世界に対する安心感、信頼感

 

 筆者が、子どものころ、学校の成績はあまりよくなく、おそらくせいぜい真ん中くらいだったのではないかな、と記憶しています。
 小学校のころはそもそも成績を意識することはありませんでした。

 

 中学に入ると、本格的なテストというものがスタートしますが、勉強するのはテストの時だけでした。
普段はそれほど真剣に勉強をするわけではありませんので、ずーっと真ん中を行ったり来たりしていました。
 英語は最悪で、20点台の時もあったのを覚えています。勉強していないので当然ですが・・。

 

 ある時、秀才の転校生がやってきました。その転校生は、子どものころから塾に行っていていたようで、勉強の仕方を知っていました。自分で中間、期末の予想問題集をつくって、配ったりしていて、実際、その通りの問題が出たりしていました。
 当時の筆者にしてみたら、どうして何がテストに出るのか最初からわかるの? という感じですが、勉強に慣れた立場であればなんてことはないことなのかもしれません。

 

 筆者は、その転校生に勉強の仕方を教えてもらうようになったことと、このままじゃだめだ、という危機感もあって成績が一気に伸びたのを覚えています。
目からうろこというか、ああ、こういう風に取り組むものなのか! と思った経験があります。

 

 勉強が得意ではない人にとって、数学でも英語でもなんでもそうですが、世界は無秩序で、安心できない感覚があります。そわそわするような感じ。結果が悪いと放りだしたくなるような感覚。あるいは、テストの結果が自分の人格と連動しているような感覚。自分が良い成績が取れるとはおよそ想像もつかない。いや~な感じです。

 

 一方、勉強が得意な人を見ていると、そもそも落ち着いている。世界には秩序があって、冷静に適切に向き合えば、そこには取り組み方やコツ、対策というものが必ずあるという確信がある。結果が悪くても、無用な反省や、自分の人格と結び付けてへこむ意味はなく、淡々と問題点を洗い出して、修正をする。

 このような感覚が教科の勉強だけではなく、世界全体に及ぶと感じられる人は、社会に出てからも同じように取り組んで成功できる。
 おそらく、勉強だけではなく、スポーツや芸術などの分野でもトップクラスの人はそのような感覚があるようです。
 (プロの選手などを見ていると失敗してもケロッとしていたりしますね。「ごめんなさい」なんて基本的には言いません。)

 

 勉強が得意な人の中でも当然レベルの違いがあって、
 本当にありのままに世界をとらえる人と、自分独自のマイルールで世界をとらえる人とがある。
 自分独自のルールでとらえる人は調子の良い時はいいけども、調子を崩すと立ち直りにくくなったり、不得手なものは不得手なままだったりする。
 自分独自のルールでとらえる気持ちの裏には、どこか世界というものが信頼できないので、呪い(まじない)のようなもので何とか抑え込んでいる、という感覚があるように思います。

 本来、出来る限り、世界をありのままにとらえられる人であればあるほど、癖や偏りなく世界とかかわることができます。

 

 それを支える能力のことを「非認知能力」といって、子どもの学力やソーシャルスキルの土台となるのではないか?と最近では指摘されています。「非認知能力」とは、目標に向かって頑張る力、感情のコントロールや対人関係に関する能力などのことです。

 

 受験勉強とか、部活などは、社会とのかかわり方、付き合い方を鍛える役割があって、そのために、就職の時は学歴や、体育会系が評価されるのでしょう。
 ただ、受験勉強については、一人だけで取り組めて、自分独自のルールでも突破できてしまうので、社会に出てから、人間関係などで躓く場合もあります。

 

 

 最近注目される、「愛着」というのは、「非認知能力」の土台となるものを、パソコンのオペレーションシステム(OS)のように、ドライバやアプリまでワンパッケージで提供してくれます。
 そのため、本人が一つ一つ必要なものを自分で集める必要がない。自然体でいればそこそこに世界とかかわることができます。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 

 子育ての費用対効果は早いうちのほうがよく、年齢が立つにつれて挽回しづらくなってくる。
 (特に、1歳半くらいまでは、親ができるだけ頻繁に抱きしめて愛着を形成を促したほうが結局後が楽なようです。)

 

 「愛着」で何より大切なのは、世界に対する信頼感というか安心感というものです。
 

 

 冒頭に書いた、勉強が得意な人が「この世界というのは、秩序があって、そこにはルールやコツ、対策が必ずある」という確信があるのもまさにこのためです。

 

 

 世の中の裏ルール、二階建ての構造になっている、ということについても、世界に対する信頼感や安心感があれば、自然と感じ取って、身についたりします。
(参考)→「世の中は”二階建て”になっている。

 

 

 安心感や信頼感が崩れれば崩れるほど、世界をありのままに捉えることができなくなり、そこに呪い(まじない)のような解釈やマイルール、ローカルルールが入ってきて、世界を「知る」のではなく、「信じる」ような関わり方になってしまいます。

 

 

 

トラウマを解消する、とは、〝非常事態モード”を元に戻すこと

 

トラウマの中核にあるものは何か?といえば、それは「非常事態モード」です。

本来人間は、リラックスしている状態が通常です。
ストレスに対応してテンションが上がり、またリラックスに戻る、ということをしています。

しかし、ストレス応答系が過度なストレスを受けることで、モードの切り替えがうまくいかなくなり、
常に「非常事態モード」が入りっぱなしになってしまいます。

これがトラウマ(心的外傷“後”ストレス障害)という現象です。

過覚醒といった症状は象徴的で、
あたかも、戦場の兵士のように、いつも緊張して、警戒しているような状態になります。

 

非常事態というのは、周りがすべて危機に見えます。
何もしていなくても漠然とした不安があります。
人生の意味がよくわからない空虚感があります。

 

 

 

また、非常事態モードでは、なにもかもが仮設の作りものです。目の前の役割が終わったら撤去されてしまいます。
そのため、自分のスキルや成果などが積み上がる感覚がありません。いつも結局、どこかそわそわと落ち着かない。

 

 

アメリカの映画などで、ベトナム戦争などから帰ってきた人を描いたものがありますが、平和な社会を生きている人と、非常事態モードが抜けない自分との間に戸惑うというものがあります。

トラウマを負った人、というのは、同じような感じで、
普通の人とテンションが合わず戸惑います。

 

 

「トラウマを解消する」というと嫌な記憶を取り除く、といった意味にとらえる方が多いのですが、本当の意味での「トラウマを解消する」とは、非常事態モードを平時モードに戻す、ということになります。

 

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

ブリーフセラピー・カウンセリング・センター公式ホームページ

お悩みの原因や解決方法について

 

iメッセージを使って「自他の別」を知る。

 

 自他の別を体感する方法の一つとして、「iメッセージ」というものがあります。

「iメッセージ」とは、簡単に言えばすべてを「私」を主語にしてみる、ということです。

 

 私たちはついつい、相手の視点から語ったり、物語の作者のように神の視点に立ってしまったり、してしまいがちです。
 想像力という人間が持つ機能ですが、それが「自他の別」をわからなくさせ、苦しめたりもします。

 

 本来自分にできること、範囲は「私」しかありません。

 

 例えば、職場で嫌な人がいたら、
「あの人は、~~だから、~~すべき」といったような考えや文句が浮かんできます。

 

 「あの人は~」の文章は、相手の視点や、あるいはニセの神様の視点に立っています。
私が思っていることと、相手の在り方についての話とがごっちゃになっていて自他の別を越えています。

 相手の問題と自分の問題が混合されてしまっています。

 

 そして、自他の別を越えていることを正統化するために、無理やり「すべき」という論拠を持ち出さなければならなくなって道義的にも苦しくなります。

 

一方、「iメッセージ」になると

「私は、あの人の~~が嫌です。」
「~~してほしいと、私が思っています。(でもそれは、相手の領分です。)」
という風になります。
 最初の文は、完全に自分だけで完結することができます。
2番目の文は、も自分の要望で思うのは勝手です。ただ、実行してくれるかどうかは、相手次第になります。

 

 「iメッセージ」で始めると、驚くほど自分がかかわれる範囲は限定され、狭いことが分かります。

 

 いわゆる成熟すると、自然と「iメッセージ」となっていきます。
相手にもいろいろな事情があるということを知りますし、
自他の別を越えて結局何もよいことがないことを学んでいきます。

 

 

 いじめの研究などで指摘されますが、
クラスのメンバーが固定されて閉鎖的な小学校、中学校などでは、「ローカルルール」が支配しやすくなります。
「あの人は、~~だから、~~すべき」といった考えになりやすく、いじめの温床となります。

(参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 

 一方、大学などになると、よほど公共のマナーを違反するような行為でなければ、他者に対しても関心を向けず、「私」が主語(「iメッセージ」)になりやすい。

 

 大学の大講義室で、特定のメンバーに目をつけて「あの人は、~~だから、~~すべき」などと思っていたら、かなり妄想的といえるでしょう。

 

 しかし、状況が閉鎖的になると、職場、家庭、街中でもこうした妄想的なことをしてしまいます。

 

 「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」ではありませんが、マネー違反は公共(カエサル=皇帝≒公共)に任せて、神(相手のこと)は相手の領分です。

 

 ニセ神様のようになって、相手の領域を侵犯して、相手を裁くことを正当化する行為はかなり異常だということが分かります。

 

 私たちは弱く、すこしのきっかけで解離してしまって、そうしたことに陥りやすい。

とくに、「あの人は~」で考え始めると、頭がグルグル回って止まらなくなります。

 

 そのため、「iメッセージ」で考える癖をつけることはとても役に立ちます。

 

 

→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

ブリーフセラピー・カウンセリング・センター公式ホームページ

お悩みの原因や解決方法について

トラウマ(愛着不安)を負うと、自他の別を越えさせられちゃう

 

 前回、自他の別を越えてハラスメントを受ける、といった内容を書かせていただきました。

 

 逆に、自分自身が自他の別を越えて、相手を侵犯してしまう、させられてしまう、ということもよく起こります。
「余計なお世話」というものです。

 

 そうしたときは解離させられていることが多く、「相手はわからず屋で道理は通らない」「自分が何とかしなければ」と思い込まされています。

 

 そして、自他の別を侵犯していることを正当化するために、ムリな理屈や自分の価値観を絶対化する(モラハラ)ようなことをしてしまいます。

 

 すると、相手は反発したり、逆に依存してきたりします。

反発されると怖くなって相手をこき下ろし、依存されると、何とかしなきゃ、と頑張って、泥沼になってしまいます。

 

 

 例えば、子どもが宿題をしない、しつけを守らないのは、
どこまでいっても「子どもの問題(領域)」です。

 大人にできることは「こっちのほうがいいよ」と教えてあげたり、手本を見せる、といったところまで、ですが、あたかも自分の問題であるかのようにイライラしてしまうことがあります。

 それは自他の別を越えて、子どもの領域まで侵犯している、ということになります。

 

 結果、ますます子どもは宿題をしなくなります。
なぜなら、介入してきた親が宿題は自分の問題、と手を挙げて宣言しているからです。また、子どもは道理が通らないおかしな人間だ、という勝手な前提も持ち込んでもいます。

 

 人間は無意識に責任の在処を察知していますから、ダチョウ倶楽部のコントではありませんが、手を挙げた人に、「どうぞ、どうぞ」と責任がやってきます。ここでは、手を挙げた親が宿題の責任を負うことになります。

 

 育てにくいお子さんがいることは事実ですから、子育ては簡単ではありません。
ただ、周囲ができることは、環境を整備したり、構造化したり、といったことまでで、実際に行動するのは、どこまでいてもそのお子さん本人になります。
これも、「自他の別」です。

 

 

 介入する親の側も、自分の親から同じような対応を受けてきて、道理の通らない、理不尽な世界で生きてきた方が多いようです。(イライラする親の頭には、子どもの責任を自分のせいにしてくる自分の親の理不尽な声が聞こえているのかもしれません)

 

 理不尽で、道理のない世界で生きてこられていますから、
世の中は道理が通って当たり前だという信頼感や自他の別を分けている状態に対する安心感がありません。

 

 

 

 

 

 また、自他の別を侵犯することが当たり前の環境で育っていますから、自他の別がある状態がどこか冷たいように感じてしまったり、素っ気ないように感じてしまったりします。
壁を越えることが愛情、世話であるような錯覚をさせられています。

 

 一番わかりやすいのは、生後半年~1歳半までの親子のコミュニケーションで、ここでお母さん(お父さん)が忙しかったり、不安定だったりして、十分に抱きしめられていないと、境界を越えて愛情を得ようとしたり、逆に求めなくなったり、両価的で不安定になったり、ということが起こるのです。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 

 大人になってもそのスタイルは続き、
自分が相手に領域まで入っていって、何とかしなければいけない(自己愛性パーソナリティ)、逆に正面から要求できず相手が介入してきてくれるのを待つ(依存性パーソナリティ、回避性パーソナリティ)、ということがコミュニケーションの基本となってしまいます。

 関わるところと関わらないところ、自分と他人の領域の区別もつかなくなります。

 

 そして、無理やり「ローカルルール(理不尽な前提)」を作り出して、自分の行動を正当化しようとします。
(壁を越えることは愛ではありません。)

そして、それが周囲に連鎖していきます。

 

 

 恋愛関係では、「自他の別」がよりごちゃごちゃになります。

 「俺ならあいつをなんとかできる」として、自他の別を越えて介入してしまいます。
介入することが恋愛であるという、快感(錯覚)も手伝います。

 相手が問題を抱えていると、
泥沼の中でボロボロになって抜け出せなくなってしまいます。

 

 

 ゲシュタルト療法のフリッツパールズが書いた有名な言葉に、ゲシュタルトの祈り、というのものがあります。

 

 

私は私のために生き、あなたはあなたのために生きる
私はあなたの期待にこたえて行動するためにこの世にあるのではない。
そしてあなたも私の期待にこたえて行動するためにこの世にあるのではない。
もしも縁があって、私たちがお互いに出会えるなら、それはすばらしいこと。
出会えなければ、それはしかたのないこと。

 

 

 パールズ自体はエキセントリックな人だったそうなのですが、この文句は、人間関係の本質が書かれているように思います。

 

 人間同士は、本来もっともっと距離があって、自分の領域を大きく後退させて狭めて、必要な時、余裕のある分で関わり合うものです。

 

 敬意というのは距離をとることであり、その上で相手に関心を持つことです。
家族でも(家族ほど)、自他の別をしっかりととれる環境をお互いに作ってあげることが、本当の安全基地のあり方なのかもしれません。

 

 なぜ、動物や自然がカウンセラー以上の癒しを与えてくれるかといえば、無用な関わりをしてこないからです。

 

 こうしたことが、現代の自己愛型社会では見えなくなっていたり、コミュニケーションや愛の名のもとに領土侵犯が当たり前になっています。

 愛着不安やトラウマを負っていると、そのことが顕著に現れます。

 

 

→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

ブリーフセラピー・カウンセリング・センター公式ホームページ

お悩みの原因や解決方法について