自分が理不尽な状態にあった時、私たちは、自分はなぜそんな目にあったのか?と理由を考えようとします。
「自分がダメな人間だから、舐められたのかな?」とか、
「自分が失礼なこと、不愉快なことをしたから、相手が怒ったのかな」
などなど
トラウマを負った人には、「過剰な客観性」がありますから、
本人は、客観的に理解しようとして、理由を探します。
(参考)→「過剰な客観性」
そうすると、かならず、「自分が悪い(I’m NOT OK)」というところに帰結してしまいます。
なぜなら、その理不尽な状況というのはしばしばニセの公的な領域であり、その特徴の一つは、「敵(You are NOT OK)を作る」ということにあるからです。
(参考)→「ニセの公的領域は敵(You are NOT OK)を必要とする。」
「過剰な客観性」があるため、私的情動を公的領域だと偽っているものも、「それは客観的な事実に違いない」と錯覚して受け取るようになってしまいます。
そのため理由を考えてしまうと、結局自分が悪い、ということに至る。
もう一つよくあるケースでは、
現時点には「ニセの公的領域」がない場面でも、過去に自分が内面化した「ニセの公的領域」が反応して、相手の反応を誤って捉えてしまう、という場合もあります。
例えば、相手の中立な反応に
「自分がないがしろにされた」とか、「自分が否定された」「バカにされた」と感じてしまうようなことです。
不安を強く感じているときに、
カーテンを見て、幽霊だと感じるようなことです。
これも、過去に親や学校、職場などで受けた理不尽な仕打ちに対して、理由を考えて、そして「反省」して、そのニセの公的領域の「規範」を内面化したために起きている現象です。
規範に引っかかるような、当時と似た反応に接すると、
自動的に「あなたはだめだ((You are NOT OK))」というメッセージとして受け取ってしまうようになります。
ひどくなると、「関係妄想」と呼ばれる症状に至ります。
「関係妄想」とは、頭がおかしな人がなる、というものではありません。公的領域から切り離されて「安心安全」がなくなれば、誰でもそうなります。
(例えば、世間からバッシングを浴びた著名人が、人間不信に陥った、というようなことはこうした例の一つです)
では、どうすればよいのか?
理不尽に接したら、理由を考えるのではなく、“しくみ”を知る ということです。
例えば、
・この世の中には客観というものは存在せず、主観のぶつかり合いでしかない。
・社会には支配欲や嫉妬というノイズが渦巻いているもの。
・「ニセの公的領域」はあるし、それは敵を作り出すという特徴を持つ。
・ノイズを客観として真に受けてしまうと、疑心と恐怖の世界とつながってしまう。
・反対に、ノイズをクリアにした先には信頼の世界がある。
など
そのうえで、沸き起こる「I’m NOT OK」でさえ、それは、「ニセの公的領域」の特徴なのだと理解して、スルーする。
「本当の世の中は多元的で、自分がおかしいというような判定は決してなされない」
「自分は他と同様に素晴らしい」
ということをしっかりと踏まえることです。
そうしていると、徐々に、世界がありのままに見えてくるようになります。
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