「You are Not OK」 の発作

 

 「この人といるとなんだか居心地が悪い」
 「この人といると、なんだか自信がなくなる」
 
というタイプの方がいます。

 かなり昔、筆者が出会った方で、ある組織の長である中年の男性がいらっしゃいました。この方は、「You are NOT OK」が体から溢れていました。一緒にいるとものすごく居心地が悪い。

 ある時、別のメンバーがその方とのやり取りでミスをしたのですが、そのメンバーはとても落ち込んでいました。

 普通でしたら、次から挽回すればいいや、というところなのですが、その方に関しては「You are NOT OK」が強すぎて、「どう頑張っても挽回できない」という雰囲気が出ていて、そのメンバーも絶望感や、自信喪失しか感じない、ということでした。

 

 

 こうした方は、私達の周りで少なくありません。
 仕事でもプライベートでも接していると妙にこちらが罪悪感や自信をなくすような感じを感じる方。
 

 他の例としては、他人の些細なルール違反やミスを突いて、大騒ぎをしないと気がすまない、という方もいます。世の中には、状況や慣習、価値観の差でルールの例外で運用されていることは多いものです。

 そこを正論でついて大騒ぎをして、「You are NOT OK」から「I’m OK」を得ようとする行為です。

 

 ドラマに出てくるような昔の姑さんタイプはこんな感じかもしれません。
「日常の掃除は、できる範囲で良い」ということも立派な割り切りであり、価値観ですが、「徹底しなくてはならない」という正論で、相手をやり込めて、自分の「勝ち」を得るわけです。

 

 会社などでも、文書の形式や、事務処理のルールが慣習的にゆるくなっていることもあります。そこを意図的について、部下をやり込めたりする上司というのはいます。 「お前はこんなルール違反をするようなルーズでおかしなやつで失格だ(≒だから俺の支配に服せ!)」という感じです。

 

 

 そうした自己愛が傷ついているために、「You are NOT OK」の発作が出てしまう人というのは世の中に多く存在します。
 「I’m NOT OK」を「I’m OK」にしたいからなのですが、それがどうしてもできないために起こります。

 

 養育環境がひどくて、特に親が、「You are NOT OK」のコミュニケーションを取っていたということも影響することがあります。周りを否定することで自分をなんとか保つ、ということが行われていて、家族はその配役とされていました。 親が他人の悪口ばかりを言う、ということは珍しくありません。

 

 別の場合は、「関係念慮」といって、あまりにも被害者意識が強くなりすぎたり、身体の失調から、認知に歪みが生じていたり、ノイズをキャンセルできない場合。これも、「You are NOT OK」の発作が促進されます。

(参考)→「「関係念慮(被害関係念慮、妄想)」

 まわりは、ちょっとした仕草、態度も自分を否定しているとしか見えず、「ひどい奴ばっか」「自分のことを悪く言っている」という風にしか見えなくなります。

 そこから逃れるためには強い不安を払拭して自分を保つためには、相手を徹底的に否定するしかありません。 (「関係念慮」はその方にとっては真実ですから、その渦中にいる人を疑念の渦から掬い上げるのは容易なことではありません。 周囲が「それはさすがに思い込みすぎでは?」と事実を伝えると「あなたもひどい(You are NOT OK too)」と逆恨みされて大変なことになりますので、
辛抱強く共感して、安心安全感を高めることが必要になります。)

 「You are NOT OK」は、発作のように起きていることなので、とても厄介。他人を巻き込みながら、かろうじて「I’m OK」を得ようとします。

 

   

 そうした「You are NOT OK」のメッセージを浴びたときは、まずは真に受けない。発作のような現象であり、背景には自己愛の傷つきがあるのだ、と知ること。多くの場合、真正面から否定すると相手は怒り出しますから、最初は形式的に承って、それからゆっくり、静かに「そのようなことはありません。ご安心ください」と伝えると、ダメージを最小限にして、相手は勝手が違うと思い、去っていきます。
 (頭の中で「あなたは大丈夫」と思ってあげることも、良いかもしれません。自然と伝わって、「You are NOT OK」を作り出さなくても、「I’m OK」を感じてもらうことができます)

 

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

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お悩みの原因や解決方法について

人は、自己愛が傷つくと、相手を「負かして」、自分が「勝つ」ことで存在を保とうとする

 

 私たち人間というのは、関係性の中で、「位置と役割」を得て、自分の自信や存在価値というものを感じ取ることができています。

 その一番の土台は「愛着」というもので、コンピュータのOSのようにワンパッケージで提供してくれます。
 そこから得られる自信、存在価値という感覚は、身体レベルのものです。
 身体レベルでの「安心安全」。頭で理屈付けする必要のないような感覚です(「理由わからないけど、当たり前」という感じ)。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 

 愛着不安やトラウマ(ストレスによるストレス応答系の失調)、発達障害などになると、そうした身体レベルでの安心安全が崩れます。すると、コンパスが乱れて自分自身の「位置と役割」が感じにくくなり、根拠のない自信、存在価値というものが感じ取れなくなります。

 

 すると、頭(論理的に)で、自分自身の存在価値を構築する必要があります。ただ、この作業は本当に難しい作業です。

 なぜかというと、人間が自分の存在価値を証明する、というのは、たとえば、哲学者カントとかヘーゲルとかハイデガーとか、そうした天才たちでも完全にはできなかったような、とてつもない作業を一人でしなければならないからです。
 

 トラウマを負った人というのは頭のいい人が多い、という印象はここから来るのかもしれません。自分で色々と考えざるを得ないからです。
 

 

 生きづらさも極まったり、自分で考えることに疲れてくると、一足飛びに承認を得たい、という感覚になります。

 超越的ななにかとつながって、自分の価値や自身を認めるような関係がほしい。それがスピリチュアルなものへの関心、という形で現れることがあります。

 

 筆者も昔、天を指差す海外のスポーツ選手の仕草を見て
「キリスト教とか、一神教というのは羨ましいなあ」と感じたことがありました。自分で考えたり、煩わしい人との関係は抜きにして、自信を構築できる手段があるように見えたからです。

 

 問題なのは、人間にとって正しい正しくないとはしばしば相対的です。すると、頭のレベル(論理的に)で自分の正しさ( I’m OK )を証明するためには、誰かを敵として相手を貶めるしかない(「勝ち」を得る)、というところがあります。
 
 宗教などでも、異端とされる側の人たちを徹底的に殲滅しないと、自分たちが正しいと証明が難しい。ですから、苛烈を極めます。

 

 

 トラウマを負った人にとっても、「You are Not OK」という態度になりやすい。もちろん、自分にも根底ではどうしても自信がないのが拭えないのですが、躁的防衛で自分を高めて、相手を「You are Not OK」と思うこと(自己愛性パーソナリティ障害的な状態)で、自信をなんとかこしらえることができます。

 それが外に向くと、事業や仕事で一時的に活躍できたりすることがあります。

 

 

 自己愛が傷ついている状態の人というのがいます。トラウマを負った人たちにとっては、ハラスメントを仕掛けてくる側の人たち、といえるかもしれません。

 自己愛が傷ついているということは、常に「負け( I’m NOT OK )」を抱えている、ということです。
 
 人間、「負け( I’m NOT OK )」を抱えている状態を解消するためには、相手に「勝つ(You are Not OK)」しかありません。

 

 それが事業、仕事とか生産的なものに向く場合は良いのですが、そうした手段も奪われている人たち、あるいはあまりにも「負け」が混んでしまっていてにっちもさっちもいかない人、身体レベルでも強い不安、自信喪失を抱えている人は、他者を貶めることで、「勝ち( I’m OK )」を得ようとします。

 

 無意識に「勝てる(You are Not OK)」人を探そうとします。

 
 そうして「勝てる(You are Not OK)」人を見つけて、相手の行動に因縁をつけて、相手をコテンパンにやっつけようとします。

 例えば、ちょっとした態度や仕草、言葉尻、メールの文面を取り上げては「失礼だ」として怒り出したり。応じた相手を徹底的に人格攻撃をしたり。
 

その時の攻撃というのが、徹底しているのは、「勝つ」ためです。
 そのため攻撃(ハラスメント)を受けた側は、「こんなに非難されるということは、自分はよほどひどい人間なんだ」、と真に受ける必要はありません。
 なぜなら、「勝つ=相手を徹底的に負かす」ということだからです。
 相手を全くだめな人間だ、という形にしなければ、「勝ち」がつかないからです。

 自己愛が傷つくと側頭葉に怒りがたまり、認知に歪みが生じていますから、本人も半分無意識的に行っていることです。

 そうして「勝ち」を拾って、自分を一時的に癒そうとします。ただ、一時的なものですし、根本的には、何も解決しませんので、次の対象を探して、回ることになります。

 

 

 こうした人達が、世の中の「サービス業」の周辺を回遊していたりします。
 (境界性パーソナリティ障害、発達障害の一部の人達などがそれに当たると考えられます。)

 サービス業で目指すのは経済的にはWin-Win ですが、精神的には「Lose-Win」(お店側が負け-お客様が勝ち)という体(演技)をあえてとっているのは(「出血大サービス」という表現を使っているのは、まさにそうですね。「私達は大負けして、あなた達が勝っているんですよ」というニュアンス)

 

 トラウマを負った人は、この負ける演技をすることがうまくできない。ニュートラルな関係の中で、演技(=儀礼)をすることなのですが、すごくへりくだりすぎてしまったり、演技をせずに棒立ちになったりするので、相手は嫉妬を起こしたり、あるいは脅威、「負け」を感じてこちらに勝とうとして、失礼なことを言ってきたり、輪をかけてこちらを攻撃してきたりするようになります。

 人間は相手に「負け(You are Not OK)」を負わせて、自分の勝ちを得ようとする生き物、ということも世の中の裏ルールと言えるかもしれません。

そのルールを知った上で、うまく対処する必要があります。

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

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普通の実態がわからない~他の人はそこまでしていない

 先日の記事でも書きましたが、
 意識が高い、ということは、やりすぎてしまう、ということでもあります。

(参考)→「なぜ、意識が高いと揶揄されるのか?」 

そして、
 仕事でもファインプレーを目指そうとする。

(参考)→「ファインプレーを目指そうとする」 
 理不尽な要求に答えることを当たり前とする、ということがあります。 
 

 

 その意識の高さや、自分への厳しさは「マイルール」のようなものですから、世の中で求められることとはズレがあります。

 気づいてみれば、「他の人たちは、そこまでやっていない」ということがあります。

 また、他人が本当は求めてもいないことに一生懸命になっているために努力に比して大して評価もされない。

 本当に力を入れないといけないことができていないので、逆にだんだんと評価が下がる、ということも起きてしまう。

 

 トラウマを負うということは、理不尽なストレスを浴びてきたということです。
 アメリカなどの映画で、戦争から帰還してきた兵士が、庭でのんびりしていると、茂みから愛犬が飛び出してきたのをゲリラだと勘違いして構えたり、バーベキューの炎がバチッという音に反応して汗だくになったり、というようなことがありますが、日常でトラウマを負っているいうのは、そういうことにも似ています。

 特に人、社会というのはとても恐ろしいものに見えているので、その理不尽に対してずっと過剰に身構えている。

 

 ”非常事態のプロトコル”で動いていて、”日常のプロトコル”で動いていないので、襲撃されないように過剰に準備をしてしまって、空回りということが起きるのです。

 プライベートでも、仕事でも普通の当たり前がわからず、やりすぎたり、ということがおきます。

 

 

 普通の人たちは、トラウマを負った人から見たら想像の何倍も、普段は「低体温で」「無関心で」「テンションが低い」ものです。
 でも、ここぞというときは「高温で」「他者にしっかり関心を向け」「テンションを上げる」のです。
 そのメリハリの適度な”波”のことを「気が合う」「気が利く」と評されるものになります。

 

 トラウマを負っていると、ずっと「緊張し」、「テンションが高く」、「関心を向けている」ために、メリハリがなくいざというときには動けなくなる。そして空回りが起こる。
 

 

 そうした空回りを乗り越えるためにはどうするのか?

 
 自分が考えている努力をやめて、まずは大きく撤退する必要があります。そこから周りの人達を見ながら、必要なものだけ足していく。

 

 その時は何やらサボっているような、平凡になってしまって嫌だ、という感情が湧くかもしれませんが、淡々と行っていく。

 「(頑張らなければ)怒られる、見捨てられる」という感情が襲うこともあります。あまりに強いようでしたらカウンセリングやケアを受ける必要もあります。

 基本は、そうした「怒られる」「見捨てられる」という気持ちはトラウマが放り込む幻想だ、と知ることです。

 

 人間関係でも、人付き合いでも、無理をしない、気もつかわない、へりくだらない、挨拶だけしておく。
 そして、最低限必要なものだけを足していく。

(参考)→「関係の基礎3~1階、2階、3階という階層構造を築く

 

 トラウマを負った人が見ている、人間関係や社会への幻想の壁(「人間はこうだ」「社会はこうだ」)はなかなか強固で厄介なものですが、徐々に薄れていきます。

 

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

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なぜ、意識が高いと揶揄されるのか?

 トラウマを負った人は、とても「意識が高い」ように見えます。

 世の中の矛盾がよく目につく。
 会社など、組織の矛盾もよく目に入る。

 同年代の人にはないピュアな感性を持っていたりする。

 人のことを先回りして、いろいろと気を使って、何かをしようとする。

 
 気持ちがへとへとになって疲れるくらいに、周囲に対して意識を向けます。

 

 近年、そうした人に対しては「意識高い」系として揶揄されます。

 揶揄の裏には嫉妬などネガティブな要素もあります。単なる揶揄でしかないものもあります。

 ただ、的を得ているところもあります。

 

 なぜかといえば、一般の人のプロトコル(付き合いの手順)に合わず違和感を感じさせてしまうからです。

 これまでの記事でもまとめましたように、人間は、1階、2階、3階・・と階層状になっていて、多くの場合私たちは一階で接しています。

(参考)→「関係の基礎3~1階、2階、3階という階層構造を築く

 

 1階というのは、気を込めず、淡々とやり取りをこなす形式的な世界です。意識が高い行為というのは、2階、特に3階部分のスペシャルサービスです。
 ここぞ、というときに発揮するもの。

 

 しかし、トラウマを負った人は、階層状になっていることが感覚的につかめずに、1階部分に、2階、3階の要素が混在してしまっています。そのため、1階部分から意識が高い行動をとってしまいます。

 さらに、トラウマを負った人からすると世の中は理不尽であって、改革の対象でもあります。大人への反発もあったりする。そのため、「You are not OK」というサインが出やすいことも重なります。
 

 周囲の人達が一見、のんびりとして、やる気が無いように見えるのは、それは階層構造になっているためです。いざとなれば動くわけですが、それがわからずに、「You are not OK」というサインを出して、意識高く動きまわると、空回りや反発を生んでしまうようです。

 

 安定型の人は、実はそんなに気を使っていない。気を使う時と使わない時とを分けている、と言えます。
 ポイントは、リラックス~緊張の切り替え、アップダウン。

 
 健康な状態の人間は、普段はリラックスしていて(1階にいて)、いざというときにテンションが急上昇する(3階に上がる)。

 トラウマを負っている人は、常に緊張していて(3階にいて)、いざというときテンションが持続できず動けなくなる(階段から転ぶ)

 テンションのアップダウンのなさが関係のプロトコル(手順)の乱れの大きな原因の一つになり、違和感、揶揄を招いているようです。

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

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