不良の論理

 

 ハラスメントとは、本来、人と繋がりたい、とか、自分がよりよい人間であろうとする人であれが誰もが持つ心性を悪用してなりたちます。

 子どもでしたら、親から愛されたい、といったことが原点にあって、機能不全な親が子どもに対して適切に関与できず(せず)に、自己都合で関わって相手を支配してしまう、ということです。

(参考)→「あなたの苦しみはモラハラのせいかも?<ハラスメント>とは何か

 

 その一番悪化したといえる状態が、以前の記事で見ました、例えば、「変化したいが、変化すると他者(家族)が喜ぶから変化したくない、できない(自立したいが、自立すると家族、親が喜ぶから自立したくない、できない)」
というものです。

(参考)→「主体を喪失し、すべてが他者(親)起点となる

 こうなると、抵抗するための足場さえ「親(他者)」にあり、どこに重力をかければよいのかわからない。
 かけたらそれは親を頼ることになって嫌だ、抵抗したくない、となって、もうわけがわからなくなります。
 

 また、そうした状況は、自我が確立されていませんから、何がしたい? ではなく、親をどうしたい、という恨みとして表現されることになります。
感情も相手起点で、なかなか解消されることがありません。

 

 

 機能不全というのはなかなか厄介なものですが、そんなことを考えると、いわゆる不良というのは、なかなかたくましいものだな、と感じます。
 
 いわゆる不良というのは、親とか先生に反抗して自分の仲間でつるんで、ということをします。社会的には良いこととはされませんが、多くの場合家庭環境等に問題を抱えていて、そこに対して反抗することで自分を守っているといえます。

 不良は、おかしな環境から抜け出すために、同じ境遇の仲間とつるみます。
 良い仲間や先輩に恵まれれば、外部に自分の足場を構築できます。

 ただ、反抗することで無理ゲーの大枠を破壊して、自分を脱出させています。
 これは家庭や学校の理不尽なハラスメントに対して、反抗して別の場所に別の常識を作り、自分を守ろうとする工夫です。

 

 不良の場合は、ヤンキーの文化やルールの中に身をおくことでそれを果たしています。

 社会は多様であり、学校が定めた優等生の一元的な理屈ではなかなか収まらないということもあるでしょう。

 

 不良の論理というのは、自我を確立する際の参考になります。

 ハラスメントの侵入経路である「良い人間でありたい」ということを一旦捨てて、別の場所に足場を置いて、そこから立ち上がろうとするということです。

 

 

 

 ただ、すべての人がヤンキーという意味での”不良”になれるわけではありません。

 気質に差があるためです。
 気優しい方もいらっしゃいますし、色々なタイプがあります。

 
 そこで、”反抗”には、別の例、形態もあります。

 例えば、音楽や、漫画、小説、本などの趣味やサブカルチャーに足場を置くというものです。

 親のローカルルールとは違う、別の世界を持ってそこを足場とする。
 遠い世界の作家やアーティストをメンターとしてそこで自分の世界を構築していく。

 いじめなどに耐えれた子供の例などでも、学校以外に自分の世界があった、というケースがあります。

 別の形では、スポーツもあります。
 あるいは、仕事に求めてそこで、というケースもあります。

 学校の先生や、親戚がある種の親代わりとして居場所となるケースもあります。
 
 伝統的な宗教に求めてそこで足場を得るということもあるでしょう。

 ゲームやネット空間に求めるケースもあります。
  

 

 人間は社会化されてはじめて人間でいられるわけですが、優等生みたいに「良い人間でありたい」ではあまりにも脆弱です。

 良い人間であることにも前提が必要であり、良い人間は階層の2階以降にしか来ないものなのです。

 それが1階に来てしまうと、自分が都合よく支配される側になってしまうのです。

(参考)→「世の中は”二階建て”になっている。

 

 以前も紹介したことがありますが、社会学者の宮台真司が『うんこのおじさん』という本の中で、「法を守るよりも、むしろ法を破ったときの共通感覚によって、仲間とそうでないものとを分けるのが人類のもともとのあり方です。」

「法に過剰適応した人は、自動機械みたいにコントロールされます。母の肯定に過剰適応した人が、自動機械みたいにコントロールされるのと同じです。」

「僕たちの本体は法の外にあります。」「仲間かどうかは、法外のシンクロでわかります」「仲間を守るために法を守り、法を破ります。」「本当の正義は、法外にあります。」

 と書いていましたが、
 ルールというのは破られる側、反対側も同時に持ち合わせてはじめて機能する。

(参考)→「ルールは本来「破ること」も含んで成り立っている。

 

 

 同様に、人間も社会化する一つのルートが難しい場合は別のルートを借りる。
 あるルートがローカルルール化する場合もありますので、”社会化”と同時に”反社会(≒反抗)”ということも同時に持つ。

 免疫として、反社会的(不良な)な要素も自分の中にあって良いし、それもあって人として成熟できる、バランスが取れる、と知っておくことはとても大切なことです。

 人間というのは多元的(多声的)でないと成立しない。
 様々な要素があった、多重人格のようにいろいろな顔を持っている必要がある。
 その上でアイデンティティを束ねる自我がしっかりと君臨している、というのがよい状態。

 

 

 決して、機能不全の親や周囲に認められたい、良い人間でありたい、といったようには考えない。
 
 それは、結局、相手が持つローカルルールに規制されてしまい、「変化したいが、変化すると他者(家族)が喜ぶから変化したくない、できない(自立したいが、自立すると家族、親が喜ぶから自立したくない、できない)」とあまり変わらない状態に陥ってしまうことになるのです。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

無理ゲーで戦い続けてしまう

 

 前回は主体を喪失した重いケースを取り上げました。

 主体を喪失すると、変化したくても変化したくない、という解決困難なねじれた状態に陥ってしまいます。

 

 

 そうした状態までには至らなくても、親の価値観が世界観全体を支配するようなことは誰にとっても生じます。

 例えば、反抗とは、人間にとってはとても大切な権利、営みです。
 ひどい状況に対して、反抗することで自我を守り、自我が確立されます。
 
 反抗のリソースが外部にある場合、外部を土台として反抗することが、当事者が社会化する手助けにもなります。

 

 
 一方で、反抗さえも、親の価値観のもとに置かれてしまうことがあります。

 親が設定したゲームのルールの中で、反発して頑張ろうとするようなケースです。

 親を見返そうとして努力をしていますが、実は、それは親の価値観の手のひらの上で踊っているだけで、反抗と違い、ゲームの外には出ていません。

 頑張れば頑張るほどに、前提としてある「自分はだめな人だ」ということは強化されてしまいます。

 

 

 トラウマを負っていると、自分では色々と考えているつもりでも、実は、ローカルルールの闇世界の絶対解けない無理ゲーをプレイさせられているだけであることはとても多いのです。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 なぜか親や家族が作った、絶対解けないゲームのルールの中で頑張ろうとしている。

 『カイジ』というマンガ、映画がありましたが、あのような世界ですね。

 よく考えれば、そのルールに従う必要はないのですが、罪悪感や、あと、家族のニセの義務感、ニセの責任感で、どうしても自分がやらないといけない、お世話しないといけない、あるいは、逃げてはいけない、という感覚でその無理なルールの中で戦おうとしてしまう。
 

 

 

 この無理ゲーというのは、以前書きました、連立方程式状態と言いかえることができるかもしれません。

(参考)→「おかしな“連立方程式”化

 

 絶対に解けない、多元連立方程式を解こうとしている。

 河原で石を積み上げ続ける餓鬼のような状態です。

 洗脳レベルの家族のトラウマを負っている場合は顕著ですが、軽いトラウマでも、実は似たような状態が起きていたりします。

 なぜか、自分はだめだということを所与の前提として無理なルールの中で戦おうとしてしまう状態。

 

 無理ゲーとは、他人の文脈の支配と言い換えられるかもしれませんが、自分がその状態にある、と仮定して一度点検してみると、意外なことが見えてくるかもしれません。 

 

 

(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

主体を喪失し、すべてが他者(親)起点となる

 

 機能不全家族において”主体”を喪失したケースで特に重い状態として見られるのが、

 「変化したいが、変化すると他者(家族)が喜ぶから変化したくない、できない(自立したいが、自立すると家族、親が喜ぶから自立したくない、できない)」

というようにねじれた感情に陥っているようなケースです。

 

 親に対して強い恨み、怒りがある。

 普通であれば、じゃあ、親から離れましょう、あるいは変化しましょう、と考えますが、自分が変化すると親が喜ぶから変化したくない、という感覚に陥っています。
 

 普通に聞くと、とても奇妙に聞こえます。
 なぜこのようなことになってしまうのでしょうか?

 

 

 機能不全家族で育つことで、当事者は、自分という主体が奪われ、寄って立つ土台を失われます。
 足場が自分にあれば、「じゃあ、変化しましょう、親から離れよう」となれますが、土台を「親(家族)」に設定させられてきたために、離れようにも離れられないのです。

 親(家族)は、子が本来持つ「土台(資質)」を怖れ、それ自身が悪、あるいは矯正されるべきものとして除こうとしてきました。
 そうして、「土台(資質)」を親の意向や気まぐれ、信じる思想に入れ替えることが教育、躾だと考えて実行してきました。

 

 

 しかし、人間には原的な直感がそなわっていますから、そのことがおかしいということは感じます。それが怒りとなって表れます。
 しかし、土台を奪われているために怒りはあっても、具体的に発揮するための起点が無くなっています。すべて「親(家族)」が起点となっています。

 自分が主体で感情が出ているわけではないので、いくら出しても怒りや恨みが解消されることがありません。

 

 

 その状態を言葉に転換したものが、「自分が変化(自立)すると親が喜ぶから変化(自立)したくない」という、普通の人からすれば意味がわからない状態です。

 

 一方、子の土台を破壊することをしてきたわけですが、親にはその自覚がありません。

 そのため親も
 「なぜ、自分の子供はいつまでも親に恨み、怒りを向けてくるのか?」 
 「繰り返し謝っているのに、なぜ、わかってくれないのか?」となってしまいます。

 さらに、当事者の側も土台を壊されているために、あなたはどうしたいのですか? 何を謝って欲しいのか?どう変わってほしいのか?と尋ねられて、深掘りしようとしても実のある話は出てきません。 
土台がないために、親に何を謝って欲しいのか、親がどのように変わってほしいのかも、本人もよくわからなくなっているのです。

 

 もともと、機能不全でそのような力がないのが問題だったので、親側も主体的に解決する力がなく、ずーっと堂々巡りを繰り返すことになります。

 

 

 では、外部の支援を得ようと考えますが、現代(近代)のカウンセリングは、クライアントに主体があることを暗に前提としています。
 そのため、主体の土台が奪われた状態ではカウンセリングという土俵にも乗りにくいのです。

 実際に、カウンセリングや治療を受けてみても、主体的なやり取りができないことがあります。

 通常の形式ではカウンセリングも受けにくい、運良く効果的な支援を受けれても、変化すると親が喜ぶから変化したくない、という感情から抜けれない、という恐ろしい悪循環にあります。
 

 そこまでに達するまでに、本人が40歳、50歳、60歳になっているなんていうこともあります。
 社会的にも自立するための有利な条件がどんどんと失われていきます。
 機能不全とは誠に根深いものがあります。
 
 

 

 

(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 

 

 

 

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魂の彷徨

 

 以前、ベテランのカウンセラーに話を伺ったことがありますが、夫婦同士でも、適切な関心が互いに示されていない、例えば、旦那さんが妻に関心を払わない、仕事ばっかりで、家庭を顧みない、といった場合に、

 夫からすれば、「給料も高いし、浮気をしているわけでもないんだから、何が問題?」
 「旅行にも連れて行ったじゃないか!」
 「家庭にはちゃんとお金を入れているから、そのお金で好きなことをすればいいじゃないか?」
 とおもっていたりしますが、奥さんからすれば、関心が払われないということの精神的なダメージは計り知れません。

 

 髪型を変えたこと、服を変えたこと、食卓に花を飾ったことについても一言も言及がない。人生が失われたような感覚になります。

 それを、そのカウンセラーは「魂の彷徨」と表現していました。

 

 カサンドラ症候群、仮面夫婦というような状態も、パートナー間の機能不全に当たるのかもしれません。
 それくらい身近な人の機能不全の影響は甚大であるということです。

 

 

 これは、職場でも起こることだと思います。
 適切な評価がされない。適切な仕事が与えられない、ということはしばしばおこることで、会社側の論理は、上記の夫のような考え方、

 「評価というのは自分で勝ち取るもの」
 「これだけ制度なども整えて、給与も支払っているんだから何が問題?」

 ということですが、

 従業員側からすると、上記の奥さんのように、それでは何も満たされていないことになります。

 別にわがままを言いたいわけではなく、レイヤーが全くずれた対応が存在し、人として関心が払われていないということに大きな問題があるのです。

 「魂の彷徨」というような状態で苦しんでしまい、さらに成果も上がらなくなってしまう。
 ついにはダメ社員扱いされて、さらなる苦しみを味わうようになってします。

 

 

 これが、家庭の中で、子供に対しても起こったとしたらどうなるか?

 
 まさに自分が失われ、何をしたいかもよくわからないようになってしまい、薄くボヤーっとした、定まらないような状態になってしまうのです。

 機能不全家庭に育つというのは、言い換えると「魂の彷徨」が生じるということです。

 

 

 

(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 

 

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