『私はHSPだから』では解決しない理由―“繊細さ”の真の正体を専門家の視点から

「自分はHSP(繊細さん)かもしれない」 そう気づいて、心が軽くなった経験はありませんか? でも、その一方で「HSPの対処法を試しても、根本的な生きづらさが変わらない」と、密かに悩んでいる方も少なくありません。

実は、臨床現場では、その繊細さの背景に「HSP」だけでは説明できない、別の要因が隠れているケースが多く見られます。それは、私たちが「日常」として見過ごしてきたストレスや、トラウマです。

本記事では、公認心理師の視点から、HSPブームの影に隠れた“生きづらさの本当の正体”について、最新の知見をもとに解説いたします。


1.HSPという言葉が広まった背景と、その影で起きていること

ここ数年、「HSP(Highly Sensitive Person)」という言葉は急速に社会に浸透しました。書店では「繊細な人」をテーマにした書籍が目立ち、メディアやSNSでも頻繁に取り上げられています。自分の生きづらさを説明する言葉として、HSPを用いる人も珍しくなくなりました。

カウンセリングの現場でも、「自分はHSPだと思う」「HSS型HSPに当てはまる気がする」といった自己理解の仕方をされる方が増えています。こうした言葉が、自分を責めずに済む説明として機能している側面は確かにあります。

しかしその一方で、専門家の間では懸念も広がっています(発達心理学者の飯村周平氏など 参考:『HSPブームの功罪を問う』岩波ブックレットなど)。HSPという概念が、学術的な定義から離れたまま拡散し、「生きづらさ全般を説明する概念」のように扱われている点です。本来は限定的な特性概念であるにもかかわらず、過剰な意味づけがなされている状況が見られます。

HSPはもともと、感覚刺激への反応の仕方に個人差があることを示す「感覚処理感受性」という特性を指します。これは診断名でもなければ、病理概念でもありません。生きづらさや不調の原因を直接説明するものではなく、才能や優位性を意味する概念でもありません。

また、感覚処理感受性は連続的な分布を示す特性であり、HSPと非HSPを明確に分けられるものではありません。「〇〇型HSP」といった分類も、学術的な裏づけはありません。こうした点が十分に共有されないまま概念が広がった結果、資格ビジネスや商業利用に結びついたり、極端な文脈で用いられたりするケースも見受けられます。

問題なのは、こうした説明が当事者の理解を助けるどころか、本来向き合うべき原因から目を逸らしてしまう可能性があることです。臨床現場では、クライアントの語りを尊重しつつも、HSPという言葉だけでは説明が足りないと感じる場面が少なくありません。


2.「敏感さ」はどこから生まれるのか――多因子的な視点の必要性

繊細さや過敏さ、生きづらさといった問題は、単一の要因から生じるものではありません。HSPとして語られる特徴の多くは、実際にはさまざまな背景を持っています。

たとえば、発達障害の特性として感覚過敏や感覚鈍麻が見られることはよく知られています。生育環境の影響によって、他者との距離感がうまく取れず、対人関係に過度な緊張を抱える場合もあります。うつ病や不安障害、パニック障害、強迫性障害などでも、過敏さや鈍さが前面に出ることがあります。

さらに、長期間にわたるストレスによって心身が疲弊した結果として、感覚の調整がうまくいかなくなるケースもあります。職場や家庭など、慢性的に緊張を強いられる環境は、それ自体が大きな負荷となります。文化的背景や社会的プレッシャー、経済状況といった要因も、生きづらさに影響します。

心理職や精神科医が行う評価は、こうした複数の要因を丁寧に重ね合わせる作業です。概念はラベル付けのためにあるのではなく、その人の回復や理解に役立つ仮説として用いられるべきものです。

HSPという言葉が問題になるのは、それが唯一の説明として使われてしまう場合です。過去にも、発達障害やパーソナリティ障害といった概念が過剰に適用され、混乱を招いた歴史があります。同じことが繰り返されないよう、慎重な扱いが求められます。


3.生きづらさの背景として注目されてきた「発達期のストレス」

近年、研究の蓄積によって、生きづらさの背景として改めて注目されているのが、子ども時代に受けたストレスの影響です。

一見すると些細に思える出来事でも、発達過程にある子どもにとっては大きな負荷となることがあります。たとえば、家庭内で繰り返される夫婦喧嘩は、直接的な暴力がなくても、子どもの脳や情緒の発達に深刻な影響を及ぼすことが示されています。現在では「面前DV」として、重要な問題と位置づけられています。

発達期における過度なストレスは、「発達性トラウマ」や「逆境的小児期体験(ACE)」として研究されてきました。大規模調査では、小児期に逆境体験を持つ人が、成人後に精神疾患や生活習慣病を発症するリスクが大幅に高まることが明らかになっています。

愛着研究の分野でも、親との関係性が、その後の対人関係や自己評価、健康状態に長期的な影響を及ぼすことが示されています。こうした問題は「愛着障害」という言葉で広く知られるようになりました。

また、発達期のトラウマによって生じる症状は、発達障害と非常によく似ることがあります。そのため、環境由来の影響が見逃され、先天的な問題として扱われてしまうケースも少なくありません。


4.トラウマは「特別な出来事」だけの問題ではない

トラウマという言葉は、災害や事故、犯罪被害といった極端な出来事と結びつけて理解されがちです。しかし実際には、トラウマはもっと日常的な文脈で生じます。

強烈な出来事でなくても、逃げ場のないストレスが長期にわたって続くことで、心身は確実に影響を受けます。人間は、些細でも慢性的なストレスに対して非常に脆弱です。

この意味で、トラウマは「日常のストレスによって生じるストレス障害」と捉えることができます。パワハラやモラハラ、いじめ、家庭内の緊張、親の養育機能の問題なども、深刻な影響を及ぼします。本人がその影響を自覚していない場合も多くあります。

その結果として、過緊張、過剰適応、対人関係の難しさ、集中力の低下、不安や抑うつ感といった問題が現れます。感覚過敏や鈍麻といった「繊細さ」も、その延長線上で理解することができます。

こうした視点から、精神医療や臨床心理の分野では、まずトラウマの存在を仮定して理解を進める姿勢が重視されつつあります。HSPという言葉で説明されてきた生きづらさも、より広い文脈の中で捉え直す必要があるのです。

 

 

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「ハラスメント」とは、本当は何か?

 「パワハラ、カスハラとか、〇〇ハラが次々出てくる」、「どこからがハラスメントになるかわからない」と、近年ハラスメントにまつわる戸惑いを耳にします。

 こうした戸惑いが示すように、「ハラスメント」ほど、明確な定義がないまま世の中に広まってきた言葉も、他にはないかもしれません。

 ハラスメントを恐れる上司が部下に対して会社での積極的な支持や管理を避けることがハラスメントとされる「ホワイトハラスメント」なる奇妙な問題まで生じていることを見れば、その弊害もある種の極点に来ているといっても言い過ぎではありません。

・ハラスメントには核心、メカニズムが存在する

 本来、ハラスメントとは単なる迷惑行為を指すものではありませんでした。

 ハラスメントとは、人間関係における呪縛や侵害に関する概念であり、もともと、人類学者グレゴリー・ベイトソンの「ダブルバインド」理論(“Toward a Theory of Schizophrenia,”論文)を源流とします。
 日本でも実際に東京大学の東洋文化研究所の安富歩教授や大阪大学の深尾葉子教授が「魂の脱植民地化」プロジェクトを立ち上げて研究されるなど、実は、「ハラスメント」は、人間という存在を解き明かす可能性を持つ「人文知のテーマ」と捉えられてきた歴史があります。

 そのため、世の中ではほとんど知られていませんが、ハラスメントには核となるメカニズムが存在します。

 そのメカニズムを知ると、ハラスメントとは何か?が驚くほど理解できるようになります。

 ハラスメントのメカニズムを知ることは、日常でのハラスメント防止に役にたつことはもちろん、私たち人間の在り方を深く知ることにもつながります。

 今回は、「ハラスメント」とは本当は何なのか?について解説してまいります。

 

・ハラスメントとは何か?~社会性の虐用(ソーシャリティ・アビューズ)、ローカルルール

 

 まず、ハラスメントとは、「加害者が自分の不全感をかりそめに癒すために表面的な規範を道具に、私たちの社会性、善性を悪用する行為」のことをいいます。

 「不全感」とは、I’m OKではない状態、自己の満たされなさや不安定さといったことをいいます。愛着不安やトラウマ、短期的にはストレスなどによって生じます。

 ここでポイントなのは、ハラスメントが
「私たちの社会性、善性を悪用する行為」である
・「自分の不全感を癒す」ということを目的としている

 という2点です。

 これが、社会ではほとんど知られていないハラスメントの要点です。

 私たち人間は社会的な存在とされます。社会的な存在であるとは公的な規範や責任で成り立つということです。そのため、私たちは規範や責任を口実にされることにはとても弱く、本当は加害者個人の不全感でしかないものでも、「こうあるべきだ(ルールだ)」「お前の責任だ」とされると私たちはそれを飲み込んでしまうのです。こうした不全感を他者に押し付けて解消するために、表面をもっともらしい理屈でコーティングされた偽物のルールのことを「ローカルルール」といいます。

 そして、ローカルルールなどを利用して、受け取る側の社会性を悪用することを「ソーシャリティ・アビューズ(社会性の虐用)」といいます。

 

 

 これがハラスメントのメカニズムの概略です。 

 ハラスメントに遭うと、私たち人間の持つ生き生きとした心や感情の働き(東京大学の安冨歩教授はこのメカニズムを「学習」と呼んでいます)は支配、拘束されて生きづらさを感じるようになります。

 「~~ハラ」と様々な種類のハラスメントが世の中では言われますが、各ハラスメントには共通してこうしたメカニズムが存在しています。

 

・俗にいう“ハラスメント”は2つに大別される

 世の中で俗に“ハラスメント”と呼ばれるものは、2つに大別されます。
 それは、「行為(doing)レベル」と「存在/精神(being)レベル」です。

 行為レベルとは迷惑行為そのもの、存在・精神レベルとは前項で紹介した「ソーシャリティ・アビューズ(社会性の虐用)」を伴うもので、心理的な支配、拘束が生じる状態です。

・行為レベルのハラスメント:迷惑行為そのもの

・存在/精神レベルのハラスメント:心理的な支配、拘束(≒ソーシャリティ・アビューズ(社会性の虐用))

 例えば、セクハラでも被害の事例でも、その影響はただの行為レベルの被害だけにとどまらないことがわかります。

 間違った価値観の影響(「付き合いの範囲だ」「こんなことくらい我慢するのが当然だ」「こんなことを問題化するなんて大人げない」「なんとかうまく穏便にすませなければ」「被害者にも落ち度がある」など)や、それらを利用した加害者の卑劣な侵害や、セカンドハラスメントを受けて、存在/精神レベルでも被害者は長く苦しんでいます。

 

 私たちも過去に受けた理不尽な行為(いじめや嫌がらせ、暴言など)がずっと頭に残っていることがありますが、それらがなぜ今でも尾を引いているか?といえば、そこに存在/精神レベルの支配、呪縛の影響があるためです。 

 実は性被害も含めて、劇的なストレスに見舞われた場合には、多くの人はトラウマにならず回復していくことが知られています。
 その際に、トラウマになるかならないか?をわけるものも、心理的な支配、拘束(≒ソーシャリティ・アビューズ(社会性の虐用))にあると捉えれば、その差を説明することができます。

 

 このような構造的なメカニズム把握や分析は、一般のハラスメント本では全く触れられていません。外形(表層)的なガイドラインや定義に終始し、核心となるメカニズムが世の中に知られていないために、なんでもかんでもハラスメントということが生じてしまっているのです。

 こうしたことがわかれば、何がハラスメントでそうではないのか?を自分でも応用したり、職場で議論したりできるようになります。

 

 では、次に、具体的な例をもとにハラスメントのメカニズムを理解してみましょう。

 

・事例からハラスメントのメカニズムを理解する①:職場の場合

 職場によくあるケースから、ハラスメントがどのようなメカニズムで成り立っているのか?を示してみました。

1.上司が不全感を抱え、部下をコントロールするなどネガティブな意図を持っている。

2.部下を些細なミスなどを理由に叱りつける。

  ※部下は、たしかに自分にもミスがあったことは認めるが、日々の業務では些細なミスは生じるし、忙しい中で致し方ないとも思っています。
 また、仕事の仕方はいろいろなので、たしかにそうかもしれないけど、強く叱責されるほどでも、という思いもありどこか納得できません。
  しかし、職場において上司の叱責を受け止めなければ、あるいは、間違いがあれば改善しなければ、という「社会性(ソーシャリティ)」から耳を傾けてしまいます。

3.上司は、さらに「おまえには反省の態度が見られない」「お前は普段からミスが多い」と部下の都合や感覚を否定し、表面をコーティングすることで不全感を隠ぺいするメッセージを発する。

  ※部下は戸惑い、ストレスを感じます。
   しかし、ミスも生じた中で、上司に反論してはおかしな人間ともされかねませんので、やはり耳を傾けてしまいます。

4.「こんなことでは、仕事は任せられないし、いつまでたっても一人前になれないぞ!」

  ※「社会性(ソーシャリティ)」に働きかける言葉を繰り返しかけられることで、精神的に呪縛され、自分の感覚を疑い、自信を失うストレス状況から抜け出せなくなります。

5.違和感を感じるので他の人に相談したら、「あなたの態度に何か問題があったんじゃない?」「会社ってそういうもんだよ」と言われてしまう(セカンドハラスメント)

  ※自分がおかしい、という状況の完成。

 これが繰り返されることで、部下は自分の感覚を信じることがだんだんできなくなり、上司の基準を正解として不全感を飲み込み、支配されてしまうのです。 

 

 

・事例からハラスメントのメカニズムを理解する②:親子の場合

 次は、親子の間で生じるハラスメントの例です。

1.親が自身の不全感から不安定で、イライラしている。

2.家で遊んでいる子どもを「勉強しなさい」と叱りつける。

  子どもは、なんで遊んでいけないのか?と反論する(違和感)

3.「あなたのためを思って言っているのよ」(表面をコーティングするメッセージ)と伝える。

  ※子どもは混乱する。直感では、勉強していないことが原因ではなく、単に親は自分のイライラ(不全感)をぶつけているだけと感じているから。

4.「いつも言うことを聞かない。素直じゃない」
  ※子どもは、不満を感じながらも、自分が悪いと思ってしまう(子どもの「社会性(ソーシャリティ)」)。

5.他の子や大人に聞くと「うちでもそうだよ」「勉強しないから悪いんじゃない?」と言われてしまう(セカンドハラスメント)。

  ※自分は言うことを聞かない、おかしな子、という状況ができあがり、以後、徐々に自分の直感も信じられなくなっていってしまう。

 

・「社会は、ハラスメントでできている」

 上に挙げた例を見て、「えっ、そんなことがハラスメントなの?」と思われた方もいらっしゃるのではないでしょうか? 
 東京大学の安冨教授は「社会は、ハラスメントでできている」と表現しているように社会にはハラスメントはそこここにあふれているのです。

 人間には【本来の自分】【実存】とでもいうような部分がありますが、ハラスメントを仕掛けられると、自分の感覚を疑うようになり、自分を信じられなくなってしまうのです。まさに、精神が呪縛される、もっと深刻になると、魂が殺されてしまうのです。これは決して大げさではありません。
 スイスの心理学者アリス・ミラーはこのことを「魂の殺人」と呼んでいます。

 

 拠り所を失った人間は、外部の規範や、他者に依存するようになります。幼いころにそうしたことが起きると、大人になってからもモラハラを受けやすい人間になります。さらに悪い事には、ハラスメントを受けておかしくなっている自分を正当化するために、他者を「おまえは礼儀がなっていない」といって叱りつけるなど、今度は自分がハラスメントを行うようにもなるのです。

 ハラスメントとはこうしたプロセスを言います。目に見えにくいですが、私たち人間に重大な影響を与えているのです。

 

・分断され、社会に届かない「ハラスメント」の知見

 ここまで見てきたように、ハラスメントとは、単なる迷惑行為といったことにとどまらない、人間の本質にかかわるテーマです。

 上記でも触れましたが、日本では、東京大学などで研究プロジェクトを行うなど、学術的にも分析がされてきました。

 モラル・ハラスメント自体は、フランスの精神科医イルゴイエンヌが提起したものですが、その背景には単なる迷惑行為や個人に対する侵害への問題提起を越えた深いの領域が控えているのです。

 しかし、これらの知見は分断にさらされてきました。残念ながら、行政や労務におけるガイドラインを参照しても参考文献にこうした研究は全く登場しません。また、当事者を支援する専門家たちの書籍でも、こうした研究に触れられることは、ほとんどありません。
 メカニズムなど問題の本質に迫るような知見に関心がもたれずに、ただ外形的なガイドラインか、当事者の事例をまとめたようなものが通例になってしまっています。

 こうした知見の分断の背景には、心理臨床や精神医学におけるガイドライン依存や心理を問う機運の衰退など、簡単に言えば、事象の本質、メカニズムを深く掘り下げて定義する文化が失われていることがあるのかもしれません。

 

・ハラスメントの基準~どこからどこまでがハラスメントか?

 ここまで解説させていただきましたハラスメントのメカニズムを知ったうえで、実際に日常の現場でどこからがハラスメントで、どこからがそうではないのかを見ていきたいと思います。

1.ハラスメントの基準を知るための前提

 まず、「ハラスメントとは加害者が自分の不全感をかりそめに癒すために表面的な規範を道具に、私たちの社会性、善性を悪用する行為」という理解が基本です。

 そうした関わりをされると、された側も何とも言えない嫌な感覚がわいてきます。「不全感」という概念はあまりなじみがないかもしれませんがとても重要です。人間の言動の背景には実は不全感が含まれていることがあり、それが人間関係や組織(家庭、学校、地域、職場など)をおかしくしているのだ、ということについて私たちは正しく認識する必要があります。これらを知っているだけでもハラスメントの基準についてかなりのことがわかります。

 そして、不全感をかりそめに癒すために他者の社会性、善性を悪用することがない関わりであれば、まずはそれはハラスメントではない、ということです。

 

2.行為doingレベルの迷惑行為と、存在(精神)beingレベルの影響とを分ける

 そのうえで基準をより明確にするために、行為doingレベルの迷惑行為と、存在(精神)beingレベルの影響とを分けてとらえてください。

 行為レベルの迷惑行為・ストレス事象のみの場合は厳密にはハラスメントには当たりません。
 例えば「口は悪いのになんだか憎めない、嫌な感じがしない」というのはこうしたケースです。あるいは、熱意をもって叱咤するといった上司の姿などもある意味同様です。(※ただし、実務や現場における総論としては、できれば避けるべき行為として取り扱われます。)。

 最近、職場で人が立てる音が気になって困るということで「音ハラ」ということが言われるそうです。これも音を立てる人が不全感から意図して発しているのでないのであればハラスメントではなく、単なるストレス事案、迷惑行為となります。

 このように何でもハラスメントになるということを防ぎ、基準をもって切り分けていくことができます。

 

3.存在レベルに立ち入っているか否か?

 次に、社会におけるかかわりの原則は、他者の存在レベルの事柄には立ち入る(相手の人間性を云々するようなこと)権利は誰にもない、ということ。できることは行為レベルでのやり取りであるということです。特に仕事などでは、行為レベルでの改善や要求をやり取りできなければ仕事にならないため、それらについての関わりは基本ハラスメントではないことがわかります。

 行為レベルのやり取りの際に、暗に存在レベルへの侵害がないかどうか?については現場でも検証をすることです。
 例えば、不機嫌になりながら指示をするといった行為は、暗に「お前が自分を不機嫌にしている」というメッセージが込められている場合(かりそめに自分の不全感を癒そうとする行為)があり、ハラスメントになりえることがわかります。

 もちろん人間ですから、仕事で迷惑をかけられて腹が立つことはあります。その際は必ず、「Iメッセージ(私は困ります。こう改善してください)」つまり、自分を主語にした1人称で、相手の存在を尊重したうえで、行為レベルに限定して発せられる必要があります。

 

・基準の共有と吟味~社員の多元性、多様性が尊重されているか?

 こうした基準の共有、吟味とコミュニケーションの配慮、必要に応じてトレーニングがされれば、会社で若手社員に恐る恐る接するといったような「ホワイトハラスメント」なるおかしな現象は生じなくなります。

 例えば、飲み会についても、存在レベルでの侵害(来て当然だ、来ないやつはダメな奴、など)がないか?などは吟味し、必要性への了解と、相手の事情を配慮したうえで開催することが原則です。飲み会そのものや、誘うこと自体はストレスがあったとしても行為レベルのもので、基本的にはハラスメントではないと捉えます。

 仕事において、さらに突っ込んだやり取りが必要な場合、規範や責任についてやり取りが必要な際は、それが真に妥当なものか?不全感を隠した関わりではないか?といった吟味が必要になります。

 「ブラック」「宗教的」といったような批判を受けるような職場は、経営者の不全感がそのまま企業理念や社員規範となっている場合があり、本来は、経営者個人の不全感は脱臭・昇華した理念にする必要があります。
 具体的には、パブリックルール(社会の良識)のフィルタを通し、社員の多元性、多様性を尊重したものである必要があります。マインドセットや意欲といったことが求められる場合でも、社員の人格Beingを云々するのではなく、あくまで行為レベルのものとして扱われるべきものです。

 さらにいえば、相互の尊重や信頼が十分に醸成されている職場では、「自分の不全感から他者の社会性、善性を悪用する」という危険性がなくなるため、トークストレート(率直な会話)ができるようになります。実際に実現している会社は存在します。そうした会社では、相手の立場などに臆せず、言うべきことを言う、しかし、イシューと人格は切り分けられている、ということが当たり前になっています。

 ここまで見たように、ハラスメントのメカニズムという視点があれば、これまでにない様々な応用やアイデアが涌いてきます。

 

・ハラスメントの抑止と対処~メカニズムを理解、応用した環境づくり

 ハラスメントのメカニズムという視点を持つことによる応用やアイデアとは、たとえば職場においては、どのような職場づくりをすればハラスメントの防止に有効なのか?ハラスメントのメカニズムを理解した上での職場づくりはどうすればいいのか?すでに世の中で知られ、実施されている取り組みについてもその意味や効果が別の角度で見えてきます。

 例えばダイバーシティ、パーパスといったことも、それらが経験的に有効というのは経営の観点からわかっていることですが、実は心理学やハラスメントに関する知見から捉えると、それらが、ハラスメントを抑止するために必要な多元性、多様性を醸成する効果があることがわかります。

 社会的な存在である人間は公的な場でこそ本来であることができ、公私があいまいになるとおかしくなりやすい、とされます。それは「公私環境仮説」という心理学のテーゼでもあります。

 つまり、一見公的な場に見える職場ですが、実際はローカルなコミュニティであり、公私があいまいな状況になりやすく、ハラスメントが生じやすいとされます。学校のいじめも似た構造があるとされます。このことを内藤朝雄准教授は「中間集団全体主義」と呼んでいます。

 ダイバーシティ、パーパスといった施策がなぜ有効かと言えば、ローカルコミュニティとして閉じがちな職場にパブリックルール(社会の良識)を通し、公的な環境を作り出して、ハラスメントを抑える働きがあるためです。

 さらに、あらためてパーパスの策定などを通じて、経営理念や文化に含まれる創業者や経営者個人の不全感を脱臭させる効果もあります。さらにそれらはハラスメントの抑止だけではなく、公的な環境作り、多様性尊重などを通じて構成員の創発を促す効果などもあるのです。

 こうしたことは既存の経営書などにも書かれていない視点です。

 

・“自分らしくある”とは何か?~ハラスメント理解からみえてくる私たちの可能性

 ハラスメントの研究と理解とは単に人間の負の側面を明らかにするだけではありません。それらを通じて、人間がよりよくあるための要件が明確にもなります。

 例えば、ローカルルール、ソーシャリティ・アビューズによって呪縛される仕組みがわかることで、人間の持つ特質も明らかになります。

その特質とは、
・個々人はそれぞれに資質を持つこと(資質の多元性、多様性)
・社会性、善性
・学習、創発よって人は機能する

 など、といったことです。

 機能するためには、

・シンプルな一貫したコミュニケーション
・各人の多様性・多元性を尊重したかかわり、環境作り
・「不全感」の存在を知る

 が求められることがわかります。

 機能しなくなると、人は、外部から押し付けられたニセの自分を生きることになります。ナチス親衛隊の幹部であるアイヒマンなどはまさにそうした人物であったとされます。

 

 そして、何よりも必要なのは、「不全感」について私たちが賢くなること。「不全感」というものの存在については、これまでは明確には言われてきませんでした。しかし、これからは不全感の存在についても社会が敏感になる、違和感を言語化することが必要です。

 不全感を隠したローカルルールは、家庭の中でも、地域、学校、職場でも拒否していくことが重要です。

 私たちが社会的な存在であるからこそ、それを悪用するかかわりには「NO」と言うことです。

 そうすることが、不全感の連鎖を止めていくことにつながります。
 (子どもへのマルトリートメントや虐待の防止の取り組みなどは、その根本にあるものです。)

 

 ハラスメントなど人間が引き起こす、他者を傷つけるふるまいといったものも、結局は不全感の連鎖によって生じているということは、すでに、トラウマや愛着に関する研究で明らかになっています。

 差別や虐殺、戦争といったことも、実は不全感の連鎖によるものでは?と指摘されています。 

 

 「社会は、ハラスメントでできている」という東大の安冨歩教授の言葉を紹介しましたが、ハラスメントの構造に気がつかずに(ハラスメントと呼ばれていなくても、実際は、日常の様々な場面で行われています)、程度には差はあれ、私たちの多くがハラスメントに呪縛されてきたとしたら?

 そして、「ハラスメント」やその裏にある不全感について自覚的になり、適切な対処や環境作りがされるようになったら、生きづらさの解消はもちろん、私たちはより”自分らしく”あることができるようになり、可能性が開かれていきます。

 

(参考)→ダブルバインドなどからみたハラスメントのより詳細なメカニズム:「ハラスメント(モラハラ)とは何か?~原因と特徴

 

 

 

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人はコミュニティや人間関係を更新・移動するもの~更新の際は悪く言われて当然

 

 前回もお伝えしたように、目の前にある、今ある共同体や関係の中に適応しなければならない、適応できない自分はダメだ、適応している人はすごい、と、私たちはつい幻想にとらわれてしまいます。

 実はそうではない。

(参考)→「適応できることがいいことではない~“不適応”というフィードバック

 

 
 自分はあの会社ではうまくいかなかったが、他の人(例えばAさん)はうまくやっている(だから自分はダメだ)

 他の人はあのグループで仲良くやれている、でも自分は馴染めなかった(だから自分はダメだ)

 
 と思いがちです。

 私たちは、実験を重ねるようにして、ここが合わない、ここも合わない、と試行錯誤(不適応)しながら、自分の道を見つけていきます。

 人はどんどんと共同体を移動していくものです。

 もともといた共同体に属し続け(うまくやり続け)なければいけないというのは幻想でしかありません。

 

 特に、生まれた場所、地域だからそこが自分にとって良い場所(故郷)とも限りません。
 地方などは典型的ですが、閉鎖的で、同調圧力が強い地域もよくあります。

 

 

 さらに、そんな場所から、卒業したり、抜け出したりして、自分の道を見つけていく際は、決して、キレイに移行、卒業できるというわけではありません。

 例えば、中学や高校で、つるんでいた友達と離れて、勉強や部活に熱心になったら、「あいつは付き合いが悪い」と言われて陰口をたたかれることになります。

 自分のやりたいことを見つけて進む中では、地元の友達関係とは距離を取ることになります。

 その際も、「あいつは変わった」「何、調子に乗ってんだ!」と悪口を言われるかもしれません。

 

 

 生まれた地域も同様です。

 地元の消防団などの会合や、寄合には出ないという選択肢を取ったり、転居したりする。「あそこの家の娘、息子はおかしい」「付き合いが悪い」と言われるかもしれません。

 

 会社も同様です。
「あいつは仕事ができない」「あいつは使えない」と言われたりします。

 

 パートナーとの付き合いも、別れるときはものすごいストレスがかかります。相手から罵倒されるかもしれません。

 

 問題のある父や母、親族とは距離を取らなければなりません。その際にも、とても嫌な呪いの言葉を浴びるかもしれません。 強い罪悪感、自責の念を感じる。

 そんなストレスを経ながら私たちはところを得ていきます。

 

 

 それぞれから離れる際には、

「なんで、あんな態度をとってしまったのか?」

「うまいことを言っておけばよかったのに。私は本当にバカだ」

「ほかの人ならうまくやれた(自分はうまく付き合えなかった)」

なんて、自分の不器用を呪うこともあります。

 

 これらは、すべて「不適応」です。

 

 しかし、「適応しなければ」と、中にはその不適応から生じるストレスを避けたいがために、あるいは「すべての場所で適応しなければならない」「過去に失敗したから今回は同じことはできない(同じようにケンカ別れになったら、自分だダメな人間であると確定されてしまう)」「すべての環境、人から合格点をもらえなければ、次に進んではいけない」という間違った観念、幻想を元に、適していない環境に居続けてしまう、というケースがあります。
 

 まさに”適応幻想”による呪縛と言うしかありません。

 
 私たちは、どんどん環境を変え、移動を続けていくものです。

そうやって人生を作っていきます。
  

 家族にも良い子と呼ばれ、今でも地元の友達とも付き合いがあり、人生で出会うあらゆる人から好かれ、地域でも覚えがめでたく、勤めた会社では惜しまれて転職、なんて、そんなことは実際にはあり得ません。
 いつも旅行やグルメを楽しんでいる姿をアピールするようなYoutubeやインスタと同じくらい作られた幻想です。

 もし実際に、うまくやり続けてきたとしたら、「何かがおかしい(本当の自分が殺されていないか? ほかの人や何かを犠牲にして成り立っていないか?)」と見ないといけません。学歴もキャリアもプライベートもうまくいっているように見える人が実際には本当は自分の人生を歩んでいない、という例はとても多いのですから。

 

 

 共同体にとっては自分たちの共同体の正統性を維持するために、脱退されることを防ぐためにも逸脱する人を悪く言うという動因もあります。

 
 そんな恐れから、共同体にとどまったりしてしまってはいけません。

 そして、悪く言われることをもって、自分がダメな人間だと思うことも必要ありません。仲良くできるのも、無用なあつれきを賢く避けることも、もちろん愛着(生きるため)の力ですが、時に仲違いをしたり、必要なけんかをすることも、生きていくのに必要な力です。

 

 そうして必要な際は腹をくくり、自分の気質、持ち味が持つ、必要な流れに沿って、更新し続けることこそが大切なのです。

 

 

 

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適応できることがいいことではない~“不適応”というフィードバック

 

 どこのコミュニティも、そつなくこなしているように見える人はいます。とても関係づくりがうまく、うらやましいように見える人が。 

 

 例えば、幼い時は公園で友だちができて、お母さんたちとも馴染める。

 小学校では友達がたくさんいる。いろんな友達とうまく付き合える。

 中学校以降になると、部活で先輩ともぺこぺことうまくやりとりができる。

 大学に進むと、研究室の先生にも目をかけられ、院生ともうまく付き合いができる。

 就職した先では、上司に取り入り、得意先とうまく付き合いができる。

 結婚したら、パートナーとうまく関係が築ける。

 地域では、ご近所付き合い、ママ友、学校などとの地域の活動がうまくできる。

 

 こうしたことが「標準」「正常」であるというイメージを私たちは持っています。そして、これらのことからずれること、うまくいかないことは「異常」であり、自分が劣っている証拠であると考えてしまいます。

 そうして自分を責める。劣等感を持ってしまう。

 

 

 私たちは適応できることが善で、不適応を悪だと考えています。
 実際に、カウンセリングにおいても、適応を目指します。
 私たちは、最終的には社会に適応するしかない、とされます。
それは確かにその通りで、“社会”に適応するしかありません。 

 

 だから、一見すると「適応」はやはり善に見えます。

 これらは本当なのでしょうか?正しいのでしょうか?

 実はもっともに見えますが、まったく正しくありません。

 

 正しく言えば、適応するためには、「不適応」を起こさなければならない、もっといえば、自己を確立するためには、積極的に不適応を起こす必要がある、と言えるのです。

 適応しなければならないけど、不適応も必要? どう考えればいいのだろうか??頭が混乱しそうですが、難しい話ではありません。

 

 生物の世界、植物でも、動物でもどんな環境でも適応できる種は存在しません。必ず、生息に適した環境があります。 それを「ニッチ」というそうです。

 淡水魚は海水では生息できませんし、百獣の王とされるライオンも適した地域はかなり限られます。
 

 つまり、それぞれ適した場所でこそもともとの生命力を発揮できると言えます。

 

 

 人間でも同様のことが言えます。

よく言われるのは、企業や軍事での戦略の世界です。

 企業での戦略は、自分たちが得意な分野(ポジショニング)はどこか?を探すことだとされます。大企業であったとしても不得手なところにうって出ると必ず失敗します。

 

 軍隊でも、得意な状況は実は限られていて、
例えば、“最強”とされたモンゴル軍でも、自分たちが得意な平原から離れてくると力を発揮できなくなって、日本や東南アジアでは敗退しています。
 20世紀に世界最強とされたアメリカもベトナムで撤退するなど、実は適した環境は限られています。

 どんなところでも適応できなければならない、勝てなければならない、などと言うのは本当に幻想だということがよくわかります。

 

 スポーツ選手も、同じ競技でもチームが変わるだけで全く活躍できなくなるなんてことは珍しくありません。
 チームの戦術や、監督のパーソナリティ、リーグのスタイルでもかなり左右されます。

 実は会社も同様で、同じ業界でも、会社が違えば活躍できなくなることはあります。

 

 

 「あの人は、どんな世界に行っても活躍できる」というのは、比喩(そんな気がするだけ)であって、本当にどんな世界に行っても活躍できる人などは、人類史上一人も存在しません。

 もしいたら、その人を題材に、生物学(人類学?)の世界で論文を書けばノーベル賞を取れるかもしれません。
 
 絶対にありえないからです。

 

 私たちにとっての適応とは、「自分の持ち味を発揮できるところを得ること」です。

 自分にとっての強み、持ち味を発揮できる場所や人間関係はどこか?を見極めて、早くそこに立つことです。

 大谷翔平が事務職をしても不幸でしかありませんし、卓球やゴルフではきっと野球ほどには活躍できないでしょう。
(バスケットボール選手の天才的な選手であるマイケル・ジョーダンが、野球に行ってうまくいかなかったことはよく知られたことです)

 

  
 
 私たちが、各所で見る、「うまくやっている人」というのは、そこでうまくいっているだけで、実際に、すべての場所でうまくいくわけではありません。
 
 
 私たちの脳は、自分を否定するために、都合よく、それぞれの場所で「うまくいっている人」を取り上げては、それらと自分とを比較してダメ出しをしてきます。

 しかし、そんなご都合主義の比較に意味があるでしょうか?

 ガントチャートで、すべての項目がMAXでなければ人としておかしい、なんてそんなことありえるでしょうか?

 ライオンが、スズメみたいに空は飛べない、水の中では魚に勝てない、モグラのように土の中では、だからライオンはダメだ、などと都合よくダメなところを比較して、意味があるでしょうか?

 

 

 多くの場合、私たちは、親などや養育環境の中での間違った比較やこうあるべきを押し付けられて自信を失っている場合もよくあります。

 

 確かに、いろいろな場所で相対的にうまくいってそうな人はいるかもしれません。そつのない人もいます。

 しかし、器用であるが故の不幸もあるのです。

 以前、ブログで紹介した、なんでも器用に100点の回答をしてくる東大生たち。彼らは果たして幸福でしょうか?

(参考)→「世の中で活躍できている人が万全、健全というわけではまったくない。

 

 その器用さゆえに、壁(不適応)に当たらないことで、本来の自分の場所が見つからない、という恐ろしいことも生じるのです。

 実際にそつがないゆえに、会社などで出世していって、でも、本来のその人の人生を生きてはいない、なんていうことはたくさん存在するのです。
 

 たまたま数字のある部署に配属されて、それで役員(子会社の社長)まで行く、なんていうのは大企業ではよくある型です。良いことのように見えますが、それも本当に幸せなのか?
 

 どこかで「この仕事は合わない」「この組織は合わない」というシグナルが来て、別の会社や職に就くことが、その人の本来のいる場所、かもしれません。

 しかし、器用に適応したがために、自分の本来の道を見つける機会はついぞ失われてしまうわけです。

(参考)→「誤った適応

 

 

 例えば、印象的なのは、以前、社会問題となった宗教団体でネクタイを締めたスーツ姿の幹部たちが会見をしている場面をテレビで見たことがあります。

 あの人たちは、その宗教団体という組織の中で適応し、出世した人たちです。

 おそらく、仕事もできるのでしょう。
 その組織の中で覚えめでたく、上司にも好かれ、だから出世したのでしょう。

 一方その宗教団体を訴える人たちは、その団体で搾取されてきた人たちです。
もしかしたら、搾取されただけではなく、馴染めず、出世できなかったのかもしれません。

 
 しかし、適応した幹部たちは果たして真に幸せなのでしょうか?

 社会問題となるような集団ですから、「こんなところはおかしい」と不適応を起こすほうが自然ではないでしょうか。

 そこに適応して出世までできたというのは、良い適応では全くありません。

 私たちは、不適応、不適応、不適応のフィードバックの中で自分を作り、そして持ち味を発揮できる場所や人、自分にとっての“社会”に適応していくものなのです。

(参考)→「変化しない人、フィードバックがかからない人は存在しない

 

 

 

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