「ハラスメント」とは、本当は何か?

 今回は、前回の記事を受けて、「ハラスメント」とは本当は何なのか?についてその構造を解説いたします。

前回の記事

 

・ハラスメントとは何か?ーー不全感、ローカルルール、ダブルバインド

  まず、本来、ハラスメントとは単なる迷惑行為を指すものではありません。そこには核心が存在します。

 結論から言います。

  ハラスメントとは、

「加害者が自分の「不全感」を癒やすために、もっともらしい「規範」などを道具にして、相手の「社会性(善性)」を悪用する行為」

のことをいいます。

 「不全感」とは、I’m OKではない状態、自己の満たされなさや不安定さを抱えた状態と捉えるとわかりやすいです。愛着不安やトラウマ、短期的にはストレスなどによって生じます。

 ここでポイントなのは、ハラスメントが
「私たちの社会性、善性を悪用する行為」である
・「自分の不全感を癒す」ということを目的としている

 という2点です。

 これが、世間ではほとんど知られていないハラスメントの要点です。

 私たち人間は社会的な存在とされます。社会的な存在であるとは公的な規範や責任で成り立つということです。

 そのため、私たちは規範や責任を口実にされることにはとても弱く、本当は加害者個人の不全感でしかないものでも、「こうあるべきだ(ルールだ)」「お前の責任だ」とされると私たちはそれを飲み込んでしまうのです。

 こうした不全感を他者に押し付けて解消するために、表面をもっともらしい理屈でコーティングされた偽物のルールのことを「ローカルルール」といいます。

さらに、”裏にある不全感”と”表向きの口実”という矛盾するメッセージを受けることでも精神が拘束されてしまうことが知られており、これは「ダブルバインド(二重拘束)」と呼ばれています。このダブルバインドという仕組みも土台で作用します。

こうした歪なコミュニケーションは私たちに違和感を生じさせますが、関係を維持しようという意識や圧力が働き、呪縛から抜けることができなくなってしまうのです。

 

 これがハラスメントのメカニズムの概略です。 

 ハラスメントに遭うと、私たち人間の持つ生き生きとした心や感情の働き(東京大学の安冨歩教授はこのメカニズムを「学習」と呼んでいます)は支配、拘束されて生きづらさを感じるようになります。

 「~~ハラ」と様々な種類のハラスメントが世の中では言われていますが、各ハラスメントには共通してこうしたメカニズムが存在しています。

 

・俗にいう“ハラスメント”は2つに大別される

 「どこからがハラスメントか?」という戸惑いを解消するために、有効なとらえ方があります。それは、”ハラスメント”が疑われる行為を「行為(doing)レベル」と「存在/精神(being)レベル」の二層で分解して捉えるという方法です。

・行為レベルの問題:迷惑行為そのもの

・存在/精神レベルのハラスメント:不全感を癒すために行われる心理的な支配、拘束が生じる状態です。

 例えば、セクハラでも被害の事例でも、その影響はただの行為レベルの被害だけにとどまらないことがわかります。

 間違った価値観の影響(「付き合いの範囲だ」「こんなことくらい我慢するのが当然だ」「こんなことを問題化するなんて大人げない」「なんとかうまく穏便にすませなければ」「被害者にも落ち度がある」など)や、それらを利用した加害者の卑劣な侵害や、いわゆるセカンドハラスメントを受けて、存在/精神レベルでも被害者は長く苦しんでいます。

 

 私たちも過去に受けた理不尽な行為(いじめや嫌がらせ、暴言など)がずっと頭に残っていることがありますが、それらがなぜ今でも尾を引いているか?といえば、そこに存在/精神レベルの支配、呪縛の影響があるためです。 

 実は災害、性被害など、劇的なストレスに見舞われた場合でも、多くの人はトラウマにならず回復していくことが知られています。
 その際に、トラウマになるかならないか?を分けるものも、存在/精神レベルの支配、呪縛の有無にあると捉えれば、その差を説明することができます。

 そして、真の意味でのハラスメントとは何か?といえば、不全感を癒すための心理的な支配が生じる存在/精神レベルのハラスメントだということです。それがないものは、ハラスメントではありません。※ハラスメントか否か?の具体的な見分け方は、別稿でもご説明いたします。

 このような構造的なメカニズム把握や分析は、一般のハラスメント本では全く触れられていません。外形(表層)的なガイドラインや定義に終始し、核心となるメカニズムが世の中に知られていないために、なんでもかんでもハラスメントということが生じてしまっているのです。

 こうしたことがわかれば、何がハラスメントでそうではないのか?を自分でも応用したり、職場で議論したりできるようになります。

 

 次回は、このメカニズムが職場や家庭といった具体的な関係性の中で、どのように作動しているのかを事例をもとに見ていきます。

 

 

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自責や反省はフィードバックではない

 前回、フィードバックについて触れました。

参考)→「変化しない人、フィードバックがかからない人は存在しない

 そして、ポイントは、フィードバックループが作動する状態に身を置くことができるかどうか?です。 そして、フィードバックループを妨げるものは何か?を見定め、それを除くことでした。そして、本来、変化しない人はいないということも。

 

 このフィードバックという観点を持つ際に大切なことがあります。
それは、自責や反省はフィードバックではない、ということです。

 フィードバックというと、ついつい反省すること、自分を責めること、とおもってしまいますが、実はそれはフィードバックではなく、むしろ反対に、フィードバックがかからなくなる行為である、といえます。

 どういうことか?

 

 自責や反省とは、多くの場合、他者のローカルルールを飲み込まされて、その基準から自分を罰する、責める、ということでしかありません。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 他者が私たちにローカルルールを飲み込ませることとは、他者が自分がフィードバックがかからない固定されたポジションに居たいために、自分の責任を他人に負わせる行為です。多くの場合は家族や、友人、パートナー(あと、学校の教師や職場の上司・同僚などから)からもたらされます。

 「お前はおかしい」
 「お前はダメな子どもだ」
 「お前は足を引っ張っている、迷惑だ」
 
 と、これらはすべて嘘です。

 こうした言説を受けて、社会的な存在である私たちは、自信の誠実さ、関係を希求する気持ちを悪用されて拘束されてしまう。
 これを「ソーシャリティ・アビューズ(社会性の虐用)」といいます。

 これらローカルルールのニセの規範を飲み込まされた結果、その規範から自分を罰し続けることになるのです。

 前回の記事でも触れましたように、これはフィードバックが作動しない機能不全な状態、狭義でいえば共依存などが代表的ですし、広義でいえば、実は自責や反省もそれを負わせる人との間で距離の離れた依存関係にあると言えるのです。
 

 

 みにくいアヒルの子が、反省して、良いアヒルになろうとするような行為、これは全くフィードバックになっていません。
 (みにくいアヒルの子をいじめる“親”や“兄弟たち”も本来のフィードバックがかかりません。)

(参考)→「「みにくいアヒルの子」という状態

 本来は、

 あれ、何やら変だな?

 自分はアヒルの世界ではうまくいかないんだな?

 なにかちがうぞ?

 この際の「直観」こそ大事で、それはフィードバックのアンテナの機能をします。

 そうして、違和感を持ちながら過ごす中で、ある日、「機会」が訪れます。みにくいアヒルの子であれば、白鳥に出会う機会が。

 そうして、ああ自分は白鳥だったんだ、と気づくわけです。

 親からも自分の気質を認められず、
 学校でいじめられていて、

 でも、直観のきらめきは「自分が正しい」と示唆してくれている。

 
 そんな中、別の集団に移った際に、全然違う文化に出会った際に、そこで自分を知る。

あるいは、慰めに読んだ文学作品や映画、漫画、ゲームの中に自分を見出す。

 スポーツや文芸が自分の本来を発揮できる場所である場合もあります。

 これらは本来の意味でのフィードバックです。

 つまり、フィードバックとは、不全感や、悪意、嫉妬などをフィルタすることが必須で、本当に意味が顕現するまでに時間が必要な場合も多く、中期的なプロセスであるということです。自然界に生じるフィードバックも中長期であるといえます。

 
 もちろん、勉強ができない、仕事がうまくいかないというときに、何が問題か?を確認し、間違い直しをする、修正をする、といったDoingレベルでの比較的短期のフィードバックもあります。

 スポーツ選手も試合に負けたら、改善をしていく。

 ただ、よい選手は、いたずらに自分を責めたりはしていない。

 知りたいのは「構造」ですから。 

 

 商品開発もそうですし、創作もそうです。
 目の前の人に意見を聞いても、意見を積み上げたらいい作品ができる、とはならないことは、私たちにもわかります。

 
 「どんな風に作品を作ればいい?」と読者に聞いても読者もわからない。

 「面白くない」「つまらない」という表面的な意見が間違っていることもよくあります。

 

 国民的漫画「ドラえもん」も実は、連載当初は全く評価されず、編集者も面白さをいまいち認めず、だから、いちど6巻で打ち切り、終了しています。

 その後ドラえもんが戻ってくる話ができて復活し、その流れで作られた話が伝説的な名話「さようなら、ドラえもん」「帰って来たドラえもんの巻」(『STAND BY ME ドラえもん』として映画にもなっています)、ということになりますが、なぜドラえもんが未来に帰り、また戻ってきたのは、実は当初の「不人気」と再評価のためだったのです。

 当初の“不人気”渦中の作者の藤子不二雄は「もっと評価されてもいいのになあ」と粘っていたそうです。

 その時の、編集者の反応や態度などは正しいフィードバックか?といえばそうではありません。
プロの編集者だから作品を理解している、できるというわけではまったくありません。

作者の直感こそが正しくフィードバックをキャッチしていた。

 
 正しくフィードバックが機能するためには、愛着の土台が必要です。

自分の存在は大丈夫、という安心感があってこそ機能します。

 さらに、不幸にしてトラウマを負い、愛着が不安定であっても、
 魂のレベルの直感は実は根底で必ず動いています。

 その直感はいろいろなセンサーとして働いています。

 そうした愛着の土台や、直観のセンサーで濁りのある情報をフィルタし、時間がかかる場合は結果が出るまでの時間を稼ぎながら、本来のフィードバックを得る。

 こうして私たちは気質を活かしながら、自らを社会化し、状況の変化に対応、自己を実現していきます。

 

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