社会性を削ぐほど、良い「関係」につながる~私たちが苦しめられている「社会性過多」

 

 筆者は、誰とでもうまく話せないし、知らない人と話すのは億劫に感じるし、そんな自分を責めていました。自分は人見知りなんだ、と思っていました。
 しかし、〝心”に聞くと、「人見知りではないよ」と答えてくれます。

(参考)→「「心に聞く」を身につける手順とコツ~悩み解決への無意識の活用方法

 

 でも、症状としてはどう考えても人見知りだし、〝心”の答えは気休めなのかな?と思っていました。

 

 そんなあるとき、海外旅行に行ったときのことでした。

 現地に着くと「なんか日本で感じる感覚とは違うなあ」と感じます。
 
 あれこれと人を気遣うような電波のようなものを感じない。
 

 そんななか、一泊二日のミニツアーのようなもので、砂漠に行くことになりました。周りはほとんどが外国人。

 すると、最初少しは緊張しますが、でも、相手と気楽に話せたりするのです。

 「あれれ? 人見知りのはずだけど、できちゃうな。」
 人見知りとは思えないようにふるまえるのです。

 

 変に気を遣わず、本当の意味で人と関わる必要がわいてきたら関わる。
 そうでないときは、周りには関心を持たない。
 もちろん、だからといって冷たいわけではない。
 さっぱりと乾いた空気のような感じ。

 

 「〝心”が言っていたのは本当だったんだ!」と気がつきます。

 日本に帰ってくると、じっとりした人づきあいの億劫さが戻ってきてしまいましたが、ああ、人と付き合うのはこういう感覚なんだ、と面白い発見でした。

 

 

 「日本人は・・・、西洋では・・・」というようなことは古くからある安っぽい文化論であまり好ましくありませんが、しかし、事実としてあるのは、例えば「対人恐怖症」というのは、日本にしかない症状である、ということです。(特定の国にしかない症状を「文化依存性症候群」といいます。)

 

 対人恐怖には、ちょうどいい外国語訳がないのです。
 「社交不安症」がそれに該当しますが、ピッタリはハマらない。

(参考)→「対人恐怖症、社交不安障害とは何か?真の原因、克服、症状とチェック
 

 

 
 日本社会の特徴は、ご近所に気を遣う「世間の延長」ということもあり、過剰に人に気を使い、周囲に合わせるという傾向があります。

 

 生きづらさを抱える人ほど、そうした社会の特徴を内面化して翻弄されてしまう。

 

 社会学者の貴戸理恵氏は、不登校や引きこもりなど生きづらさを抱える人は、「「社会性」がないのではなく、むしろ社会性が過剰なのです」と指摘します。
さらに、「関係性への志向は、持っていなければならないけれども、持ちすぎてもダメなのであり、」「(「関係的な生きづらさは」)それについて深く考えてはいけないようなものを、ふと意識してのぞき込んでしまうときに、出現するのかもしれません」
と述べています。

 貴戸理恵「「コミュニケーション能力がない」と悩むまえに――生きづらさを考える (岩波ブックレット)」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 確かに、海外に行くと感じることですが、人に気を遣わない(関係性への志向が低い)国民性を持つ人たちのほうが、人との関係は活発に行っている。

 

 筆者がモロッコに行ったとき。“親切な”気楽なモロッコ人たちが声をかけてきて、最初はうっとおしく戸惑いましたが、慣れてくると、これは居心地がいいな、と思うようになります。
 多分、精神的な症状を抱えている人も、この国にしばらくいたら、悩みがなくなってしまうのではないか、と感じるほど。

 

 

 台湾に旅行に行った際にも驚いたのが、電車で乗り合わせた知らないおばさん同士が世間話をしている姿。
 互いに知り合いなのかと思ったら、目的地が来たら、互いにサッといなくなる。

 

 別の場面では、案内してくれた現地の知人が、マッサージ店の店主と古くからの友人と話すかのようにずっと話をしている。
 あとで、知人に「知り合いの店だったの?」と聞くと、「いいえ、はじめての店だよ」という。それを聞いてびっくり。「あの親密さは、どう見ても知り合いやん!?」と。

 日本だと余程コミュニケーションに長けた人が行うであろうことを普通の人たちが簡単に行っている。
 (その台湾人の知人も日本ではシャイになったりするのですが。対人恐怖症もそう、結局悩みはほとんどが環境に依存している。外からやってくるもの)

 

 ほかの国でも、旅行などで訪れてみると、日本人からすると、「何だこりゃ!?」ということばかり。

 

 おとなり韓国も、日本人のように過剰に気を遣うことはない。

 筆者も、学生時代にトラウマや人間不信の後遺症に苦しんでいるときに、留学した先であった韓国人たちが気楽に声をかけて、仲間に誘ってくれたことには大変助けられました。
 韓国で暮らす人の話を聞くと、日本よりも人間関係ははるかに気楽だ、とおっしゃいます。

 

 

 上記でも書きましたが、人間関係で悩む人が、それぞれに国に行ったらそれで解決してしまうのではないか?と本当に感じます。

 台湾などは、普通の人々が、生きづらさを抱える日本人が理想とする気楽なコミュニケーションを交わしてしますから。

 

 

 サッカーのワールドカップで、日本人サポーターが競技後に会場を掃除して称賛されていますが、こうしたことからみれば喜べない。

 その気遣いこそが自分の首を絞める。
 

 「別にそのままでいいじゃないか」
 「誰かが掃除してくれるよ」

 という感覚が大事ではないか。

 

 実際、“生きづらさ”といった言葉が生まれる以前の日本では、電車の床にごみを放ったりしていました。痰をホームにはいたりもしていました。※池上彰さんの番組でよく紹介される事例です。
 (日本が発展したのは日本人の気遣いのおかげではありません。当時の国際環境(資源安、冷戦、旺盛な需要など)のおかげがとても大きい。もし、気遣いが発展の原動力なら、気遣いMAXの美徳の国、現在の日本はもっと成長率が高くないとおかしい)

(参考)→「あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服
 

 

 過剰な気遣いが、今度私たちがありのままに行動することを妨げる。

 

 「対人恐怖症」が日本にしかない、ということを考えても、どうも、私たち日本人が当たり前と思っている「人間関係」観というのは、人間の標準から見て、かなり歪でおかしい「幻想」なのかもしれません。

 

 私たちは、「社会性過多」であえいでいる。そんな日本で書かれた「コミュニケーションの上達のコツ」「気づかいの極意」みたいな本などを読んだらもう大変。社会性過多の上に、もっと過剰になれ、というのですから。幻想の上に幻想を重ねるだけ。 コミュニケーションのヒントは、コミュニケーションの〝カリスマ”にではなく、海外の普通のおじさん、おばさんたちに教わったほうがいいかもしれない。

 

 

 私たちは、良い「関係」を作るためには「社会性」をもっと削がないといけない。必要なのは、「社会性」を削ぐ方法です。

 

 私たちが当たり前と思う「人間関係」観。それは本気で一度解体して、社会性の水準をぐっと下げて壊して、それから社会性を組み上げていく必要があるようです。

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

人間は「関係」でできている。教科書が存在せず、「関係」は幻想だらけ

 人間というのは、クラウド的な存在ですから、「関係」がないと機能しません。

スマホを思い出したらわかりますが、ネットワークを切ってしまったらカメラか計算機程度にしか役に立たなくなります。

 

 人間も同様で、「自分が何者か?」ということも、置かれる状況、関係によって規定される。

 「関係」を切り離して、純粋な「本来の自分」なるものは存在しない。

 

 キリストも、家族の「関係」を断って旅に出ましたが、弟子や支持者(信者)との「関係」は大きく、それらがあるからキリストでいられた。故郷に帰ると奇跡は起こせなくなった。天才でも、個性的な人でも、「関係」がなければその人はその人ではいられないのです。
 

 
 私たちも、「関係」をもとに、公的人格をはぐくむことで、社会の中で“自分”でいられる。「関係」を離れた純粋な個はどこにも存在しない。

 

 

 このことについてはセラピーでもちゃんと言ってくれないし、ここを隠したままセラピーが行われたりします。

 例えばセラピーなどで、無意識にアクセスしたりして、”本当の自分”を見つける手法はあります。実際にそれで答えが出たとしても、その時は感動するかもしれませんが、その答えによって完全に自己一致して納得した、という風にはならない。いくつもある自分の“要素”は答えてくれますが、どれが本当?といったことになってしまいます。占いのように次々知りたいとなってしまう。

 

 

 結局は、自分とは、現実の関係の中にあって、「位置と役割」を得て、そこで影絵のように浮かび上がる、というもののようです。

 

 もし、「自分が何者かわからない」とか、「本当の自分が何かを知りたい」と感じるのであれば、「関係」の大切さを知り、「関係」を回復することが必要になる。

 

 

 「関係」を結びなおせば良いわけですが、「関係」をどう結ぶか?については、注意が必要です。

 世の中には、「関係」やコミュニケーションについては、前提が省略されたある意味間違った情報も多いからです。

 

 

 例えば、誰とでも気さくに接して、仲良くなれて、どんな難しい人とも向き合って、関係を結ぶことができて、というようなことは、明らかな「幻想」です。

 子どものころに聞いた、「友だち100人できるかな~♪」 というのはありえない。

この「ともだち100人幻想」ともいえるような思いは、私たちを苦しめています。

 

 

 友達付き合いが得意そうな人でも、本当に仲の良い人を作るのは難しい。

 以前も書きましたが、
 筆者が、留学した際に、何かのワークをしていて、紙に何かを記入しなければいけないのですが、友達付き合いが得意そうな人が、「親友を作るのは難しい」と書いてあったのは印象的でした。

 

 

 少し前に、NHK教育放送の番組「SWITCHインタビュー」で、糸井重里さんと中井貴一さんが対談していましたが、その際に、中井貴一さんが、最近、しみじみ気づいたこととして「人はそんなに好かれない」と話をしていました。

 いろいろ気を使って、心配りをしていても、それほどには人には好かれないものだ、だから最近はほどほどにしている、というのです。

 それを聞いて、糸井重里さんも笑いながら、「それに気づけたは、百科事典5,6冊分くらいの価値があるかもしれませんね」と同意していました。

 

 そんなものです。
 (でも、クライアントさんにいくら言っても、「いやあ、そんなことない。私は・・」となって、コミュニケーションのスーパーマンを目指そうとしてしまうんですけどね。どうにも気遣いをやめられない。人間関係にまつわる幻想というのはとかく強固なものです。)

 

 

 
 別の幻想に、

 相手の感情、態度は、すべて自分の責任(投影)だ、という考えもあります。

自己啓発などから広まった考えでしょうけども、これも間違い。

 

 人間というのは、ある意味自分の内部の都合で解離して、脳がショートして、感情にまみれる。そして、その収めどころとして相手に因縁をつける、生き物なのです。こちらが刺激して、ということもありますけど、理不尽なことは、ほとんど無意識の作用で起こっていて、それらはこちらの責任だ、なんてどう考えても言えない。

 本当に人間関係が上手な人は薄々そのことがわかっていて、相手の感情は自分とは関係ない、と割り切っていたりする。

 

 

 

 コミュニケーションについて、世に出ている本のほとんどは大きな前提を省略して書かれています。それは、世の中は2階建てになっているということです。その1階部分を無視している。

(参考)→「世の中は”二階建て”になっている。

 

 

 コミュニケーションの本は、1階部分が完璧に整備されている前提で、その上で2階に上がった条件の良い者同士のコミュニケーションについて書いている。
そのため、コミュニケーションがうまくいって当たり前という書き方になっている。
 現実は、1階部分から環境を整えないとコミュニケーションは成立しない。場合によっては、1階部分のやり取りで、コミュニケーションをあきらめないといけないことも多い(ほとんど)。
 

 

 人間とは、基本的には、うまく付き合えない(付き合えたら幸運だ。できなくても幸運だ)というところからスタートするものです。
 

 そのことが全く書かれていない。
だから、コミュニケーションの本を読めば読むほど、自分は苦しくなっていく。
 
 
 私たちが関係を回復するためには、「人間」をありのままにとらえる必要がありますが、まだ、その教科書といえるものはこの世には存在しないようです。

教科書が存在しないため、誤った幻想とチキンレースが続いていしまう。

(参考)→「主婦、ビジネス、学校、自己啓発・スピリチュアルの世界でも幻想のチキンレースは蔓延っている

 

 「関係」は、他人に聞いてもはっきりとは教えてくれない、言語化しづらい裏ルールも含めて構成されています。

 

 

 

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親の主務も、「安心安全(承認)」の提供だけでよい~「あれもこれも」は幻想

 近年はワークライフバランス、働き方改革、ということで、残業や働きすぎを見直そうという取り組みが広がっています。良い傾向ではないかと思います。

 しかし、一昔前は、現場の社員が創意工夫でサービスを作り出して、いろいろな仕事をこなすことを求め、「あれもこれも」という時代がありました。
 

 例えば、リッツカールトンホテルなどでは、ホテルマンが自分の裁量でお客様にサービスして感動させることが伝説となっています。忘れ物をわざわざ届けたり。誕生日を演出したり。そんな姿を理想として、一般の会社でも真似しようとしたり、といったことが流行りました。 
 
 筆者の知人は、大手の宅配便のドライバーをしていましたが、当時、ドライバーなのに名産品を宅配先で売る?ということをしていました。会社からノルマがあるとのことで。もしかしたら。これも現場の社員に、いろいろな役割をこなさせることがはやっていた例の一つかもしれません。

 結果、どうなったかというと、やることがあれもこれもと増え、残業しても追いつかず、現場は疲弊していきました。筆者も昔、そうした現場の中にいた一人です。営業から契約、入金管理、サービスの設計、プロジェクトの管理から何からをやらなければならず、見積もり一つ作るのでも徹夜でヘトヘト、といった具合です。

 

 試行錯誤して、日本の会社がようやく気付いてきたのは、「どうやら、人間は、あれもこれも、いくつもの役割をこなすことはできない」ということです。高学歴な人が集まる大企業でさえ同様です。コンサルタントといった優秀に見える層でも何でもできるわけではありません。専門化され、役割が絞られていないと、力は発揮できないものです。

 反対に、うまくいっている会社は「あれもこれも」ではなく、役割が絞られていて、会社全体でよい商品、サービスを作って、シンプルに提供する、ということに徹しているようです。

 

 今、サッカーのワールドカップが開催されています。最近は、ボリバレントといって複数のポジションができることが推奨されています。それでもせいぜい2つ程度まで。ロナウド(世界最高の選手)がキーパーをしても活躍できませんし、メッシ(これも世界最高の選手)がディフェンダーをしても活躍できません。スーパースターも案外不器用なのです。そして、優勝候補はチームの戦略が一貫しています。

 「あれもこれもできる」というのは幻想です。

 

 あれもこれもできているように見える人というのは、実は主の役割が明確で、そこで活躍出来ている、ということがあります。

 主務で力を発揮できているから、余裕が生まれて、その他のこともできるし、出来ているように見える。

 

 スポーツ選手でも、長所で活躍できるから、短所もカバーできたり、いろんな才能を発揮できたりする(出来ているように見えたりする)。

 

 

 親業もこれにあてはまるのではないかと思います。

 特に母親にはいろいろな役割が求められています。食事、洗濯、掃除、買い物のみならず、しつけ、教育、PTA、習い事の送迎、さらに外でのパート、親戚づきあい、近所付き合いなど。最近は宿題の採点も親の仕事だったりします。

 ここに子供が病弱だとか、さらにシングルマザーなどの条件が重なると本当に大変になります。

 イライラして途方に暮れるのも当然のことです。  
 

 上の会社の例と同様ですが、
 親に「あれもこれも」と複数の役割を求めるのは、そもそも限界があります。

 複数の役割がこなせているように見える場合は、なんらかしら周囲のサポートがあってぎりぎりに成り立っていることがほとんど。

 でも、厄介なのは、中学、高校のテストの時に、「勉強していない」と真顔でうそをつくクラスメイトが必ずいたように、人間はうまくいっていることは表に出し、自分が家事、育児ができていないことは、隠したりする傾向があること。

 

 また、周囲からの有形無形のサポートがあって親業は成り立っていることに気づかずに(子どもの育てやすさも生まれ持っての気質にもかなり左右されます)、自分の力だと勘違いして、そんな人が育児の指南書を書いたり、雑誌のインタビューを受けたりして・・・そんなものも幻想です。 本は売りやすいように内容が極端に装飾されますし、芸能人はイメージの商売ですからなおさらです。

 

 トラウマを負った人は真面目なので、そうしたことを真に受けて、「自分はいろいろなことをうまくこなせない」と自分を責めてしまったりします。

 

 私たち人間は、能力が高いそうに見える人でさえ、いくつもの役割をこなすなんて、そんなことはできないものです。

 親業における「あれもこれもできて当たり前」というのも、私たちを苦しめている幻想かもしれません。

 

 では、親業においては、主たる任務(機能)は何か?

 それは、「子供にとっての安全基地であること」。この1点。
 動物にとっての巣のように、社会に出る冒険から戻ってこれる場所であり、そこでは安心安全が約束され、生きるために必要な養育の機能と、社会に出るための基本的な教育や導きが提供されるところです。
 安心安全は主に母親、社会に出るための導きは主に父親から提供されます。

 

 「安心安全」とは、食事とか健康など物理的にももちろんですが、精神的には「存在の承認」という形で行われます。

 安心安全は、赤ちゃんのころ(生後半年から2歳ごろまで)は、しっかり抱っこしてスキンシップをとることで果たされます。その時期ではぐくまれる絆が「愛着」と呼ばれます。
(参考)→「「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 

 成長してからも、家の中が物理的にも、精神的にも安全で安心できる環境を提供することはとても大切です。さらに、言葉や態度で、「あなたは大丈夫」ということを折に触れて伝えることです。すると適度に距離が取れて、自立にもつながっていきます。
 過保護が良くないのは、「あなたは大丈夫じゃない(だから私が面倒を見る)」という前提があるから。

 

 家庭の中では、家の外の人がするような弱点を修正するようなアドバイスは二の次。

 私たちが家族にされて一番腹が立つのは、外でトラブルがあった時に、家族が味方をしてくれないことです。
「あなたにも悪いところがあったから、そんな目にあったんじゃないの?」とか、「ここを直せば」なんていうことが一番頭にくることです。
 大人になって私たちが痛切に願うのは、家族からの「あなたは大丈夫」というメッセージがほしい、ということです。

 

 もちろん、人間ですから、社会的スキルは学ばなければならないのですが、そのためにも家庭は揺るがない「安全基地」であることが必要。安全基地が揺らいでいては、安心して探索には出れない。
 

 学力で重要とされる非認知能力も「愛着」を土台としています。「安心安全」感が保たれていれば、そこを土台にスキル、経験ははぐくまれていきます。
(先日の記事で紹介した、ロジャーズの受容されることで人間は成長する、ということの根拠があるとしたらここにあると考えられます。)
(参考)→「「安心安全」と「関係」
 

 

 そして、主として父親が、社会への導きを行う。教育など必要な機会を提供したり、アドバイスをしたりする。
安全基地から出て、社会への探索行動の手引きを行うイメージです。

 しつけや教育はどうか?といえば、研究者が明らかにしていますが、実は、厳しいイメージのある戦前の家庭は家でしつけをしていなかった、しつけは、仕事を通じて行われていたようです
参考:広田照幸「日本人のしつけは衰退したか」)。
 

 どうやら、しつけや教育とは、親の本来的な役割ではないようです。どちらかというと戦前よりも「ゆとり」といわれる現代のほうが家のしつけはしっかりしている。

 「昔は厳しく、今はしつけが甘い」とは、先入観でしかないようです。よくTVなどで、厳しくしつけをしていることを誇る芸能人などもいますが、親が植え付ける超自我(規範)が強すぎることは、成長してから生きづらさ(呪縛)を生んだり大きく問題になります。

 

 実際、自閉症への療育でも、かつては厳しいしつけで成果を上げ注目されましたが、成長してから問題行動が頻発するようになり、今では厳しいしつけは行われなくなりました。定型発達においても同様のことは考えられます。 

 A・グリューンなどは、厳しいしつけのことをある種のハラスメント、「闇教育」と読んでいます。
(参考)→「あなたの苦しみはモラハラのせいかも?<ハラスメント>とは何か

 

 教育やしつけは大切ですが、親がすべてを行おうとすると「あれもこれも」となって、イライラしたりして、結局一番大事にな「安心安全(承認)」が脅かされることになりがちです。

 本来しつけや教育は家族以外の場で行われていましたし、教師や奉公先の主人が行うように家族以外の人のほうが適していることも多い(生みの親より育ての親)。戦前は家庭の外や仕事の現場で行われていた。

 一方で、家族以外の人が「安全基地」になれるか、といえばなかなか難しい。学校の先生やカウンセラーでも、親代わりにはなれないものです。

 

 そのため、親は主務(安全基地の提供)をしっかり行うことだけ意識して、教育、しつけは基本的に外の力を借りるつもりでいる(余力があれば家庭の中で行ってもよいですが、余裕がなくなりイライラして家が安全基地ではなくなるくらいならやらないほうがいい)。※もちろん、放任主義ということではまったくありません。

 

 現代の親は、「あれもこれも」と多機能を求められて、なかなかつらいものがあります。「あれもこれも」は誰もできません。それは難しいこと。

 

 主務は「安全基地の提供」だとして、優先順位を明確にできると、「あれもこれも」がなくなり、親としての負担感もヘリますし、子どもへのイライラも少なくなります。なにより、昨今、重要とされる非認知能力を高めることにもつながりますし、「愛着」理論その他、臨床の現場の感覚からしても、負担なく合理的なスタンスだと思います。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 

 

 実際、「安全基地の提供」だけを意識したクライアントさんは、子どもへのかかわりがすごく楽になった、とおっしゃいます。

 

 本来の親の役割は何か?ということをポイントを絞って意識すると、子育てはもっと楽になるかもしれません。

 

 

(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 

 

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