目の前の人への陰性感情(否定的な感情)もローカルルールによるものだった!?

 

 ローカルルール人格が厄介なのは、目の前の人への陰性感情(否定的な感情)を伴って現れてくるということです。目の前の人とは、家族とか、友人とか、あるいは治療者に対してです。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 否定的な感情をぶつけられる事自体もとても嫌な体験ですが、それ以上に対処に困る厄介なものです。

 なぜ、陰性感情が厄介かというのは、否定的な感情を浴びせられて傷つけられた側は、皆「あれ?おかしいな」と違和感を感じているのですが、その違和感を言葉にすることがためらわれてしまうからです。

 

 一つは自分自身の中にある自己否定感、自責感のゆえに。
「人からの指摘は受け止めなくては?」とか、「自分が間違っているのでは?」という意識があるためです。
 ローカルルール人格はそれを悪用しています。間違ったリアリティを信じさせて、自分を延命させようとします。

(参考)→「モジュール(人格)単位で悩みをとらえる重要性~ローカルルールは“モジュール(人格)”単位で感染、解離し問題を引き起こす。

 

 

 もう一つには、一つ目とも似ていますが、自分に都合が良すぎないか?というためらいによるためです。
 「それって、ローカルルール人格によるものじゃない」とおかしくなっている相手に指摘をしたいのですが、どうしても、自分に都合が良すぎないか?というためらいから、違和感を口にすることを躊躇してしまうのです。

 

 

 例えば、「あなたの~~が嫌い。もうあなたとは付き合わない」といったことを言われた際に、言われた側はそれを受け止めなくては、と思いながらも、身体感覚(ガットフィーリング)としては「なにか変だ」と違和感を感じます。
(参考)→「頭ではなく、腸で感じ取る。

 

 その違和感から「今のは、本来のあなたじゃないんじゃないの?」と指摘したいところですが、「欠点を指摘された自分が都合の良い言い訳をしているのでは?」「相手をコントロールしたいという気持ちの現われでは?」というためらいを感じてしまい、その場で突っ込めなくなってしまいます。内省的な人、良心的な人ほどそれができなくなる。
 

 また、「相手がこちらのいうことを信じず反論され、泥仕合のような言い合いになったら嫌だ」という気持ちもあるでしょう。

 

 そうした結果、言葉を飲み込んでしまい、ローカルルール人格を延命させてしまうことになります。

 

 

 治療の現場でもこうしたことはあります。

 医師やカウンセラーへの否定的な言葉やクレームを理不尽につけられて、あれ?と思っても、それを「ローカルルール人格のせいですよ」とはその場で言えなかったりします。

 特に、ドロップ(治療を中断)しそうになっている人に対しては「ローカルルール人格の邪魔によるものですね」というのは、何やら都合よく引き止めているように思われて、躊躇してしまうことはしばしばあります。

 

 本当は勇気を持って、ローカルルール人格の邪魔によるものだ、ということは伝える必要があります。それがクライアントさんを護ることにつながるからです。クライアントさんの中にある本来の自分は文句を言いたいわけでも、治療をやめたいわけでもないのですから。
 

 

 

 ローカルルール人格の違和感というのは、経験を積んでくると直感でわかります。ローカルルール人格に接すると何やら違和感を感じたり、怒りが湧いてきたりします。

 

 治療者ではない、普通の方でも、違和感はちゃんと感じています。ただ、上に挙げたような様々な雑念から違和感を否定してしまって、わからなくなっているだけです。

 

 

 

 実は、目の前の人に文句を言いたくなる、ということ自体が常識から考えるとおかしいことなのです。普通の感覚ではありません。自他の別を越えて、相手の存在に因縁をつける、という権利は誰にもありません。

目の前の人に文句を言いたくなる、というのは、最近ニュースになるあおり運転と実は変わりません。全く同じメカニズムによるものです。本来の自分の感情ではないのです。

 ローカルルール人格にスイッチした、あるいは、本来の自分が影響して、因縁をつけている、ということです。

 

 「それ、ローカルルール人格じゃん」と気が付く必要があります。

 

 ローカルルールがなぜ、目の前の人に陰性感情をもたせようとしているか、といえば、それはその人を孤独に陥れて、自分自身を延命させようとしているから。沢山の人と交流されては、ローカルルールが嘘だとバレてしまって効力を失ってしまうからです。
 だから、できるだけ人との関わりは少なくさせたい。とりわけ、治療者は治療するために関わってきますから、より遠ざけたいという力が働きます。

 

 

 人間が人格に分かれている、というのは以前からも指摘されていましたが、あらためて注目する必要があります。ローカルルール人格が様々な問題を生み出しているということも常識になることも必要です。
(従来のように投影とか無意識の働きとか、妄想という解釈では、どうしてもその方自身の問題と感じられて抵抗を生じさせてしまいますが、人格の影響による、ということがわかれば、そうしたこともなくなってきます。本来の自分は問題がなく、むしろ被害を受けて苦しんでいるわけですから)
 

 

 例えば、これまでだったら「境界性パーソナリティ障害」だとされるようなキレてしまう人や、治療が中断してしまう人たちもケアすることができます。
 本来の自分の意に反してとった行動が”人格”によるものだとわかれば、自分が責められることもないですし、その呪縛からも逃れることができるからです。

(参考)→「境界性パーソナリティ障害の原因とチェック、治療、接し方で大切な14のこと

 

 私たちたちは、よくありそうで、もっともだけど、なにかおかしいということに振り回されてきました。陰性感情(否定的な感情)を持つ側も、それをぶつけられる側も、もう真に受けることはやめていくことです。

(治療者やスーパーバイザーなどはなおのこと真に受けてはいけない。真に受けると、クライアントさんがローカルルールの呪縛から抜けられなくなってしまいます。)

 

 

 目の前の家族や職場の人、治療者などへの否定的な感情(陰性感情)が湧いてきたら、「これって、本来の自分の感情ではなく、ローカルルール人格のよるものなんじゃないの?」と検証してみる。

 

 反対に、相手から理由なく否定的な感情(陰性感情)をぶつけられたら「それって、ローカルルール人格によるものなんじゃない?(本来のあなたではないのではないの?)」とツッコミを入れていくことが大切です。

 

 真に受けることでローカルルールは延命されていきますので、ツッコまれたり、違和感を表現すると徐々に力が落ちていきます。

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

 

「正統性」と「協力」~ローカルルールのメカニズムを知り、支配を打ち破る。

 

 ローカルルールというのは、それを受け入れる人がいて初めてなり立ちます。

ローカルルール自体は根拠が薄弱なニセモノ(幻想)だからです。

(参考)→「ローカルルールとは何か?

 

 ローカルルールの最たるものは、ファシズムや全体主義です。
 なぜ、全体主義の国では警察が個人の思想や内面まで取り締まろうとするか、といえば、ローカルルールがそれを支える人たちの幻想がなくなれば存在できなくなるほど脆いからです。

 だから、人々の頭の中を常に取り締まっておいて、恐怖や罪悪感でしばらないと壊れてしまうのです。

 

 

 ローカルルール人格という存在に対しても同様です。
 たしかに厄介で面倒な存在なのですが、それはそれを真に受けて支えさせられている部分が私たちの中にあるから。

真に受けさせることでローカルルール人格は延命している。

 ローカルルールを壊すためには、そうしたメカニズムを知り対抗していく必要があります。 

 

 

 支配のメカニズムを知って、独立を勝ち取る、ということで参考になるのは、インドのガンジーの戦略です。
 
 インドのガンジーたちは、イギリスの植民地支配からの独立を勝ち取りました。
 非暴力・不服従運動と呼ばれるものによって、それは達成されました。
 非暴力ということで、理想主義的なもののように捉えられがちですが、実は単なる理想主義の運動ではありませんでした。

 

 支配には実はメカニズムがあります。
 どのような国でも、支配する側のほうが人数では圧倒的に少なく、支配される側のほうが圧倒的に多い状況です。
 そのため、支配する側に「正統性」がなければ続かないし、支配に協力する人たちがいないと成り立ちません。

 つい、軍隊とか警察の暴力で押さえつけているだけ、と思いがちですが、それではなかなか続かないもので、支配する正統性を権威で示し、協力させて、暴力というのは権威を維持するために用いられています。

 

 つまり、支配は「正統性」と「協力」というこの2つの要素で成り立っている、ということです。
 (いじめも同様で、いじめっ子たちが唱えるルールの正統性が信じられ、協力する人たちがいなければ成り立ちません。ハラスメントも同様です)

(参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 

 

 ガンジーの運動というのは、「正統性」と「協力」というその支配のメカニズムを見抜いた上での対抗措置です。
 
 具体的には、 
 暴力という行為に対しては応酬しないことで、イギリスの「正統性」を剥がし、不服従によって「協力」しないことで、支配というローカルルールを支える機能を壊す、ということをしました。
  
 結果、独立が達成されていきました。 
 

 

 ここで勘違いしてはいけないのは、不服従運動とは、無抵抗ではありません。

 ハラスメントに対しては抵抗しないとしばしばエスカレートしたりします。
 
 失礼な発言に対しては、「失礼ですね」と突っ込んだり、
 場合によっては、叱責一発で解決したりするし、そうしないといけない。

 

 でも、トラウマを負った人は、しばしば無抵抗の呪縛にかかっている。
 筆者も昔そうでしたが、無抵抗であることが良い人である、とか、人間としてできているということである、といった考えにとらわれていたり、
 あるいは、家族から、抵抗そのものができないように、呪縛をかけられてしまう。

 例えば、「嫌だ」といえば、「頑固だ。かわいくない」とか、怒ったら、「怒りっぽい」「父親(母親)に似ている」と言われたり、とか 抵抗力を奪われてしまっていたりする。

 無抵抗にさせられている。

 おかしなことには抵抗したり、声を上げないといけない。

 

 その際にはローカルルールのメカニズムを壊すようにする。

 正統性を奪い、支配に従わない。
 

 「正統性」を奪うというのは、まずはローカルルールだと気がつくこと。
 自分が内面化しているもの、日常で直面するものそれぞれについてローカルルールの存在に気がつくということです。

 

 そして、協力しない、従わないというのは
 日常直面するものについては、真に受けない、失礼なことに対してはツッコむということ。
 内面化している部分については、自分の中にもそれに感染して協力している人格がいて、それが解離して前に出てきたり、本来の自分に影響したりしていることに気づいて、それに従わないことです。

 

 支える基盤がなければ、徐々にローカルルールは消えてなくなっていきます。

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

意味深というのは、ローカルルールに巻き込むための方策

 

 「大切なものは目に見えないんだよ」

 

 という台詞で有名な「星の王子さま」です。

 素敵な童話というように考えられてきましたが、東大の安冨歩教授によると、これは、モラルハラスメントについて書かれた作品だ、といわれています。 

 
 王子さまはバラとかキツネとか、出会うキャラクターたちの意味深な発言に混乱させられ、罪悪感を植え付けられて、徐々に支配されていくさまが描かれています。

 「ハラスメント被害者の物語」というのが、「星の王子さま」の別の姿です。

 

 「大切なものは目に見えないんだよ」というのは、一般には素敵なセリフとして紹介されていますが、とんでもない。その逆で、意味深さで王子さまを縛る呪い言葉だったのです。

 

 
 私たちも星の王子さまのように、ハラスメントの呪縛にかかって苦しんでいるのですが、その中でも厄介なのは、身近な人が発する意味深な発言です。

 意味深な発言というのが、さながら、コンピュータに演算不能な関数を打ち込んでダウンさせてしまうように頭をぐるぐるとさせて、私たちを縛り続けてしまうのです。

 

 世の中には、意味深なことを言ったりする人は少なくありません。

 予言めいたことを言う人もいます。

 「あなたは将来こうなる」とか。

 

 特に家族は厄介で、家族からの意味深な言葉がずっと残っていて、クライアントさんを縛っていることがよくある。

 

 実は単に、ローカルルール人格が発した世迷い言でしかないのに。

(参考)→「共感してはいけない?!

 

 

 現代は人間が理性的な存在である、という前提があるために、私的環境においては、人間が日常的におかしくなるのだ、ということが忘れられている。
おかしくなるというのは、よほどの酩酊、錯乱状態のときだけとされている。

(参考)「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

 その為、日常で発せられる意味のない意味深な発言を真に受けさせられている。

 

 実際はそんなことはなく、
 たとえ地位のある人の言葉でさえ、日常においては戯れ(戯言)でしかなく意味などない。
 

 それなのに、なぜ意味があるように聞こえるかといえば、ローカルルール人格というのは、“神化”しているから。

 

 ニセ神様のようになってしまっていて、あたかも自分がすべてを知っていて、相手を支配する力があると錯覚した存在だから。
 ただ、認識できる範囲は狭いので、具体的に言うことができない。独自の不思議世界の中にいる。そうしたこともあって“意味深な”発言となってしまうのです。

 

 

 一方、真に受ける側の事情もあります。
 

 長い間、理不尽なストレス環境にあると、安心安全がないために物理的な現実を信頼することができない。世の中というのは理不尽に突然襲ってくるものだ、という感覚があります。
 
 また、あまりにも現実がうまくいかないために、それらを迂回したり、寄る辺を求めるためにスピリチュアルなものに対しても親和性を持ってしまうことがある。

 さらには、トラウマを負った人というのはいつも深刻なのです。リラック史できず過緊張でガチガチです。そのため、真に受けなくても良いことまで深刻に受け取ってしまう。

 すると、意味深な言動というものが何やら聞く必要のあるかのように感じられてしまい、真に受けてしまうようになる。

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

 相手が意味深なことをいうときは、ローカルルール人格にスイッチしているのですが、実際の治療現場でも意味深発言というのは起こります。

 

 あるセッションで、クライアントさんが“本音”を吐露し始めました。
 幼いことからのこと、治療者への要望や陰性感情などもふくめて、とっても意味深な内容で、治療者としてはなんとか話に耳を傾けて理解しようとします。特に要望は聞かなければとがんばります。

 なんとか、こういうことかな?と意味がわからない部分がありながらも懸命に受け止めた、と思って、セッションが終わりました。

後日、しばらくして何回かあとのセッションの機会で、

 「あのときのことは実は、治療者を巻き込もうとしてやっていたことだったとおもいます」

 とそのクライアントさんがおっしゃったそうです。

 「あれは本当はそうは思っていませんでした」と。

 

 治療者は驚きました。

 「ええ~!一生懸命聞いていたあれは何だったの?」

 やっぱり、人格ってスイッチするし、意味深な発言っていうのは意味がないんだ、ということを示す出来事です。

 

 

 要は、「意味深」というのも、巻き込むための方策でしかないことをあらためて教えられるエピソードです。

 

 

 「ドクターハウス」というアメリカの医療ドラマがありますが、その主人公の口癖は、「患者はウソをつく」といいます。

 

 さすがに、「治療者が患者さんの話を嘘と思って聞いてはまずいでしょう」「そんなひどい治療者にはなりたくない」と思ってしまいますが、「私はクライアントさんのすべてを受け止めます」とやっているとでも、はじめのうちは良いのですが、しばらくすると本当にやられてしまいます。ある日ひどいクレームにさらされて、治療者を辞めないといないところまで精神的に追い込まれます。

 これは、カウンセラーなどの治療者あるあるですね。

 

 ベテランの治療者はそのことを知っていて、うまく流して本質を捉えようとします。特に依存症などを扱う(依存症は人格が顕著に変わる症状です)医師やカウンセラーなどは、真に受けないように、巻き込まれないようにトレーニングをされているそうです。

 

 ドクターハウスの主人公は、要は「本質に目を向けろ」といっているわけです。人間というのは弱い生き物でいろいろな事情を抱えていて本当のことが言えない場合もあるし、人格もスイッチするから真に受けていたら二進も三進もいかなくなる。

 
 カウンセリングでも同様に、クライアントさんの本来の人格の言葉を聞くためには、表面的な言動に惑わされてはいけないし、その奥にあるものを捉えないといけない、ということになります。

 

 治療場面だけが特別ではなく、私たちは日常でもにとってもこうしたことはしばしば接します。特に親族、友人、知人、会社の上司、意味深発言、というのはまともに聞いてはいけない。

 スルーするか、「なにうさん臭いこと、いってるねん!」と突っ込み返さないといけない。相手は神様ではなく人間なんですから、分をわきまえない意味深な言葉なんて発する力ありませんから。

 

 実際に、よくあるお笑い芸人の漫談で、すごく伝統や権威のある、と思っていた人とか占い師めいた人の話を真剣に聞いていたら、ただのおじいさんだったとか、実はそうじゃなかった、いい加減だった、みたいな笑いばなしがありますが、まさにそんな感じ。

 

 

 人間の言葉は本当に意味がない。
言葉が意味を持つのは公的環境においてのみです。

 

 特に意味深発言は耳を傾けてはいけません。意味を考えてはいけません。前回の記事でも書きましたが、日常の会話というのは戯れとして流していくものなのです。

(参考)人の話をよく聞いてはいけない~日常の会話とは“戯れ”である。

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

世の中は、実はニセのクレームだらけ

 

 妻夫木聡さんが主演している「悪人」という映画があります。
 吉田修一さんの小説に基づいたものですが、その映画の中で、登場人物がむしゃくしゃしてラーメン屋を出る際に「ああ、まずかった!」と大きな声で行って出ていくシーンがあります。

 これは明らかにその登場人物が物事がうまくいかない不全感からラーメン屋の店主を傷つけようとして行ったものです。
 
 当然、発言の内容には意味はありません。

 もし、ラーメン屋の店主が真に受けてしまったら、ラーメン屋を廃業する、なんてことが起きるかもしれません。

 

 

 以前、TV番組で、藝妓さんが取り上げられていました。
 伝説的な藝妓さんということで芸も一流ですが、会話の仕方からすべて相手のことを気遣って接していらっしゃいました。
 

 そんな伝説の藝妓さんでも、仕事をしていて辛い体験はあったそうです。
 それはある宴会の席でお座席に呼ばれたときのこと。会話を磨いていた藝妓さんは、相手が盛り上がる話題を提供し、自分では自信を持って接客できた、と思っていたら、後日、「あいつはもう呼ぶな」とお客さんから言われそうなのです。とてもショックな出来事です。

 問題なかったはずだけども、どこか自分に慢心があり、お客さんの気に触ったのではないか、ということだそうです。

 それ以来、会話など接し方を見直して今に至る、というエピソードが紹介されていました。
 

 

 別の例では、ある店員さんが普通に接客していました。そのお客さんは問題なくお帰りになられたと思っていました。
 
 しかし、後日会社のカスタマーセンターに
 「笑顔が嘘くさかった」「親切さが押し付けがましかった」とか、
 「上から目線に感じて不快だったから、二度と利用しない」とのクレームが入った旨の連絡が来て驚いたそうです。

 

 対応している側としてはそれで他のお客さんからは文句もないし、普通に接している。ただ、なぜか1年に1~2回は必ずそうしたお客さんが現れたりする。

 気にしなくて良いとはわかりながらも、店員としてはやはりショックを受けて傷つく、徐々に萎縮する感覚を感じてしまう。 
 
 「自分に問題があるのでは」という気持ちが拭えなくなってしまったそうです。

 

 

 冒頭からの3つの例について、ここで起きていることは、実は全てローカルルール人格が引き起こした現象です。

 (参考)→「モジュール(人格)単位で悩みをとらえる重要性~ローカルルールは“モジュール(人格)”単位で感染、解離し問題を引き起こす。

 

 顧客が自己の不全感から何かの引き金でローカルルール人格にスイッチします。すると、普通にサービスを提供しているのにもかかわらず、クレームを寄せてきて、言い返せない相手を傷つけるだけ傷つけます。

 

 一流のホテルや旅館、レストランでもクレームのないところはありません。

 
 もちろんミスからクレームになることはありますし、それに対応して改善することは当然ですが、多くのものが、要は「自分を大事に扱っていない」という過剰な(ニセモノの)クレームだったりします。

 

 飛行機の中では豹変してローカルルール人格になる人はとても多い。いい大人が駄々っ子のようになって、CAさんを相手に文句を言っている場面をよく目にします。

 CAさんなどの仕事は「感情労働」と呼ばれていますが、そのストレスは大変なものです。

 

 人間はどれだけしっかりと接していても、仕事などでローカルルール人格に変身した方に遭遇します。サービス業であれば必ずある一定の割合と頻度で、ローカルルール人格に変身した人たちが訪れてきます。ローカルルールに相手を巻き込むためだけにサービスに申し込む人もいます。

 

 サービス業などを中心に生じるクレーム(ローカルルール)というものは、「お客様は神様です」「お客様の言うことはどんなことでも応えなければならない」「お客様の方が正しい」といった観念を悪用して成り立っています。
  

 最近は、それを「カスタマーハラスメント」というそうですが、もしかしたら日本では特に生じやすいのかもしれません。
 

 

 以前記事に書いたことがありますが、海外だと、お店に入ってもスマイルもないし、店員さんも無愛想にしています。

(参考)→「社会性を削ぐほど、良い「関係」につながる~私たちが苦しめられている「社会性過多」
  
 良いサービスを受けるためには、その分のお金を払わないといけない。ただでサービスは求めることができない。

 対価と提供するものとがしっかりと対になっている。

 

 実はこれが本来の姿ではないかと思います。

 一方、日本だと、安くてもサービスは良かったりするので、ついつい当たり前に思っていますが、お金も出していないのに、良いサービスを当たり前としているのはどこかおかしい。
 

 

 例えば、コンビニやファーストフードの店員に笑顔がなかった、といってクレームをつける人がいたとしたら、どこか勘違いをしています。
 わずか数百円しかお金を払っていなければ、それだけのサービスしか受けれません。

 

 「いつでもどこでも、一流のホテルマンみたいな対応をしろ!それが常識だ。ただし、追加のサービス費用は払わないから、タダでお願いね」
 
 と言っているということですから。

 

 もし、本来いただいている費用によって提供を約束しているものを厳密に定義したとすれば、正当なクレームというのは半分にも満たないかもしれません。

 

 多くのクレームは、「お客様は神様です」という慣習にタダノリして、自分の不全感を発散しているだけ。

 一般の店員さんに対して、チップを渡しているわけでもないのに、一流の接客を求めるなんて冷静に考えれば変なことです。

 海外でチップが必要なのは、日本人から見たらドライですが、とてもフェアなことではあります。

 

 そう考えると、
 例えば、
 タクシーの運転手が道がわからないとすぐに腹を立てる人もいますが、(もちろん、道を知っていてほしいのはやまやまですが)特別料金を払っているわけではなく流しのタクシーを安く利用しているのであれば、稀にそうした事があるのはやむなしとしてある程度は許容しないといけないのでしょう。 

 

 

 以前、習い事のグループレッスンで先生が自分にアドバイスをくれなかった、と怒っている方がいらっしゃいましたが、それも、もちろん丁寧に対応してくれるに越したことはないのですけれども、グループレッスンであるために割安で利用できているのであればぼちぼちで許容しないといけない。
 手厚く対応してほしいのであれば、本来はマンツーマンのレッスンを申し込まなければいけないということなのでしょう。

 

 

 本来提供を約束しているものと期待のミスマッチ。その間を「お客様は神様です」という気合・慣習を背景に「自分だけは特別に優遇してもらえるはず」という幻想が生まれ、「自分は大事にされていない」という失望がきっかけでそこにローカルルールが付け入って炎上(クレーム)を引き起こす、という構図と言えます。

 

 

 その点、日本は異常かもしれない。

 同様に、個人同士でもさながら日本人全員が伝統芸能の弟子さんにでもなったかのように、過剰な礼儀や気遣いを求められることもおかしなことです。日本はあまりにも細かなことにうるさすぎて、それが自分にも返ってきて、互いに拘束しあっている。もはやローカルルール化している。

 そのために、「対人恐怖症」というのは、日本独自の悩み(文化依存症候群)とされるまでになっています。

(参考)→「対人恐怖症、社交不安障害とは何か?真の原因、克服、症状とチェック

 

 

 
 ローカルルールは、社会で一見正論のようでいておかしな慣習を悪用して、生き永らえようとします。

 例えば、いじめは、「学校の中は自治が行われる聖域で、外の社会とは違い特別だ」といった観念、慣習を悪用をして、社会の常識や法といった外部の介入がなされないまま、被害者が命を断ったり、消えがたいトラウマを負ってしまうということが起きてきました。

(参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 
 DVやパワハラもそうで、「家庭や職場の中は特別(私的領域)」「私がおかしいと判断した相手を指導して良い」という意識がハラスメントの温床となります。

(参考)→「あなたの苦しみはモラハラのせいかも?<ハラスメント>とは何か

(参考)→「家庭内暴力、DV(ドメスティックバイオレンス)とは何か?本当の原因と対策

 

 

 外で人と殴ったり暴言を吐いたら警察に捕まります。しかし、「家や職場の中では良いのだ」といっているのですからおかしなことです。
 外でダメなことは家や職場の中でも当然ダメなのですが、ローカルルールは、内密な関係から外れたら生きていけないような気にさせて、常識がわからなくさせてしまいます。

 本来それぞれ独立した人間ですから、正当な権限でもなければ、相手を指導することなどできません。
 会社でも指導できるのはあくまで業務の改善だけです。人格に触れることはできません。

 

 ローカルルールがはびこりやすいのは、権限の範囲などが曖昧にされていて、曖昧さから生まれる不具合が個人の人格の問題とされたり、擬似的な私的領域が生まれやすい状況といえます。
 
 日本の職場は、仕事の権限や責任が明確ではありません。
 そのために、「これは私の仕事ではありません」「人格に関わることについて言われる筋合いはありません。」とは言えず、曖昧さの隙間にハラスメントが生じます。 

 

 会社と顧客の間にも同様に曖昧さは生じます。

 
 サービス業の方が身につけているのは、当たり障りなく、そうした曖昧な隙間を埋めて、ローカルルール人格にスイッチする確率を減らすための所作やあるいはそれを鎮めるための方略や身を護る術、と言えるかもしれません。

 

 人間は公的な環境では本来の状態でいることができます。
 「礼儀」というのは公的環境を作り出すには最適なものであるためです。

(参考)→「親しき仲にも礼儀あり

 

 しかし、ローカルルール人格の言っていることを真に受けてしまうのであれば、それは全くの間違いです。ふりまわされているだけになります。

 結果、世の中のビジネスはクレームを恐れて過剰に設計されていて余計なコストを負担している。野菜などの食品がわかりやすい。クレームが来そうなものは食べれるものでも廃棄されている。過剰防衛になっていると言えます。 
 

 本来、おかしいのはローカルルール人格の側なのですから。

 

 かつては、ローカルルール人格の言うようなことも意味があるとして受け止める風潮はありました。

 理不尽な部活の先輩や監督の要求に耐える。

 弟子は師匠の気まぐれに応える。

 会社上司の言うことはすべて受け止める。

 などなど

 「理不尽を受け止めたり、耐えることで成長することができました!」というスポ根的な美談は数多くありました。
 (特にトラウマを負った人にとっては、理不尽なことは全て自分の責任であり、応えて当然、と思いがちです。)

 

 
 でも、それらは全く意味がなかったのかもしれない。その事に気がついた人たちが、最近は、モラルハラスメントだとして告発するようになりました。

 告発された側が地位を失うような自体になっています。

 「ハゲ~!」と絶叫していた国会議員は、まさにローカルルール人格に変身した姿を記録されて、失職してしまいました。

 

 冒頭の藝妓さんも、クレームを受けてそれに応えたということで美談となっていますが、現代の基準で言えば、それに応えなくても良かったのかもしれません。
 もちろんクレームに応えて成長できた部分もあることは否定しませんが、受け止めた結果、萎縮して抑えてしまった本来の自分の良さもあるでしょうから。

 

 例えば、好きな芸能人のランキングに上る人が、同時に嫌いな芸能人のランキングにも登場することがしばしばあります。

 その芸能人は、嫌いと言っている人のクレームを聞いて、改善しなければいけないのでしょうか?
 この世には万人に好かれる人はいないのですから、改善したら確実に良さが失われてしまいます。

 

 

 プロ野球の投手は打たれても反省することはありません。

 反省するような性格であれば、投手としてはやっていけない。
 では、独りよがりになるか、といえばそんなことはなく、自分の感覚を信頼して改善していきます。
 
 

 世の中にあるクレームのおそらく9割はローカルルール人格がからむニセクレームで、真のクレームというのは1割といってもよいのでしょう。 

 あおり運転などを見ればわかります。
 並走している車へのクレーム行為ですが、いかに異常であるかがよくわかります。

 

 あおり運転の加害者は異常だとはっきりわかりますが、日常のクレームについてはなぜか真に受けてしまいがちです。
 それは「お客様は神様です」といった慣習が邪魔をしているから。

 世の中には、ローカルルール人格というものが存在するということ、そして世の中はニセのクレームだらけだということを知る必要があります。

 

 ニセのクレームがあるということについてわかりやすいのは、モラルハラスメントを行う会社の上司、DVを行うパートナー、いじめっ子、虐待する親などの発言です。
 私的感情を隠すために彼らは理屈をこねますが、言っている内容が耳を傾けるに値しないことは明らかなことです。

 

 

 虐待死事件で、死に追いやられた子供が痛ましい反省文を書かされていましたが、あれも、親のニセのクレームにさらされ、本来改善する必要のないものを改善するように強いられていたわけです。

 もし、親にインタビューしたら、もっともらしい理屈を語るでしょうけどもたわごとであることは自明です。

 同様のことが、じつは私たちの身近な仕事の現場でも起きています。

 

 ニセのクレームを真に受けて心に傷を負ってしまう人や、場合によっては仕事を辞めてしまう人もいるでしょう。(以前ご紹介したカウンセラーの例もその一つです)

(参考)→「共感してはいけない?!

 

 ニセのクレームだということと、そのことが世間でも浸透し、会社全体でも真に受けなくなれば、過剰防衛によるムダも減るかもしれないですし、トラウマを負ってしまう人も少なくなるかもしれません。
 「カスタマーハラスメント」という言葉が出てきたのは良いことです。

 

 

 こうした前提から考えると、

 仕事において、普通にサービスを提供して、普通に応対していて、それでもクレームが来るなら、それはすべて相手がおかしい、と捉えて間違いではない。
 いじめられっ子が、いじめっ子の理屈を真に受けないでいいのと同様。ローカルルール人格が絡んでいるということ。  

 (会社の中での上司の叱責や、学校や家庭の中での心のない言葉もです。)

 

 

 冒頭のラーメン屋の例であれば、もちろん受け止める必要もなく、店主がその失礼さを叱りつけて、「二度とのれんをくぐるな~」と、水をまいても良いくらいかもしれません。
 叱責によって公的環境にいると目が醒め、人間はローカルルール人格への変身から目が覚めやすくなります。

(参考)「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

 

 万が一、提供すべきサービスが提供できていなければ、それは謝罪し、改めたものを提供し直すということは当然のことですが、

 私たちは、自分の立ち位置は、常に日の当たる側、常識の側においておく。
 そして、しっかり普通に仕事をする、予定されたサービスを提供する。

(参考)→「「常識」こそが、私たちを守ってくれる。

 それでもクレームが来たとしたら、それはニセのクレームだと知る。
 

 

 本当のクレームというのは、意識を向けていれば身体で自然とわかるものです。 

 

 お客さんと会話していく中で、改善のヒントにハッと気がついたり、仕事をする中で不意にアイデアが降りてきたり、といったことがおきます。それが本来のカタチ。 

(参考)→「真の客観とは何か?

(参考)→「頭ではなく、腸で感じ取る。

 

 「本来の自分」同士のやりとりというのは、安心安全で創造的なものです。

 私たちはもっと、常識を背景とした自分の感覚を信頼しても良いのかもしれません。そうすると、何を受け止めるべきことかは自然が教えてくれます。

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

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