歴史学の世界では、「史料(資料)批判」という言葉があります。
歴史の史料も、それが本当なのか、適切なものなのかを吟味する、取捨選択することを言います。
歴史学以外の学問でも同様で、研究で得た素材をそのまま無批判に受けるということはありません。その史料がどういった性質のものか?誰がなんのために残したものなのか、その意図や、内容が虚偽ではないか、を確認していきます。
史料として集めても、極端に言えば、9割以上は使えずに捨てるという結果になります。
理系での実験データなどでも同様に、その内容は徹底的に吟味されます。統計でいろいろと数字を出してみても大半は意味のあるものではなく、試行錯誤して、ようやく意味のあるデータを拾い出す、という感じです。
このように、得られた史料、データや素材をそのまま用いることはなく、厳しくチェックした上でエビデンス(証拠)として採用されていきます。虚偽が混じっていたり、解釈のできないデータが入っていたりして、論文などはかけませんし、ちゃんとチェックをしなければ信用を失ってしまいます。
「目利き」という言葉があります。
例えば、宝石商の人が宝石の価値を鑑定したり、偽物かどうかを見極めたりします。
最近は中古品買い取りが一大ビジネスになっていますが、ブランド物のバッグもマニュアルを作ったり、訓練を受けた係員が値打ちを判断し、買取額を判定します。
鑑定せずすべてをホンモノだとして買い取ったりしたら会社は大損をしてしまいますし、顧客の信用を失ってしまいます。
世の中は偽物も多く、まだ騙そうとする人もいます。そのため、それを選別したその判断をすることで秩序が保たれています。
そんな中、私達の日常に視点を戻してみると、あれ?と思うことがあります。
それは、「人の話をよく聞かなければならない」という考えが正しい、とされていることについてです。
トラウマを負っている人たちに顕著ですが、「人の話はよく聞かなければならない、受け止めなければならない」という考えを私たちの多くは持っています。
(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服」
特に、
「耳の痛い話ほど、受け止めなければならない」ということを私たちは独りよがりにならない戒めとして信じています。
しかし、これはかなりおかしな、そして危険な考えです。
例えば、私たちは、食べ物でも、毒のあるものは食べません。長い歴史の中で、人類は毒のあるものとそうではないものとを見分けてきました。キノコなどは猛毒のものもあります。間違って食べたら即死してしまいかねません。
腐っているものも食べません。お腹を下してしまいます。
だから親切に消費期限や賞味期限という情報が提供されています。
食べ物は選り分けるのが普通で、なんでもかんでも食べるなんてことはしていません。体に悪いものは食べない。そうしなければ健康的な生活をおくることができなくなります。
この世界で健康的に生活したり、事実を掴むためには、接する事物を吟味し、そして多くを捨てなくてはならないのです。まず受け入れることの前に、チェックし、捨てることが最初にあります。
そうした常識の中、
私たちは、なぜか、「人の話はすべて受け止めなければならない」という考えを信じています。
そして、過去に言われた家族や友人知人たちからの言葉を、あたかも神からの託宣のように受け止めて、その呪縛に苦しんでいます。
なぜ、このような考えが、正しいと受け止められて、広まってしまったのでしょうか?
臨床などでわかってきたことで、このブログでも度々ご紹介していますが、人間というのは容易に解離します。ちょっとした刺激で人格がスイッチする生き物です。
(参考)→「モジュール(人格)単位で悩みをとらえる重要性~ローカルルールは“モジュール(人格)”単位で感染、解離し問題を引き起こす。」
最近問題となっている、あおり運転をみればよくわかります。ちょっとした刺激で人格が変わります。並走車に割り込まれたり、相手がゆっくり走っていたりしただけで、不全感を刺激された人格が豹変して相手の車をあおり、暴力や、果ては殺人まで起こすということが起こります。
DVもそうです。仕事では優秀な社員とされている紳士的な人が、家では人格が変わり、暴力を振るう。そして、常識からはわけのわからない理屈をこねて、暴力を正当化します。
(参考)→「家庭内暴力、DV(ドメスティックバイオレンス)とは何か?本当の原因と対策」
いじめもそうで、かわいいはずの子どもたちが、同級生をいじめて、最悪は死に追いやる。
(参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因」
そこにもおかしな行為を正当化する勝手な理屈があります。
その勝手な理屈をローカルルールといいます。
(参考)→「ローカルルールとは何か?」
人間社会にはそこここにローカルルールというものが存在します。不全感から起きるネガティブな感情を正当化して、人を攻撃したり、支配したりすることです。
ローカルルールは人から人へと感染していきます。
特に私たちの中の人格に感染し、感染した人格は刺激を受けて前に出てきます。普段はまともなひとが、急におかしなことを言い出すのはそのためです。
また、立場が近い人ほど互いに嫉妬に巻き込まれることもわかっています。
嫉妬というものは厄介で、いくら理性で抑えようとしても抑えることは叶わず、嫉妬を刺激されると破壊的な人格に変身して、他者を惑わす言葉を吐いたり、攻撃したりします。
こうしたことから自由な人は誰ひとりいません。
どんな立派な人でも嫉妬は沸き起こります。
人間は、公的な環境では、本来の自分でいられますが、私的な環境におかれると解離しやすく、すぐにおかしくなってしまうのです(ローカルルール人格にスイッチするのです)。
(参考)→「「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる」
ローカルルール人格は、支配欲や不全感を発散させたいというネガティブな感情から、思わせぶりな発言をしたり、意味深なことをいったり、非難してみたり、そして、それを常識だとして騙ったり、様々なことをして、他者を惑わせています。
ローカルルール人格が発する言葉や理屈というのは、全く意味がありません。
なぜなら、実態は個人的な感情だからです。
以前の記事でも書きましたが、クレームについても9割はローカルルール人格が行っているニセのクレームです。あおり運転を行う人の文句と同じです。
(参考)→「世の中は、実はニセのクレームだらけ」
ローカルルールというのは、もっともらしい理屈を言ってみても、意味深な内容に見えても、中身は空っぽです。
ですから、切って捨てないといけない。真に受けてはいけない。
人間のコミュニケーションには相手を支配したり、呪縛したりして、拘束する側面もある。
(参考)→「あなたの苦しみはモラハラのせいかも?<ハラスメント>とは何か」
真に受けると、その方の本来の自分が蔑ろにされてしまうからです。
世の中ではローカルルール人格による巻き込むためのニセの本音が飛び交っています。それらは、まともに相手にするようなものではないのです。
そうした環境に生きている中、「人の話はよく聞かなければならない」という考えは果たして適切なのでしょうか?
当然ながら、全く正しいものではありません。
人の話には、そのまま受け止めるのはあまりにも不純物が多すぎる。
食べ物に置き換えてみれば、
「すべての食べ物はチェックせずにそのまま食べなければならない」といっているようなものです。毒や腐ったものにあたって死んでしまいます。
実際に、人の話をよく聞かなければ、と真面目に考えている私たちは、人の話を受け取って、頭が真っ白になったり、体が固まったり、相手の発言が気になってぐるぐる回ってどうしようもなくなったりしています。
人から言われた言葉を真に受けて、答えを探そうと私たちは何年もその事を考え続けてしまいます。
本当は意味などなかったのです。切って捨ててよかった。
これまでの心理療法では、話を受け取ったあとにいかに頭が真っ白になったり、ぐるぐる周りが起こらないか?ということに取り組んできましたが、よくよく考えれば、受け取る時点で、チェックして受け取らない必要があります。
毒を食べてからでは遅いのです。
そのためには、当たり前と信じてきた「人の話を受け取らなければならない」という考えを疑わなければなりません。
正しくは、
「人の話は聞いてはいけない(基本はすべて捨てて良い)」
もっといえば、
「よく吟味して、怪しいものはすべて捨てて、本当に大丈夫なものだけ、自然と伝わって来たものを吸収する」ということになります。
特にローカルルール人格が発する発言は、全く意味をなしません。
聞く価値はありません。
以前の記事のも書きましたように、いじめっ子の身勝手な論理に耳を傾けるようなもので、本来は、一刀両断に切って捨ててしまわなければならないのです。
間違って寄り添うと
「誤った共感」になってしまいます。
(参考)→「共感してはいけない?!」
意味深で、なにか意味があるのかも、とおもったり、人の話を聞かないと独りよがりな人間になってしまう、と考えてしまうとおかしな呪縛にかかってしまいます。
学問における、「優秀な研究者」とは、資料やデータを徹底して疑う人たちです。
「良い目利き」とは、疑い、ニセモノや価値の無いものを捨てていく人たちのことです。
同様に、「聞き上手」とは、人の話を真に受けない人のこと。人の話を聞かない人のことです。
世の中で、「ちゃんと私の話を聞いてくれる」とか、「共感してくれる」という人は、実は、「人の話を聞いていない」のです。
人の話を聞かないことで聞き上手になっている、というのは、ニセモノを見極め除いて、本物を受け取ってくれる、ということです。
トラウマを負っている人たちは、
「人の話をよく聞かなければならない」ということを強く信じている傾向にあります。
それは、養育環境の中で、理不尽にさらされていたから。
理不尽な家族や友人知人が、ローカルルールを強制する環境にいたために、「何を捨てるのか、何を捨てないのか」を混乱させられた環境で生きてきたから。
直接的に「あなたは人の話を聞いていない(もっと私の話をありがたく聞け)」といった叱責を浴びてきた人もいるでしょう。
あるいは、機能不全に陥った家族をなんとかしようとして、真面目に一生懸命、理不尽なものを全部を受け止めさせられてきたからです。
恣意的にゴールポストを動かされて作り出された事実を客観的なものだと信じさせられてきた人もいます。
トラウマとは、まさにローカルルールの毒気にあたった、中毒状態と言えるかもしれません。
(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服」
ここで書いてあることも、健康で、世慣れた人にとっては、実は常識といえるもので、「(人の話をいちいち真に受けて聞かないなんて)そんなの当たり前じゃない」ということだったりする(言葉には出さないけど実は常識という“裏ルール”)。
(参考)→「“裏ルール”が分からない」
でも、トラウマを負った人にとっては、わざわざ拭わなければならないくらいの枷となっていることでもある。
私たちが、日常生活において、特にプライベートな空間でかわされる言葉の9割(99%?)以上は、真に受けず捨てて良い。ローカルルールが飛び交う中で、まともにうけるには人の話はあまりにも危険だからです。
聞くべき話があるとしたら、お金を払って専門家からアドバイスを貰うか、信頼できる書籍の中からなどしかありません。つまり、ローカルルールが入る余地を排除した公的な状況でなければ人からは真に受けて良い情報は得られないのです。
それでは安心して日常会話ができなくなってしまう、と思うかもしれませんが、会話が持つ役割が違うということです。
日常におけるプライベートな会話とは、”戯れる(たわむれる)”ためにあるもので、真に受けるためにあるものではない、ということ。
“戯れ”として接することができれば、リラックスして会話を楽しむことができます。稀にローカルルール人格が前面に出て失礼な発言があった際には、ツッコミをいれて、公的な状況を作り出して相手を我に返す。
日常でおしゃべりを楽しんでいる安定型の人は実はこれができている。
仕事(や学校)は公的な場ですが、社風(校風)にもよりますが、残念ながら特に社内というのも、どちらかといえばローカルルールがはびこりやすい私的環境に当たります。嫉妬や不全感と言ったものが顔を出しハラスメントが横行することもあります。
真に受けられるのはどちらかといえば信用できるのは、お金のやり取りがある取引の場面での会話のみで、職場の会話も戯れとして聞く必要があるのでしょう。
東大教授が書いた「できる社員は「やり過ごす」」という本でいわれているのは、まさに人の話は戯れとして真に受けず大事な仕事を見極めて打ち込め、ということなのだと思います。
反対にトラウマを負った人は、人からの話はすべて客観的な事実であり、神からの託宣のように受け取って、意味などないそのない意味をずっと考え続けさせられています。
日常における人の言葉はまったく意味がない。戯れ※として楽しみ、流す。
すると、自然と本当に受け取るべき本質が見えてきます。
※「戯れ(たわむれ)」とは、「遊び興じること。ふざけること」ですが、「戯言」と書くと「ざれごと」と読み「たわけた言葉。ばかばかしい話」という意味になります。
(参考)→「ローカルルールとは何か?」
●よろしければ、こちらもご覧ください。
コメントを投稿するにはログインしてください。