「ホーム(自陣)」がなく、いつも「アウェイ(敵地)」

 筆者が学生のころ、ローマでサッカーを観戦しに行った時です。スタジアムはすごい熱気で、あちらこちらで発煙筒がモクモクとたかれていました。チャント(応援の掛け声)が唸るように飛び交い、選手が激しくプレーしています。

 

 しばらく観ていると筆者の後ろから発煙筒が飛んできて足元に転がってきました。そして、足元に置いてあったペットボトルが溶けてしまいました。ほかにも、特殊ガラスの観客エリアを区切る壁を乗り越えるファンがいたり、すごい雰囲気の中で試合するものだな、と思った経験があります。女性や子どもを連れては、ちょっと心配ですね。

 試合している選手たちも、もしかしたら、グランドになだれ込んできて自分がどうなるか?って不安に思うかもしれません。

 

 そこまでのことがなくても、相手のファンからヤジが聞こえたり、精神的にタフではないとなかなか耐えられないな、と思います。
 日本のプロ野球でも甲子園で試合するのはビジターチームは嫌でしょうね。

 

 スポーツでは、ホームゲームは有利で、アウェイ(敵地)は不利だとよく言われます。
 そのため、例えば、海外サッカーでは、アウェイは引き分けで良しとするようなところがあります。国際試合では特にそうです。

 ホーム-アウェイの勝率の違いですが海外では顕著で、日本のJリーグなどは差は緩やかなようです。
(Jリーグ開幕当初は、アウェイのほうが強いチームもあったそうです。)

 その違いは何か?といえば、「安心・安全」感の差と考えられます。
 (家族連れでも安心して見れるというのは、Jリーグの特徴だそうです。)

 

 スポーツ選手も、「安心・安全」な中で試合ができるとパフォーマンスは上がりますが、ないとどうしても力を発揮することはできません。「安心・安全」感というのは、食事、睡眠など生活面からも影響します。そのため、オリンピックでも自国開催の選手はやはり有利になります。

 

 ホーム-アウェイのパフォーマンス差の現象は、生きづらさ、トラウマといった悩みを抱える人にも当てはまります。悩みの中にある人は、「ホーム(自陣)」がないか、あっても少ないという特徴があります。

 

 世の中が常に「アウェイ(敵地)」であるという感覚。

 

 自分の家でさえ「ホーム(安心・安全)」ではない。口うるさい家族がいて、心ないことを言われないか?とびくびくしている。

 

 職場などは「アウェイ(敵地)」そのもので、おどおどしてしまう。

 能力を発揮するためには、「ホーム」であることがとても大切です。

 たとえば、自分の地元、自分が知ったお店だと、余裕をもって応対することはできますね。でも、知らない場所だと、途端に借りてきた猫みたいになります。

 トラウマを負った人は、力がないわけではありません。「ホーム」感覚がないだけです。
 「アウェイ」だから、全体を把握できず、判断にも自信がなく、行動も遅くなるのです。
 

 ただ、周囲の人は、頭の中で起きていることを理解してくれません。「あの人は能力がない」として否定的な評価をしてきます。直観的には自分はできる、と思うのですが、「ホーム」ではないため力が発揮できずにいつも負けたり、良くても“引き分け”で悔しい思いをしてしまいます。(「クソ!これがホームだったら、バカにしたやつら、コテンパンにしてやるのに!」って思います。)

 でも、どんなに頭を「ホーム」にしようと頑張っても、どうにもならず、スキル、経験が積みあがらないのです。

 

 前回、学力についても書きましたけども「ホーム」感覚が高い方は、余裕があり、判断や行動が的確に動くことができます。
 わからないことがあっても、世の中には秩序があって、適切に対処すれば、必ず解決策を導くことができる、という信頼感があります。自分が知った環境であれば、余裕をもって対応することができます。

(参考)→「世界に対する安心感、信頼感

 

 
 ただ、トラウマを負った人は、本来は「ホーム」であるはずの現実の世界が、負の暗示によって「アウェイ」に変えさせられてしまい、うまく付き合えなくなる結果、さらに「アウェイ」感は深まり、怖くてどうしようもなくなります。

 「ホーム」感覚を取り戻したくても、手掛かりがない。

 「ホーム」感覚が、現実の世界でうまく作れないと、どうなるか?
 スピリチュアルなど、ファンタジーの中に「ホーム」をこしらえて、そこを拠点に活動するようになってしまいます。
 (人によっては、希死念慮で、死によって「アウェイ」から去りたい、と思って不幸にも試みる方もいます。)

 ただ、ファンタジーはファンタジーに過ぎませんから、一時の避難所たりえても、根本的な解決にはなりません。

 

 悩みの中にある方は、片足は、負の暗示で「アウェイ」にさせられた現実に、もう一つの足は空想の中のファンタジーに、とにまたがって苦しみながら人生をサバイバルをしています。

 

 ホーム、アウェイというと、オセロを思い出します。安定型愛着の方は、四隅のいくつかがすでに自分の陣地なので、どこに行っても、比較的容易に「ホーム」にすることができます。余裕をもって仕事をしたり、人と接することができます。これがいわゆる「非認知能力」というものかもしれません。

 

 でもトラウマを負った人は、四隅に自分の陣地がありません。毎回、自分で「ホーム」にしなければならないので、ヘトヘトです。だから、一見、人見知りで、人が怖くて、人が億劫です(本当は対人恐怖でも人見知りではないんですけどね。ただ毎回のオセロがとても面倒なんです)。やっぱり、内心くやしさをいつも感じているし、自分の本来の力を直感しています。「クソ、ホームだったら、こんなことにはならないのに!」と。

 

 カウンセリング、セラピーというのは、ある意味、仮の「ホーム(自陣)」を提供するものです。その石は小さくちっぽけですが、うまくいけばじわじわと「ホーム(自陣)」を広げていくことを助けてくれます。

 
 

 

→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

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お悩みの原因や解決方法について

「ハウルの動く城」にみる、呪いの呪縛と自由のプロセス

 

宮崎駿監督の映画で「ハウルの動く城」という作品があります。

ソフィーという女性が、魔法使いハウルに出会い、その中で、魔女に呪いをかけられておばあさんになってしまうお話です。

 

ハウルという魔法使いは、魔法で自分の城(動く城)を作って動かしています。

 

ハウル自体の評判は芳しいものではなく、
人の心臓(心)を奪って食べるとか、国に仕える偉い魔法使い(母親?)からも危険視されています。

 

ハウル自体も呪いを背負って生きていて、
そこから脱しようともがいて、戦っています。

 

大きく見える城もハリボデで実は中身はぐちゃぐちゃだったり、
本当は魔法が怖くて、まじないで何とか防いでいたり、
また、ハウルはいくつもの名前を持っていたり、
(「ハウルって一体いくつ名前があるの?」と尋ねられるシーンでハウルは、「自由に生きるのにいるなだけ」と答えます。)
とっても子供っぽかったり、

トラウマを負った人の姿をよく表している、と思います。

→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

トラウマを負っていると、
ハリボテのように虚勢を張っていても内面はぐちゃぐちゃ、
自分も他人を傷つけるような言動をしてしまったり(心を奪ったり)、
いくつもの名前を持っているのは、自分というものがよくわからない状態
実年齢に比べて子供っぽく、周りの人たちは大人だと見ています。

 

魔法使い、というのはセラピストの姿とも重なります。
魔法で呪いを解けそうなものですが、実際はなかなか解けませんし、魔法使い自体も呪いに翻弄されていたりします。
(最後は魔法ではなく、愛の力で呪いは解けていくのですが・・)

 

ハラスメントの研究をされている大阪大学の深尾葉子准教授は『魂の脱植民地化とは何か?』という本の中で
「「魂の脱植民地化過程」の描画として本作品を観ると、透徹した一貫性、徹底した描写、完璧なまでのストーリー展開と人物配置で構成されている。」

「「城」は人間の内面世界をそのまま具像化したものであり」「物語全体は、心と魂の乖離を乗り越え、呪縛の快方に向かうプロセスとして展開する」

「ここには、さまざまな精神疾患、たとえば、自閉症や分裂症といった心の病を生きている人々の内面ばかりではなく、「正常」だとされている人々が日ごろ気づかないようにしている心の内奥や魂との断裂、魂との乖離しつつ外面的に構成されているいくつもの人格、そういったものが、見事に視覚化され、映像化されている」としています。

 

 

親子関係、発達、様々な心の悩み、そしてトラウマが解消されていくプロセスと重ねてみると、とても面白い。様々な示唆に富む作品です。

 

原作はこちら↓

 

 

 

→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

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お悩みの原因や解決方法について

誰かに「自分に罪はなく、自分はおかしくない」と証明してほしい。

前回の記事ではアルコール依存症を例に書きましたが、
悩みを持つ方、トラウマを負った人は、どうしようもなく苦しい悪循環に陥らされてしまいます。

 

1.親や周囲から子どものころにおかしな暗示を入れられてしまう。
(あるいは生まれつきの気質で環境になじめず、普通のストレスもトラウマ(暗示)として記憶されてしまう。)
    ↓
2.その暗示をもとに問題行動を起こさせられてしまい、問題行動が暗示を証明しているように感じさせられる。暗示が強化される。
(「ほら?やっぱり、あなたはおかしな人間じゃないの」「何もできないじゃないの?」)
    ↓
3.さらに苦しみが倍加して、その苦しみを癒すために問題行動や、関係念慮、解離など様々な症状が生まれる。

    ↓
4.その問題行動が自分がおかしな人間であるという思いをさらに強くする。場合によっては、治療、支援してくれる人にも疑いの目を向けて、サポートが少なくなり、さらに苦境に立たされる。
    ↓
5.この悪循環(スパイラル)。

 

私たちは、日々、ストレスにされされます。人格にかかわるような批判にさらされることもあります。支持的な人が周りにいたり、「愛着」が安定していれば、都度、そのストレスをキャンセルして、暗示はブロックされます。
しかし、残念ながら、そうした支援がない場合、「自分はおかしな人間である」という意識はぬぐえなくなり、罪まみれになったような感覚になります。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 

 

悩みを持つ人、トラウマを負った人の願いは一つ
「誰か、この罪(暗示)を説いてくれ!」
そして、
「自分に罪はないことを、おかしな人間ではないことを証明してくれ!」
「自分はおかしな人間ではないんだよ!周りがおかしなだけなんだよ!身体、心が言うことをきかないんだ!わかってくれ!!」

ということです。

 

私たち人間は「二重の見当識」といって、どんなにおかしな症状に陥っても、自分を冷静に見る視点や直観を持っています。

私たちは、直観では、「自分はおかしくない」ということを知っています。でも、社会で行う自分の言動は問題ばかりで、それを現実に証明することができないでいるのです。

 

本当だったら、自分の親や家族が「お前は大丈夫だよ」と言ってくれればそれで解決するのに、親や家族に限って、それをしてくれません。
「お前は~~がダメだ」「そんなんじゃ、どこでも通用しない」と否定的な言葉を浴びせ続けます。

 

悩みを持つ人、トラウマを負った人は、自分の暗示を解くカギを自分の親が握っている、と思っています。だから、成人してもなお、親にこだわります。
親に訴えて、訴えて、「まともな親になってくれよ」「そして、私のことを「大丈夫だよ」と一言いってくれよ」と懇願します。

でも、親は応えてくれません。だから、暗示の呪縛はそのままです。

 

カウンセリングや心理療法は、「あなたは大丈夫だよ」「罪も何もなく、問題ないよ」と心から思えるために親の代わりに“代替のカギ”を作り出して、呪縛を解こうとします。

カウンセリング、心理療法の究極目標はここにあって、そう考えると私たちの行っていることは、とてもシンプルなものです。

ただ、実現のためにはいくつものハードルがあります。
(なかなか、その“代替のカギ”がうまく鍵穴に合わない!?)

 

誰かに自分が無罪でおかしくないと証明してほしい、ということを実現するために、その”カギ”を探して、悩みを負った私たちは、長く険しい旅を歩んでいます。

 

映画や文学などの冒険譚で、主人公が呪いを負っていて、その呪いを解くために旅をしている、といったストーリーを目(耳)にしますが、こうした私たち人間の姿を現しているようです。

 

 

→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

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お悩みの原因や解決方法について

世界に対する安心感、信頼感

 

 筆者が、子どものころ、学校の成績はあまりよくなく、おそらくせいぜい真ん中くらいだったのではないかな、と記憶しています。
 小学校のころはそもそも成績を意識することはありませんでした。

 

 中学に入ると、本格的なテストというものがスタートしますが、勉強するのはテストの時だけでした。
普段はそれほど真剣に勉強をするわけではありませんので、ずーっと真ん中を行ったり来たりしていました。
 英語は最悪で、20点台の時もあったのを覚えています。勉強していないので当然ですが・・。

 

 ある時、秀才の転校生がやってきました。その転校生は、子どものころから塾に行っていていたようで、勉強の仕方を知っていました。自分で中間、期末の予想問題集をつくって、配ったりしていて、実際、その通りの問題が出たりしていました。
 当時の筆者にしてみたら、どうして何がテストに出るのか最初からわかるの? という感じですが、勉強に慣れた立場であればなんてことはないことなのかもしれません。

 

 筆者は、その転校生に勉強の仕方を教えてもらうようになったことと、このままじゃだめだ、という危機感もあって成績が一気に伸びたのを覚えています。
目からうろこというか、ああ、こういう風に取り組むものなのか! と思った経験があります。

 

 勉強が得意ではない人にとって、数学でも英語でもなんでもそうですが、世界は無秩序で、安心できない感覚があります。そわそわするような感じ。結果が悪いと放りだしたくなるような感覚。あるいは、テストの結果が自分の人格と連動しているような感覚。自分が良い成績が取れるとはおよそ想像もつかない。いや~な感じです。

 

 一方、勉強が得意な人を見ていると、そもそも落ち着いている。世界には秩序があって、冷静に適切に向き合えば、そこには取り組み方やコツ、対策というものが必ずあるという確信がある。結果が悪くても、無用な反省や、自分の人格と結び付けてへこむ意味はなく、淡々と問題点を洗い出して、修正をする。

 このような感覚が教科の勉強だけではなく、世界全体に及ぶと感じられる人は、社会に出てからも同じように取り組んで成功できる。
 おそらく、勉強だけではなく、スポーツや芸術などの分野でもトップクラスの人はそのような感覚があるようです。
 (プロの選手などを見ていると失敗してもケロッとしていたりしますね。「ごめんなさい」なんて基本的には言いません。)

 

 勉強が得意な人の中でも当然レベルの違いがあって、
 本当にありのままに世界をとらえる人と、自分独自のマイルールで世界をとらえる人とがある。
 自分独自のルールでとらえる人は調子の良い時はいいけども、調子を崩すと立ち直りにくくなったり、不得手なものは不得手なままだったりする。
 自分独自のルールでとらえる気持ちの裏には、どこか世界というものが信頼できないので、呪い(まじない)のようなもので何とか抑え込んでいる、という感覚があるように思います。

 本来、出来る限り、世界をありのままにとらえられる人であればあるほど、癖や偏りなく世界とかかわることができます。

 

 それを支える能力のことを「非認知能力」といって、子どもの学力やソーシャルスキルの土台となるのではないか?と最近では指摘されています。「非認知能力」とは、目標に向かって頑張る力、感情のコントロールや対人関係に関する能力などのことです。

 

 受験勉強とか、部活などは、社会とのかかわり方、付き合い方を鍛える役割があって、そのために、就職の時は学歴や、体育会系が評価されるのでしょう。
 ただ、受験勉強については、一人だけで取り組めて、自分独自のルールでも突破できてしまうので、社会に出てから、人間関係などで躓く場合もあります。

 

 

 最近注目される、「愛着」というのは、「非認知能力」の土台となるものを、パソコンのオペレーションシステム(OS)のように、ドライバやアプリまでワンパッケージで提供してくれます。
 そのため、本人が一つ一つ必要なものを自分で集める必要がない。自然体でいればそこそこに世界とかかわることができます。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 

 子育ての費用対効果は早いうちのほうがよく、年齢が立つにつれて挽回しづらくなってくる。
 (特に、1歳半くらいまでは、親ができるだけ頻繁に抱きしめて愛着を形成を促したほうが結局後が楽なようです。)

 

 「愛着」で何より大切なのは、世界に対する信頼感というか安心感というものです。
 

 

 冒頭に書いた、勉強が得意な人が「この世界というのは、秩序があって、そこにはルールやコツ、対策が必ずある」という確信があるのもまさにこのためです。

 

 

 世の中の裏ルール、二階建ての構造になっている、ということについても、世界に対する信頼感や安心感があれば、自然と感じ取って、身についたりします。
(参考)→「世の中は”二階建て”になっている。

 

 

 安心感や信頼感が崩れれば崩れるほど、世界をありのままに捉えることができなくなり、そこに呪い(まじない)のような解釈やマイルール、ローカルルールが入ってきて、世界を「知る」のではなく、「信じる」ような関わり方になってしまいます。