寄り添いすぎて目がくもる

 

前回、共感してはいけない?! と書きましたが、

(参考)→「共感してはいけない?!
「でも、共感こそが大切で、どんな状態の人にも共感することでいつか雪解けがくるのではないですか?」と思うかもしれません。
実は、筆者も昔はそう思っていました。

 

 

例えば、映画やアニメでも、悪魔にとりつかれた主人公が愛情のちからで呪いが解ける、ということはよく見ます。
また、一見、悪者に見えても、悪の部分を深く理解することで改心する、というストーリーもよくあります。
特に、日本人は、妖怪も尊重して味方にする、というような価値観があるように思います。
(西洋の人たちが日本のアニメなどを見て驚くのは、悪と思っていたものが味方になったりするところだそうです)

 

でも、それはどうも違う、間違いである、ということが最近見えてきました。

 

 

 

わかりやすく言えば、例えばこんなことです。

学校でいじめが発生した際のことです。
いじめる側にも“論理”があります。

「あいつ(いじめられっ子)が協調性がないから」
「あいつ(いじめられっ子)は気持ち悪いから」

「なんか、態度がムカつくから」

などなど。

でも、その論理に共感して、

「そうか~、わかる、わかる」「たしかにあいつは協調性がないからなあ・・」なんていう教師がいたら、その人は教師失格になってしまうでしょう。

 

 

真に共感する対象は”いじめの被害者”であるわけで、
いじめる側の論理は「おかしい」と一刀両断にしてあげないといけない。

 

 いじめというのは、中間集団全体主義と呼ばれるように、いじめる側がローカルルール人格にスイッチしておかしくなっている状態です。

 もっと言えば、私的情動をグループ内の常識だ、と騙って、異常なファッショ状態に陥っている状態です。

 そのため、いじめを生み出すに至ったいじめっ子が抱える不全感には理解、共感することには意味がありますが(たとえば、いじめっ子もじつは家で両親の喧嘩が絶えないだとか)、その不全感から(ローカルルール人格にスイッチして)生じた全体主義のような論理にはいくら耳を傾けても全く意味がありません。

(参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 

 

 はっきりと「君のやっていることや考えは全く間違っている」「おかしい」と伝えることで、いじめっ子もローカルルールの呪縛から目が覚めますし、そうしてあげなければ本当の解決(教育)にはなりません。

 

 

 

 

 昔、NHK特集の「未解決事件」という番組で、オウム真理教について関係者の証言とドラマとで真相を再現するという内容が放送されていました。

 その中で、萩原聖人さん演じるNHK記者が、元オウム信者に当時のことを聞いて真相を明らかにしようとするドラマシーンがありました。
NHK記者は、元信者にオウム真理教の教義の意味を問いただしたり、教祖の説法のテープを聞いてみたり、できる限り、関係者に寄り添って取材をしていました。

 

 元信者たちにも様々な背景があって、単に悪人たちが起こした事件ではないということも改めてわかってきます。むしろ、世の中の人よりも正直で純粋であったりします。

 

 

しかし、あるとき、豊原功補さん演じる上司に屋上で声をかけられます。

心配そうな表情の上司が、説法テープを聞いて考えにふけるNHK記者のイヤホンを取り上げて声をかけます。

 

上司「取材はどうだ?」

 

NHK記者「元信者に取材をしていますが、すぐに教義が出てきて、弁護を始めるんです。まだ思いがあるんですね。」
   

それを聞き、上司は何か引っかかる表情をします。

 

NHK記者「元信者を取材するたびに思うんですけど、彼らはみんなピュアなんですよ。純粋に何かを求めてオウムに入ったのに組織が勝手に暴走しちゃって」ため息をつくように心情を吐き出します。

 

上司「お前・・オウムに寄り添いすぎていないか?」

 

NHK記者「いや・・ そんなことは・・」

 

上司「お前、遺族や被害者をどれだけ取材してきたんだ?!」

 

NHK記者「わかってますよ!! でも、向こうの言い分をちゃんと聞かないと、真実はわからないじゃないですか。被害者も遺族もオウムが何かを何かを知りたがっているんですよ。」

 

上司「寄り添いすぎて目が曇るってこともあるんだよ!!」

 

 

 上司は記者を一喝し、事件によってどれだけの被害者がいて今も苦しんでいるのか、裁判で真相が明らかにされず二重の苦しみを背負っている。そのことを説きます。そして、“寄り添う”という一見もっともな態度に潜む落とし穴を気づかせるのです。

とても印象的なシーンでした。

 

 

 人間は完璧ではありませんから、誰しも不全感を抱えています。社会にも問題はある。なにか事件を起こすような人というのはどこか魅力があります。特に独善的であっても社会変革を旗印に掲げるような場合には。

 ジャーナリストや研究者といった立場の人間が、事件の加害者側の人に、いつのまにか自分の不全感や社会への違和感を投影することで、ローカルルールに感染するという倒錯がおきることがありますが、NHK記者に起きていたことはまさにそれに近いことです。

 これは、共感ではありません。真相を深堀していることにもなっていません。単に感染し、巻き込まれているだけです。結果、遺族や被害者はないがしろにされてしまう。

 

 

 

 先ほど上に書いたいじめっ子に共感する教師もこれとにています。
共感するポイントを明らかに間違っています。いじめの加害生徒の全体主義のような論理に共感してしまっている。その背後には、教師が自分の中の不全感を投影していたり(協調性のない人は問題がある、等)しているだけ。
結果として、加害者のローカルルールに感染してしまって、巻き込まれてしまっている。

 いじめの事件では、教育委員会レベルまでもがローカルルールに感染して、「いじめはありませんでした」などと報告を出したりする事が起きます。

 まさに「目が曇る」状態です。

 

 
 いじめとは、不全感が連鎖するとも言われていて、いじめをする側にももちろん背景はあります。機能不全家庭に育っているとか、親のストレスをぶつけられている、とか、そうした背景に対して、治療(教育)のために理解することは必要ですが、加害者が生み出したローカルルールやそこで語られる論理(あいつは協調性がないからいじめられても仕方がない、など)に共感することは誤りです。

 

 寄り添っているように見えて、結局は加害者も目が覚める機会を奪われてしまい、被害者も両成敗というようなあいまいな状態におかれ、何の解決ももたらしません。

 

 常識をもとにローカルルールの論理に疑問を挟むこと、「おかしい」「わからない」ということは、たとえ一時あつれきや反感が返ってきたとしても、実は、相手をまっとうな人間として尊重するということ、ローカルルールを壊して常識に引き戻す、ということに気が付きます。

  
こうしたことと同様のことが、悩みを抱えているクライアントさんや、治療者にも当てはまります。

 それは、クライアントさんが解離してローカルルールが感染した人格にスイッチした後に語られる理屈に共感してしまう、といったことです。

 

 

 人格がスイッチしておかしくなって、家族や周囲を巻き込んだり、暴言を吐いたり、あるいは治療者に怒りをぶつけたり、
「あなたの態度で傷ついた」

「理解してもらえていない」といったり、
「今までのはウソで、私の本音は~~」とこれまでと違うことを述べだしたり、といった状態というのは、いじめっ子が「あいつはいじめても当然だ。なぜなら~~がムカつくから、~~だから」という理屈をこねることとまったく同じ現象です。

 

「もっと理解してほしい」「もっと共感してほしい」という訴えもそうです。
これは解離したローカルルール世界の人格が「ローカルルールに同意しろ!」といっている状態です。

 

そういう状態は、本来の自分ではなくなっている状態なので、共感しても治療的には全く意味がありません。むしろ「目が曇って」解決の妨げになったりする。

 

 

 また、その状態でクレームを伝えられたとしても反省や謝罪をする必要もありません。
(現場では、ものすごい勢いで詰め寄られますから、謝らざるを得なくなりますが)
そのクレームとは、ローカルルール世界のニセクレームであり、ホンモノのクレームではないからです。

 ローカルルール世界の人格というのは接してみるとわかりますが、いかにももっともらしいことを言います。でも、どこかおかしい。

 

 事実が捻じ曲げられていたり、おかしくなっていたりする。周囲からおかしいということを指摘されると、「私の言っていることを妄想だとか、関係念慮といいたいんでしょ!?ひどい!」といったりして、家族や友人を振り回したりします。

 怒って訴えますが、聞いているほうは訳が分からないし、理解しようとしても直感的に違和感を感じます。

 

 

 ローカルルール世界の人格を理解しようとしたり、受け止めようとして寄り添ってしまうことはクライアントさんの中にある、まともな本来の人格や、その周囲にいる家族や友人をないがしろにしてしまうことになります。
さらに、加害者の理屈というのは、実は、加害者自身も拘束してしまうようになります。

 果ては、前回の記事のエピソードのように、解離した破壊的な人格が起こしたニセのクレームによって、サポートする側の治療者が職を辞してしまうという事態にまで発展したりします。

(参考)→「共感してはいけない?!

 

 

 もしかしたら、境界性パーソナリティと呼ばれる症状がなかなか難しいのは、単に不安定である、といったことだけではなく、ローカルルールに感染した人格(モジュール)の存在があるからかもしれません。

 

たしかに、

「理解してくれ」

「もっとかかわってくれ」

「妄想ではない」

あるいは、

「ただ、黙って話を聞いてくれればいい」

と訴えますが、それがホンモノの本心かといえばそうではない。
「あなたの態度は冷たい!!」と文句をつけてくるかもしれませんが、それも本当の本心ではない。
 ローカルルールに人格スイッチしていて、いじめっ子と同じようにローカルルール世界の理屈を無意識に述べているだけ。

 

 

 本来は、その人自身と、解離した状態とを分けて、解離したら巻き込まれず、またいでスルーしないといけない。共感されるとかえってその人もしんどくなってしまう。

 

 

 人間は解離する。そして、モジュール(人格)の束であり、ローカルルールに感染することがしばしばある、ということを考えた時に、どんな状態にも共感して寄り添うことが大事、という考えは臨床を取り巻く大いなる幻想なのかもしれません。

 

 ローカルルール世界の理屈は共感してはいけない。本来の人格をないがしろにすることになります。

 

 状態を見極めて、理屈や訴えをまたいでスルーしたり、疑問を挟むことが必要です。それが、その人の本来の人格を助け、尊重することになります。

 

 

 人間には、“二重の見当識”といって、解離している裏にも理性的な人格が控えています。だから、まっとうな人間として、正論を伝えたり、常識をもとに疑問を挟むことは、その時は軋轢や反発を生んだとしても、ローカルルールの感染を取り除く良い効果をもたらします。

 

こうしたことは、今、悩みを抱えている人にとっても大きなヒントになります。

 

 例えば、日常の職場や家庭、学校で受けるもっともらしい言葉も実はハラスメントを仕掛けてくる人が解離(スイッチ)して起こすローカルルールによるニセのクレーム、本音である、ということに気づけるようになる。

「~~さんって冷たいところがあるよね」とか、
「~~さんは、仕事ができない」とか、
「~~さんの態度が気に入らない」とか、

もっともらしく見えるけども、全部根拠なし。
相手は、単に自分のローカルルールに巻き込みたいだけ、因縁つけたいだけ。

そこに共感したり、寄り添いすぎると、まさに目が曇って、やられてしまいます。

 

まったく何とも思う必要はありません。またいでスルーする。

 

 さらに、自分が抱えるしつこい悩み自体もローカルルール世界の人格が起こしていたりする。例えばイライラや、不安、恐れといったこと、これも、実は自分の中にある、ローカルルールに影響された人格(モジュール)が起こしているのではないか?
 自分が当たり前と思っていることが不思議世界ではないか? と考えてみると、面白い。

 自分の悩みについても、モジュール(人格)単位で悩みを考えてみる。
ローカルルールというものの影響を考える。

長年解決できなかった悩み解消の切り口が開けていきます。

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

共感してはいけない?!

 

 あるときに、同僚の女性カウンセラーの先生が落ち込んでいました。

 良いところまで治療が進んでいたのに、クライアントさんが急に「あなたの態度が気に入らない。こちらにかけた言葉が気に入らない。等」とクレームを言われ、受付でも文句をさんざん言われ、カウンセリングがドロップ(途中で終了)してしまった、というのです。

 

 そのクライアントさんは、職場で怒りが止まらない。後輩へのダメ出しが抑えられない、ということが主訴で、過去を見ると、明らかに愛着不安を抱えている方でした。

 そうしたことから考えると今回のことは十分にありえる現象です。別の言い方でいえば、境界性パーソナリティ状態といえます。

 

 対応していた女性のカウンセラーの先生は、とてもやさしく、丁寧に応対をされる方で、共感の塊のような先生でした。

 
 だからとても落ち込んでいた。「なぜ、自分の状況について気づきが深まってこれから、というときに・・・」と反省を繰り返していました。
 
 
 おそらく、スーパーバイザーに報告すれば、「共感が足りなかったのでは?」とか、もっともなアドバイスが帰ってくると考えられますが、どうも腑に落ちません。

 こうしたときに、もっと丁寧な対応を、ということをスーパーバイズされることは、カウンセラーをさらに落ち込ませるだけなのかもしれません。

 

 それが原因かわかりませんが、後日家庭の都合での転勤の際に、カウンセラーを続けるかどうかはわからない、ということをおっしゃっていたことを覚えています。

 

 

 
 そのクライアントさんですが、途中明らかに解離(人格のスイッチ)をおこした、と考えられます。怒りをまき散らすローカルルールに感染した破壊的な人格にスイッチした(もちろん、いわゆる多重人格ではありません)。

 
 怒ったとしても落ち着いて対応できれば・・といいたいところですが、よほど肝が据わっていなければ難しい。慣れていても巻き込まれてしまう。ほとんどの場合は、ひたすら謝って、でも信頼関係は壊れてカウンセリングは続けられなくなって、ドロップしてしまうことになります。
 

 

 おそらく、そのクライアントさんもカウンセラーを変えても、またモジュール(人格)がスイッチして同じことを起こしてしまう可能性が高い。
 だから、なかなかよくならずに転々としてしまう。

 

 

 
 カウンセリングの理論では、共感することで、症状が徐々に軽くなっていくとされますが、こうしたケースを見ると、どうもそうではない。

 

 それは、ローカルルールに感染したモジュール(人格)の存在があるためです。

(参考)→「モジュール(人格)単位で悩みをとらえる重要性~ローカルルールは“モジュール(人格)”単位で感染、解離し問題を引き起こす。

 

 ローカルルールが壊されそうになるとローカルルールを守ろうとして「解離(人格のスイッチ)」が起きて、ちゃぶ台がひっくり返されてしまう。

 ローカルルールは、モジュール(人格)に感染し、解離して現われて、人を巻き込もうとします。
 そして、「治療者の態度が傷つけた」「かけた言葉が気に入らなかった」「プロのくせに本当のことを理解してくれなかった」と“本音”を吐露して、クライアント本人もスイッチが起きていることを知らなければ、それが本心だと疑わず、解離から戻れなくなる。結局、よくならないで終わってしまう。

 

 

 もちろん、怒りやクレームというはローカルルールのそれですから、その方の本音ではもちろんありません。過去に過ごしてきた養育者や友達などが刷り込んだローカルルールの世界であり、そこで語られることは安心安全の世界の住人には理解できない“不思議世界の掟”です。

 

 

 「もっと共感してほしい(共感してもらえていない)」「もっと理解してほしい(理解してもらえていない)」と訴えてくることもしばしばですが、実はそれもその方のホンモノの本心ではありません。

 

 ローカルルールの特徴として、それ自体があたかも人格として自律性を持ち、自らを守ろうとします。ローカルルールはニセルール。根拠が薄弱なために、他者を「You’r NOT OK」としたり、自分の不思議世界に人を巻き込もうとします。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 人格がスイッチしますので記憶が飛んだり、ローカルルールに基づいて物事を解釈するために、家族や治療者についてあることないこと取り上げて、歪めて記憶されます。
 (「関係念慮」は、実はローカルルール人格へのスイッチによって起こっている。)

 

 ローカルルールが「世の中は自分を否定してくるおかしな人ばかり」という価値観であれば、目の前の家族や治療者も「おかしな人」として認識されます。
 もし、笑顔を見せたら「私をバカにした」「見下された」と歪めて記憶されます。

 ローカルルール人格がフィルタのような働きをして、都合の悪い情報はカットし、おかしな解釈をつけて本人の頭の中で情報を伝達します。
 本人も巻き込まれていますから、これを解くのはなかなか厄介です。

 

 

 本人がスイッチに気が付いていればよいですが、気が付いていない状態で、「それは関係念慮がおこっている」と伝えても、「私の言っていることを“関係念慮”だと決めつけている。あなたは私をおかしな人扱いするひどい人だ」とローカルルール人格が出てきて、抵抗してこじれます。

 

 ローカルルール世界に解離したときは、共感しても、謝っても意味がなく、ベストな対応としては常識をもとにスルー、あるいは否定しないといけない。
 

 

 なぜなら、ローカルルールとは、私的な情動が常識を騙っているだけで、根拠が全くないからです。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 いじめもそれを支える存在がなければ成立しないように、ローカルルールが正しいと支えるものがなければ存在できません。いじめを行っている人たちが訴える「だって、A君は気持ち悪いんだもん(そのことを理解してよ、共感してよ)」というローカルルール世界の論理に共感することにはまったく意味がありません。
 「それって歪んだ私的な感情にすぎない」と冷静な突込みが周囲からくる環境(公的環境)ならば、いじめなんてできなくなる。いじめが起きている学校や職場には必ず、それを支える環境があります。

(参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 

 

 
 ローカルルールに感染した人格にスイッチした際に、それが伝えるニセの“本音”に共感すると、ローカルルールの維持を助けることになり、症状は良くならない。

 ローカルルールに感染した人格のクレームはスルーしないといけないのですが、人格がスイッチしているとはいえ激怒している相手に対応するのは、なかなか難しい。

 

 また、ローカルルール世界はとても巧妙で、ニセのクレームの内容で目の前の家族や友人、治療者の欠点を取り上げるために、それを否定する側も都合の良い自己弁護のように感じて躊躇してしまい、「ローカルルール人格によるものだ」と否定しにくくなってしまうのです。
 (クレームには耳を傾けなければならないという俗な常識も邪魔をします。)

 

 ローカルルールのモジュールへの感染、人格化と解離という現象に、一部の人が気づいているだけでは、対処できない。
 いじめにおける教育委員会のようにスーパーバイザーも真に受けてしまう、なんてことも生じます。
 ある程度、こうした対処の仕方が常識とならないと、本格的には対抗できない。真に受けてしまう人が多いと、クライアントさんもよくならない。
 (境界性パーソナリティ障害などは対応が難しいのはこのためですね。)
 

 

 本当は、共感ではなくて、「ローカルルール世界を一刀両断に壊してほしい」ということがホンモノの本心なのだから。  
 (映画やアニメで、本当自分が魔法で作られた世界に閉じ込められていて、「ここから出してくれ」と、その壁を叩いているようなイメージかもしません)

 

 クライアントさんが知識としてローカルルール人格へのスイッチという現象がある、と知るだけでも状況はだいぶ変わります。

 それによって、「本来の自分」と「ローカルルール人格」とを区別することができるので、抵抗や巻き込まれる確率も明らかに下がります。
 (区別されていない状態だと、問題や症状を指摘されても「自分がおかしい」といわれているように考えてて恐怖や怒りを感じてしまいます。)

 
 そして、クライアントさんと治療者が一致協力して、「ローカルルール」という本当の敵に立ち向かうことができます。区別ができていなければ、ごちゃごちゃになってできなくなります。

 

 治療者が真に共感する対象は「本来の自分」であって、「ローカルルール人格」ではないということです。誤って、ローカルルール人格に共感するということは「本来の自分」をないがしろにすることといえます。

 

 

 実際に筆者の経験では、カウンセリングの中でクライアントさんがローカルルール人格へとスイッチした際にそこには共感せず、ローカルルール人格について説明すると、最初はどこかキョトンとしています。
 しかし、ローカルルールによる発言と、本来のクライアントさんの発言とを区分けして、話を進めていくだけで、特別なことはしていないのに、「(今までのセッションで)一番良かった」というフィードバックをいただくことが珍しくないのには驚きます。
 (単に話をしているだけなのに!? やっぱり「バッサリといってほしい」というのが本来の気持ちだとわかります。)
 

 

 今現在、自分自身で悩みに取り組んでいる方は、難しい悩みほど「これってローカルルール世界の人格にスイッチしているのかも?」と自分で疑問を挟んでみることはとても有効。
 モジュール(人格)単位で悩みを考えてみる。ローカルルールというものの影響を考える。

 そうすると、見え方、感じ方がかなり変わってきて、手ごわい悩みの解決が見えてきます。

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

(参考)→「モジュール(人格)単位で悩みをとらえる重要性~ローカルルールは“モジュール(人格)”単位で感染、解離し問題を引き起こす。

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

モジュール(人格)単位で悩みをとらえる重要性~ローカルルールは“モジュール(人格)”単位で感染、解離し問題を引き起こす。

 

 例えば、

 家庭や会社にいて「怒られるのではないか」「自分に対して否定的なことを言われるのではないか」とビクビクしたりすることがある。

 もちろん、いわゆるブラック会社や、機能不全家族ではなく、比較的落ち着いた職場であり、穏やかな家庭の話です。
 そのため、実際に怒られたり、失礼なことを言われることというのはありません。 

 でも、おどおどしたり、何やら落ち着かない気持ちで、自信がない。

 感覚としては、まわりは穏やかな平和な世界なのに、
 なぜか自分だけが、不思議なおかしな世界観の中にとどまっている。

 そして、あるはずもない脅威やよく考えれば、おかしなルールにおびえている。
 

 

 旧来の臨床心理の考え方でいえば、過去の記憶や信念が残っているから、無意識の作用で、と捉えられてしまいます。
 確かにそうとも言えますが、、、どうも違う。

 自分全体がおかしな世界観の中におかれている感覚があります。

 おかしなルールにおびえていて、
 例えば、
 「自分が何かを言えばおかしく誤解されて、捻じ曲げられてしまうのではないか」とか、
 「本音を言ったら、おかしな自分がばれて、否定(抹殺)されてしまう」といったことが頭にあって、
 そうしたことから動いている。

 
 すると、人から言われたことが頭を離れなくなったり、
 はっきりとモノをいう人がとても怖かったりする。

 自分自身のことではなくても、何かを断られると、頭を殴られたようにボーっとしてくらくらして、恐怖が襲ってくる。
 相手の人間がサイコパスか凶悪犯か何かのように思えてくる。徹底的にこき下ろしたくなる。
 
 
 

 別のケースでは、
 不機嫌な相手や、急に理不尽な文句を言われたりすることはだれにでも経験があるかと思います。 
 厄介なのは、理不尽な文句というのはだいたい7割が妄想で、現実にあったことに基づいて尾ひれをつけて7割と結び付けられていたりすること。

 波風を立てない方法としては、とりあえず謝ったりすることになる。
 
 それだけであればよいのですが、相手が持つローカルルールの世界に引きずり込まれるようにして、自分も力を奪われてしまう感覚があります。
 相手の世界観に巻き込まれてしまう。

 相手のローカルルールの中では、自分は最低の人間で、どうしようもないやつで、礼儀のない、相手の気持ちがわからない、仕事もできない、失礼な人間、ということにさせられて、因縁をつけられ、“事実”を盾に、そこから抜け出せなくさせられてしまう。

 

 

 

 以前の記事にも書きましたが、ローカルルールの特徴として、根拠がとても薄弱なため、巻き込まれる人がいないとその存在を維持できないということがあります。そのためローカルルールは人間のモジュール(人格)という単位に感染して、あたかも自律的な生き物(人格)であるかのように、自らを守ろうとして他者(本人自身も)を巻き込み、感染させようと働くのです。※コンピュータウイルスが、まさに「ウイルス」と呼ばれあたかも生き物のように動作するのと似ています。

 (参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 ローカルルールが巻き込む方法は様々です。手を変え品を変えてやってきます。

 冒頭に書いたようなフラッシュバックや不安、恐怖といった悩みという姿もそうですが、本音と称して、自らの世界観を披露したり、他者の欠点をでっちあげて、ゆさぶったり、やっかいなことに不吉な予言をしてきたり、呪いをかけることで、未来も奪おうとしたり、などなど。

 
 明らかにおかしいとわかることであればよいのですが、“常識”を偽装するので、気が付かないまま根付いてしまうことがある。

 ちょっとした刺激で私たちは解離して、ローカルルールの世界観に巻き込まれてしまう。

 

 

 ここで理解が必要なのは、私たちの誰もが持つ「解離」という現象です。
 
 
 「解離(発作とも呼ばれますが)」というのは、単に信念というレベルではなく、モジュール(人格)という単位で生じる。 

 私たちの多くは、いわゆる多重人格ではありませんから、人格というのは意識することはありませんが、脳科学などの研究(神経ネットワークモデル)では、私たち人間は複数のジュールの束でできていて、それをたばねて、同一の人間だ、と認識しているとされます。

 スマホやパソコンに置き換えるとわかりやすいですが、裏では無数のプログラムやアプリが走っています。しかし、全体としては統制が取れた一つのマシンとして認識されています。

 

 作家の平野 啓一郎さんはそうした人間のありさまを「分人」として自らの考えを書籍でまとめています。 
  
 実際、私たちは、家族に見せる顔、友人に見せる顔、職場で見せる顔は自身で認識している以上に異なります。
 一つの人格が感情を切り替えているようなレベルではなく、人格(モジュール)自体が切り替わっていると考えなければならないレベルです。

 
 私たち人間はたくさんの人格(モジュール)の束でできています。そのため、私たちは一日のうちにも何回も解離をして、モジュールがスイッチしている。特に問題がないので気が付いていないだけ。

 複数のモジュールが存在すること自体はおかしなことではありません。パソコン、スマホのように、複数のアプリが並列に動作したりして、とても便利です。問題はありません。

 しかし、パソコンの調子が悪くなると、勝手にシャットダウンしたり、アプリの挙動がおかしくなったり、コンピュータウイルスに感染に感染したりするように、強いストレスを受けると人間もおかしくなってしまいます。

 アイデンティティ不安や自己不一致に陥ったり、虐待のような強いストレスにさらされてしまうと解離性同一性障害ということになったりする。

 

 こうした私たち人間の特性を考慮に置いたうえで、悩みの解決について考えると、面白いことが浮かんできます。

  
 実はある種の悩みというのは、これまで考えられてきたような信念とか無意識の力動とかそういった単位ではなく、モジュール(人格)単位でローカルルールが感染するなどして起こっていると考えたほうが適切なのではないか、ということです。

 

 だから、上に書いたように、誰かに何かを言われて、頭がボーっとする、というのは、単にストレスでダメージを負って、ということではなくて、解離して人格(モジュール)がスイッチを起こしているのかもしれない。
 何か、おかしな世界に引き込まれるようなクラーッとした感じがする。
 

 

 ローカルルールはそれ自体が自律性をもって本人や他者を感染させていきます。その際に感染するのは、頭の中の情報や信念といったレベルではなく、モジュール(人格)という単位に対してです。

 

 ローカルルールは、独立した人格のような動きをして、刺激で解離した際に前面に登場してきます。

 

 

 
 もともと人間の解離には、健康なレベルから不調なレベルまで、その性質に違いがあります。

 それはこれまで負ってきたストレスの度合いが影響している。

 解離というのは、よりよく生きるためであったり、自分を守るために生じているという面があリます。
 比較的安全で安定した環境で過ごしてきた人は、当然解離の度合いは緩やかになります。健康なレベルの解離といえます。
 緩やかというのは、日常のモジュールがスイッチしますが、統制が取れていて、問題を起こすほどではなかったりということです。刺激の閾値も低い。

 誰でも日常的に解離していますが、「解離だ」として取り上げる必要のない程度なので、従来からあるような、傾聴して、共感して、というようなカウンセリングでもよくなる。

 

 一方、ストレスの度合いが高かった人、いわゆるトラウマを負っている人は、解離の程度も大きいし、刺激の閾値も低い。

 さらに、ローカルルールの影響を抱えていたりする。
 ローカルルールに感染したモジュール(人格)をいくつも抱えていたりする。

 

 

 ローカルルールの世界観に影響されたモジュール(人格)は、ローカルルール世界を常識と捉えているのでひと工夫必要になります。

 ローカルルールに影響された人格がもたらす問題は、共感をしてもよくならない。かえって抜け出しにくくなったりする。

 なぜなら、本心は「このローカルルールを破壊してくれ!」ということだったりするのだから。

 
 でも、ローカルルールに影響されていると、周囲の人たちを巻き込むために「実は・・・」とつとつと本心らしきものを語ったり(騙ったり)する。語っている本人も騙される。その気になる。

 

 “本心”というのがローカルルールの世界に影響されたものだから、ホンモノの本心ではない。ローカルルールに影響された状態というのは、例えば「自分は人からどうしても嫌われる人間だ」ということだったりして、そこからスタートしている。

 

 “人からどうしても嫌われる人間”の告白として、本心が吐露される。

 さらに、ローカルルールに影響された人格(モジュール)の特徴としては、人格(モジュール)がスイッチしているので、スイッチする前のことは本心ではない、と認識されるため、
 「今まで語っていたことは実は本心ではなく・・・」といったりする。
 「嫌われないように、カウンセラーにもあわせてウソを言っていただけだ」といったことを言う場合もある。

 そのことで余計に、改めて語ったことが本心であるかのように感じてしまうから厄介です。

 

 そして、カウンセラーなどの治療者は職業柄、語られたことをまず受け止めようとしてしまうので、傾聴し、共感し、結果、巻き込まれて、かえってローカルルールから抜け出しにくくしてしまう。

 この構造に気づいている人(クライアントも治療者も)はほとんどいないし、信頼関係がないと、「それはローカルルールに影響されているのでは?」とはいえないので、構造がわかっていても、難しい。

 

 

 ローカルルールのもう一つの特徴としては、ローカルルールが壊されそうな刺激が入ると解離してローカルルールの世界観を守ろうとすることが起こります。
 例えば、安心安全が戻ってくるとか、人と親密になりそうになる、とかそういった状態です。良くなっていく気配がすると、解離が起こる。

 「あんなに良くなりそうだったのに・・」とちゃぶ台返しが起きて、
 「今までのは、実は違っていました・・・単によい子を演じていただけで・・」
 と“本心”の告白が始まる。治療者もそれに“共感”する。ローカルルールが壊れない。そして、抜け出しにくくなってしまう。
  

 

 実はこの解離(モジュールのスイッチ)という問題は、特殊なケースではなく、私たちの身近に頻繁に起こっていると考えられます。
 

 ローカルルールに影響されたモジュールにスイッチしているかどうかを見分けて、対処することは、より深く、本質的に治療を進めるためには避けて通れないのではないか?
 (ローカルルール以外にも、耐性人格など、モジュールにはいくつか種類があると考えられますが)
 そんな気がしています。

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

本当の”休養”とはなにか?~うつ病など心身の失調における休養の取り方

 

 今年は10連休という大型連休がありました。
 休みを楽しむ人がいる一方で、かなりの割合の人は「休みが憂鬱」というアンケートもあり、大変興味深いことだなと思いました。

 

 実は、「休む」ということはけっこうむずかしい。
 本当の休み方を知っている、という人は少ないのかもしれません。

 筆者も、昔学生時代に、長期で旅行していたことがありますが、
 本当であれば楽しいはずの旅行なのに、だんだんと、旅行が仕事のようになって来たりして、「旅行っていったい何だろう?」と思ったことがあります。

 以前、TV番組で、放送作家の小山薫堂さんが、長期の休暇を取るという場面がありましたが、「休みが義務みたい」「休みが早く終わってくれないか」とおっしゃっていました。

 

 「休暇」とか「休養」というのは思っているよりも奥が深い。

 

 

 ベッドやソファで寝ていても、なんかおちつかなくなったり、
 「リラックス」といってもどうしていいかわからなくなったり、
 「休みなさい」といわれると持て余したりしてしまいます。

 休日も、何か焦りみたいなものを感じて、しばらくしたらもう午後だ、夕方だ、となってしまう。

 休むということはなかなか大変な作業です。

 

 

 うつ病など心身の失調の場合の「休む」「休養」ということも実はかなり難しい。

 私たちは「休む」というと、布団・ベッドでただ寝ていることだ、とイメージします。
 
 病気の重さに比例して、その時間が長くなるものだとして、うつ病だと何か月も寝ていないといけない、と考えてしまう。

 

 これは実は本当の「休養」ではありません。

 

 実際に臨床の現場では、長く床に臥せていることで逆に症状が回復しにくくなったり、社会に復帰することができなくなってしまうことが知られています。
 

 

 例えば、重いうつ病であっても、半年、一年とずっと寝ていたりするものではない。
 お薬の力、医師も借りながらしっかりと睡眠をとり、栄養を補給して、体がある程度回復してきたら、ウォーキングするなどして運動などに取り組んでいく。

(参考)→「「安心安全」は、身体の安定から始まる

 そして、2、3か月もしたら、復帰のプログラムで職場に戻っていく。
 もちろん、様子を見てもう少し休養が必要なら、1か月単位で伸ばしていきます。
  

 軽度から中度のうつ病であれば、基本休職はしない。
 仕事は続けながら、睡眠や栄養を整えて、ストレスから体を回復させていきます。 
 

 「2,3か月とは、かなり早いな」と感じるかと思いますが、専門の医師に言わせるとこのほうが良いそうです。
 早く仕事に復帰すべき、といったスパルタ的な価値観からくるものではなく、
 身体にとってはそれが一番よいからそうなっています。
 (参考:井原裕「うつの8割に薬は無意味」など)

 

 人間は、ブランクが短いほど戻るときの抵抗感も少なくなります。
 長いと、誰でも社会や仕事が怖く感じたりするようになります。
 クラウド的な存在である人間にとっては、社会から切り離されると調子はむしろ悪くなる。つながっているほうがよい。

 家がそのままで休養の場、回復の場だと考えるのは幻想だといえます。

(参考)→「家では「安心安全」は得られない。~家も機能が限定された場所の一つである。

 

 

 実際に、うつなどの精神障害、あるいは社会的ひきこもりで長く家にいる方は、家にいて安らぎを感じているわけではなく、強い焦りや居心地の悪さを抱えていたりします。
 家にいることで回復しているわけではありません。休養の取り方を誤ってしまい、足場を失い、かえって社会に戻るきっかけを失ったり、社会への恐怖が増したりといったことが起きています。
 機能不全な家庭であれば、時間を費やしても機能は自然には回復しません。巻き込まれてさらに足場を失い、自分も抜け出せなくなってしまいます。

 身体の回復のためには、寝ているだけではだめで、意図的に睡眠や食事をコントロールしてしっかり取り、有酸素運動を行って、身体のストレス応答系を戻していく必要があります。
 (その間、社会とのつながりは切らさず、タイミングを見て社会に戻っていく) 
  ※機能不全家庭で足場を失っている場合は、社会的な支援を求める必要があります。

 

 心身の失調における「休養」とはそうした行為になります。
 寝ているだけ、家にいるだけ、時間を過ごしているだけでは良くはなっていきません。
 

 このように本来、「休養」とは受動的な行為ではなく、能動的な行為です。

 

 

 

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