トラウマチックな世界観と、安定型の世界観

 

 前回も少し触れましたが、本来の人間の世界観は、
「ゆっくりのんびりしながら、腑に落ちる感覚を「待つ」という」ような感覚です。

 

 トラウマというのは、「ストレス障害」のことです。
災害、事故、日々のストレスによってトラウマになるのですが、
人間はそれによって、安心安全を奪われて、非常事態モードになります。

 

 トラウマを負った人の世界観とは、

 ・次があることが保証されていない(目の前の機会が失われたら次が来ないと思ってしまう)
 ・せっかち(すぐに結果が出ないと安心できない)
 ・明日の能力向上よりは、今の結果を求める(だから、積みあがらない)
 ・Doing偏重(行動への強迫)
 ・世界が秩序だっているとは思えない(そのためスピリチュアルなものにも傾倒しがち)
 ・本当はつながりたいけど、人は信頼できず、億劫な存在
 
 といったことが挙げられます。

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 総じていえば、刹那的で、とてもせっかちなのです。

 「改善のためには常に行動をしなければ」と思い込んでいます。

 

 

 こう聞くと、驚く方もいると思います。
 「だって、例えば仕事では、常に行動を起こすことは基本だし。PDCA、改善(カイゼン)っていうじゃないの?」と。

 

 確かに、半分そのとおり、でもそれは、仕事を支える思想のほうに問題があります。

 

 なぜかというと、現代の資本主義自体、そもそもトラウマティックな性質を持っているからです。

 ・成長に対する強迫
 ・刹那的に利益を追求する

 といった特徴がある。

 

 そのため、会社の社長やビジネスマンといった人には、
 トラウマを負った、自己愛性パーソナリティ障害傾向の方は少なくありません。彼らと資本主義とはある意味、親和性がある。

 (トランプ大統領など極端ですが)

 

 彼らは、抱えた不全感を、Doing(行動)やHaving(成果)で埋めようとする。
 
 すぐに結果が出ないといけない、として、成果を求める期間は、
 1年、半年、4半期とどんどんと短くなってくる。

 結果その無理がたたって、近年は、粉飾、検査不正とかが問題になってきています。

 

 そうした人たちが書くビジネス本とか、発言とかを真に受けると、トラウマチックな世界観に巻き込まれてしまいます。

 

 

 

 一方、本来の仕事、商いというのは、時間がかかるもの、という認識がありますから、コツコツと目の前の仕事をしながら、種を仕込み、のんびりチャンスを待ったり、するもの。
 
 

 

 私たちの個々人の生活、人生もそうです。

 愛着の安定した人間であれば、のんびりすごして、目の前のこと(今ここ)に集中する。そして、3年、5年、場合によっては10年というスパンで、チャンスを「待つ」。

 これが本来のスタイル。
 

 すぐに結果を求めて、強迫的に行動したりしてはいけない。
 本当に自分を成長させてくれる機会に手が届かなくなるから。

 

 

 世にある、自己啓発やスピリチュアルなノウハウ、ポップな心理療法といったものも、そのオリジナルは近代合理主義の亜種だったり、創始者自体がトラウマを負っていて、その不全感から生まれたものだったりします。
 
 実際、「ありのままでいいよ」といいながら、とってもせっかちで自己否定的であったりします。だから、うまくいかない。

 

 

 もし、本当に、世にあるチャンスを最大限に生かすのであれば、それは、安心安全な環境で日常に生きながら、「ゆっくりと待つ」ということが必要。

 焦りは、支配や発作をもたらします。

 

 トラウマを負った人が育った家庭は、親自体もパーソナリティ障害傾向、発達障害傾向があったりするために、とてもせっかち。

 独善的なルールで「早く、早く」と子供の都合を考えず、追い立てるようなスタイルですから、せわしなく、焦り、緊張することが身体に染みついてしまっている。

 

 人間の本来のスタイルは、安心安全な環境でのんびり過ごして「待つ」というものだ、と知ると、自分の体感(ガットフィーリング)を信頼できるようになり、他人に支配されにくくなったり、発作で解離しにくくなります。

 

 

 

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物理的な現実への信頼

 

 数年前、科学の論文の不正事件が世間を騒がせたことがありました。週刊誌やワイドショーでも取り上げられていました。
 世紀の大発見であったものが、単なる不正、トリックではないか、ということでその落差もあってか、世間から大バッシングとなりました。

 その論文にかかわった、とても優秀な研究者が、事件のさなかにあえなく首を吊って自殺されたことを覚えています。非常に実績があって、論文の作成では天才的ともいえる能力があったそうです。

 

 客観的に見れば、「一流大学を出て」「頭もよくて」「科学の世界で実績があって」ということです。
 事件に巻き込まれたとしても、十分立ち直ることはできます。自殺する必要はないように思います。

 しかし、おそらくその方にとっては、自分の評判、イメージが崩れたことが死に相当するようなことであり、自殺するしかなくなってしまったのかもしれません。

 

 カウンセリングを行っていても、非常に学歴も高くて、良い会社に勤めていて、という方が、自信がなくてお悩みであることは珍しくありません。

 傍から見れば、「大丈夫ですよ」と思いますが、ご本人からするとそうは思えない。
 「~~もダメで、~~もダメで」という風に本人は思わされてしまっている。
 

 カウンセラーに言わせれば、養育環境で刷り込まれた「負の暗示」の影響、ということになります。負の暗示のせいで、自分がおかしいと思わされている。
 悩みを解決するためにはそれらを変えればいい、ということでそのお手伝いをするのがカウンセラーの仕事、ということになっています。

 

 ただ、うまくいかないことも多い。なぜでしょうか?
 

 昔から、精神の力で現実を変えよう、変えることができないか、という取り組みはなされてきました。願望実現などもその一つでしょうか。

 ただ、いくらポジティブに考えても現実は思うようには変わってくれない、ということで、その試みは敗れてしまいます。

 カウンセリングでも、考え方を変えよう、と取り組んでみますが、なかなか容易には変えられず、「やっぱり駄目でした・・」ということも珍しくありません。

 

 

 人間にとって現実とは何か?ということについては古代から研究されてきています。

 

 その中で20世紀に哲学者フッサールが始めた現象学という哲学があります。

 現象学とは、人間にとっての認識の構造を明らかにしようとしていて、主観と客観とを統合してそのしくみを理解しようとします。世界は、最初から客観としてあるというよりは、主観が持つ志向によって現われてくるものとします。

 ただ、主観的であればなんでも自分の思い通りに現実を構成できるか、といえば、そうではなく、物理的な現実は主観を「ねじ伏せるように」立ち現れるとします。

 

 簡単に言えば、目の前に壁があった時に、いくら「壁はない」と思っても、すり抜けることはできず、その思いをあたかも「ねじ伏せるように」私たちに立ちふさがってきます。
 ただ、それによって、主観は修正されて、「ここには壁がある」というように現実をありのままにとらえることができます。

 物理的な存在は主観が暴走して妄想のような状態になることを防いでくれます。

 

 こうしたことを繰り返して、私たち人間は現実をうまく認識して、適応していくことができるようになります。

 

 悩みを持つ人にとって「物理的な現実」というのは、「容易に変わらない冷酷なもの」というイメージがあるかと思います。

「物理的現実」というのは、「冷たい」「見たくないもの」というイメージかもしれません。

 

 悩みの原因は、やはり「物理的な現実」なのだ、と思ってしまいます。

 だから考え方を変えて、その現実の解釈を変えたり、不思議な力で現実そのものを変えるのだ、と。

 セラピーもそのためにあるのだ、と。

 

 でも、それは間違っているのかもしれない。

 

 

 実は、負の暗示を良い暗示に変えようとする営み自体が私たちの悩みの根幹を生み出している、ということが見えてきます。

 

 

 例えば、子どものに対して否定的な親がいるとします。

 本来であれば、無垢でかわいい子供に対して、ありのままをみずに、「お前は~~だ」「お前のこういうところが嫌いだ」「ダメだ」といって 接します。
 
 そうしたことが繰り返されることで、子どもは負の暗示を背負います。

 
 認知療法などでは、負の暗示を正の暗示に変えようとする。

 
 ただ、「悪いイメージ」→「良いイメージ」に、というように、いわゆる「観念、空想の世界」の中でのやりとりになるので、また、何かの拍子で自信が失われることもある。

 認知を変えると確かに感覚は軽くなるし、効果は確かめられているのですが、根本的なところの自信は今一歩、という感覚になることがある。

 それは、「観念、空想の世界」での改善だから。

 イメージ、観念を変えただけだからまた、心無い言葉をかけられると、オセロのように簡単に変わってしまうことがある。結果、良くなるんだけど、なかなか良くなりきらない、ということが起こる。

 

 一方、本当によくなるケースもある。
 その場合、無理によいイメージに変える、というよりは、素直にシンプルに自分の良さを知るようになるようなイメージ。本質的に改善されて、生きづらさがなくなって、楽になる。

 

 両者の違いは何か?といえば
 

  「負の暗示」から「正の暗示」ではなく、
  「負の暗示」から「物理的な現実への信頼」へ ということであるということです。

 

 上の例でいえば、無垢でかわいい子供、であるという「物理的な現実」は親がいくらひどい言葉でゆがめようとしても、結局は変わらないわけで、そのことを知る、感じる、信頼するということ。

 学歴も能力もあるのに、なぜか自信がない、という人がいれば、「物理的な現実」を信頼する、ということ。

 

 実際に、「物理的な現実への信頼」は、難ケースを解決していくことが知られています。

 

 依存症などの回復プロセスとして有名な「底をつき体験」というものがあります。

 アルコールなどに依存して、会社にも行けなくなって、家族からもバカにされて、というようなボロボロの状態になっていて、通常のカウンセリングでは太刀打ちできない。

 「ボロボロの自分」を、「良いイメージの自分」に変えようとしてもダメで、またすぐに元に戻ってしまう。

 お酒やお金を隠したり、周りからサポートされてもうまくいかない。また依存行為を繰り返して、見放されてしまう。

(参考)→「依存症(アルコール等)とは何か?真の原因と克服に必要な6つのこと

 

 

 でも、ダメな自分をすべて出していって、うけいれていくと、あるとき、

 「あれ?これ、自分でどうのこうのしようとしてもダメじゃないか。もう何かわからないけど任せるしかない」と感じるようになり、
「ああ、そうか、結局、自分は自分でしかないんじゃないか」と感じるようになる(底をつく)。
 

 ひどい負の暗示に巻き込まれていた子供が、結局、何を言っても「無垢でかわいい子供」でしかない現実があるように、依存症という手ごわい症状にさいなまれていて、社会的な名誉を失うほどになったとしても、「生命体としての自分」という現実は変わらない。

 
 社会的に何かを為した人とそうではない人とではもちろん名声は異なりますが、ふとしたことで誰でも転落するし、大きな病気をしてあっという間に命を落とすかもしれない、裸になれば結局だれでも一緒。

 
 自分は自分でしかないんじゃないか。

 

 社会の中でひどいことを言ってくる相手は、結局、嫉妬や不安をこちらにぶつけてきただけで、そこから発せられる言葉は、神の言葉のように思っていたけど、単なる一個体の鳴き声でしかないのではないか、と気がついてくる。

 

 これまでは、本などを読んで「良い自己イメージ」を持とう、持たなければ、と思っていたけど、そんなことは必要ない。

「物理的な現実」である自分は自分でしかなく、そこを信頼すればいいだけだ、と思えるようになる。

 
 「物理的な現実」は自分にとって願望実現の邪魔者ではなくて、世の中を生きる中で浴びるノイズやハラスメントの防波堤となってくれる。

 

 白鳥に向かって「お前はアヒルだ」といわれても、現実の白鳥は「現実には白鳥なんですけど、あなたはなんでそんなこと言うのですか?」

と一言いえば、ハラスメントを仕掛けてくる相手は何も言えなくなる。

 現象学もいうように、現実は観念をねじ伏せるように立ちはだかる、からです。

 

 会社で「お前はクズだ」といわれても、物理的な現実はクズではなく対等な人間なのですから、現実を信頼すると、物理的な現実がその言葉をねじ伏せてくれます。
(さらに、その後押しをしてくれるものが「愛着」というなのOSなのですが)

 

 仏陀も、肉体を滅却するような荒行を否定したのもそういうことかもしれません。
 気功とか瞑想においては、身体は邪魔なものではなくて、アンカーとなる必要なものとされます。

 

 心理療法においても、観念を操作するようなセラピーは結局、弱い。

 

 実際に、物理的な現実をありのままに見れると、しばしば自分の本当に願うものが向こうからやってきます。

 「物理的な現実」を信頼することの自然さ、シンプルさ、そして強さ
 

 トラウマが取れてくると、そんな景色が見えてきます。

 

 

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私たちは健康な状態にあるときは、ヒューリスティックに判断している

 

 私たちが物を買うとき、よく吟味をしているように見えて、かなりいい加減に検討して購入をしています。

 

たとえば、服を買うとき。

 縫製や生地の網目までしっかり見て決めているか?といえばそうではない。デザインが気に入り、サイズがあって、そしてお気に入りのブランドであれば購入を決定する。

 

高価な車でもそう。
 ドアの素材を分析したり、安全性能を自分で細かくテストして確かめたりはしない。デザインが良く、機能性があり、なにより自分が知るメーカーのものであれば、「大丈夫だろう」と思って購入を決定する。

 

 よく考えてみると、高い買い物であっても大雑把に決定している。「大雑把」といっても悪いことではなく、人間にとっては普通の健康的な行為です。

 そして、その決定は、当初の期待とおおむね合っている。だからそれでよい。

 逐一、詳細に検証していては労力がかかりすぎて意思決定ができなくなってしまいます。

 

 こうした意思決定のスタイルのことを社会心理学の世界では「ヒューリスティック」といいます。ヒューリスティックとは、代表的ないくつかの情報をもとに全体を判断することを言います。

 

 意思決定方略(戦略)といいますが、もし、人間がヒューリスティックに判断できないときはどうなるかといえば、モードが切り替わり、細かい情報を詳細に検討するようになります。そして、そこで納得すれば購買を決定する、ということになります。
 こうしたモードのことを「アルゴリズム」といいます。

 

 外出してウロウロしながら買い物している場合であれば、ヒューリスティックに判断できない段階で、多くの場合、「購入を見送る」という決断をすることになります。
 皆様も、服を買うときに、「良いけども、どこかピンとこない」というときは、結局買わないことが多いのではないかと思います。
 

 

 通常、私たちの意思決定はすべて、「ヒューリスティック」であるとされます。パソコンやスマホなど、スペック重視で、価格コムなどで比較をして買うような場合であってでさえも、品質の検証テストなどを自分でしたりはしないわけですから。レビューの点数や内容などを見て、だいたいのところで決定してしまう。

 

 このように、代表的ないくつかの要素で全体を判断するというのが人間です。それが、スムーズで、健康的な状態であり、細かくチェックしないといけない状態は、「困った状態」といえるのです。

 実際、住宅の建設などで手抜きがあって訴訟を起こしている「困った状態」の方を以前、TVで取り上げていましたが、ご自身で専門家を雇って隅々まで検査して、証拠を集める、ということをされていました。
 ヒューリスティックではないということは、まさにそのようなことをショッピングの都度しないといけない、ということです。

 

 

 トラウマを負っているというのもまさに「困った状態」で安心安全を奪われてヒューリスティックに判断できなくなっている、といえます。
 その結果、対人関係でも、だいたいで判断できなくなる。また、前回も書きましたが、100%の理解を求めるストイックなものになってしまう。
 (参考)→「100%理解してくれる人はどこにもいない~人間同士の“理解”には条件が必要

 

 

 健康な状態であれば、「だいたいで」「適当に」関係を結ぶことができます。でもそれができなくなる。
 相手と自分と違う部分を細かく見てしまって「この人はここが違う」「この人はこれがわかっていない」と厳しく見てしまう。

 「安心安全」を奪われてしまっているために、そうせざるを得ない。

 買い物でもそうですが、完全に自分に合う買い物などはそうそうない。既製品ですから。
 でも、「これはダメだ」「自分に合わない」「このメーカーはわかっていない」などといわずに、大体で満足しています。一致しているところだけを見て、合わないところは目をつぶっている。

 

 トラウマを負って(あるいは発達障害や内分泌系の疾患などで)「安心安全」を奪われていると、大同小異といったことができなくなる。

 たしかに、私たちは余裕があるときは細かなことは「よいよい」とおおらかですが、自分が不遇な状態にあるときは、他者やモノを疑ったり、こき下ろしてしまいがち。 

 

 

 対人関係でも、ヒューリスティックに関係を構築できないために、人とうまくつながることができなくなってしまうのです。

 

 対人関係においては、ヒューリスティックな判断をささえるものは、「身体的な感覚の一致」です。身体的とは、大きくは「ストレスホルモンの調整」によってなされます。テンションコントロールが自動的にされて、「ウマが合う」「気が合う」という状態にしてくれている。

 
 トラウマはストレス応答系(自律神経、免疫、ホルモン)を乱すため、身体が自動で一致をもたらしてくれず、頭でアルゴリズムに判断して、「この人はどうなんだろうか?」「どのように話せばいいんだろうか?」となってしまって、気持ちの良い関係が作れなくなってしまいます。

 

 前回も書きましたように、もし身体的な感覚の一致が作れなくても、「仕事」「用事」があれば、人間同士は付き合えます。「仕事」や「用事」がヒューリスティックなコミュニケーションの媒介(コネクタ)となるからです。電化製品などがない時代は、「仕事」や「用事」がそこらここらにあり、生きづらさは目立たなかった。
 芸人のように巧みな話術がなくても、人同士はそれなりに付き合えたようです。
 

 現代は「消費社会」ですから、付き合いの媒介となるものがなく(SNSでは代わりにならない)、実は人同士が構造的に付き合いづらい社会であるようです。

 

 

100%理解してくれる人はどこにもいない~人間同士の“理解”には条件が必要

 

 親友と思っていた友人から裏切られたり、
 「あれ?」と思うような意外な言葉をかけられて傷ついたり、久しぶりに会った知人からかけられる自分への評が、自分の思っていることと違って違和感を感じたり、 筆者にもそんな経験があります。 

 

 若いころはとても傷ついたり、人間関係のめんどくささばかりに目が行き、「人っていうのはとてもめんどくさいし、ややこしい」と億劫になっていました。

 人との関係を断ち、自分単体で高潔に生きていくすべはないかと模索してみたり・・
 でも、いろいろと経験を重ねると、よく考えたら人同士の理解なんてそんなものかもしれないな、と思うようにもなってきます。また、それでも人は人同士のかかわりをうまく回復しないと十全には生きれない、ことも見えてきます。

 

 

 人間は、ある程度成熟してくると本当に理解(する)される、ということはなかなか難しいということを知ります。血のつながった家族でさえ、完全には理解し合えない。必ずズレが生じる。

 相思相愛の恋人同士でも、実は完全に理解しあえているのではなくて、それぞれの頭の中にある幻想を見ているだけ。そのため、恋愛ホルモンが緩むにつれて、その幻覚が薄まってきて、理解しあえていない実態が明らかになってくる。

 親友同士でもそうです。最初は良くても、環境が変わると、ズレを感じて、「あれあれ?」と思うことは珍しくない。

 

 

 芥川賞作家の平野 啓一郎さんが書いた
 「私とは何か――「個人」から「分人」へ 」という本があります。

 

 人間というのは、固定された一つの人格ではなく、著者が「分人」と呼ぶような、いろいろな人格要素の束になっている、ということです。
  

 心理学的にもまさに的を得た内容で、人間というのは、そもそもが解離性人格のように、複数の人格的要素が集まってできていて、健康な時は、一つの人格として、統合できていると感じられて(錯覚されて)、生きています。 

 だから、場面や人によっても、性格は現れ方が異なる。 
 さらに、スケッチの際に、裏側は決して同時には描写できないのと同じで、その裏にある人格要素は見えなくなる。
 

 ある場面に、ある人格要素が現れるかどうかは、環境条件によります。

 そのため、時間が動き、環境が変わり、条件が変わると私たちに感じられる「人格」は変わります。

 友人、知人、恋人でもズレ、違和感となってくるのです。

 

 細かなズレを感知しては生きていけませんから、健康な状態にあるときの私たちはある程度、「安心安全」という健全な幻想によって、ズレを見ないこと、互いは理解しあえていることにして、人との「関係」は保たれます。
 その「安心安全」をパッケージで提供するものが、これまでもお伝えしている愛着というものです。
 

 

 一方、悩みにあるとき、トラウマを負っているときは、
 「安心安全」がないために、健全な幻想を持つことができません。
 

 健全な幻想がないとどうなるかといえば、100%の理解と0%の理解(無理解)との間で極端に振れてしまいます。
 「この人は私のことを分かってくれる」というかと思えば、ちょっとした会話のずれで「この人は私のことを全くわかってくれない」とこき下ろしてしまったりします。

 そうして、次々と人を変えていきますが、人間の原則として、100%理解し合えるものはどこにもいないことは変わりませんから、どこまでいっても理解しあえる人には出会えない。

 

 

 代わりに、理解されている幻想を比較的長く維持できるものは「依存」です。
 「依存」によって放出されるホルモンは、愛着の代替として幻想を見せてくれます。
 ただし、健康を害したり、経済的な損失をもたらします。

(参考)→「依存症(アルコール等)とは何か?真の原因と克服に必要な6つのこと

 

 もう一つ、本当の理解の代替になるものは「支配」です。
 カリスマめいた人にであったり、支配的な人に出会うと、「すべてをわかってくれそう」と思い、引き寄せられます。でも、それは、天性の人たらしのような性質を持つ人が「理解してもらえている」と感じさせるツボを心得ているだけで、本当の理解とは異なります。気が付いたら支配されていて、失礼なことも平気で言われるような状態でボロボロになって抜け出せなくなっていたりする。

(参考)→「あなたの苦しみはモラハラのせいかも?<ハラスメント>とは何か

 

 

 本来、健全な人間の理解の土台となるものがあります。
 その一つは、「仕事」です。

 「仕事」を介することで、人間同士は理解し合えることができます。
 医師やカウンセラーがクライアントさんを理解するのは、条件が限定された「仕事」を通じてです。
 
 臨床医学でも、理解するのは「悩み」「症状」という限定された領域です。
 もちろん、その背後にある養育環境や人柄も丹念に見ます。医師によっては、生まれた家の間取りを書かせたり、写真をもらったりといったこともして、理解を深めようとする。でも、それもあくまで「症状」を理解するため。
 無条件に100%その人を理解することなど世界一の名医でもできない。

 

 名医やカウンセラーは、うまく条件を絞って、「理解」を作り出している。良い治療関係(治療同盟)とは、限定された「仕事」と、身体からくる疑似的な愛着を土台にした健全な幻想を条件としているのかもしれません。

 

 仕事においても、「この人はわかってくれている」というのは、じつは条件が限定されているから。
 電化製品を買いに行って、店員さんが「わかってくれている」と思うのは、「仕事」のなかで「電化製品」というカテゴリでやり取りしているから。
 

 最近はやりですが、パーソナルトレーニングなどで、トレーナーが「自分のことを分かってくれている」と感じるのは、「トレーニング」という限られた領域でのやり取りだから。

 全然、別の環境で、店員やトレーナーと出会ったら「あれれ?」となってしまう。

 

「仕事」には、役割があり、場や要件の限定があり、そこで行われる技術があり、やり取りの必然があります。そのことが私たちの健全な理解を支える。案外、消費的な趣味の場所などでは友達を作るのは難しいことがある。

 

 シェークスピアの翻訳で知られる福田恒存の有名なテーゼ
 「人間は生産を通じてでなければ付合えない。消費は人を孤独に陥れる」というものは、こうしたことを差しています。

(参考)→「あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服

 

 
 親子の理解でさえ、それを支えるのも、おむつを替えたり、ご飯を用意したり、「仕事」があるから。

 「仕事」や「役割」といったモノを持たない真っ白な状態では、人間はかかわりを持てないし、理解し合えることもない。当事者は、コミュニケーション能力のなさ、性格のせいだと思っていますが、そうではなく、環境や構造的な問題によるもの。

 
 

 人間関係でも、気が合う、と思えるのは、実は、「学校」「職場」や過ごした時間などそれを支える共通の条件があるから、その条件がずれてくると、理解はし合えなくなってくるもの。
 友人関係が壊れるときの原因の一つは、どちらがわるいのではなく関係を支える「条件」が変わったため。

 人同士の理解を支えているのは実は「人柄」とかではないのかもしれません。

 かかわりを支えている「用事」や「仕事」「役割」がなくなると、徐々に疎遠になるものなのです。

 

 まったくの無条件に、完全な理解を、ということを求めると、あらゆる人間関係は破綻してしまいます。

 無条件で、完全な理解を、と求めるの典型を「境界性パーソナリティ障害」といいます。自他の区別がついておらず、それをささえる「仕事」「役割」を持てていない。

(参考)→「境界性パーソナリティ障害の原因とチェック、治療、接し方で大切な14のこと

 トラウマを負う、自己愛が傷つく、とは、互いに理解(という健全な幻想)し合うための条件を維持できなくなってしまうこととも言えます。そして、細かな差は捨てて、代表的な要素をとらえて「理解しあえている」と感じる力が失われてしまっている状態。

 

 ものすごく他者や自分にも厳しくなり、「あれも合わない、これも合わない、どれも合わない」「世の中って俗でつまらない。自分の高いレベルに叶うものがない」となってしまいます。

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

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