自他の壁を越える「筋合いはない」

 

 筆者が昔、会社員をしていたころ。
職場はパワハラ、モラハラが横行してひどい環境にありました。

 モラハラとは、ゴールポスト(モラル)を勝手に動かして、支配することですが、上司の「マイルール」で理不尽に詰められる、という状況でした。

(参考)→「あなたの苦しみはモラハラのせいかも?<ハラスメント>とは何か

 

 当時は、筆者は原因不明の自信のなさに苦しめられていたので、「マイルール」のほうが正しいのかも、としてそこに従わされていました。ただ、身体は違和感を感じていました。

 

 ある時に、出張中に上司と二人でいたときに、
なぜか上司の機嫌が悪く、ファミレスでひどい叱責を浴びせられていました。

腑に落ちませんが、会社員ですから、あからさまに反抗することもできませんので、ずーっと聞いていました。

 

 ただ、その中で、
上司が「お前の育ちが悪いんじゃないか」「親の育て方が・・」みたいな話をしたときに、

 

自然と、筆者の口から

「そんなことを言われる筋合いはありません」

という言葉が静かに出てきたのです。

 

 

 上司は怒りながらもハッとしたのか、
そのあと叱責は沈静化していき、しばらくして、二人でその店を後にしました。

言葉が自然と出てきたこともあって、これはとても印象深い経験でした。

 

 おそらく、
会社では「行為・行動」について怒ったり、指導はできますが、「人格」やプライベートな部分に口を出すのは、自他の別を越えたことで、そこを越えていることを静かに一言で言われたことで、上司がハッとなったのではないかと思います。

 

 人間というのは、家族といえども、「自他の別」「壁」があるのが当然で、その壁を侵犯することは誰にもできません。

 

 例えば、「しつけ」というのも、かつては、家庭が行うものではなく、仕事の中でするものでした。

(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 

 

 例えば、農作業の道具を泥が付いたままにしておくと、錆びて大変なことになるからととても怒られて、そうしないようにしつけられたそうです。

これも、「行為・行動」についてのものです。これが普通のことでした。

 

 いつの間にか、「人格」にかかわるところとか、内面に隠すプライベートな部分にまで侵犯して良い、と勘違いされるようになったのが、現代の親子や職場ではないかと思います。

 それは、あくまで閉鎖的な共同体の中の歪んだ「ローカルルール」にすぎず、「常識」からするとおかしな行為です。

 

 仕事でもそうで、立ち入れる部分は「行為・行動」までです。もちろん、仕事では「心構え」というものも大切で、そこへの指導、監督は必要です。ただ、その時に関係するのは「職業的人格」であって、「全人格」ではありません。

そこを区分けする必要があります。

 

 IPS細胞の山中教授が述べていましたが、親友の故・平尾 誠二さんから教えてもらったリーダー論の中で、「人を叱るときは、プレーは叱っても人格は責めない」というものがあるそうです。これも「自他の別」を分ける「常識」で、その矩(のり)を越えても人は動かない、ということのようです。

 

 

 いじめの研究でも指摘されていますが、
ローカルな中間集団共同体になると、「常識」はゆがめられ「ローカルルール」が支配し、ローカルルールに従わないおかしな人間に対しては「自他の別」「壁」を越えて相手をコントロールしても良い、として、人格に立ち入るようなことがまかり通るようになります。

 

 それが「いじめ」という現象ですが、ローカルルールに支配されていると、教師でさえも「いじめられていた子も悪い」といったおかしなことを言うようにもなるから恐ろしいものです。

中間集団共同体とは、学校や会社、家族、恋愛関係も含まれます。

(参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 

 

 「ローカルルール」の洗脳に対して、愛着がしっかりしていれば、愛着を通じて「常識」とつながり、「壁」「自他の別」がその侵犯を阻んでくれます。

 「そんなこと言われる筋合いはないよ」として、侵犯を受け付けなくなります。
 ※「筋合い」とは、「物事の道理」のことです。

 

 その瞬間、冒頭の筆者の体験のように、相手も「常識」の光が差し込み我に返ります。自分が自他の別を越えていることに気づいてハッとするようになります。

 

 クレーム対応もまさにそうです。

 クレームを伝えてくる側は、自己愛が傷ついている場合が多いので、「自分と同じように、痛みを感じろ!」と自他の別を越えて、応対者に求めてきます。

 その時のトラブルについてだけではなく、自分が生まれてきたから負ってきた過去の理不尽さの保障までも求めてきます。まさに、ローカルルールで支配しようとしてくるわけです。

 

 その際に動揺して、「自他の別」を崩して(こちらの責任でどんなことでもします。だから怒らないで、と)応対してしまうと、相手の怒りはさらにヒートアップして、収拾がつかなくなってしまいます。

 

 クレーム対応のマニュアルや専門家などが口をそろえて言うのは、「事実を明らかにして、非があれば認めてしっかり謝罪する。
 一方、責任のないこと、できないことには応じない」ということです。つまり、「自他の別」を明確にすること。

 

 人間は全能ではないので、できないことはたくさんあります。特に、サービスやモノというのは、思っている以上にそれが及ぶ範囲は小さいものです。

 

 そして、「怒り」というのは、あくまでその方の問題や「行為・行動」が対象であって、応対者の「人格」とは何の関係もありません。ただ、相手はそこに響かせるように責めてきますから、トレーニングを受けていないと、すごく動揺してしまいます。

 

 特に、トラウマを負った人は、どこまでも誠実に相手に尽くさなければいけない、として、「自他の別」を取り払って、傷ついてダウンしてしまいます。

 

 応対がうまい人は「自他の区別」がしっかりできていて、
事実を明らかにして、責任の分解点を明確にしていきます。

 

 飛行機の中で怒り出すおじさんをよく目にしますが、キャビンアテンダントは動じずに、丁寧に答えます。
丁寧ですが、相手との間に鉄のような「壁」がびしっとあります。

 

 ホテルマンもそうで、相手との間には「壁」がびしっとあります。

 

 「壁」があるから冷たい、というとそうではなく、実は「自他の区別」があって、「壁」があったほうがホスピタリティがあって、クレームを伝えている相手も気持ちが良いもので、スーッと怒りが引いて冷静になっていきます。

 

 なぜかといえば、クレームを起こす(自己愛が傷ついた)人の親は「自他の別」を侵犯してくる「壁」がない人たちが多いからです。だから、ちゃんと「自他の別」「壁」がある人間から成熟した関係を提供されると、常識の世界に戻り、安心するのです。

 

 トラウマのせいか、なぜか自信のない、ということでお悩みの方は、この「自他の別」が明確になっていないことは多いです。

 

 自分の人格という領域に、「お前はおかしい人間だ」と、誰かに突っ込みを入れられる、そんな恐怖を感じていたりします。

でも、本来、親であろうが誰であろうが、誰にもそんなことをする「筋合いはありません」。

 

 ポップ心理学、自己啓発などでは、自他の壁を取り払いましょう、といった流れになりがちですが、それは人間の本来の在り方、発達の流れに反しています。

 

 むしろ、自他の区別をもっともっとはっきり意識して分けていく。常識から見て、「筋合い」「矩(のり)」とはどこに流れているのか、を知る。そうして、自分はだれにも侵されないと気が付くと、人間関係は大きく変わっていきます。

 

 

 これもあまり誰も教えてくれない暗黙のルールの一つかもしれません。

 

 

→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

 

 

カエサルのものはカエサルに

 

 「自分」というのものの範囲は、必ずしも明確ではありません。

 

 たいていの場合は、
自分の範囲は大きくなりすぎていることが多く、
悩みを持つ人はそれが顕著です。

 

 通常は、成長の中で自分の範囲は適正なサイズへと収斂していき、そのうえで、世界との「関係性」を身体でつかんでいきます。

ただ、愛着が不安定だと、自己が大きくなったまま、あるいは不安定なままになってしまいます。

 

 大きすぎる人のことを「自己愛性パーソナリティ」といい、
極度に不安定な人のことを「境界性パーソナリティ」といったりします。
自他の関係性を間違ってとらえる人を「猜疑性パーソナリティ」「関係念慮」ということになります。

(参考)→「パーソナリティ障害の特徴とチェック、治療と接し方の7つのポイント

 

 

 トラウマを負っても、自分の範囲はあいまいになりがちです。

 自分のものではないものを、自分のものとしてしまったり、自分の中の一部を他人に明け渡していたり。

 

 例えば、他人にイライラする、というのも、「自分と他人の区別」の問題で、自己が膨らみ、他人も自分の一部となっていたりします。自分と他人とに区別があれば、イライラはしないものです。

 

 自分の一部が言うことを聞かないからイライラする。
他人の行動も自分の責任だと思ってしまっている。
家族など他人の世話を過剰にさせられたり、ということも起こります。

 

 

 逆に、自分の中の一部を他人に明け渡している状態、
つまり、自分の親など他人の考えを自分の中に取り込んでいて、それに支配されていたり、ということもよくあることです。

 

 年齢だけが大人になっているだけで、実は精神的には自立できていない。自立する力がない、と思わされていたり、自立しようとすると罪悪感を感じてしまう。

 

 その時に頭で当たり前と思っている「常識」は、ゆがめられた「ローカルルール」だったりします。

 

 

 例えば、トラウマを負った人は、「親の面倒はどこまでも見ないといけない」とおもっていますが、普通の人たちはむしろ、反抗期を経て自立していますから、親子関係はもっとさっぱりしていたりするものです。

(参考)→「「無限」は要注意!~無限の恩や、愛、義務などは存在しない。

 

 

 自立とは、自他に「壁」を明確にしていくプロセスでもあります。

 壁をもとに、自分の責任や仕事とそうではないものとを分けていく。
自分の責任ではないものにはかかわらない。

 

 

 「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」とは、新約聖書の言葉です。

 

 カエサルとは、皇帝のことです。
世俗の責任と、宗教上の責任について述べたキリストの言葉ですが、「自他の区別」をつける際にも、心にとめておきたい言葉です。

 

 例えば、他人の価値観と、自分の価値観は違う。
他人の仕事と、自分の仕事も違う。
他人の問題(悩み)と、自分の問題(悩み)も異なります。

 

 言い換えると、
「私のものは私に、他人のものは他人に」ということになるでしょうか。

 

 健全な養育環境であれば、自然とその区別もついてきますが、不適切な養育、過干渉であったり、ストレスが高い環境だと、その区別はあいまいになります。

 

 例えば、子どもの目の前で夫婦げんかをする、といったこと。夫婦の問題は、子どもにとっては関係ありません。
でも、目の前で行い、子どもが巻き込まれると、子どももそれを自分の問題として解決しようとします。

 

 あるいは、情緒が不安定なお母さん、お父さんについても同様で、態度に一貫性がないために、子どもは自分が影響しているのかどうか非常に混乱して、「自他の区別」もよくわからなくなります。

 

 養育環境ばかりが原因とは限りません。
体質、気質の影響も大きく、もともと「ストレス応答系」の失調がある場合は、外部からのストレスを中和するコルチゾールの壁が機能しづらいために自分と他者との区別はつきにくくなると考えられます。

 

 現代は自己愛型社会ですから、誰もが「壁」については自覚的に取り組む必要があるかもしれません。

 

 外見は年齢を取っていても、自己愛の欠けが問題になって、歳をとっても、自分の考えを押し付けようとしたり、他人にイライラさせられたりと、子どものような振る舞いをしてしまう人は珍しくないからです。

 

 そこを越えるためには、迂回したニセ成熟やスピリチュアルな理想主義などではなく、本来の「成熟」のルートに復帰する必要があります。
そちらのほうが、結局は解決は早いし、本当にたどり着きたいところにたどり着くことができるからです。

 

 トラウマを解消して、「ストレス応答系」が回復(安定)してきて、精神的に成熟してくると、自然と「壁」ができて、自他の区別もついてきます。

 

 

 

→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

 

ローカルな表ルールしか教えてもらえず、自己啓発、スピリチュアルで迂回する

 

 トラウマを負った方に多いのですが、やはり、養育環境が機能不全家庭であったことが多いため、機能不全家庭のローカルな表ルールしか教えてもらえずに育ってしまう、ということがあります。

 

 表ルールとは、「こうるすべき」「こうすることが正しい」という一面的で硬直的なルールを言います。 二階建ての説明でいえば、「二階の部分」のことです。

(参考)→「世の中は”二階建て”になっている。

 

 

 

 しかも、そのルールは、その家庭だけで通用するローカルルールですから、一面では正しい、けど、それでは世の中では窮屈、といったことが多いのです。
身に着ける規範とは本来、立体的で、柔軟で、更新可能で、諧謔的(ユーモア)であることが必要です。

 

 よくあるのは、
「ミスをしてはいけない」「口応えしてはいけない」といったようなこと。
「勉強で頑張らなければ、価値がない」といったようなこともそうです。

 

 さらに、トラウマを負うと、同年代よりも大人びていますから、機能が偏った親を補完するように、先回りして自らニセ成熟で得たルール(自分ルール)も身に着けます。

 

 「感情を殺して、場を盛り上げたり/コントロールしようとする」こともそうです。
それらは、表のルールですが、実は、そうして生きていると、裏のルール(≒一階部分)というものが、ごっそりと抜けてしまって生きていくことになります。

 

 すると、思春期を越えたあたりから、裏ルール(≒一階部分)が分からないことが強烈なハンディキャップとなって、襲ってくるのです。

 

 しかも、勉強しようにも、裏ルールはどこにも書かれていないし、誰も言葉でも教えてくれない。

 言葉でいうと、どうしても表のルールっぽくなるからです。野暮なこととして言葉にはしてくれません。

 

 しかたがなく、トラウマを負った人は、まじめなので、本で勉強しようとします。
そこでひっかかるのは、いわゆる「自己啓発本」です。

 

 「自己啓発本」は、「二階部分≒表のルール」と「自己責任(生きづらいのはあなたのせいだ)」のブレンドでできていますから、初めはいいのですが、やればやるほど、つらくなる。

 

 でも、麻薬のように、つらくなると読みたくなって、一瞬癒されて、でも、「自己責任(生きづらいのはあなたのせいだ)」という苦みが襲ってきて、またつらくなる、ということを繰り返してしまいます。
(ヒーラーや、講師に相談するようなこともこれには含まれるかもしれません。実は、ヒーリングというのは、反近代のように見えて、西洋の近代個人主義の流れの中でできてきているので、自己責任といったニュアンスも含んでいて、うまくいかなくなると、「あなたのせいだ」として責められるようになります。)

 

 

 裏ルール(≒一階部分)は、本来は、正常な成熟ルートで、社会の先輩たちや同輩たちにもまれながら非言語に身に着けていくものですから、機能不全家庭で育つと、それが全く身につかないまま育っていってしまうのです。

 

 それを補うために、登場するのが、迂回ルートとしてのポップ心理学(自己啓発)やスピリチュアルや、ファンタジーや自分ルールになるのです。

 

 例えば、引き寄せの法則ということなどもその一つです。
裏ルールを理解できないでうまくいない、でもなぜかわからない人がその現象を理解しようとするときに、トラウマを負っていない安定型愛着の方であれば、裏ルールを動員して、世の中のしくみをとらえて、うまく乗り切って成功していきます。

 

 しかし、トラウマを負った人は、「私に運がなく、引き寄せられていないからなんだ」と迂回して解釈して納得してしまうのです。
でも、それは世の中をありのままにとらえたものではありませんから、当然ながらうまくいきません。

 

 ※先輩のカウンセラーの中に、はじめてクライアントに会うときに、手首に水晶のブレスレットをしていないかチェックしている人がいました。おそらく、迂回ルートで世の中を解釈している人≒トラウマを負っている可能性があるかも、ということを見るためだったのかもしれません。自己啓発やスピリチュアルを通じて世の中を迂回して解釈しても、自己実現、成功にはつながりません。

 

 
 筆者も、トラウマに苦しんでいるときは認めたくなかったのですが、世の中を渡るためには裏ルール(≒一階部分)を知る必要はどうしてもあって、それが分からないと失敗し続けてしまうようです。
(裏ルールというのは、ベタに言えば、大人のルール、大人の世界、といった、子供の時は嫌悪していたような処世術のことです。)

 

 

そのうち、自己啓発やスピリチュアルにも嫌気がさしてきます。
自己啓発やスピリチュアルに嫌気がさすのは、良い兆候で、嫌気がさしたら、トラウマから抜け出し始めている証拠でもあります。逆に「今まではやり方が悪かったんだ」としてセミナーや本にまた興味を持ち始めているうちは、まだまだ五里霧中、ということになります。)

 

 
(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

 

”人格”、”性格”というものも実は存在しない

 

 それぞれの人間には、人格や性格というものがあると考えられています。

人格や性格が無ければ、のっぺらぼうな白紙の人間になってしまいます。普段の生活でも、「あの人は~~だ」と性格を話題にすることがあります。

 

 しかし、実は、人格や性格というものの正体はよくわかっていません。脳の中のどこに人格や性格があるのかも未解明です。

 

 私たちが普段使う意味での”性格”、”人格”というものは、専門的な心理学では出てきません。シチュエーションが限定された「態度」などということでは扱われます。

「私ってこんな性格」といいますが、性格というものは固定されているわけではありません。接する人や環境に応じて性格は変化していくものです。
(「モード性格論」として社会心理学者が本を書いています。)

 

 

 例えば、「おとなしい性格」という人がいても、別の場面や接する人の前では、「積極的な性格」だったりします。

よくTV番組で、芸能人のルーツをたどる、という番組がありますが、その中で、親についてのエピソードを聞くと、意外な一面を見ることが珍しくありません。

つまり、家族であっても、その人のすべての面を知ることはできず。ある一面を見て、「この人はこういう性格だ」と思い込んでいるだけだということです。

 

 職場では仕事ができない、と評価される人が、趣味の釣りやプラモデル制作、スポーツ、手芸などで驚くべき腕前やしっかりとした見識を持つ人がいて「すごいなあ」と驚くことがあります。

 ある会社で評価の低い課長がいましたが、その人は実は投資に熱心で、一生困らないだけの資産体制を築いていた、ということがあります。
まじめに働いていて評価の高い人と、どちらが「稼げる/できる人」かわかりません。

 

状況によって驚くほど人は変わるのです。

 

 ただ、本人も「自分の性格はこうだ」と思いこまされていることがあります。
それが暗示です。別の言葉でいえば、家族といったしがらみの強い人たちの評価の内面化です。

 

 「お前はどこに行っても通用しない」といったことは最たるもので、まさに呪いの言葉です。この言葉によって、呪縛されて、どこに行ってもダメな人間であるかのように錯覚されてしまうのです。

 ピグマリオン効果などもまさにそのことを示しています。ピグマリオン効果とは、同じレベルの2クラスの生徒たちに対して、教師が「こちらのクラスは優秀」「こちらは劣等生」と聞かされて接すると、本当にそうなってしまう、というものです。

 

 いじめについての専門研究でも、前提としていじめられやすい人というのは実はいません。「誰でも、たまたま標的になりえる」ということです。ローカルルールの中で善悪が付けられて標的になってしまえば、自信を無くしてしまい、本当に周りが決めつけるような人間になってしまいます。
「やっぱり、あのタイプはいじめられても仕方がない」となるのです。

 

 人格というのも、実は周囲からの影響を内面化した束であり、そのあらわれ方も環境に依存しているものです。

 そのために、自他の区別はつきにくく、狂わされやすいのです。自他の境目の明確ではなく、その自覚もないために、自分が何を欲しているのかさえ分からなくなってしまうのです。

 

 

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