4月16日(火)発売の『週刊SPA!』にてトラウマが特集され、当センターの三木がコメントしています。

 

 4月16日(火)発売の『週刊SPA! 4/23・30合併号』にて、4ページにわたりトラウマが特集されます。
 https://www.fusosha.co.jp/magazines/spa/

その中で、当センターのカウンセラー(三木)も取材に応じコメントしています。

 トラウマが、一般の雑誌でも特集されるようになってまいりました。

 よろしければ、書店、コンビニなどでご覧ください。
(電子版や、webサイト『日刊SPA!』(https://nikkan-spa.jp/)にも掲載予定です)

 よろしくお願いいたします。

”壊れたラジオ”のように

 

 トラウマやハラスメントから来る自己の喪失が重いケースの場合に多いですが、話が止まらず、ずーっと話をする、という状態になることがあります。

 カウンセリング中も、対話にならず、カウンセラーが方向を変えようと、あるいは制止しようとしても、うまくいきません。
 

 ずっと、問わず語りで、一方的に話を続けるようになる。

 単に躁的になって話をしている、という場合もありますが、ずーっと話が止まらずにという方には特徴があります。それは、自我の統制が非常に弱い状態にある、ということです。

 人間は、他者の言葉を取り込んで、それを内面化している、といわれています(多声的、ポリフォニー)。私たちの思考は、他者の思考の集積でできている。

 

 健康な状態は、内面化した声(規範)について、

・吟味、相対化されている
・多様性がある
・中心となる自我によって統制されている

という特徴があります。スマホにもたくさんアプリがありますが、アンドロイドやiOSなどOSによって制御されていますが、それと同じです。

 

 一方、不全な状態にある場合は、内面化した声(規範)について

・相対化されていない
・多様性が低い
・中心となる自我の統制が弱い

 もっといえば、内面化した声が「超自我化」「人格化」していて、自我の統制を離れて勝手に動き足すような状態です。これが極まれば、「解離性同一性障害(多重人格)」ということになります。

(参考)→「解離性障害、解離性同一性障害とは何か?その原因

 しかし、多重人格とまではいかなくても、声だけがずっと発せられる、ということはあります。それが、話が止まらずに、ずっと話を続く、という状態です。

 本人が悪いわけではなく、トラウマによる自己の喪失が弱い状態に生じる事象です。

 

 

 あるクライアントさんが、その状態を指して「壊れたラジオのようですね」とおっしゃっていましたが、まさにそんな状態です。意識して、オフにできなくなる。
 

対話ができなくなりますので、当然、カウンセリングが成り立たなくなります。

 最初は、カウンセラーも、「傾聴」していますが、クライアント本人にとっても、それは自身の言葉ではなく内面化した他者の言葉ですから、内容に意味がありません。

 ですから、聞いている側にとっても、意義のあるものとしては伝わってきません。極端になると「聞いていられない」状態になってきます。聞いていられない、というのは人間にとっては、実は、健康的な反応です。発している当人にとっても、その人の言葉ではなく、保持していられない内側の声が漏れているような状態だからです。

 

 では、排泄物のように、聞いていれば収まるか、といえばそうではありません。自分という主体がないと、何十時間話し続けたとしても、発散されないのです。発散とは、主体によって解釈され直されるということを伴って初めて発散となるからです。まさにトラウマ的な無限の世界です。
(統合失調症などは典型ですが、統合失調症の方の話すことを徹底して共感、傾聴するとどうなるか?という実験があったそうですが、改善が見られなかったことが知られています。)

(参考)→「トラウマの世界観は”無限”、普通の世界観は”有限”

 

 依存症傾向の方が、くだを巻くような話を延々とすることがありますが、それも同様だと考えられます。あれは当人の言葉ではない。

 トラウマ由来で、自我の統制が弱い状態で発せられる、「他者の言葉」あるいは、「ローカルルールを忖度した言葉」は、当人にとっても改善をもたらすことはありません。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 そこで、カウンセラーもそれを制止しようとしたり、なんとかしようとしますが、うまくいきません。

 言葉が止まらなくなっている状態のために、どうしてもカウンセリングが成り立たない場合は、まずは、ウォーキングなどの有酸素運動で、心身のコンディションを整えたり、あるいは、自助会などに参加するなどして、ある程度まで自我の統制を回復する必要があります。

 そうして、コンディションが整えば、ようやく解決に向けて取り組んで、ということになります。

 

 

 「壊れたラジオのよう」というのは、機能不全な家族との会話でもよくみられます。

 そうした中では、対話が成立しないために、会話が一方的に投げつけられる、あるいは、こちらの言葉も届かない、理解してもらえない、という関係があります。

 また、家族から自分が理解してもらえないということでもあるために、言葉を多く尽くすことにもなります。

 それでも理解してもらえないので、強迫的になり、言葉が無限に湧き出るような状態になるのです。

 

 あるいは、ずっと愚痴や暴言を吐き続ける、なんていうのもある意味そうかもしれません。

 あるいは、頭の中でぐるぐる渦巻く自分を責める声や、思考というのも、まさに、「壊れたラジオのよう」です。

 実は、それらはOSに統制されていない他者の言葉です。

 そんなふうに見ていくと、自身の状態を客観的に捉えて、解決の足場を作っていくことができます。

 

 

 みきいちたろう『発達性トラウマ 「生きづらさ」の正体』(ディスカヴァー携書)

 

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自分のメールアドレスもない、SNSなどのサービスが怖い

 

 トラウマの症状の中核は”自己の喪失”であると『発達性トラウマ 生きづらさの正体』の中で書かせていただきました。

 
 そして、このブログでも、そうしたことを「自分のIDでログインしていないスマホのよう」と表現してきました(それを本にも書かせていただきました)。

(参考)→「自分のIDでログインしてないスマートフォン

 

 自分のIDとは、自己の主体性や、アイデンティティということの譬えです。

 興味深いことに、トラウマが重いケース、機能不全家庭の子どもだったというケースの場合に、自分のメールアドレスを持っていない、最近であればLINEのアカウントを持っていない、というようなケースがまれにあります。

 そうした場合、ご家族のメールアドレスを利用されている、あるいはご家族が連絡してくる、ということになります。

 冒頭の、自分のIDというのは譬えだったわけですが、譬えにとどまらずに、文字通り自分のID、アドレスを持っていない、ということに気が付きます。

 これだけIT化した社会で、メールアドレスがないとECなどサービスサイトでアカウントの作成もできませんし、LINEなどはある種のサービスインフラともなっていますから、それを持たないということは様々な制約になります。

 「メールアドレスなんて単に手続き的なこと」「持つ持たないは個人の嗜好」とは言えず、そこには、まさに自己の喪失が具体的に表れているととらえられるかもしれません。

 

 上記とは少し角度が違いますが、SNSのアカウントをとるのが怖い、というケースもあります。理由を聞くと情報漏洩のリスクを気にして、ということです。

 もちろん、情報漏洩のリスクはありますし、実際に生じています。
しかし、私たちはその辺をどこかで割り切って無料でサービスを使っています。

 そのリスクの見積もりや判断のころ合いや適度さは、社会性の指標とも言えます。

 たとえば、街を歩いていても、交通事故のリスク、通り魔などの犯罪被害、女性などは性被害にあうリスクはあります。
 ショッピングモールで刺されたなんて事件もニュースで見たことがあります。

 
 家にいたほうが絶対に安全です。
 しかし、私たちは社会に出ます。リスクを見る目からすれば、「あまりにもリスクに甘すぎる」といえるかもしれませんが、どこかでその時はその時だと割り切っています。それは、決しておかしな判断ではありません。

 もし、リスクを過大視して家に引きこもってしまうなんていうことがあれば、
 臨床的に言えば「社会恐怖」「社交不安障害」といった名前が付けられてしまうような状態になってしまいます。

 SNSも同様で割り切って使うことになりますが、過大に恐れるといった場合、たとえば、身近な家族が過度に不安が強かったり、というケースが見られます。
 そうした言説や文化の中で、外を過剰に疑い、内に撤退してしまう、ということが生じるのです。

 以前にも書きました「外を疑い、内を守る」というようなことの表れと考えられます。

(参考)→「外(社会)は疑わされ、内(家)は守らされている。

 

 では、内が安全かといえば、そうではなく、そこはローカルルールの世界です。 社会的動物であるはずに自分が、社会から寸断され、自分というものが徐々にぼやけて失われていってしまうのです。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 もし、自分や家族が一般的に社会で用いられているようなサービスのID、アカウント、アドレスなどを持っていないなんていうことがあれば、それは、機能不全な環境の影響から来ていないか? と点検してみるとよいかもしれません。自己の回復の具体的な一歩となります。

(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 

 

 みきいちたろう『発達性トラウマ 「生きづらさ」の正体』(ディスカヴァー携書)

 

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私たちは多様性のある関係(文化)を育む訓練をしてきていない~学校文化の悪影響

 

 
 筆者が以前、休日にスポーツをしていたときに、仲間の振る舞いに嫌悪感を感じたことがありました。

「たぶん、これが学校だと、いじめられるだろうな・・」という言葉が頭の中で湧いてきました。

 別に、その人が好きにしているのだから、イライラすることもないわけで、頭ではわかっていますが、なぜか嫌な気持ちは抑えられませんでした。

 帰りにふと、なぜそんなことを思うのだろうか?と振り返っていたら、「あ、そうか、これは学校スキーム、学校のカルチャーの影響だ」と気づきました。

 私たちは、小学校、中学校、高校とクラス制の中で育ってきています。

 
 人間関係も、そうした中で学んでいきます。

 
 クラス制とは、単一のクラスの場の空気に合わせて生活をすること、といえます。

 色々な性格のメンバーが集っているにも関わらず、1つのカルチャーに染まることを余儀なくされて、1つの文化や、価値基準の中で序列がなんとなく決まってしまう。
 

 そうした多様性のないカルチャーの極点が学校カースト、そして極限がいじめという現象です。

 世の中には人を測る物差しは無限にあるにも関わらず、ごく限られたもので規定され、ニセの序列までつけられてしまう。

 

 しかも、教師も、多様性のないカルチャーで育ってきているために、知識では、個性を尊重と頭でわかっていても、それを支える経験、体験、リソースが圧倒的に不足しているために、気持ちがついてこない。
 
 そこで、自分の限られた経験からくるローカルルールで判断して、「いじめられる側にも問題がある」「もっと本人が空気を読まないと」という感覚になってしまう。

 
 
 多様性の欠如を生むのはもちろん学校だけではありません。家庭はもっとひどいもので、機能が不全に陥ると、親の不全感からくる理不尽な単一文化の牢獄となります。
 
 

 いじめの構造研究で知られる社会学者の内藤朝雄氏は、そうした状況を打破するために、学校においては、いわゆる大学のように、クラス制ではなく、科目ごとにクラスを編成し直すなど、多様性を担保するしくみを提案しています。

 そうした取組は必要でしょうし、その他にも、特に学校においては、いかにすれば多様性、多元性を担保できるか、をもとに環境が設計される必要があります。

 なぜ、こうしたことを書くかと言えば、生きづらさの原因の多くが、取り巻く環境、文化の多様性の欠如によってもたらされるからです。
 

 そして、自身の生きづらさや悩みというものは、ご自身の「頭(心)の中」にあるのではない、と知ることはとても大切なことです。
 
 悩みの原因は環境の側にあります。

 仮に認知行動療法になどで取り組むにしても、影響している文化、環境、そして経験を変えるのだ、という観点が必要です。

 

 

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