ローカルルール人格は、妄想や、関係念慮、自分がおかしいと思われることを極度に嫌う

 ローカルルール人格の影響下にあると、関係念慮や妄想を引き起こします。

 関係念慮(妄想)とは、自分とは関係ないことも関係あるとしてとらえてしまうことですが、それが拡大して、相手のなんでもない仕草も、自分を馬鹿にしたり、攻撃したりしている、と認知するようなことも含みます。 
 

(参考)→「「関係念慮(被害関係念慮、妄想)」とは何か?

 

 

 無表情の人を見て、「バカにして笑った」とか、普通の会話を聞いても、「あの言い方はひどい」「私を変な人、おかしな人扱いした」などと歪めて解釈させられてしまいます。

 認知(視覚、聴覚、触覚)を歪められ、疑心暗鬼にさせられてしまうのです。

 

 妄想は、他人にもその方にも害のない妄想であれば、そのままに尊重しますが、 本人にも不利益が生じたり、治療関係が壊れる恐れがあるなど、あまりにもひどい場合は、治療者も「関係念慮の影響があるようですね」と伝えます。

 

 ローカルルール人格というのは、「関係念慮」「妄想」という言葉を極度に恐れます。

 

「関係念慮なんて言葉をいっているうちは私のことを正しく理解できていない。」「狂った人扱いした」「治療者として失格だ」といったようなことも言います。

 

でも、それは全部ウソだったりします。

   

 なぜなら、ローカルルール人格は、そのクライアントさんと支配することが目的です。だから、できるかぎり、そのクライアントさんが世界から孤立するようにもっていきます。

 

 関係念慮は支配ための手段で、疑心暗鬼にして、自分だけを信じなさい、という状態になることが目的です。

 ですから、「関係念慮だ」と気づかれては困るのです。

 

 そこで、「関係念慮」という言葉に強い抵抗を示して、自分の存在を延命させようとします。

 抵抗の激しさからのためらいや、心理臨床は受容を旨とすることから、治療者も通常は伝えることを通常は避けてしまいます。

 

 しかし、ローカルルール人格の存在ということがわかってきた現在では、タイミングを見て、勇気を持って「関係念慮ですね」と伝えることが必要です。
 そうしないと、クライアントさんはなかなかよくならないからです。

 

 もっといえば、尊重し、護るべきは、ローカルルール人格ではなくクライアントさん本来の人格だということです。表面的な抵抗からローカルルール人格の影響を指摘することを避けてしまうことを続けると、治療は長引き、クライアントさんも疲れてしまったり、ローカルルール人格の影響でドロップ(治療中断)させられたりということも起きます。

 

 

 関係念慮の多くは、実は、クライアントさんの家族や、あるいは学校など受けたひどい扱いを内面化したものであったりします。もっと具体的に言えば、家族の歪んだ価値観を真に受けさせられていて、それが人格に感染して、ローカルルール人格として本人を困らせることを始めるわけです。
 
 「関係念慮」とは、特殊な事象ではなく、クライアントさんを呪縛する暗示が認知にまで至った状態ということです。

 

 つまり、関係念慮(妄想)を破ることは、負の暗示から自由になるために必須のものなのです。

 関係念慮(妄想)のさなかに居るときに、そのことに気づくのはなかなか難しいです。ただ、本人もどこかで違和感を感じていたりします。

 

 とくに、疑心暗鬼を感じたり、被害意識、目の前の人への反感を感じたりしたら、それは関係念慮のサインです。

 自分の違和感に耳を澄ませて、そこから抜け出すことが大切です。
 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

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あの理不尽な経験もみんなローカルルール人格のせいだったんだ?!

 

 私たちが、不快な経験を忘れられない、記憶から拭えないのは、
それは、「自分に問題があるのでは?」という考え、恐れがあるためです。

 

 自分に原因がある、という考えがアンカーとなって、悩みを払うことができなくなる(「自分に原因がないと思うと、独りよがりになる。自分が成長できなくなる」といったことを考える人は実はかなり多い)。

 

 「失礼なことを言われたのは、失礼なことを言われるにたる原因が自分にいくらかでもあるためでは?」

 とか、

 虐待といった明らかに加害者側に問題があることでさえ

 「ひどいことをされるのは自分に問題があるからだ」といったことや
 「呪われているからだ」
 「(結果として)自分は穢れてしまった」

 といった観念があるために、悩みはずっと消えなくなってしまいます。

 そして、次も同じ目に合うのではないか? と思うと、萎縮してしまったり、人と接するのが怖くなったりする。

 

 

 本来は人見知りではないのに、人と話すのが億劫になる人見知り状態になります。

 

 

 人というものは面倒でモンスターのような存在で、社会というのもいつどこから嫌なことが降ってくるかわからない、とてもつらく、恐ろしい場所だと感じられてしまいます。
 

 

 理不尽な出来事というのは、基本的に全ては偶発であり、自分に原因はありません。

 しかし、人から来たハラスメントというのは、まさか自分がハラスメントを行っています、と言う人はおらず、それを正当化しようとする理屈も同時に仕掛けてきます。そのため、「被害者側に問題がある」という偽りの正当化も含めて、ハラスメント行為が成り立っています。

 

 私的な情動によるものなのに、それがルールなのだ、正当なものなのだと騙ることを「ローカルルール」といいます。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 ローカルルールは意識して行われることもありますが、多くの場合、ローカルルールは人間の人格部分に感染して、ローカルルール人格を作り出します。

 

 そのローカルルール人格は、刺激によってスイッチ(変身)します。
 その刺激とは、自分の中の不全感、コンプレックスを刺激するような情報です。眼の前で相手が幸せそうだ、といったことなどです。過去の記憶がフラッシュバックして刺激となり、スイッチすることもあります。

 

 

 では、不全感のまったくない人なら起きないか、といえばそうではなく、嫉妬という動物的な刺激もあります。嫉妬はどれだけ自分を磨いても、抑えることができません。 

 どんな人格者でも、ローカルルール人格に変身することは起きるのです。
 ただ、その閾値が低いか高いかだけ。

 

 

 身体のコンディション、つまり栄養や、睡眠、運動がしっかり取れているかもかなり影響します。 睡眠不足だけでも、変身の閾値は急激に下がります。
 
 洗脳セミナーでは、睡眠を制限するなど身体のコンディション低下をうまく使って、ローカルルールを出席者の人格に感染させるのです。
 
 栄養の不足だけではなく、グルテンやカゼイン、カフェインの摂取なども変身のしやすさに影響します。 

 

 

 環境に追い込まれているときも、閾値は下がります。

 仕事で追い込まれているときは睡眠不足も相まって、メンバーにひどい言葉をかけたり、急に怒り出したり、ということがあるのはそのためです。

 

 

 

 人間というのは例外なく誰でもローカルルール人格への変身を起こします。
 
 そのため、

  気さくで人当たりのいい人が急に理不尽なことを言ったり、失礼なことを行ってきたり、
  
  仲良くしていた友達が急に自分を攻撃してきたり、

  公平であるべきはずの上司や教師といった人がハラスメントをしてきたり、

 といったことは日常茶飯事に起こります。

 

 

 

 ローカルルール人格というのはもっともなようでどこかおかしく、その言動には正当性がありません。

 だから、失礼なことを言われたり、されたりしたとしても、全く真に受ける必要はありません。

 

 例えば、
 日常生活で失礼なことを言われたり、理不尽な目にあっても、それはすべてローカルルール人格によるもの、全く真に受ける必要はありません。

 記憶にある、過去の対人関係でも様々な嫌な出来事も、すべてローカルルール人格によるものです。自分には全く原因はありません。
 

 すべて自分からバッサリと切り離して良い。

 

 

 ローカルルールとは、巻き込まれる人が必要ですから、「自分のせいかも?」と真に受けることでローカルルールは生きながらえます。

 

 

 一方で、 ローカルルールとは、根拠がとても薄弱ですから(私的情動でしかないので)、真に受けなくなると、魔女の魔法のりんごように消えてなくなっていきます。
  

 

 これまでも、心理療法は、様々な方法や考え方で、悩みで苦しむ人を免責しようとしてきました。
 しかし、「人格を一つ」と捉えてきた限界から、どうしても自責感(自分に問題がある)が被害者に残り続けたり、なぜ、あの人があんなことをしたのかがわからず、ぐるぐると理由を考えたり、相手をモンスターのように恐れたり、こき下ろしたりすることが頭の中で止まらない、ということが起きていました。

 

 

 人格が一つである、としているために、”いい人”であるはずの人たちがなぜ自分に対しておかしな言動を取るのかが腑に落ちず、結局自分にも問題があるに違いない、という思考を招き、結果ローカルルールを延命させてきました。

 

 

 自分の中にあるローカルルール人格がフィルタをして、情報を歪めて、関係念慮を起こすこともあります。
 それも自分では直感的におかしいと気がついていても、人格は一つと捉えているために、歪んだ情報を払うことができません。
 しかし、自分の中にも「本来の自分」と、「ローカルルール人格」がいるのだ、と明確にわかれば、自分の感じる違和感に基づいて、関係念慮に気づくことがもできます。

(参考)→「「関係念慮(被害関係念慮、妄想)」とは何か?

 

 

 

 臨床の中でわかった、「ローカルルール人格が存在する」という発見と、「私たちはしばしば人格がスイッチしている」ということが見えてきたことで、理不尽さの理由がどうしてもわからず自責感を持ち続ける、という悩みをしつこく残し続ける要因を打ち払うことができようになってきました。

(参考)→「モジュール(人格)単位で悩みをとらえる重要性~ローカルルールは“モジュール(人格)”単位で感染、解離し問題を引き起こす。

 

 

 

 長く苦しんできた悩みが取れることはもちろんですが、世界の見え方が全く変わってきます。

 

 自分がよって立つ常識や感覚を堂々と信頼してよいという自信。
 おかしいことは、ただおかしな存在によるものであるという確信。

 
 これから将来も、自分に問題があるために人から失礼なことをされるのでは!? と恐れる必要はなくなります。
 実際に理不尽なことは起きても、自分に原因を求めることなく、さっと払うことができるという自信が湧いてきます。
 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

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共感してはいけない?!

 

 あるときに、同僚の女性カウンセラーの先生が落ち込んでいました。

 良いところまで治療が進んでいたのに、クライアントさんが急に「あなたの態度が気に入らない。こちらにかけた言葉が気に入らない。等」とクレームを言われ、受付でも文句をさんざん言われ、カウンセリングがドロップ(途中で終了)してしまった、というのです。

 

 そのクライアントさんは、職場で怒りが止まらない。後輩へのダメ出しが抑えられない、ということが主訴で、過去を見ると、明らかに愛着不安を抱えている方でした。

 そうしたことから考えると今回のことは十分にありえる現象です。別の言い方でいえば、境界性パーソナリティ状態といえます。

 

 対応していた女性のカウンセラーの先生は、とてもやさしく、丁寧に応対をされる方で、共感の塊のような先生でした。

 
 だからとても落ち込んでいた。「なぜ、自分の状況について気づきが深まってこれから、というときに・・・」と反省を繰り返していました。
 
 
 おそらく、スーパーバイザーに報告すれば、「共感が足りなかったのでは?」とか、もっともなアドバイスが帰ってくると考えられますが、どうも腑に落ちません。

 こうしたときに、もっと丁寧な対応を、ということをスーパーバイズされることは、カウンセラーをさらに落ち込ませるだけなのかもしれません。

 

 それが原因かわかりませんが、後日家庭の都合での転勤の際に、カウンセラーを続けるかどうかはわからない、ということをおっしゃっていたことを覚えています。

 

 

 
 そのクライアントさんですが、途中明らかに解離(人格のスイッチ)をおこした、と考えられます。怒りをまき散らすローカルルールに感染した破壊的な人格にスイッチした(もちろん、いわゆる多重人格ではありません)。

 
 怒ったとしても落ち着いて対応できれば・・といいたいところですが、よほど肝が据わっていなければ難しい。慣れていても巻き込まれてしまう。ほとんどの場合は、ひたすら謝って、でも信頼関係は壊れてカウンセリングは続けられなくなって、ドロップしてしまうことになります。
 

 

 おそらく、そのクライアントさんもカウンセラーを変えても、またモジュール(人格)がスイッチして同じことを起こしてしまう可能性が高い。
 だから、なかなかよくならずに転々としてしまう。

 

 

 
 カウンセリングの理論では、共感することで、症状が徐々に軽くなっていくとされますが、こうしたケースを見ると、どうもそうではない。

 

 それは、ローカルルールに感染したモジュール(人格)の存在があるためです。

(参考)→「モジュール(人格)単位で悩みをとらえる重要性~ローカルルールは“モジュール(人格)”単位で感染、解離し問題を引き起こす。

 

 ローカルルールが壊されそうになるとローカルルールを守ろうとして「解離(人格のスイッチ)」が起きて、ちゃぶ台がひっくり返されてしまう。

 ローカルルールは、モジュール(人格)に感染し、解離して現われて、人を巻き込もうとします。
 そして、「治療者の態度が傷つけた」「かけた言葉が気に入らなかった」「プロのくせに本当のことを理解してくれなかった」と“本音”を吐露して、クライアント本人もスイッチが起きていることを知らなければ、それが本心だと疑わず、解離から戻れなくなる。結局、よくならないで終わってしまう。

 

 

 もちろん、怒りやクレームというはローカルルールのそれですから、その方の本音ではもちろんありません。過去に過ごしてきた養育者や友達などが刷り込んだローカルルールの世界であり、そこで語られることは安心安全の世界の住人には理解できない“不思議世界の掟”です。

 

 

 「もっと共感してほしい(共感してもらえていない)」「もっと理解してほしい(理解してもらえていない)」と訴えてくることもしばしばですが、実はそれもその方のホンモノの本心ではありません。

 

 ローカルルールの特徴として、それ自体があたかも人格として自律性を持ち、自らを守ろうとします。ローカルルールはニセルール。根拠が薄弱なために、他者を「You’r NOT OK」としたり、自分の不思議世界に人を巻き込もうとします。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 人格がスイッチしますので記憶が飛んだり、ローカルルールに基づいて物事を解釈するために、家族や治療者についてあることないこと取り上げて、歪めて記憶されます。
 (「関係念慮」は、実はローカルルール人格へのスイッチによって起こっている。)

 

 ローカルルールが「世の中は自分を否定してくるおかしな人ばかり」という価値観であれば、目の前の家族や治療者も「おかしな人」として認識されます。
 もし、笑顔を見せたら「私をバカにした」「見下された」と歪めて記憶されます。

 ローカルルール人格がフィルタのような働きをして、都合の悪い情報はカットし、おかしな解釈をつけて本人の頭の中で情報を伝達します。
 本人も巻き込まれていますから、これを解くのはなかなか厄介です。

 

 

 本人がスイッチに気が付いていればよいですが、気が付いていない状態で、「それは関係念慮がおこっている」と伝えても、「私の言っていることを“関係念慮”だと決めつけている。あなたは私をおかしな人扱いするひどい人だ」とローカルルール人格が出てきて、抵抗してこじれます。

 

 ローカルルール世界に解離したときは、共感しても、謝っても意味がなく、ベストな対応としては常識をもとにスルー、あるいは否定しないといけない。
 

 

 なぜなら、ローカルルールとは、私的な情動が常識を騙っているだけで、根拠が全くないからです。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 いじめもそれを支える存在がなければ成立しないように、ローカルルールが正しいと支えるものがなければ存在できません。いじめを行っている人たちが訴える「だって、A君は気持ち悪いんだもん(そのことを理解してよ、共感してよ)」というローカルルール世界の論理に共感することにはまったく意味がありません。
 「それって歪んだ私的な感情にすぎない」と冷静な突込みが周囲からくる環境(公的環境)ならば、いじめなんてできなくなる。いじめが起きている学校や職場には必ず、それを支える環境があります。

(参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 

 

 
 ローカルルールに感染した人格にスイッチした際に、それが伝えるニセの“本音”に共感すると、ローカルルールの維持を助けることになり、症状は良くならない。

 ローカルルールに感染した人格のクレームはスルーしないといけないのですが、人格がスイッチしているとはいえ激怒している相手に対応するのは、なかなか難しい。

 

 また、ローカルルール世界はとても巧妙で、ニセのクレームの内容で目の前の家族や友人、治療者の欠点を取り上げるために、それを否定する側も都合の良い自己弁護のように感じて躊躇してしまい、「ローカルルール人格によるものだ」と否定しにくくなってしまうのです。
 (クレームには耳を傾けなければならないという俗な常識も邪魔をします。)

 

 ローカルルールのモジュールへの感染、人格化と解離という現象に、一部の人が気づいているだけでは、対処できない。
 いじめにおける教育委員会のようにスーパーバイザーも真に受けてしまう、なんてことも生じます。
 ある程度、こうした対処の仕方が常識とならないと、本格的には対抗できない。真に受けてしまう人が多いと、クライアントさんもよくならない。
 (境界性パーソナリティ障害などは対応が難しいのはこのためですね。)
 

 

 本当は、共感ではなくて、「ローカルルール世界を一刀両断に壊してほしい」ということがホンモノの本心なのだから。  
 (映画やアニメで、本当自分が魔法で作られた世界に閉じ込められていて、「ここから出してくれ」と、その壁を叩いているようなイメージかもしません)

 

 クライアントさんが知識としてローカルルール人格へのスイッチという現象がある、と知るだけでも状況はだいぶ変わります。

 それによって、「本来の自分」と「ローカルルール人格」とを区別することができるので、抵抗や巻き込まれる確率も明らかに下がります。
 (区別されていない状態だと、問題や症状を指摘されても「自分がおかしい」といわれているように考えてて恐怖や怒りを感じてしまいます。)

 
 そして、クライアントさんと治療者が一致協力して、「ローカルルール」という本当の敵に立ち向かうことができます。区別ができていなければ、ごちゃごちゃになってできなくなります。

 

 治療者が真に共感する対象は「本来の自分」であって、「ローカルルール人格」ではないということです。誤って、ローカルルール人格に共感するということは「本来の自分」をないがしろにすることといえます。

 

 

 実際に筆者の経験では、カウンセリングの中でクライアントさんがローカルルール人格へとスイッチした際にそこには共感せず、ローカルルール人格について説明すると、最初はどこかキョトンとしています。
 しかし、ローカルルールによる発言と、本来のクライアントさんの発言とを区分けして、話を進めていくだけで、特別なことはしていないのに、「(今までのセッションで)一番良かった」というフィードバックをいただくことが珍しくないのには驚きます。
 (単に話をしているだけなのに!? やっぱり「バッサリといってほしい」というのが本来の気持ちだとわかります。)
 

 

 今現在、自分自身で悩みに取り組んでいる方は、難しい悩みほど「これってローカルルール世界の人格にスイッチしているのかも?」と自分で疑問を挟んでみることはとても有効。
 モジュール(人格)単位で悩みを考えてみる。ローカルルールというものの影響を考える。

 そうすると、見え方、感じ方がかなり変わってきて、手ごわい悩みの解決が見えてきます。

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

(参考)→「モジュール(人格)単位で悩みをとらえる重要性~ローカルルールは“モジュール(人格)”単位で感染、解離し問題を引き起こす。

 

 

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ローカルルールと常識を区別し、公的環境を整えるためのプロトコルを学ぶための足場や機会を奪われてきた

 

 物事には、前提となるステップや要素というものがある。

 いきなり実現することが難しいことでも、前提が整えば、それを組み合わせれば宇宙にまで行くことができる。

 宇宙に行く技術も、物理学の研究と、工業化された製品の組み合わせ。

 極端に言えば、子どもでも、要件さえあれば、ロケットを飛ばすことだってできるようになる。
 

 

 目の間にあるパソコンも汎用品の組み合わせ。
 アポロ計画などの時代ではオーダーメイドで何千億円もした機能の何倍もの物が格安で手に入るし、誰でも組み立てられる。

 さらにそれで組み立てたものでプログラムを打てば、大きな資本がなくても新しいサービスを作ることもできる。

 

 でも、もし、パソコンが手に入らなければ、それも不可能になる。それ以前に、そもそも文字が読めなければ、計算ができなければ、チャンスさえつかめない。

 だから、人類は、教育などを通じて、社会全体で補助をしたりして「足場」を作ろうとしてきた。

 人間は環境の影響を強く受ける生き物で、そこからはだれも逃れられない。
 
 だから、前提(土台)を整えるために補助が必要になる。

 

 器械体操も、もし、安全対策や補助マットがなければ、上達することは難しい。

 補助輪(コマ)というものがこの世になければ、自転車に乗れる人はもっと少ないかもしれない。

 安全装置があるから、何百キロで走る車や電車、飛行機をたくさんの人が利用できる。

 スマホも、要件が積み重ねられて、誰でも使えるインターフェースがそなえられ、全世界の人が利用できるようになっている。

 

 

 「要件」が整うと人間は大きなことができるようになる。 
 反対に、整わないと、とてつもないハンデキャップを背負うようにもなります。
 

 人間も同様に、様々な要件を整えながら発達していきます。基礎(要件)が整っていると、その後の発達もスムーズで、トラブルにも強い。

 要件に問題があると、のちの時期にはそれを取り戻すことにはとても苦労します。

 それを「発達課題」と呼び、先達たちが、様々な仮説を打ち出してきました。

 中でも最も大切なのは、生後半年~1歳半の時期です。
 この時期に、「愛着」と呼ばれるものが形成されていきます。

(参考)→「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 

 愛着とは、安心安全を身体のレベルから感じられることであり、社会的な発達の要件の「パッケージ集」とでもいうべきものです。パソコンでいえばプリインストールされたOS(オペレーションシステム)にあたります。

 

 反対に、この時期に強いストレスを受けたり、身体的な愛護が十分ではないと、愛着が形成されず、その後の発達にも支障をきたすことがわかっています。

 パソコンで例えていえば、トラウマを負っているというのは、一からパソコンを組み立てて、動くために必要なソフトを自分で一からインストールしていかないといけない状態にあるということ。
 さらに、インストールも時間がかかったり、途中で不安定になったりして何度もやり直しをしないといけないということ。
 その間、パフォーマンスが上がらず低い評価に耐えないといけない、ということ。こうしたことが支障ということです。

 

 

 

 もちろん、1歳半~2歳以降の環境も大切です。

 家庭の中が安定しているか? 親や親族が機能しているか?といったことはとても大切。

 夫婦喧嘩などはもってのほか。現在では、「面前虐待」といい虐待と認定されてしまいます。一発レッドカードでトラウマになってしまいます。
 (参考)→「夫婦げんかは一発レッドカード」 

 

 あと、よくあるのは、ストレスにはけ口に子どもに親族の愚痴を言ったり、など母親(父親)が悪口が止まらない、というケース。
 小さい頃は本人もあまり何とも思っていないように感じていますが、成長するにつれて蓄積されたダメージは計り知れないものになります。
 自信がなく、人間関係が億劫に感じられるようになります。

 

 ストレスを受けると身体の恒常性が低下しますから、外部からのストレスにも一層弱くなります。

 

 

 環境が不安定でも、人間関係がシンプルな小学校低学年まではまだよいのです。何とか乗り切れます。
 

 問題なのは、小学校高学年以降。多感で複雑な人間関係の測り方、乗り越え方を体得していくには、「安心安全」という土台が不可欠。

 (参考)→「「0階部分(安心安全)」

 

  特に、
   ・人間とは解離しておかしくなる生き物であることや、ローカルルールの存在
   ・常識や社会への信頼感
   ・関係の作り方、コミュニケーションの作法
   ・公的環境の維持の仕方(礼儀やマナーといったプロトコル)
   ・常識とローカルルールの区別

  といったことを身に着けていきます。

 

 

 例えば、同級生や先輩が理不尽なことをしてきた。
 相手が急に不機嫌になった。その原因を自分にせいだとしてきた、といったようなことでも、安心安全という土台があれば、
 
 「あれ?自分のせいではないのにおかしい」
 「そうか!人間というのは、体調やストレスで、急におかしくなる生き物なのだ。」
 「相手が言っていることは理不尽だ(ローカルルールだ)」

 と直感して、理不尽さの背景を冷静にとらえて、ストレスをキャンセルすることができます。

 でも、安心安全がなければ、それができない。

 

 相手の理不尽さの原因は自分にあると勘違いして、傷ついて落ち込んでしまったりする。それどころか、相手の理不尽さに応えて、合わせてしまうようなことが起きる。

 極端な場合は、「理不尽なことは実は愛情なのだ」といった歪んだ理解をしてしまい、理不尽な行為や人に従ったり、執着したりしてしまうことにもなる。

 常識とローカルルールの区分けがうまくできなくなってしまう。

 

 常識とローカルルールとの区別化できるかどうかで、社会や人間が「信頼できる存在」と感じるか、「恐ろしいモンスター」と感じるか、大きくわかれる。
 
 

 
 本来の親や大人というのは、個人のパーソナリティを超えて、社会を流れる歴史や常識を代表する存在であり、それを公的人格として体現して、子どもを保護して伝達していくのが「機能」であると考えられる。

 ネガティブな私的情動が入ると機能不全になってしまう。
 

 

 特に、人間関係というのは、じゃれ合うようなコミュニケーションを通して、学び取る部分がある。

 そして、敬意やマナーや礼儀といった公的環境を整えるためのプロトコル(手順)を身に着けていく。
 私的環境に置かれると人間はすぐに発作を起こし、解離しておかしくなる。
 礼儀やマナーというのは、公的環境を維持して人間をおかしくさせないための装置である。

 

 礼儀というのは、固定されたものではなくて、学習され、更新されていく動的なもの。

 意味を理解して、時と場合に合わせてうまく使っていくもの。

 

 

 安定型の人であれば、こうしたことを、「安心安全」を基盤としながら、地域、学校といった場所で、身に着けていく。

 
 しかし、安心安全を奪われたり、養育環境が機能不全を起こしていると、それができなくなる。特に、相手と距離を詰めて、じゃれ合うようにコミュニケーションを学ぶことは安心安全なしにはできない。
 
 

 

 もちろん、本人のせいではありません。

 本人も知らず知らずに負った気質、体質が問題であるケースや(内的環境)、
 養育環境が問題であるために起きる(外的環境)。

 

 

 本人はむしろ、人よりも苦労をし、もがき、努力をしている。

 安心安全の足場がないために、本来であれば身に着けるはずのものが身につかない。学ぶ機会が奪われてきた。

 

 足場がなく、本来のものが身に着かない結果、他人の理不尽な言動に巻き込まれてしまい、2次的なトラウマを負ってしまったりする。

 礼儀やマナーといったプロトコルがわからず、公的環境を維持できず、
 その結果、相手が解離して、ローカルルールで呪縛してきたり、いじめられたりもする。(解離したとしても、相手が100%悪いのですが)
 

 やがて、自分にとっての社会や人間関係が「ローカルルール」そのものとなってしまう。困惑し何が問題かもわからず、自分はダメな人間だ、受け入れられない、と自分を責めてしまう。
 そして、人が恐ろしく、こわくなる。化け物のように感じるようになります。

 

 さながら、何のサポートもないまま異国の地に一人放り込まれたような状態。
 そして、誤解から差別され、土台がないから抜け出すこともできない、といった状況。さらに、社会への恐怖、対人恐怖を負ってしまい、その3次被害をケアするのにも四苦八苦で、しっちゃかめっちゃかになる。

 

 社会や人間関係は、ストレスをうまくガードしてキャンセルできれば、心地よい空間になりますが、ガードできなければ、途端にひどい所になってします。

 

 同じ国に旅行をしても、犯罪に遭えば「ひどい国」になるし、

 用心の結果、遭わずに過ごせれば「楽しかった」ともなる。

 日本のように比較的安全な国でも、ドアに鍵をかけることを知らなければ、泥棒にも入られて嫌な思いをします。防犯の対策ができていれば、「安全」と感じて安らかに過ごすことができる。

 

 環境を整備する機能が、関係構築するための手順であったり、礼儀やマナーといったプロトコルだったりする。
 基本的な、安心安全(愛着)が欠如すると、身に着ける機会を失ってとても苦労することになる。

 かつての時代であれば、「しごと」が媒介して、関係作りや公的環境を維持するためのプロトコルを身に着ける機会は多かった。
 でも消費社会である現代は、その媒介が少なく、新自由主義的な風潮もあって、個人のせいにされやすい。
 核家族化が進んだ結果、地域の様々な大人が親の機能を担ったりして、機能不全を補う共同体の支えも弱いこともあり、足場を失い、生きづらさを感じやすい。それがニートやひきこもり、といったことが目立つ原因であると考えられる。

(参考)→「あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服

 

 
 加えて、人間関係、とくに親との関係がさらにこじれたり、いじめに遭遇したりしていて、社会や人への恐怖が「恨み」や「不信感」となる「こじれ」を起こしてしまうと、問題はさらに難しくなります。

 身近な人のなんでもない言動まで、自分への非難として受け取ってしまう、
 「関係念慮」にさいなまれてしまう人も少なくありません。

 「関係念慮」とは、ちょっとしたことでも自分への非難や攻撃のサインとして捉えてしまうようなことです。
   何気ない表情で自分はつまらないと思われている、と感じてしまう。
   相手が少し笑顔を見せただけでバカにされた、と捉えてしまう。
   少し声が大きくなっただけで罵倒された、と受け取ってしまう。
   少し体が触れただけで暴力を振るわれた、と記憶してしまう。
  などなど、

 

 人間は、「関係」の中で守られ、回復していくのですが、「関係」が作れなくなって、さらに孤立させられてしまう。自尊心は傷つき、さらに自分を責めて追い込んでいくことになる。

 
 なぜ自分がそのようなことになっているのか訳が分からなくなるため、目に見える、「容姿」「学歴」「職歴」といったわかりやすい要因に問題の原因を帰属して考えるようにもなります。
 でも、それらは本当の原因ではないので、真の解決にはならない。
 

 さらに、サポートを受けるはずの、医師やカウンセラーといった人に対しても些細なことで不信感を持ったり、トラブルになるなどして、
 回復を支える足場さえなくなってしまいます。
 

 自分という成長の糸がもつれにもつれてしまっているような状態です。

 これも、本人に責任はなく、公的環境を整えるためのプロトコルを学ぶ場、足場を奪われてきたために起きていることです。

 
 安心安全という足場さえあれば、なんでもないことが、ないために身につかない。身に着ける機会が奪われ、
 それどころか、理不尽さに巻き込まれて「ローカルルール」を社会そのもののと思わされてしまうことも起きてしまうのです。

 
 「足場」がないつらさは計り知れず、
 「足場さえあれば、自分はもっと大丈夫な状態になれるはずなのに」というまっとうな直感と、でも、現実には「足場」がないために惨めな状態が続くギャップを誰も理解してもらえない。

 自分で「足場」を作ろうにも作れず、それどころか人間や世の中への不安や恐怖が襲ってきて動けなくなる。
 そんな自分の状態をうまく言葉にすることもできず、理解されず孤独を生きづらさにあえぐ、そんな状態にもがき苦しむ方は少なくありません。

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

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真の客観とは何か?

 先日も書きましたが、
 トラウマを負っている人は、過剰な客観性、を持っていることがあります。

(参考)「過剰な客観性」

 

 他人の意見はすべて客観的事実だとして真に受けて、どこまでも、自分を反省して、どこまでも自分を改善していかなければならない、とする姿勢です。

 しかし、やればやるほど、自分の改善すべきポイントは増えていき、決してなくなることはありません。

 改善するために自分の足場の土も掘り崩していくため、知らない間に、自分の自信は失われていき、最後にはエネルギー切れを起こして、調子を崩してしまうようになります。

 

 
 当人にしてみたら、
 「そんなことを言うけど、自分の主観と客観(人の意見)とを比べた時に、自分の主観を採用したら独りよがりになってしまう。独りぼっちになってしまう。できるかぎり、人の意見を採用して、自分を客観的により良くすることしかないじゃないか」
 と感じてしまいます。

 

 この考えには、生育歴の中で内面化された刷り込み(ニセの公的領域)があります。

 それは、「他人の意見を客観だ」としていること。
 

 

これが、その当人を苦しめている。

  これはどこからくるか、といえば、例えば、親や周囲の人たちが自分のエゴ、支配欲のために、自分の私的情動を「正しい客観だ」として強弁してきたことについてまじめさから真に受けさせられてきたことから。

 

 機能不全な親というのはとても多いのですが、その親の気まぐれや、わがままにすぎないものが、「あなたのためだ」など理由をつけられてで、正当化されている場合がある。

 

 「これはしつけだ、教育だ」「私の言うことは正しい、だから従いなさい(≒あなたはダメだ)」といったような形で内面化を強いられる。

 

 これは、ある種のハラスメント(ニセの公的領域)にすぎないのですが、ハラスメントにすぎないがゆえに、自分の考えを「客観的である」強く主張しなくてはならず、さらにそれを維持するために、「あなたはおかしい(You are NOT OK)」ということが強調される必要が発生する。

 (参考)→「ニセの公的領域は敵(You are NOT OK)を必要とする。

 

 そうして、「他人の意見が客観である」と、すり替えられてしまうのです。

 

 

 これはホンモノの客観ではありません。

 人間の社会は、あらかじめ客観があるのではなく、主観の集まりにすぎません。そして、その主観はとても多元、多様です。
 

 もっと言えば、人間というお猿さんが、嫉妬や支配欲から、互いをけん制し合っているような状態が、それが社会のすがた。
 もちろんそれではだめなので、信頼などを醸成して、社会を築いていくわけですが、お猿さん同士の主観のぶつかり合いであることには変わりがない。

 それなのに、過剰な客観性があると、猿の鳴き声の集まりを「客観」だとしてありがたがって、自分を否定するようなことが起きてしまう。

 

 

 では、真の客観性とは何でしょうか?

 

 それは、他者の主観を真に受けることではありません。

 

 真の客観とは、安心安全を土台にして、「自分の主観」から出発すること
 (安心安全がない時、主観は歪み、関係念慮(妄想)に落ちていきます。)
 

 次に、身体を支えにして、ノイズをキャンセルしていくことです。
 
 
 すると、腑に落ちる(ガットフィーリングに合う)感覚を得ることができます。

 それが、真に客観的なことです。

 

 

 「自分の主観からスタートしたら、独善的になるのでは?」という不安があるかもしれませんが、安心安全を土台にしていて、身体が健康なときの主観というのは社会のネットワーク(社会通念、常識)とつながっていますので、多元的でバランスが取れていて、基本的におおむね誤ることがありません。

 

 人間というのはクラウド的な生き物、個人であると同時に、社会の表象でもある。だから、社会とつながる一人の芸術家が時代を代表する芸術を創造することができたり、 作家や哲学者が時代精神をカタチにすることができたりする。凡人でも、アンケート調査、統計などを通じて、輿論が明らかになったりする。

 

 

 一方、意固地、独善的、妄想的になってしまうのはどういったときかというと
安心安全の支えがない時や、身体が健康ではないとき。その際は、社会的なネットワークとつながることができず、原家族やハラスメントを負った過去とつながってしまい、独善や疑心暗鬼、関係念慮(妄想)におちいったりする。
 意固地な人を見ると、その人は明らかに、別の何かと戦って、自分を必死で守っていることが外から見てもわかります。

 

 主観からスタートするためには、「安心安全」がキーポイント。

(参考)→「「安心安全」と「関係」

 

 そのためには、心身を健康にしている必要が勿論あります。

 

 過去の記憶によって、「安心安全」を感じることができない場合は、カウンセリングの出番となりますが、その前に、食事、運動、睡眠、というのはとても大切だったりします。

(参考)→「結局のところ、セラピー、カウンセリングもいいけど、睡眠、食事、運動、環境が“とても”大切

 

 

 「安心安全」(愛着と健康)を土台に自分の主観を出発点として社会のネットワークとつながり、真の客観を捉えることができるようになるのです。

 

 

 

 

 

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