トラウマチックな世界観と、安定型の世界観

 

 前回も少し触れましたが、本来の人間の世界観は、
「ゆっくりのんびりしながら、腑に落ちる感覚を「待つ」という」ような感覚です。

 

 トラウマというのは、「ストレス障害」のことです。
災害、事故、日々のストレスによってトラウマになるのですが、
人間はそれによって、安心安全を奪われて、非常事態モードになります。

 

 トラウマを負った人の世界観とは、

 ・次があることが保証されていない(目の前の機会が失われたら次が来ないと思ってしまう)
 ・せっかち(すぐに結果が出ないと安心できない)
 ・明日の能力向上よりは、今の結果を求める(だから、積みあがらない)
 ・Doing偏重(行動への強迫)
 ・世界が秩序だっているとは思えない(そのためスピリチュアルなものにも傾倒しがち)
 ・本当はつながりたいけど、人は信頼できず、億劫な存在
 
 といったことが挙げられます。

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 総じていえば、刹那的で、とてもせっかちなのです。

 「改善のためには常に行動をしなければ」と思い込んでいます。

 

 

 こう聞くと、驚く方もいると思います。
 「だって、例えば仕事では、常に行動を起こすことは基本だし。PDCA、改善(カイゼン)っていうじゃないの?」と。

 

 確かに、半分そのとおり、でもそれは、仕事を支える思想のほうに問題があります。

 

 なぜかというと、現代の資本主義自体、そもそもトラウマティックな性質を持っているからです。

 ・成長に対する強迫
 ・刹那的に利益を追求する

 といった特徴がある。

 

 そのため、会社の社長やビジネスマンといった人には、
 トラウマを負った、自己愛性パーソナリティ障害傾向の方は少なくありません。彼らと資本主義とはある意味、親和性がある。

 (トランプ大統領など極端ですが)

 

 彼らは、抱えた不全感を、Doing(行動)やHaving(成果)で埋めようとする。
 
 すぐに結果が出ないといけない、として、成果を求める期間は、
 1年、半年、4半期とどんどんと短くなってくる。

 結果その無理がたたって、近年は、粉飾、検査不正とかが問題になってきています。

 

 そうした人たちが書くビジネス本とか、発言とかを真に受けると、トラウマチックな世界観に巻き込まれてしまいます。

 

 

 

 一方、本来の仕事、商いというのは、時間がかかるもの、という認識がありますから、コツコツと目の前の仕事をしながら、種を仕込み、のんびりチャンスを待ったり、するもの。
 
 

 

 私たちの個々人の生活、人生もそうです。

 愛着の安定した人間であれば、のんびりすごして、目の前のこと(今ここ)に集中する。そして、3年、5年、場合によっては10年というスパンで、チャンスを「待つ」。

 これが本来のスタイル。
 

 すぐに結果を求めて、強迫的に行動したりしてはいけない。
 本当に自分を成長させてくれる機会に手が届かなくなるから。

 

 

 世にある、自己啓発やスピリチュアルなノウハウ、ポップな心理療法といったものも、そのオリジナルは近代合理主義の亜種だったり、創始者自体がトラウマを負っていて、その不全感から生まれたものだったりします。
 
 実際、「ありのままでいいよ」といいながら、とってもせっかちで自己否定的であったりします。だから、うまくいかない。

 

 

 もし、本当に、世にあるチャンスを最大限に生かすのであれば、それは、安心安全な環境で日常に生きながら、「ゆっくりと待つ」ということが必要。

 焦りは、支配や発作をもたらします。

 

 トラウマを負った人が育った家庭は、親自体もパーソナリティ障害傾向、発達障害傾向があったりするために、とてもせっかち。

 独善的なルールで「早く、早く」と子供の都合を考えず、追い立てるようなスタイルですから、せわしなく、焦り、緊張することが身体に染みついてしまっている。

 

 人間の本来のスタイルは、安心安全な環境でのんびり過ごして「待つ」というものだ、と知ると、自分の体感(ガットフィーリング)を信頼できるようになり、他人に支配されにくくなったり、発作で解離しにくくなります。

 

 

 

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頭ではなく、腸で感じ取る。

 

 真の客観とは何か?ということを書きましたが、

 もう少し具体的に言うと、私たちはどこで知るのでしょうか?

(参考)→「真の客観とは何か?

 

 
 私たちはクラウド的な存在であり、公的な領域にいるときは、常識や社会通念というものを無意識下で身体で感じ取って生きています。

 それがどこで表面化するのかといえば、「内側から」。とくに腸のあたりから湧いてくる感覚で具体化していきます。

 
 よく「腑に落ちる感じ」といいますが、まさにそんな感覚です。

 英語では、「ガットフィーリング」といいます。
 
 歴史上の王や武将なども、この身体感覚というもので判断してきたようです。 

 

 

 反対に、私たちが判断を誤るときはどんな時かといえば、「頭で考えた」とき。もっといえば、「胸から上の感覚」に頼った時。

 腑に落ちるのとは違い、そわそわ、ざわざわ、して落ち着かない感覚。あるいは、頭に血が上って過活動を起こしている状態。

 こうしたときは、ワールドワイドウェブ(常識や社会通念)とつながっているのではなく、ローカルネットワーク(私的情動)につながっている状態です。

 そのため、判断を誤り、失敗してしまう。

 

 

 

 親と子の絆を指す「愛着」というのも、まさに、この「ガットフィーリング」をはぐくむもの。お腹がすいたとき、眠い時、おしっこがしたいとき、などなど
 内臓感覚への信頼を、親との対話で作り上げていくのです。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 

 

 トラウマを負うようなストレスフルな環境、というのは、「胸から上」の感覚を強制されるような文化。必ず、周囲から一方的に急かされれたり、内蔵感覚を無視されたりといったことが起きています。
 過剰に気をつかい、未来を先回りして、ソワソワとして落ち着くことがありません。

 そのため、社会とつながることができず、孤独に陥り、判断を誤り、自分を責めて、という悪循環に陥ってしまうのです。
 
 

 

 

 現実の世の中は、実は、「のんびりして」「待っていることのほうが多い」ものです。常に何かを判断したり、動いたり、ということは少ない。

 ゆっくり待ちながら、内臓感覚(ガットフィーリング)が湧き上がってくるタイミングを待っている。
 
 それがいわゆるチャンス(機会)というものです。

 

 自分の「胸から上」がざわっとしたり、熱くなっていたらそれは一度ストップしてみる必要があります。そして落ち着いたうえで、腸で考える。ゆっくりのんびりしながら、腑に落ちる感覚を「待つ」ということが私たちの本来の姿のようです。

 

 

 

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真の客観とは何か?

 先日も書きましたが、
 トラウマを負っている人は、過剰な客観性、を持っていることがあります。

(参考)「過剰な客観性」

 

 他人の意見はすべて客観的事実だとして真に受けて、どこまでも、自分を反省して、どこまでも自分を改善していかなければならない、とする姿勢です。

 しかし、やればやるほど、自分の改善すべきポイントは増えていき、決してなくなることはありません。

 改善するために自分の足場の土も掘り崩していくため、知らない間に、自分の自信は失われていき、最後にはエネルギー切れを起こして、調子を崩してしまうようになります。

 

 
 当人にしてみたら、
 「そんなことを言うけど、自分の主観と客観(人の意見)とを比べた時に、自分の主観を採用したら独りよがりになってしまう。独りぼっちになってしまう。できるかぎり、人の意見を採用して、自分を客観的により良くすることしかないじゃないか」
 と感じてしまいます。

 

 この考えには、生育歴の中で内面化された刷り込み(ニセの公的領域)があります。

 それは、「他人の意見を客観だ」としていること。
 

 

これが、その当人を苦しめている。

  これはどこからくるか、といえば、例えば、親や周囲の人たちが自分のエゴ、支配欲のために、自分の私的情動を「正しい客観だ」として強弁してきたことについてまじめさから真に受けさせられてきたことから。

 

 機能不全な親というのはとても多いのですが、その親の気まぐれや、わがままにすぎないものが、「あなたのためだ」など理由をつけられてで、正当化されている場合がある。

 

 「これはしつけだ、教育だ」「私の言うことは正しい、だから従いなさい(≒あなたはダメだ)」といったような形で内面化を強いられる。

 

 これは、ある種のハラスメント(ニセの公的領域)にすぎないのですが、ハラスメントにすぎないがゆえに、自分の考えを「客観的である」強く主張しなくてはならず、さらにそれを維持するために、「あなたはおかしい(You are NOT OK)」ということが強調される必要が発生する。

 (参考)→「ニセの公的領域は敵(You are NOT OK)を必要とする。

 

 そうして、「他人の意見が客観である」と、すり替えられてしまうのです。

 

 

 これはホンモノの客観ではありません。

 人間の社会は、あらかじめ客観があるのではなく、主観の集まりにすぎません。そして、その主観はとても多元、多様です。
 

 もっと言えば、人間というお猿さんが、嫉妬や支配欲から、互いをけん制し合っているような状態が、それが社会のすがた。
 もちろんそれではだめなので、信頼などを醸成して、社会を築いていくわけですが、お猿さん同士の主観のぶつかり合いであることには変わりがない。

 それなのに、過剰な客観性があると、猿の鳴き声の集まりを「客観」だとしてありがたがって、自分を否定するようなことが起きてしまう。

 

 

 では、真の客観性とは何でしょうか?

 

 それは、他者の主観を真に受けることではありません。

 

 真の客観とは、安心安全を土台にして、「自分の主観」から出発すること
 (安心安全がない時、主観は歪み、関係念慮(妄想)に落ちていきます。)
 

 次に、身体を支えにして、ノイズをキャンセルしていくことです。
 
 
 すると、腑に落ちる(ガットフィーリングに合う)感覚を得ることができます。

 それが、真に客観的なことです。

 

 

 「自分の主観からスタートしたら、独善的になるのでは?」という不安があるかもしれませんが、安心安全を土台にしていて、身体が健康なときの主観というのは社会のネットワーク(社会通念、常識)とつながっていますので、多元的でバランスが取れていて、基本的におおむね誤ることがありません。

 

 人間というのはクラウド的な生き物、個人であると同時に、社会の表象でもある。だから、社会とつながる一人の芸術家が時代を代表する芸術を創造することができたり、 作家や哲学者が時代精神をカタチにすることができたりする。凡人でも、アンケート調査、統計などを通じて、輿論が明らかになったりする。

 

 

 一方、意固地、独善的、妄想的になってしまうのはどういったときかというと
安心安全の支えがない時や、身体が健康ではないとき。その際は、社会的なネットワークとつながることができず、原家族やハラスメントを負った過去とつながってしまい、独善や疑心暗鬼、関係念慮(妄想)におちいったりする。
 意固地な人を見ると、その人は明らかに、別の何かと戦って、自分を必死で守っていることが外から見てもわかります。

 

 主観からスタートするためには、「安心安全」がキーポイント。

(参考)→「「安心安全」と「関係」

 

 そのためには、心身を健康にしている必要が勿論あります。

 

 過去の記憶によって、「安心安全」を感じることができない場合は、カウンセリングの出番となりますが、その前に、食事、運動、睡眠、というのはとても大切だったりします。

(参考)→「結局のところ、セラピー、カウンセリングもいいけど、睡眠、食事、運動、環境が“とても”大切

 

 

 「安心安全」(愛着と健康)を土台に自分の主観を出発点として社会のネットワークとつながり、真の客観を捉えることができるようになるのです。

 

 

 

 

 

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理由を考えてはいけない。

 

 自分が理不尽な状態にあった時、私たちは、自分はなぜそんな目にあったのか?と理由を考えようとします。

 「自分がダメな人間だから、舐められたのかな?」とか、
 「自分が失礼なこと、不愉快なことをしたから、相手が怒ったのかな」

 などなど

 

 トラウマを負った人には、「過剰な客観性」がありますから、
 本人は、客観的に理解しようとして、理由を探します。

(参考)「過剰な客観性」

 

 

 そうすると、かならず、「自分が悪い(I’m NOT OK)」というところに帰結してしまいます。
 

 なぜなら、その理不尽な状況というのはしばしばニセの公的な領域であり、その特徴の一つは、「敵(You are NOT OK)を作る」ということにあるからです。

 (参考)→「ニセの公的領域は敵(You are NOT OK)を必要とする。

 

 

 「過剰な客観性」があるため、私的情動を公的領域だと偽っているものも、「それは客観的な事実に違いない」と錯覚して受け取るようになってしまいます。
 

そのため理由を考えてしまうと、結局自分が悪い、ということに至る。
 

 もう一つよくあるケースでは、
 現時点には「ニセの公的領域」がない場面でも、過去に自分が内面化した「ニセの公的領域」が反応して、相手の反応を誤って捉えてしまう、という場合もあります。
 

 

 例えば、相手の中立な反応に
 「自分がないがしろにされた」とか、「自分が否定された」「バカにされた」と感じてしまうようなことです。

 
 不安を強く感じているときに、
 カーテンを見て、幽霊だと感じるようなことです。

 
 これも、過去に親や学校、職場などで受けた理不尽な仕打ちに対して、理由を考えて、そして「反省」して、そのニセの公的領域の「規範」を内面化したために起きている現象です。

 

 規範に引っかかるような、当時と似た反応に接すると、
 自動的に「あなたはだめだ((You are NOT OK))」というメッセージとして受け取ってしまうようになります。

 

 ひどくなると、「関係妄想」と呼ばれる症状に至ります。
「関係妄想」とは、頭がおかしな人がなる、というものではありません。公的領域から切り離されて「安心安全」がなくなれば、誰でもそうなります。
 (例えば、世間からバッシングを浴びた著名人が、人間不信に陥った、というようなことはこうした例の一つです)

 

 

 

 では、どうすればよいのか?

 理不尽に接したら、理由を考えるのではなく、“しくみ”を知る ということです。

 例えば、
 ・この世の中には客観というものは存在せず、主観のぶつかり合いでしかない。
 ・社会には支配欲や嫉妬というノイズが渦巻いているもの。
 ・「ニセの公的領域」はあるし、それは敵を作り出すという特徴を持つ。
 ・ノイズを客観として真に受けてしまうと、疑心と恐怖の世界とつながってしまう。
 ・反対に、ノイズをクリアにした先には信頼の世界がある。

 など 

 そのうえで、沸き起こる「I’m NOT OK」でさえ、それは、「ニセの公的領域」の特徴なのだと理解して、スルーする。

 
 「本当の世の中は多元的で、自分がおかしいというような判定は決してなされない」
 「自分は他と同様に素晴らしい」 
 

 ということをしっかりと踏まえることです。

 そうしていると、徐々に、世界がありのままに見えてくるようになります。

 

 

 

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