ローカルルール人格は信頼ができそうになると壊そうとやってくる。

 

 難しいケースのセッションをしていると、最近「クライアントさんと信頼関係が出てきたな」と感じることがあります。ラポールが取れてきたな、という実感を感じます。
 信頼関係ができるということはとても大切なことで、解決の後押しになります。

 

 しかし、よくあることなのですが、信頼関係が出てきたな、と感じると、不思議なことに次のセッションでは、ちゃぶ台を返すように、そのクライアントさんが文句を言い始めたりします。
 

 以前だと、その文句を真面目に承っていました。「えっ、なんで?」と戸惑ったりもします。

 

 しかし、経験を積んでくると、文句を言っている際に言っている内容が全く理屈が通っていないし、おかしいことに気がついてきます。どうも様子が変だ、という直感を感じるようになります。 

 こちらが真面目に反省したいと頭で思っていても、身体が違和感を感じてきます。承ろうと思っても、何やら腑に落ちない、という感覚を感じるようになってきます。

 

 それが、のちにローカルルール人格に接した際に特有の違和感なのだ、ということがわかってきます。

 

 信頼関係 → 文句  信頼関係 → 文句  ということが繰り返されていくと、だんだん特徴が見えてきます。
 

 

 それは、ローカルルール人格というのは、信頼関係ができそうになると壊しにやって来る

 

 ということです。

 

 
 なぜ、信頼関係ができそうになると現れるか、といえば、信頼関係を壊すことで、クライアントさんの本来の自分は孤独に陥ってしまいます。そうすると、神のように振る舞うローカルルール人格に頼らざるを得なくなり、ローカルルール人格は延命を果たすことができるからです。

 

 

 筆者も、実際のセッションで、違和感を感じた際に
 「それ、ローカルルール人格のせいではないですか?」と指摘すると、 
 クライアントさんが、キョトンとして、「そうなんです。なぜか文句を言いたくなるんです」「ローカルルール人格といわれて腑に落ちました」
 とおっしゃったりする。
 

 

 それからは、信頼関係を壊す人格はかんたんには出てこなくなったりする。

 実はこうしたことは精神医学や臨床心理の世界では、「理想化とこき下ろし」と呼ばれて、伝統的に知られていた事象でもあります。

 (参考)→「境界性パーソナリティ障害の原因とチェック、治療、接し方で大切な14のこと

 

 自己愛が傷ついた方、境界性パーソナリティ傾向のある方に顕著ですが、目の前の人を理想化して、崇めた方思ったら、ある日、「実は、無神経な発言に傷ついていた」「態度が不快だった」「私を異常者を見るような目で見た」「帰りの際に目をそらしたのは、私が嫌いだからだ」と
いって、”本音”を吐露して、こき下ろし始めるというものです。

 

 

 理想化したら、”必ず”次はこき下ろしが来る、というのは治療の現場では「あるある」だったりします。
(いきなり、こき下ろしが来ることもありますけれども)

 これも、ローカルルール人格が原因だった、ということです。人格がスイッチしているためにおきます。

(参考)→「モジュール(人格)単位で悩みをとらえる重要性~ローカルルールは“モジュール(人格)”単位で感染、解離し問題を引き起こす。

 

 理想化は極端ですが、友人、知人や、家族、治療者などと信頼関係ができそうになると、ローカルルール人格はやってきます。ローカルルールとは、ファシズムやカルトみたいなものですから、外の常識に触れられてはまずいからです。
 できるかぎり敵を作り、統制して、自分に頼らせておきたい。だから信頼関係ができては困るのです。信頼関係ができると破壊する。

(参考)→「世の中は、実はニセのクレームだらけ

 

 私たちの中でも、信頼関係ができそうになるとローカルルール人格がやってくる、ということを知り、壊そうとする動きが湧いてきた際は、立ち止まってみることが大切です。

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

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目の前の人への陰性感情(否定的な感情)もローカルルールによるものだった!?

 

 ローカルルール人格が厄介なのは、目の前の人への陰性感情(否定的な感情)を伴って現れてくるということです。目の前の人とは、家族とか、友人とか、あるいは治療者に対してです。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 否定的な感情をぶつけられる事自体もとても嫌な体験ですが、それ以上に対処に困る厄介なものです。

 なぜ、陰性感情が厄介かというのは、否定的な感情を浴びせられて傷つけられた側は、皆「あれ?おかしいな」と違和感を感じているのですが、その違和感を言葉にすることがためらわれてしまうからです。

 

 一つは自分自身の中にある自己否定感、自責感のゆえに。
「人からの指摘は受け止めなくては?」とか、「自分が間違っているのでは?」という意識があるためです。
 ローカルルール人格はそれを悪用しています。間違ったリアリティを信じさせて、自分を延命させようとします。

(参考)→「モジュール(人格)単位で悩みをとらえる重要性~ローカルルールは“モジュール(人格)”単位で感染、解離し問題を引き起こす。

 

 

 もう一つには、一つ目とも似ていますが、自分に都合が良すぎないか?というためらいによるためです。
 「それって、ローカルルール人格によるものじゃない」とおかしくなっている相手に指摘をしたいのですが、どうしても、自分に都合が良すぎないか?というためらいから、違和感を口にすることを躊躇してしまうのです。

 

 

 例えば、「あなたの~~が嫌い。もうあなたとは付き合わない」といったことを言われた際に、言われた側はそれを受け止めなくては、と思いながらも、身体感覚(ガットフィーリング)としては「なにか変だ」と違和感を感じます。
(参考)→「頭ではなく、腸で感じ取る。

 

 その違和感から「今のは、本来のあなたじゃないんじゃないの?」と指摘したいところですが、「欠点を指摘された自分が都合の良い言い訳をしているのでは?」「相手をコントロールしたいという気持ちの現われでは?」というためらいを感じてしまい、その場で突っ込めなくなってしまいます。内省的な人、良心的な人ほどそれができなくなる。
 

 また、「相手がこちらのいうことを信じず反論され、泥仕合のような言い合いになったら嫌だ」という気持ちもあるでしょう。

 

 そうした結果、言葉を飲み込んでしまい、ローカルルール人格を延命させてしまうことになります。

 

 

 治療の現場でもこうしたことはあります。

 医師やカウンセラーへの否定的な言葉やクレームを理不尽につけられて、あれ?と思っても、それを「ローカルルール人格のせいですよ」とはその場で言えなかったりします。

 特に、ドロップ(治療を中断)しそうになっている人に対しては「ローカルルール人格の邪魔によるものですね」というのは、何やら都合よく引き止めているように思われて、躊躇してしまうことはしばしばあります。

 

 本当は勇気を持って、ローカルルール人格の邪魔によるものだ、ということは伝える必要があります。それがクライアントさんを護ることにつながるからです。クライアントさんの中にある本来の自分は文句を言いたいわけでも、治療をやめたいわけでもないのですから。
 

 

 

 ローカルルール人格の違和感というのは、経験を積んでくると直感でわかります。ローカルルール人格に接すると何やら違和感を感じたり、怒りが湧いてきたりします。心に聞ける場合は、最後に心に聞いて裏付けを行います。

(参考)→「「心に聞く」を身につける手順とコツ~悩み解決への無意識の活用方法

 

 治療者ではない、普通の方でも、違和感はちゃんと感じています。ただ、上に挙げたような様々な雑念から違和感を否定してしまって、わからなくなっているだけです。

 

 

 

 実は、目の前の人に文句を言いたくなる、ということ自体が常識から考えるとおかしいことなのです。普通の感覚ではありません。自他の別を越えて、相手の存在に因縁をつける、という権利は誰にもありません。

目の前の人に文句を言いたくなる、というのは、最近ニュースになるあおり運転と実は変わりません。全く同じメカニズムによるものです。本来の自分の感情ではないのです。

 ローカルルール人格にスイッチした、あるいは、本来の自分が影響して、因縁をつけている、ということです。

 

 「それ、ローカルルール人格じゃん」と気が付く必要があります。

 

 ローカルルールがなぜ、目の前の人に陰性感情をもたせようとしているか、といえば、それはその人を孤独に陥れて、自分自身を延命させようとしているから。沢山の人と交流されては、ローカルルールが嘘だとバレてしまって効力を失ってしまうからです。
 だから、できるだけ人との関わりは少なくさせたい。とりわけ、治療者は治療するために関わってきますから、より遠ざけたいという力が働きます。

 

 

 人間が人格に分かれている、というのは以前からも指摘されていましたが、あらためて注目する必要があります。ローカルルール人格が様々な問題を生み出しているということも常識になることも必要です。
(従来のように投影とか無意識の働きとか、妄想という解釈では、どうしてもその方自身の問題と感じられて抵抗を生じさせてしまいますが、人格の影響による、ということがわかれば、そうしたこともなくなってきます。本来の自分は問題がなく、むしろ被害を受けて苦しんでいるわけですから)
 

 

 例えば、これまでだったら「境界性パーソナリティ障害」だとされるようなキレてしまう人や、治療が中断してしまう人たちもケアすることができます。
 本来の自分の意に反してとった行動が”人格”によるものだとわかれば、自分が責められることもないですし、その呪縛からも逃れることができるからです。

(参考)→「境界性パーソナリティ障害の原因とチェック、治療、接し方で大切な14のこと

 

 私たちたちは、よくありそうで、もっともだけど、なにかおかしいということに振り回されてきました。陰性感情(否定的な感情)を持つ側も、それをぶつけられる側も、もう真に受けることはやめていくことです。

(治療者やスーパーバイザーなどはなおのこと真に受けてはいけない。真に受けると、クライアントさんがローカルルールの呪縛から抜けられなくなってしまいます。)

 

 

 目の前の家族や職場の人、治療者などへの否定的な感情(陰性感情)が湧いてきたら、「これって、本来の自分の感情ではなく、ローカルルール人格のよるものなんじゃないの?」と検証してみる。

 

 反対に、相手から理由なく否定的な感情(陰性感情)をぶつけられたら「それって、ローカルルール人格によるものなんじゃない?(本来のあなたではないのではないの?)」とツッコミを入れていくことが大切です。

 

 真に受けることでローカルルールは延命されていきますので、ツッコまれたり、違和感を表現すると徐々に力が落ちていきます。

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

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「正統性」と「協力」~ローカルルールのメカニズムを知り、支配を打ち破る。

 

 ローカルルールというのは、それを受け入れる人がいて初めてなり立ちます。

ローカルルール自体は根拠が薄弱なニセモノ(幻想)だからです。

(参考)→「ローカルルールとは何か?

 

 ローカルルールの最たるものは、ファシズムや全体主義です。
 なぜ、全体主義の国では警察が個人の思想や内面まで取り締まろうとするか、といえば、ローカルルールがそれを支える人たちの幻想がなくなれば存在できなくなるほど脆いからです。

 だから、人々の頭の中を常に取り締まっておいて、恐怖や罪悪感でしばらないと壊れてしまうのです。

 

 

 ローカルルール人格という存在に対しても同様です。
 たしかに厄介で面倒な存在なのですが、それはそれを真に受けて支えさせられている部分が私たちの中にあるから。

真に受けさせることでローカルルール人格は延命している。

 ローカルルールを壊すためには、そうしたメカニズムを知り対抗していく必要があります。 

 

 

 支配のメカニズムを知って、独立を勝ち取る、ということで参考になるのは、インドのガンジーの戦略です。
 
 インドのガンジーたちは、イギリスの植民地支配からの独立を勝ち取りました。
 非暴力・不服従運動と呼ばれるものによって、それは達成されました。
 非暴力ということで、理想主義的なもののように捉えられがちですが、実は単なる理想主義の運動ではありませんでした。

 

 支配には実はメカニズムがあります。
 どのような国でも、支配する側のほうが人数では圧倒的に少なく、支配される側のほうが圧倒的に多い状況です。
 そのため、支配する側に「正統性」がなければ続かないし、支配に協力する人たちがいないと成り立ちません。

 つい、軍隊とか警察の暴力で押さえつけているだけ、と思いがちですが、それではなかなか続かないもので、支配する正統性を権威で示し、協力させて、暴力というのは権威を維持するために用いられています。

 

 つまり、支配は「正統性」と「協力」というこの2つの要素で成り立っている、ということです。
 (いじめも同様で、いじめっ子たちが唱えるルールの正統性が信じられ、協力する人たちがいなければ成り立ちません。ハラスメントも同様です)

(参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 

 

 ガンジーの運動というのは、「正統性」と「協力」というその支配のメカニズムを見抜いた上での対抗措置です。
 
 具体的には、 
 暴力という行為に対しては応酬しないことで、イギリスの「正統性」を剥がし、不服従によって「協力」しないことで、支配というローカルルールを支える機能を壊す、ということをしました。
  
 結果、独立が達成されていきました。 
 

 

 ここで勘違いしてはいけないのは、不服従運動とは、無抵抗ではありません。

 ハラスメントに対しては抵抗しないとしばしばエスカレートしたりします。
 
 失礼な発言に対しては、「失礼ですね」と突っ込んだり、
 場合によっては、叱責一発で解決したりするし、そうしないといけない。

 

 でも、トラウマを負った人は、しばしば無抵抗の呪縛にかかっている。
 筆者も昔そうでしたが、無抵抗であることが良い人である、とか、人間としてできているということである、といった考えにとらわれていたり、
 あるいは、家族から、抵抗そのものができないように、呪縛をかけられてしまう。

 例えば、「嫌だ」といえば、「頑固だ。かわいくない」とか、怒ったら、「怒りっぽい」「父親(母親)に似ている」と言われたり、とか 抵抗力を奪われてしまっていたりする。

 無抵抗にさせられている。

 おかしなことには抵抗したり、声を上げないといけない。

 

 その際にはローカルルールのメカニズムを壊すようにする。

 正統性を奪い、支配に従わない。
 

 「正統性」を奪うというのは、まずはローカルルールだと気がつくこと。
 自分が内面化しているもの、日常で直面するものそれぞれについてローカルルールの存在に気がつくということです。

 

 そして、協力しない、従わないというのは
 日常直面するものについては、真に受けない、失礼なことに対してはツッコむということ。
 内面化している部分については、自分の中にもそれに感染して協力している人格がいて、それが解離して前に出てきたり、本来の自分に影響したりしていることに気づいて、それに従わないことです。

 

 支える基盤がなければ、徐々にローカルルールは消えてなくなっていきます。

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

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「自分が気がついていないマイナス面を指摘され、受け止めなければならない」というのはローカルルールだった!

 

 人間にとって、一番のダメージとのなるのは、「自分が気がついていないマイナス面を他人から指摘される」ということではないかと思います。まさに不意打ちを食らうような感じで破壊的なダメージとなります。

 

 ”自分が気がついていない”というところがポイントで、これがあると、結局どこまで行っても、「自分が気がついていないこと」というのはなくなりませんから、いつもどこか自信が持てない状態に追い込まれてしまいます。

 こうしたことを悪用しているのが、かつて流行した洗脳型の自己啓発セミナーで、参加者同士でその方の欠点を言わせて、自我を破壊したあとに、拠り所を渇望し始めた参加者に、主催者側が刷り込みたい理論を伝えると、高揚とともにそれを吸収していきます。

 

 

 中国で行われていた洗脳はそれを徹底していて、「ラストエンペラー」という映画でもその一端が描かれています。

 看守が、元皇帝の靴のヒモをわざとほどきます。
 すると、靴ヒモを結んだことのない皇帝はヒモが結べないために、自分が一般人の常識が身についていないことに気づかされます。
 こうしたことを繰り返していくと、だんだんと自我が壊れていき、最後は従順な共産党支持者となっていく、というものです。
  

 私たちが日常で遭遇してきてトラウマになっている家族や友人、上司のふるまいととても共通すると思います。
 

 

 特に私的環境において、

 「実は、あのとき、私はあなたに対して~~だと思っていた」とか、  
 「あなたは~~という面があって、とても不快だった」とか、
 「気がついていないだけで、あなたは~~だ」とか、

 実はこうした指摘はすべてローカルルールによるものです。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 指摘は作られたもので、本当の事実ではない。

 

 

 指摘してくる人の背後には嫉妬や、支配欲、あるいは自己の不全感があります。それによって、ローカルルール人格にスイッチして、こうした破壊的な指摘を相手にぶつけて、相手の自我を傷つけ、支配しようとします。

 

 人間には気質、生育歴に差があって、知っていること、出来ることにも差異があります。また、パフォーマンスが発揮されるためには環境からの支援が不可欠です。

 つまり、事実というのは客観的に定まったものではなく、環境によってかわり、意図によっていかようにもなる、ということです。

(参考)→「人の発言は”客観的な事実”ではない。

 

 

 例えば、皇帝がヒモを結べないのは仕方のないことです。ある職業の人が、別のことができないのはよくあることです。一流企業の社長もタクシーの運転はできないでしょうし、農作業もうまくできないかもしれない。スポーツ選手は、デスクワークは不慣れでしょう。それは仕方のないことです。

 

 海外のバラエティドキュメントに「アンダーカバーボス」という番組があります。大企業の社長が変装し、平社員として現場で働く、というものです。働いてみると、現場での作業ができない。それで社長なのに怒られたりする。現場で働くことで、会社の問題点が見えたり、社員の気持ちがわかったりするようになっていきます。

 社長とはいえ、ブランクがあったり、経験していない仕事はできません。人間とはそんなものです。でも、万能感があるために、それに気がつかないだけ。
 
 

 

 多くは、ちょっと学べばできたりする程度のことだったりします。靴ヒモなんてすぐに覚えられます。

 しかし、ここに人間の不全感や、嫉妬といったものがはいると、途端にローカルルールによるニセ事実が作り出されます。
 

 「お前はその歳にもなってそんな事もできないのか!」

 と、ひとこと言うだけで、「仕事ができないだめな人間」という“事実”を作り出して、相手をマウンティングすることができます。
 

 

 これを真に受けてしまうと、「確かに、俺は靴ヒモ結べないし・・・」とか「運転できないし・・」とか、「こんな簡単な仕事もミスしちゃうし・・・」となり、人から「気にしなくていい」と言われても、「いやいや事実だし・・」となって長く取れない呪縛となってしまいます。

 

 子どもの頃に、「あなたは~~だ」と親から言われたことも大半は作られた事実に過ぎなかったりするのです。それが長く呪縛となってしまっている。

 

 つまり人のいうことは客観的な事実ではなく、単なる主観でしかないものです。しかも、人間は簡単に負の感情に落ち込んだり、人格が変わってしまう生き物です。耳を傾けるには人間の意見はあまりにも信頼性が低いのです。

(参考)→「モジュール(人格)単位で悩みをとらえる重要性~ローカルルールは“モジュール(人格)”単位で感染、解離し問題を引き起こす。

 

 

 

 耳を傾ける信頼性があるとしたら、公的な環境が整った場面においてのみ。
具体的にはお金を払って専門家からアドバイスを貰うとか、まったく他に利害関係を削ぎ落とした状況においてだけです。

 会社の状況が悪いので、専門から「実は・・・大変な状況ですよ」とか、健康診断で、医師から「実は、ここに疾患があります」とか、フィットネスクラブで、コーチから、「ここの筋肉が使えていませんよ」とか、
 

 ※いわゆる学校、職場という場所は公的な環境かどうかはとても怪しくて、教師の嫉妬や不全感などからおかしな私的感情が入ることもあります。むしろ、塾などのほうが公的な環境に近いと言えます。

(参考)「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

 

 

 養育環境などでおかしな助言や指摘を受け続けていると、まさに洗脳セミナーのごとく、混乱させられて、何を受け取って、何を受け取らないほうが良いのかがわからなくなってしまいます。

 結果として、本当に受け取るべきときに助言を受け取れなくなってしまって、失敗してしまう、ということも生じます。

 

 

 人間は本来は、養育環境では、愛着(安全基地)を土台として、自分らしさというもの、自分への信頼というものを育んでいきます。さらに、二度の反抗期では、親の教えにも「イヤイヤ」と否定することで、自立を果たしていきます。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 そうした「自分」というものがシステムとしてある程度確立していく上に、知識や技術、経験が形作られていく、というものです。

 

 しかし、いわゆるローカルルールによる「耳の痛い」指摘は、その土台を掘り崩してしまいます。いっときは良くても、自分の良さが失われてしまい、長く力を発揮できなくしてしまいます。

 建物もそうですが、足場を破壊しては建築していくことはできない。
自然環境も精妙なバランスでできていて、壊して良くなるというものではない。

 

 「人間は成長するためには、耳の痛いことも人から言ってもらわなければならない」というのは実はローカルルールです。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 もっともに見えますが、
 「建物は、立てるためには足場を破壊しなければならない。」「自然のバランスは壊さなければいけない」といっているようなもので、そんなことはありえないのです。

 

 「いや、でも、いろいろな人の経験談などを見ると、人からの指摘で目を啓かされたというのは聞くけど」という人がいるかもしれません。

 

 それは、その内容をよほど精査しないといけません。

 自分が成長できた、目を啓かされた、という体験の実情は、果たして本当にそうだったのか?上に書いた洗脳されたラストエンペラーのようなことになっていないか?
  
 支配欲や嫉妬から発したことをまさか「これは嫉妬です」という人はいない。
 「あなたのためだ」というふうに騙ります。

 

 それを真に受けた人が「耳の痛いことを行ってもらって、あれで私は良くなった」といった人もかなり多いのではないか。

 良くなった、と思わされているけど、本来の自分を発揮する伸びしろは確実にそがれ、萎縮する形での改善になっていることが考えられます。

 ラストエンペラーも「共産党と人民のおかげで、私は良い人間になれました」と言うでしょう。自己啓発の参加者も、「このセミナーのおかげで、私は変われた」という。でも、洗脳ですから、本来の自分は抑圧された結果です。

 

 世の中にはこうしたニセ美談がたくさんあって、それが私たちをハラスメントから逃れることを妨げています。

   

 「いや、それでも、人間はときに自分が気が付かないことも指摘されることは大事では?」と思うかもしれません。 もちろん、指摘が必要な場面があります。岡目八目が必要なことはある。

 それは、公的な環境においてのみ。
 利害関係を削ぎ落とした状況で専門家からアドバイスを貰うというようなことです。

  
 私たちは食べ物でも、安全を確認してから食べるのに、人の意見について毒味もせず受け止めるなんてありえない。
 

 

 健康な人間には自他の別があり、それぞれ自分のことだけで生きているのですから、相手のことに構う、という時点でかなり異様なことなのです。それを越えて「あなたのため」と言ってくることは耳を傾けてはいけない。

 親族の言葉、助言というのは一番怪しいものです。

 

 アドバイスを貰うなら、お金を払うなりして、こちらから貰いにいかないといけません。

  
 基本的には、システム全体を入れ替えるような指摘するというようなことは、神にしかできない。ローカルルール人格は、ニセ神様を演じますから、さながら神のごとく指摘しようとします。

 でも、それは単なるローカルルール。
  
 真に受ける必要もないし、気にする必要もない。

 
 すべては、まずは自分というシステム(内部環境)を大事にして、そこから積み上げていくことが大切。

 

 実は、健康な人は自然とそうしている。例えば職場でも、上司の話は話半分で聞いている。内容を精査している。「デキる社員はやり過ごす」という本がありましたが、真に受けたりはしていない。でも、意固地ではなく、素直に聞いているように見えている。それは土台があるからできるわざです。

 
 
 私的環境における人の言葉はすべて戯れとして聞き流す(家庭の中は特に)。
 公的環境における言葉は吟味にして受け取る。
 職場や学校のようにローカルルールがはびこりやすい環境では、よほど精査して、話半分できく、ということが必要です。

(参考)人の話をよく聞いてはいけない~日常の会話とは“戯れ”である。

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

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