、日常の何気ないことまで、「罪悪感(自分が悪い)」との気持ちを持たされてしまうようになります。
 そのストレスは過大なものです。 
 

 過大なストレスに対してうまく代謝が機能しにくくなりますから、心身に不調をきたすようになります。

 

 日常生活でも、仕事など様々な場面で不都合が生じてきます。

 悩みの中にあって苦しい、生きづらいというとき、
 「誰か、自分が大丈夫だよ、おかしくないよ、って言ってよ!認めてよ」と心から思います。

 ただ、なかなかそれが実現することはありません。一見そうしてくれそうな人が現れても、共依存の関係にしかならなかったり、期待して裏切られたり、といったことも起きます。特に、身近な人間同士ではなかなか難しいのです。
 

 

 

 人間は「外来要素の沈殿物」(パリ大学小坂井敏晶教授)ですから、本来、責任はありません。
 人間とは、環境の影響に押されて、最後にババを引かされているだけで、責任の主体性というものはかなり怪しいものだからです。

 ただし、社会は、秩序を維持する関係上、目の前の人間に責任を問わざるを得ないことがあります。(例えば、自分のものを盗られても「その人の責任じゃないからいいですよ」とは言えない。)
 現代は個人主義ですから、特にその傾向が強い。 どうしても、やむにやまれぬ問題行動も、自分の責任とされてしまいます。

 

 ニセの責任で苦しい状況(I’m NOT OK)を、他者に因縁をつけてこき下ろして(You’r NOT OK)、かりそめの免責(I’m OK)を手にしようとする人もたくさんいます。

(参考)→「人は、自己愛が傷つくと、相手を「負かして」、自分が「勝つ」ことで存在を保とうとする

 

 すると、ニセの責任が連鎖していってしまい、互いに首を絞め合う構造になりどうしようもなくなります。息苦しい社会の誕生です。

 ニセの責任を自分で処理できる人や、他人に投げることができる人は健康に生きることができますが、できない人は、だんだんと苦しくなります。
 人間社会にも「2:6:2」という構造がある、といわれますが、ニセの責任という観点からもそれが言えるかもしれません。
 

 世の中には、「ニセの責任」が生み出されて、流通している、というのも“裏ルール”といえそうです。

 この「ニセの責任」の存在に気づき、それをいかに免責するのか、は私たちが本来の自分で生きていくためには最重要ポイントといえます。

 

 

 

 「ニセの責任」やそれのよる「罪悪感」ということがわかった時に、気が付いたことがあります。

 そういえば、キリストって似たようなことをしていたな、と。

 キリスト教の物語を見ていると、イエスが悩める人の問題を解決する際に、「罪は許された!さあ、立ちなさい」といったようなシーンが出てきます。

 祝福を与えて「免罪」すると、病が治ったりしていきます。

 

 キリストは、現在で言えば、民間の治療者やカウンセラーのようなことをしていたようです。
 

 キリストがユニーク、画期的であったことの一つに、人間が背負わされた「罪(ニセの責任)」に注目したことではないか、と思います。

 キリストは、ユダヤ教の改革者だったのですが、もともとユダヤ教には「原罪」といった観念はなかったそうです。
 旧約聖書にあるアダムとイブの話も、そもそもは「原罪」とは関係がない。「原罪」というのは、キリスト教になってから示されるようになったものです。

 

 人間を作ったのは神ですし、人間の行動もすべては予定されている。
 病や犯罪、様々な問題行動の責任も、本来は神様の責任のはず(全知全能ですから)。
 でも、現場の人間に帰せられる理不尽さ。大きな矛盾です。「原罪」とはまさに「ニセの責任」といってよいかもしれません。
 

 

 私たちは、自分たちがまさにあらがえないものに流されるように生きづらさに悩んでいます。

 例えば、愛着障害(トラウマ)を背負って人生がうまくいかなくなっても、親は選べないし、人生をやり直すこともできない、そのくせ責任だけは取らされる。誰もその構造を理解してくれない。表面的なことだけで非難されてしまう。そのことにものすごく怒りを感じていたりする。
 

 

 『反省させると犯罪者になります』という本にもありましたように、人間というのは、その理不尽さを直感していますから、服役者でさえいくら反省しろ、といっても、効果が上がらないのです。
 かえって腑に落ちず、理解されない孤独に陥ったりして、また再犯につながったりする。そこから抜け出ないといけない。

(参考)→「「反省」するととらわれ、支配される。人間に必要なのは「学習」である。

 キリストは、私たちが感じているその矛盾に直感的に気がついた。キレイごとだけではなくその矛盾から救われないと意味がない。

 

 

 興味深いのは、
 病にある人を治療したり、癒しを与えたりするときには、
  「エネルギーを注入します」でもいいし、
  「光を注ぎます」でもいいし、
  「神様が治してくださいます」みたいなことでもいいわけです。

 罪とか面倒なことを経由しなくてもよいはず。

 しかし、キリストは、
 「罪は赦された!」と宣言して、「免罪(免責)」によって、治療や奇跡を起こします。

 

 キリストは、人間は「罪(ニセの責任)」を背負わされていて「過責任」状態になっていること。それがストレスになって、心身の不調をきたしている、と見抜き、それを「免罪(免責)」することが人々が自由になるポイントであることを知っていたのかもしれません。
 
 
 最後は、自分が「ニセの責任(罪)」を一身に背負って、磔にされてしまいます。(それによって人類を救った、というのが後に作られた解釈です。)
 

 

 

 人間にとって大切なポイントが明らかなのでしたら、キリストのように、「あなたの罪は赦された」と互いに行えばよい。

 トラウマを負っていると、訳の分からない「罪責感」「自信のなさ」にさいなまれています。過去の自分の行動がどうしようもない恥ずかしい、おかしなことのように記憶しています。それを「免責」してほしい。

 
 ただ、なかなかそれは難しい。日常生活では、かえって「ニセの責任」がトランプのババのように回ってきたりする。
 
 いかにして自分が背負った「ニセの責任」を免責していくのか?

 「ニセの責任」に着目して奇跡を起こしたキリストの行動は、私たちが悩みから抜け出すためにもとても大きなヒントが含まれていそうです。

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

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