人から言われたことが、どうしても意識から抜けない、スルー出来ない、ということはしばしばあります。
「あの人格者がいうんだから、間違いない」
「あれだけ確信をもって発言してきたんだから、何らかの真実があるんだろう」
と。
たわごとだと思っていても、どうしてもそこに何か意味なり、教訓なり、予言性なりをかぎ取ってしまいます。
ただ、俯瞰してみれば、「不完全な動物が発した主観的な声」の域を出るものではありません。
それは、どんなに著名な専門家や学者の言葉であったとしても、です。一意見を超えません。
例えば、ある会社の、ある事業について、当時日本一と言われるコンサルタントが「絶対失敗する」と指摘しましたが、実際はその事業はうまくいったそうです。
専門家が「絶対失敗する」といえば、必ず失敗しそうですが、実際はわからない。そのときに聞いた「絶対」という言葉は妙に真実味を持って聞こえてきそうです。ただ、真実味を持って「聞こえる」ということや、確信を持っていることと、本当かどうかには相関はない。
別の例では、家族が、なにやら予言めいた余計なことを言ってくることもあります。
「あなたは、こうなる」「そんなことをしたらろくなことがない。」
言われた側は本当に腹が立ち、不快ですが、よく考えたら、家族が一番家族のことがわからない。
「ファミリーヒストリー」というNHKの番組があります。有名人が、自分の家族の歴史を振り返るのですが、
「へ~こんなことしていたんだ」「こんな側面があったんだ」ということの連発。
あるクライアントさんが、自分の親が急死して、遺品を整理していましたが、そこで見た姿は、自分が思っていたのとはまた違う親の姿だったのです。様々な事業に取り組んだり、さまざまな人と付き合いがあったり、イメージとはかなり異なりました。
そのくらい、家族のことでもわからない。
家族のことを決めつけて発言したくなる裏には、支配欲や嫉妬などがあるのでしょうけれども、もう一つは、「人間は、神のようにふるまう生き物である」ということがあるのではないか、と思います。
聖書の中でも、神は自分に似せて人間を作った、という記述があります。日本人も、自分たちを「天孫」ととらえます。聖書を作ったのは人間ですから、逆に言えば、人間は神に近い(と錯覚しやすい)、神に似たように行動したがる生き物、ということかもしれません。
そのため、発言をするときも「あたかも神のように」確信をもって発言する習性がある。
単なる「習性」だから、確信を持っているからと言って、内容の真実味とは何の関係もない。ただ、犬や猫が鳴くのと同じ。 支配欲などネガティブな感情があるときは、その習性を、相手を攻撃する道具として用いる。
受け取る側は、単なる習性だと思って、真に受けてはいけない。神のようにふるまうものだ、として、内容が正しいかどうかとは別にしないといけない。
逆に言えば、こちらが傷つく言葉、気になる言葉であればあるほど嘘、何の根拠もない、といえるかもしれません。
なぜかというと、世界は多次元、多様、多元的ですから、真実をとらえればとらえるほど、「あれも、これも、それも」という言い方になって歯切れが悪くなるものだからです。
よく「学者さんに意見を聞くと、はっきり言ってくれなくてつまらない」なんていわれますが、真実であればあるほど歯切れは悪くなります。
他人についても「あなたは~~だ」なんて言いきれない。正確であればあるほど「こういう面もある、こういう面もある、こういう面もある」という言い方になる。
しかも、発言している側の人間も完璧ではないし、失敗も犯してきているでしょうから、どこまで言っても「何様なんだ」と言われてしまいます。
だから、誠実であればあるほど、他人について言い切る発言はできなくなる。
TV番組とか、言論で仕事されている方は、あえて自分を棚上げして、単純に割り切った言い方をしている部分があります。
「還元主義」と言いますが、単純に割り切る言葉は、ほかのことを切り捨てているために切れ味は鋭く、一見効果があるのですが、正しいわけではない。「還元主義」に陥る心性には、自己愛の傷つきも隠れています。
私達の周りには、確信を持って発言する人で溢れています。親、家族、パートナー、上司など。それを真に受ける必要はないと言えそうです。
人は神のようにふるまいたがる生き物(=ニセ神様)だ、ということを肝に銘じて、普段から接していると、かなりスルーしやすく真に受けなくなります。
「左様ですか。ありがたや、ありがたや」とゆっくり丁重に挨拶をしておけば、いなくなってしまいます。
(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服」
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