三木 一太朗

公認心理師・大阪大学大学院卒(臨床20年)など

三木 一太朗(みき いちたろう)公認心理師。大阪大学文学部卒業、同大学院修士課程修了。大学院修了後、大手電機メーカー勤務を経て、大阪心理教育センター等で研鑽を積み、ブリーフセラピー・カウンセリング・センター(B.C.C.)を設立。

20年以上の臨床経験を持ち、トラウマ、愛着障害、ハラスメント、吃音などのケアを専門とする。著書『発達性トラウマ 「生きづらさ」の正体』(著書累計約4万部超)のほか、テレビドラマの医療監修やメディア出演・掲載実績も多数。

伝統的なカウンセリングからボディワーク、最新のブリーフセラピーまで幅広く研鑽。臨床での実践と、10年以上にわたる膨大な参考文献に基づいた知見の言語化・発信や、より良いケアの開発と提供に努めている。

『私はHSPだから』では解決しない理由―“繊細さ”の真の正体を専門家の視点から

「自分はHSP(繊細さん)かもしれない」 そう気づいて、心が軽くなった経験はありませんか? でも、その一方で「HSPの対処法を試しても、根本的な生きづらさが変わらない」と、密かに悩んでいる方も少なくありません。

実は、臨床現場では、その繊細さの背景に「HSP」だけでは説明できない、別の要因が隠れているケースが多く見られます。それは、私たちが「日常」として見過ごしてきたストレスや、トラウマです。

本記事では、公認心理師の視点から、HSPブームの影に隠れた“生きづらさの本当の正体”について、最新の知見をもとに解説いたします。


1.HSPという言葉が広まった背景と、その影で起きていること

ここ数年、「HSP(Highly Sensitive Person)」という言葉は急速に社会に浸透しました。書店では「繊細な人」をテーマにした書籍が目立ち、メディアやSNSでも頻繁に取り上げられています。自分の生きづらさを説明する言葉として、HSPを用いる人も珍しくなくなりました。

カウンセリングの現場でも、「自分はHSPだと思う」「HSS型HSPに当てはまる気がする」といった自己理解の仕方をされる方が増えています。こうした言葉が、自分を責めずに済む説明として機能している側面は確かにあります。

しかしその一方で、専門家の間では懸念も広がっています(発達心理学者の飯村周平氏など 参考:『HSPブームの功罪を問う』岩波ブックレットなど)。HSPという概念が、学術的な定義から離れたまま拡散し、「生きづらさ全般を説明する概念」のように扱われている点です。本来は限定的な特性概念であるにもかかわらず、過剰な意味づけがなされている状況が見られます。

HSPはもともと、感覚刺激への反応の仕方に個人差があることを示す「感覚処理感受性」という特性を指します。これは診断名でもなければ、病理概念でもありません。生きづらさや不調の原因を直接説明するものではなく、才能や優位性を意味する概念でもありません。

また、感覚処理感受性は連続的な分布を示す特性であり、HSPと非HSPを明確に分けられるものではありません。「〇〇型HSP」といった分類も、学術的な裏づけはありません。こうした点が十分に共有されないまま概念が広がった結果、資格ビジネスや商業利用に結びついたり、極端な文脈で用いられたりするケースも見受けられます。

問題なのは、こうした説明が当事者の理解を助けるどころか、本来向き合うべき原因から目を逸らしてしまう可能性があることです。臨床現場では、クライアントの語りを尊重しつつも、HSPという言葉だけでは説明が足りないと感じる場面が少なくありません。


2.「敏感さ」はどこから生まれるのか――多因子的な視点の必要性

繊細さや過敏さ、生きづらさといった問題は、単一の要因から生じるものではありません。HSPとして語られる特徴の多くは、実際にはさまざまな背景を持っています。

たとえば、発達障害の特性として感覚過敏や感覚鈍麻が見られることはよく知られています。生育環境の影響によって、他者との距離感がうまく取れず、対人関係に過度な緊張を抱える場合もあります。うつ病や不安障害、パニック障害、強迫性障害などでも、過敏さや鈍さが前面に出ることがあります。

さらに、長期間にわたるストレスによって心身が疲弊した結果として、感覚の調整がうまくいかなくなるケースもあります。職場や家庭など、慢性的に緊張を強いられる環境は、それ自体が大きな負荷となります。文化的背景や社会的プレッシャー、経済状況といった要因も、生きづらさに影響します。

心理職や精神科医が行う評価は、こうした複数の要因を丁寧に重ね合わせる作業です。概念はラベル付けのためにあるのではなく、その人の回復や理解に役立つ仮説として用いられるべきものです。

HSPという言葉が問題になるのは、それが唯一の説明として使われてしまう場合です。過去にも、発達障害やパーソナリティ障害といった概念が過剰に適用され、混乱を招いた歴史があります。同じことが繰り返されないよう、慎重な扱いが求められます。


3.生きづらさの背景として注目されてきた「発達期のストレス」

近年、研究の蓄積によって、生きづらさの背景として改めて注目されているのが、子ども時代に受けたストレスの影響です。

一見すると些細に思える出来事でも、発達過程にある子どもにとっては大きな負荷となることがあります。たとえば、家庭内で繰り返される夫婦喧嘩は、直接的な暴力がなくても、子どもの脳や情緒の発達に深刻な影響を及ぼすことが示されています。現在では「面前DV」として、重要な問題と位置づけられています。

発達期における過度なストレスは、「発達性トラウマ」や「逆境的小児期体験(ACE)」として研究されてきました。大規模調査では、小児期に逆境体験を持つ人が、成人後に精神疾患や生活習慣病を発症するリスクが大幅に高まることが明らかになっています。

愛着研究の分野でも、親との関係性が、その後の対人関係や自己評価、健康状態に長期的な影響を及ぼすことが示されています。こうした問題は「愛着障害」という言葉で広く知られるようになりました。

また、発達期のトラウマによって生じる症状は、発達障害と非常によく似ることがあります。そのため、環境由来の影響が見逃され、先天的な問題として扱われてしまうケースも少なくありません。


4.トラウマは「特別な出来事」だけの問題ではない

トラウマという言葉は、災害や事故、犯罪被害といった極端な出来事と結びつけて理解されがちです。しかし実際には、トラウマはもっと日常的な文脈で生じます。

強烈な出来事でなくても、逃げ場のないストレスが長期にわたって続くことで、心身は確実に影響を受けます。人間は、些細でも慢性的なストレスに対して非常に脆弱です。

この意味で、トラウマは「日常のストレスによって生じるストレス障害」と捉えることができます。パワハラやモラハラ、いじめ、家庭内の緊張、親の養育機能の問題なども、深刻な影響を及ぼします。本人がその影響を自覚していない場合も多くあります。

その結果として、過緊張、過剰適応、対人関係の難しさ、集中力の低下、不安や抑うつ感といった問題が現れます。感覚過敏や鈍麻といった「繊細さ」も、その延長線上で理解することができます。

こうした視点から、精神医療や臨床心理の分野では、まずトラウマの存在を仮定して理解を進める姿勢が重視されつつあります。HSPという言葉で説明されてきた生きづらさも、より広い文脈の中で捉え直す必要があるのです。

 

 

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人はコミュニティや人間関係を更新・移動するもの~更新の際は悪く言われて当然

 

 前回もお伝えしたように、目の前にある、今ある共同体や関係の中に適応しなければならない、適応できない自分はダメだ、適応している人はすごい、と、私たちはつい幻想にとらわれてしまいます。

 実はそうではない。

(参考)→「適応できることがいいことではない~“不適応”というフィードバック」

 

 
 自分はあの会社ではうまくいかなかったが、他の人(例えばAさん)はうまくやっている(だから自分はダメだ)

 他の人はあのグループで仲良くやれている、でも自分は馴染めなかった(だから自分はダメだ)

 
 と思いがちです。

 私たちは、実験を重ねるようにして、ここが合わない、ここも合わない、と試行錯誤(不適応)しながら、自分の道を見つけていきます。

 人はどんどんと共同体を移動していくものです。

 もともといた共同体に属し続け(うまくやり続け)なければいけないというのは幻想でしかありません。

 

 特に、生まれた場所、地域だからそこが自分にとって良い場所(故郷)とも限りません。
 地方などは典型的ですが、閉鎖的で、同調圧力が強い地域もよくあります。

 

 

 さらに、そんな場所から、卒業したり、抜け出したりして、自分の道を見つけていく際は、決して、キレイに移行、卒業できるというわけではありません。

 例えば、中学や高校で、つるんでいた友達と離れて、勉強や部活に熱心になったら、「あいつは付き合いが悪い」と言われて陰口をたたかれることになります。

 自分のやりたいことを見つけて進む中では、地元の友達関係とは距離を取ることになります。

 その際も、「あいつは変わった」「何、調子に乗ってんだ!」と悪口を言われるかもしれません。

 

 

 生まれた地域も同様です。

 地元の消防団などの会合や、寄合には出ないという選択肢を取ったり、転居したりする。「あそこの家の娘、息子はおかしい」「付き合いが悪い」と言われるかもしれません。

 

 会社も同様です。
「あいつは仕事ができない」「あいつは使えない」と言われたりします。

 

 パートナーとの付き合いも、別れるときはものすごいストレスがかかります。相手から罵倒されるかもしれません。

 

 問題のある父や母、親族とは距離を取らなければなりません。その際にも、とても嫌な呪いの言葉を浴びるかもしれません。 強い罪悪感、自責の念を感じる。

 そんなストレスを経ながら私たちはところを得ていきます。

 

 

 それぞれから離れる際には、

「なんで、あんな態度をとってしまったのか?」

「うまいことを言っておけばよかったのに。私は本当にバカだ」

「ほかの人ならうまくやれた(自分はうまく付き合えなかった)」

なんて、自分の不器用を呪うこともあります。

 

 これらは、すべて「不適応」です。

 

 しかし、「適応しなければ」と、中にはその不適応から生じるストレスを避けたいがために、あるいは「すべての場所で適応しなければならない」「過去に失敗したから今回は同じことはできない(同じようにケンカ別れになったら、自分だダメな人間であると確定されてしまう)」「すべての環境、人から合格点をもらえなければ、次に進んではいけない」という間違った観念、幻想を元に、適していない環境に居続けてしまう、というケースがあります。
 

 まさに”適応幻想”による呪縛と言うしかありません。

 
 私たちは、どんどん環境を変え、移動を続けていくものです。

そうやって人生を作っていきます。
  

 家族にも良い子と呼ばれ、今でも地元の友達とも付き合いがあり、人生で出会うあらゆる人から好かれ、地域でも覚えがめでたく、勤めた会社では惜しまれて転職、なんて、そんなことは実際にはあり得ません。
 いつも旅行やグルメを楽しんでいる姿をアピールするようなYoutubeやインスタと同じくらい作られた幻想です。

 もし実際に、うまくやり続けてきたとしたら、「何かがおかしい(本当の自分が殺されていないか? ほかの人や何かを犠牲にして成り立っていないか?)」と見ないといけません。学歴もキャリアもプライベートもうまくいっているように見える人が実際には本当は自分の人生を歩んでいない、という例はとても多いのですから。

 

 

 共同体にとっては自分たちの共同体の正統性を維持するために、脱退されることを防ぐためにも逸脱する人を悪く言うという動因もあります。

 
 そんな恐れから、共同体にとどまったりしてしまってはいけません。

 そして、悪く言われることをもって、自分がダメな人間だと思うことも必要ありません。仲良くできるのも、無用なあつれきを賢く避けることも、もちろん愛着(生きるため)の力ですが、時に仲違いをしたり、必要なけんかをすることも、生きていくのに必要な力です。

 

 そうして必要な際は腹をくくり、自分の気質、持ち味が持つ、必要な流れに沿って、更新し続けることこそが大切なのです。

 

 

 

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適応できることがいいことではない~“不適応”というフィードバック

 

 どこのコミュニティも、そつなくこなしているように見える人はいます。とても関係づくりがうまく、うらやましいように見える人が。 

 

 例えば、幼い時は公園で友だちができて、お母さんたちとも馴染める。

 小学校では友達がたくさんいる。いろんな友達とうまく付き合える。

 中学校以降になると、部活で先輩ともぺこぺことうまくやりとりができる。

 大学に進むと、研究室の先生にも目をかけられ、院生ともうまく付き合いができる。

 就職した先では、上司に取り入り、得意先とうまく付き合いができる。

 結婚したら、パートナーとうまく関係が築ける。

 地域では、ご近所付き合い、ママ友、学校などとの地域の活動がうまくできる。

 

 こうしたことが「標準」「正常」であるというイメージを私たちは持っています。そして、これらのことからずれること、うまくいかないことは「異常」であり、自分が劣っている証拠であると考えてしまいます。

 そうして自分を責める。劣等感を持ってしまう。

 

 

 私たちは適応できることが善で、不適応を悪だと考えています。
 実際に、カウンセリングにおいても、適応を目指します。
 私たちは、最終的には社会に適応するしかない、とされます。
それは確かにその通りで、“社会”に適応するしかありません。 

 

 だから、一見すると「適応」はやはり善に見えます。

 これらは本当なのでしょうか?正しいのでしょうか?

 実はもっともに見えますが、まったく正しくありません。

 

 正しく言えば、適応するためには、「不適応」を起こさなければならない、もっといえば、自己を確立するためには、積極的に不適応を起こす必要がある、と言えるのです。

 適応しなければならないけど、不適応も必要? どう考えればいいのだろうか??頭が混乱しそうですが、難しい話ではありません。

 

 生物の世界、植物でも、動物でもどんな環境でも適応できる種は存在しません。必ず、生息に適した環境があります。 それを「ニッチ」というそうです。

 淡水魚は海水では生息できませんし、百獣の王とされるライオンも適した地域はかなり限られます。
 

 つまり、それぞれ適した場所でこそもともとの生命力を発揮できると言えます。

 

 

 人間でも同様のことが言えます。

よく言われるのは、企業や軍事での戦略の世界です。

 企業での戦略は、自分たちが得意な分野(ポジショニング)はどこか?を探すことだとされます。大企業であったとしても不得手なところにうって出ると必ず失敗します。

 

 軍隊でも、得意な状況は実は限られていて、
例えば、“最強”とされたモンゴル軍でも、自分たちが得意な平原から離れてくると力を発揮できなくなって、日本や東南アジアでは敗退しています。
 20世紀に世界最強とされたアメリカもベトナムで撤退するなど、実は適した環境は限られています。

 どんなところでも適応できなければならない、勝てなければならない、などと言うのは本当に幻想だということがよくわかります。

 

 スポーツ選手も、同じ競技でもチームが変わるだけで全く活躍できなくなるなんてことは珍しくありません。
 チームの戦術や、監督のパーソナリティ、リーグのスタイルでもかなり左右されます。

 実は会社も同様で、同じ業界でも、会社が違えば活躍できなくなることはあります。

 

 

 「あの人は、どんな世界に行っても活躍できる」というのは、比喩(そんな気がするだけ)であって、本当にどんな世界に行っても活躍できる人などは、人類史上一人も存在しません。

 もしいたら、その人を題材に、生物学(人類学?)の世界で論文を書けばノーベル賞を取れるかもしれません。
 
 絶対にありえないからです。

 

 私たちにとっての適応とは、「自分の持ち味を発揮できるところを得ること」です。

 自分にとっての強み、持ち味を発揮できる場所や人間関係はどこか?を見極めて、早くそこに立つことです。

 大谷翔平が事務職をしても不幸でしかありませんし、卓球やゴルフではきっと野球ほどには活躍できないでしょう。
(バスケットボール選手の天才的な選手であるマイケル・ジョーダンが、野球に行ってうまくいかなかったことはよく知られたことです)

 

  
 
 私たちが、各所で見る、「うまくやっている人」というのは、そこでうまくいっているだけで、実際に、すべての場所でうまくいくわけではありません。
 
 
 私たちの脳は、自分を否定するために、都合よく、それぞれの場所で「うまくいっている人」を取り上げては、それらと自分とを比較してダメ出しをしてきます。

 しかし、そんなご都合主義の比較に意味があるでしょうか?

 ガントチャートで、すべての項目がMAXでなければ人としておかしい、なんてそんなことありえるでしょうか?

 ライオンが、スズメみたいに空は飛べない、水の中では魚に勝てない、モグラのように土の中では、だからライオンはダメだ、などと都合よくダメなところを比較して、意味があるでしょうか?

 

 

 多くの場合、私たちは、親などや養育環境の中での間違った比較やこうあるべきを押し付けられて自信を失っている場合もよくあります。

 

 確かに、いろいろな場所で相対的にうまくいってそうな人はいるかもしれません。そつのない人もいます。

 しかし、器用であるが故の不幸もあるのです。

 以前、ブログで紹介した、なんでも器用に100点の回答をしてくる東大生たち。彼らは果たして幸福でしょうか?

(参考)→「世の中で活躍できている人が万全、健全というわけではまったくない。」

 

 その器用さゆえに、壁(不適応)に当たらないことで、本来の自分の場所が見つからない、という恐ろしいことも生じるのです。

 実際にそつがないゆえに、会社などで出世していって、でも、本来のその人の人生を生きてはいない、なんていうことはたくさん存在するのです。
 

 たまたま数字のある部署に配属されて、それで役員(子会社の社長)まで行く、なんていうのは大企業ではよくある型です。良いことのように見えますが、それも本当に幸せなのか?
 

 どこかで「この仕事は合わない」「この組織は合わない」というシグナルが来て、別の会社や職に就くことが、その人の本来のいる場所、かもしれません。

 しかし、器用に適応したがために、自分の本来の道を見つける機会はついぞ失われてしまうわけです。

(参考)→「誤った適応」

 

 

 例えば、印象的なのは、以前、社会問題となった宗教団体でネクタイを締めたスーツ姿の幹部たちが会見をしている場面をテレビで見たことがあります。

 あの人たちは、その宗教団体という組織の中で適応し、出世した人たちです。

 おそらく、仕事もできるのでしょう。
 その組織の中で覚えめでたく、上司にも好かれ、だから出世したのでしょう。

 一方その宗教団体を訴える人たちは、その団体で搾取されてきた人たちです。
もしかしたら、搾取されただけではなく、馴染めず、出世できなかったのかもしれません。

 
 しかし、適応した幹部たちは果たして真に幸せなのでしょうか?

 社会問題となるような集団ですから、「こんなところはおかしい」と不適応を起こすほうが自然ではないでしょうか。

 そこに適応して出世までできたというのは、良い適応では全くありません。

 私たちは、不適応、不適応、不適応のフィードバックの中で自分を作り、そして持ち味を発揮できる場所や人、自分にとっての“社会”に適応していくものなのです。

(参考)→「変化しない人、フィードバックがかからない人は存在しない」

 

 

 

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自責や反省はフィードバックではない

 前回、フィードバックについて触れました。

参考)→「変化しない人、フィードバックがかからない人は存在しない」

 そして、ポイントは、フィードバックループが作動する状態に身を置くことができるかどうか?です。 そして、フィードバックループを妨げるものは何か?を見定め、それを除くことでした。そして、本来、変化しない人はいないということも。

 

 このフィードバックという観点を持つ際に大切なことがあります。
それは、自責や反省はフィードバックではない、ということです。

 フィードバックというと、ついつい反省すること、自分を責めること、とおもってしまいますが、実はそれはフィードバックではなく、むしろ反対に、フィードバックがかからなくなる行為である、といえます。

 どういうことか?

 

 自責や反省とは、多くの場合、他者のローカルルールを飲み込まされて、その基準から自分を罰する、責める、ということでしかありません。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 他者が私たちにローカルルールを飲み込ませることとは、他者が自分がフィードバックがかからない固定されたポジションに居たいために、自分の責任を他人に負わせる行為です。多くの場合は家族や、友人、パートナー(あと、学校の教師や職場の上司・同僚などから)からもたらされます。

 「お前はおかしい」
 「お前はダメな子どもだ」
 「お前は足を引っ張っている、迷惑だ」
 
 と、これらはすべて嘘です。

 こうした言説を受けて、社会的な存在である私たちは、自信の誠実さ、関係を希求する気持ちを悪用されて拘束されてしまう。
 これを「ソーシャリティ・アビューズ(社会性の虐用)」といいます。

 これらローカルルールのニセの規範を飲み込まされた結果、その規範から自分を罰し続けることになるのです。

 前回の記事でも触れましたように、これはフィードバックが作動しない機能不全な状態、狭義でいえば共依存などが代表的ですし、広義でいえば、実は自責や反省もそれを負わせる人との間で距離の離れた依存関係にあると言えるのです。
 

 

 みにくいアヒルの子が、反省して、良いアヒルになろうとするような行為、これは全くフィードバックになっていません。
 (みにくいアヒルの子をいじめる“親”や“兄弟たち”も本来のフィードバックがかかりません。)

(参考)→「「みにくいアヒルの子」という状態」

 本来は、

 あれ、何やら変だな?

 自分はアヒルの世界ではうまくいかないんだな?

 なにかちがうぞ?

 この際の「直観」こそ大事で、それはフィードバックのアンテナの機能をします。

 そうして、違和感を持ちながら過ごす中で、ある日、「機会」が訪れます。みにくいアヒルの子であれば、白鳥に出会う機会が。

 そうして、ああ自分は白鳥だったんだ、と気づくわけです。

 親からも自分の気質を認められず、
 学校でいじめられていて、

 でも、直観のきらめきは「自分が正しい」と示唆してくれている。

 
 そんな中、別の集団に移った際に、全然違う文化に出会った際に、そこで自分を知る。

あるいは、慰めに読んだ文学作品や映画、漫画、ゲームの中に自分を見出す。

 スポーツや文芸が自分の本来を発揮できる場所である場合もあります。

 これらは本来の意味でのフィードバックです。

 つまり、フィードバックとは、不全感や、悪意、嫉妬などをフィルタすることが必須で、本当に意味が顕現するまでに時間が必要な場合も多く、中期的なプロセスであるということです。自然界に生じるフィードバックも中長期であるといえます。

 
 もちろん、勉強ができない、仕事がうまくいかないというときに、何が問題か?を確認し、間違い直しをする、修正をする、といったDoingレベルでの比較的短期のフィードバックもあります。

 スポーツ選手も試合に負けたら、改善をしていく。

 ただ、よい選手は、いたずらに自分を責めたりはしていない。

 知りたいのは「構造」ですから。 

 

 商品開発もそうですし、創作もそうです。
 目の前の人に意見を聞いても、意見を積み上げたらいい作品ができる、とはならないことは、私たちにもわかります。

 
 「どんな風に作品を作ればいい?」と読者に聞いても読者もわからない。

 「面白くない」「つまらない」という表面的な意見が間違っていることもよくあります。

 

 国民的漫画「ドラえもん」も実は、連載当初は全く評価されず、編集者も面白さをいまいち認めず、だから、いちど6巻で打ち切り、終了しています。

 その後ドラえもんが戻ってくる話ができて復活し、その流れで作られた話が伝説的な名話「さようなら、ドラえもん」「帰って来たドラえもんの巻」(『STAND BY ME ドラえもん』として映画にもなっています)、ということになりますが、なぜドラえもんが未来に帰り、また戻ってきたのは、実は当初の「不人気」と再評価のためだったのです。

 当初の“不人気”渦中の作者の藤子不二雄は「もっと評価されてもいいのになあ」と粘っていたそうです。

 その時の、編集者の反応や態度などは正しいフィードバックか?といえばそうではありません。
プロの編集者だから作品を理解している、できるというわけではまったくありません。

作者の直感こそが正しくフィードバックをキャッチしていた。

 
 正しくフィードバックが機能するためには、愛着の土台が必要です。

自分の存在は大丈夫、という安心感があってこそ機能します。

 さらに、不幸にしてトラウマを負い、愛着が不安定であっても、
 魂のレベルの直感は実は根底で必ず動いています。

 その直感はいろいろなセンサーとして働いています。

 そうした愛着の土台や、直観のセンサーで濁りのある情報をフィルタし、時間がかかる場合は結果が出るまでの時間を稼ぎながら、本来のフィードバックを得る。

 こうして私たちは気質を活かしながら、自らを社会化し、状況の変化に対応、自己を実現していきます。

 

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