「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

 

 昔、筆者が、ペーパードライバーの講習を受けて運転の練習をしていたときのことです。

ドライビングスクールの先生と少し雑談しながら、運転をしていました。

  筆者「そういえば、運転すると人が変わる人っていますよね?」

  先生「いますね。」

  筆者「なんででしょうね?あれは」

  先生「車内がプライベートな空間で、自分が解放されるみたいですよ」

  筆者「なるほどそうなんですね。確かに知り合いのおじさんも、車に乗ると、オラー!って人が変わっていました。」

 

 

 このように、
 どうやら、〝私的な空間”というのは(厳密にいえば公私の区別があいまいなところは)人をおかしくしてしまうようです。

 

 

 別の例では、DVを行う男性もこれに似ています。
  公的な空間にいると、紳士的なのですが、
  私的な空間になると、人が変わって、パートナーに暴力、暴言を浴びせてしまう。

(参考)→「家庭内暴力、DV(ドメスティックバイオレンス)とは何か?本当の原因と対策

 

 親が子供にイライラをぶつけたり、暴言を吐いたりするのも、実は同様です。
 
  特に核家族になって、他者からのまなざしがない閉じられた私的な空間の中で親が解離を起こして、人が変わってしまうことから、イライラ暴言は起きます。
 (自転車に乗っているときに後ろに乗っている子供に暴言を浴びせているお母さんがいたりするのも車に乗ったら人が変わる、ということと同じなのかもしれませんね。)

 

 

 

  機能不全家族、というのは、家庭の中に「公的な環境」が失われているために父親、母親といった公的な役割が果たされていない(公私の区別があいまいな)状態を指します。

  「公的な環境」の代わりに、父親、母親の個人的な価値観(ローカルルール)を絶対化して多様性が失われ、過度に厳格になったり、逆に一貫性がなかったり、無秩序になったりしてしまいます。

  ローカルルールというのは、公的な仮面をかぶった私的な価値観の強制です。

 

 
 いじめ、ハラスメント、というのも、まさに公私の区別があいまいな環境で起こる現象です。
 学校や会社などは、「うちはうち、外の常識は関係ない」として、おかしなルールがまかり通りがちです。

 そこでは、私的な情動がむき出しになって、まともな人たちもおかしくなってしまいます。
(先生も、いじめっ子の味方をして、いじめられた側が悪い、と平気で主張したりするようになります。)

 

 こうした環境には、よほど愛着が安定していなければ抵抗することはできません。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと
 

 

 

 
 前回も書きましたが、「愛着」とは、子どもの中の私的な情動を、親のかかわりの中で公的な表現へと昇華させる作業です。

 おなかがすいたら、「おなかがすいたの?」

 悲しい時には、「悲しいの?」

 と関わることで、子どもの一貫し、情動は安定していきます。

 

 反対に

  楽しい時に、怒られる。
 
  悲しい時に無視される。何もないのに、

  気をつかわなければならない。

 こうした一貫しないコミュニケーションのことをダブルバインドといい、人類学者のベイトソンなどは精神疾患の原因としてきました。

 

 統合失調症などの原因としては否定されていますが、ベイトソンの視点は慧眼で、一貫しないコミュニケーションは人をおかしくしてしまいます。

 一貫したコミュニケーションとは、予測可能性を与え、それが「安心安全」を生みます。反対に、一貫しない応対というのは、不安の温床となります。

 境界性パーソナリティ障害の背景にも、養育環境での一貫性のなさの影響、あるいは自身や養育者の発達障害傾向等の身体的失調による情動の不安定さがあるのはそのためです。

 

 

 

 「私的な情動」というのは、私たちにとってはエネルギーの元となるもので大切なものです。ただ、加工されていない生の資源はそのまま用いることはできないように加工される必要があります。不純物も混じっています。
 加工され、磨かれて「公的な表現」となって初めて、社会で通用するものになるのです。

 プライベートとは、私たちの内面のことです。特に大人の場合、同居者がいれば、家庭の中でも本当の意味でのプライベートはありません。公的な機能を果たすことが求められます。
 (もちろん、家ではくつろいだり、休養したり、気楽に過ごしたりすることは大いにしなければなりませんが、そこにもマナーが必要になります。)
 そこを勘違いしてしまって、親の機能を果たさずに生の私的情動を発散させ、自分の価値観を押し付け、ハラスメントや虐待となってしまいます。
 

 

 

 私たち人間は一貫し、安定した、公的な環境に照らされることで成長し、社会の中で位置と役割を得て、「社会人(市民)」として成熟することができます。
 自分の内面でさえ、内省を経て磨かれて初めて意味のあるものになります。瞑想や禅などはそうした役割があります。

 

 

 社会が混乱したり、あるいは当人の内的環境(健康状態)が不安定なるなどして、公私の区別があいまいになってしまうと、私的情動が適切に昇華されず、自己や他者に対する攻撃や支配となって向けられられるようになります。
 カルト集団内部とか、ナチズムが生まれた社会環境はまさにそうです。

 

 

 私たちは、公私の区別があいまいな環境ではおかしくなってしまう。

 

 ここに、私たちが「関係」を再構築するための大きなヒントがあります。

 

 

 「親しき中にも礼儀あり」とはよく言ったもので、私たちが、心地よい「関係」を築くためには、「公的な環境」をどう作るか?維持するか? 公私の区別をあいまいにしない、ということがとても大事だ、ということです。

 

 ハラスメントを受けやすい方、バカにされやすい方、というのは、対人関係において公私の区別があいまいになってしまっていると考えられます。

 それは、もともとの養育環境が公私の区別があいまいでローカルルールがはびこる中で、混乱した状況を生きてきたために起きます。
 親がそうだったために、対人関係であいまいな対応、私的な対応をしてしまうことが当たり前となっているのです。

 

 例えば、人間関係で大切とされるような「気をつかう」「へりくだる」「相手の内面に立ち入る」といったことは、公私の区別をあいまいにしてしまうもので、実は本来は安易に使ってはいけないものなのです。

 

 

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親の主務も、「安心安全(承認)」の提供だけでよい~「あれもこれも」は幻想

 近年はワークライフバランス、働き方改革、ということで、残業や働きすぎを見直そうという取り組みが広がっています。良い傾向ではないかと思います。

 しかし、一昔前は、現場の社員が創意工夫でサービスを作り出して、いろいろな仕事をこなすことを求め、「あれもこれも」という時代がありました。
 

 例えば、リッツカールトンホテルなどでは、ホテルマンが自分の裁量でお客様にサービスして感動させることが伝説となっています。忘れ物をわざわざ届けたり。誕生日を演出したり。そんな姿を理想として、一般の会社でも真似しようとしたり、といったことが流行りました。 
 
 筆者の知人は、大手の宅配便のドライバーをしていましたが、当時、ドライバーなのに名産品を宅配先で売る?ということをしていました。会社からノルマがあるとのことで。もしかしたら。これも現場の社員に、いろいろな役割をこなさせることがはやっていた例の一つかもしれません。

 結果、どうなったかというと、やることがあれもこれもと増え、残業しても追いつかず、現場は疲弊していきました。筆者も昔、そうした現場の中にいた一人です。営業から契約、入金管理、サービスの設計、プロジェクトの管理から何からをやらなければならず、見積もり一つ作るのでも徹夜でヘトヘト、といった具合です。

 

 試行錯誤して、日本の会社がようやく気付いてきたのは、「どうやら、人間は、あれもこれも、いくつもの役割をこなすことはできない」ということです。高学歴な人が集まる大企業でさえ同様です。コンサルタントといった優秀に見える層でも何でもできるわけではありません。専門化され、役割が絞られていないと、力は発揮できないものです。

 反対に、うまくいっている会社は「あれもこれも」ではなく、役割が絞られていて、会社全体でよい商品、サービスを作って、シンプルに提供する、ということに徹しているようです。

 

 今、サッカーのワールドカップが開催されています。最近は、ボリバレントといって複数のポジションができることが推奨されています。それでもせいぜい2つ程度まで。ロナウド(世界最高の選手)がキーパーをしても活躍できませんし、メッシ(これも世界最高の選手)がディフェンダーをしても活躍できません。スーパースターも案外不器用なのです。そして、優勝候補はチームの戦略が一貫しています。

 「あれもこれもできる」というのは幻想です。

 

 あれもこれもできているように見える人というのは、実は主の役割が明確で、そこで活躍出来ている、ということがあります。

 主務で力を発揮できているから、余裕が生まれて、その他のこともできるし、出来ているように見える。

 

 スポーツ選手でも、長所で活躍できるから、短所もカバーできたり、いろんな才能を発揮できたりする(出来ているように見えたりする)。

 

 

 親業もこれにあてはまるのではないかと思います。

 特に母親にはいろいろな役割が求められています。食事、洗濯、掃除、買い物のみならず、しつけ、教育、PTA、習い事の送迎、さらに外でのパート、親戚づきあい、近所付き合いなど。最近は宿題の採点も親の仕事だったりします。

 ここに子供が病弱だとか、さらにシングルマザーなどの条件が重なると本当に大変になります。

 イライラして途方に暮れるのも当然のことです。  
 

 上の会社の例と同様ですが、
 親に「あれもこれも」と複数の役割を求めるのは、そもそも限界があります。

 複数の役割がこなせているように見える場合は、なんらかしら周囲のサポートがあってぎりぎりに成り立っていることがほとんど。

 でも、厄介なのは、中学、高校のテストの時に、「勉強していない」と真顔でうそをつくクラスメイトが必ずいたように、人間はうまくいっていることは表に出し、自分が家事、育児ができていないことは、隠したりする傾向があること。

 

 また、周囲からの有形無形のサポートがあって親業は成り立っていることに気づかずに(子どもの育てやすさも生まれ持っての気質にもかなり左右されます)、自分の力だと勘違いして、そんな人が育児の指南書を書いたり、雑誌のインタビューを受けたりして・・・そんなものも幻想です。 本は売りやすいように内容が極端に装飾されますし、芸能人はイメージの商売ですからなおさらです。

 

 トラウマを負った人は真面目なので、そうしたことを真に受けて、「自分はいろいろなことをうまくこなせない」と自分を責めてしまったりします。

 

 私たち人間は、能力が高いそうに見える人でさえ、いくつもの役割をこなすなんて、そんなことはできないものです。

 親業における「あれもこれもできて当たり前」というのも、私たちを苦しめている幻想かもしれません。

 

 では、親業においては、主たる任務(機能)は何か?

 それは、「子供にとっての安全基地であること」。この1点。
 動物にとっての巣のように、社会に出る冒険から戻ってこれる場所であり、そこでは安心安全が約束され、生きるために必要な養育の機能と、社会に出るための基本的な教育や導きが提供されるところです。
 安心安全は主に母親、社会に出るための導きは主に父親から提供されます。

 

 「安心安全」とは、食事とか健康など物理的にももちろんですが、精神的には「存在の承認」という形で行われます。

 安心安全は、赤ちゃんのころ(生後半年から2歳ごろまで)は、しっかり抱っこしてスキンシップをとることで果たされます。その時期ではぐくまれる絆が「愛着」と呼ばれます。
(参考)→「「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 

 成長してからも、家の中が物理的にも、精神的にも安全で安心できる環境を提供することはとても大切です。さらに、言葉や態度で、「あなたは大丈夫」ということを折に触れて伝えることです。すると適度に距離が取れて、自立にもつながっていきます。
 過保護が良くないのは、「あなたは大丈夫じゃない(だから私が面倒を見る)」という前提があるから。

 

 家庭の中では、家の外の人がするような弱点を修正するようなアドバイスは二の次。

 私たちが家族にされて一番腹が立つのは、外でトラブルがあった時に、家族が味方をしてくれないことです。
「あなたにも悪いところがあったから、そんな目にあったんじゃないの?」とか、「ここを直せば」なんていうことが一番頭にくることです。
 大人になって私たちが痛切に願うのは、家族からの「あなたは大丈夫」というメッセージがほしい、ということです。

 

 もちろん、人間ですから、社会的スキルは学ばなければならないのですが、そのためにも家庭は揺るがない「安全基地」であることが必要。安全基地が揺らいでいては、安心して探索には出れない。
 

 学力で重要とされる非認知能力も「愛着」を土台としています。「安心安全」感が保たれていれば、そこを土台にスキル、経験ははぐくまれていきます。
(先日の記事で紹介した、ロジャーズの受容されることで人間は成長する、ということの根拠があるとしたらここにあると考えられます。)
(参考)→「「安心安全」と「関係」
 

 

 そして、主として父親が、社会への導きを行う。教育など必要な機会を提供したり、アドバイスをしたりする。
安全基地から出て、社会への探索行動の手引きを行うイメージです。

 しつけや教育はどうか?といえば、研究者が明らかにしていますが、実は、厳しいイメージのある戦前の家庭は家でしつけをしていなかった、しつけは、仕事を通じて行われていたようです
参考:広田照幸「日本人のしつけは衰退したか」)。
 

 どうやら、しつけや教育とは、親の本来的な役割ではないようです。どちらかというと戦前よりも「ゆとり」といわれる現代のほうが家のしつけはしっかりしている。

 「昔は厳しく、今はしつけが甘い」とは、先入観でしかないようです。よくTVなどで、厳しくしつけをしていることを誇る芸能人などもいますが、親が植え付ける超自我(規範)が強すぎることは、成長してから生きづらさ(呪縛)を生んだり大きく問題になります。

 

 実際、自閉症への療育でも、かつては厳しいしつけで成果を上げ注目されましたが、成長してから問題行動が頻発するようになり、今では厳しいしつけは行われなくなりました。定型発達においても同様のことは考えられます。 

 A・グリューンなどは、厳しいしつけのことをある種のハラスメント、「闇教育」と読んでいます。
(参考)→「あなたの苦しみはモラハラのせいかも?<ハラスメント>とは何か

 

 教育やしつけは大切ですが、親がすべてを行おうとすると「あれもこれも」となって、イライラしたりして、結局一番大事にな「安心安全(承認)」が脅かされることになりがちです。

 本来しつけや教育は家族以外の場で行われていましたし、教師や奉公先の主人が行うように家族以外の人のほうが適していることも多い(生みの親より育ての親)。戦前は家庭の外や仕事の現場で行われていた。

 一方で、家族以外の人が「安全基地」になれるか、といえばなかなか難しい。学校の先生やカウンセラーでも、親代わりにはなれないものです。

 

 そのため、親は主務(安全基地の提供)をしっかり行うことだけ意識して、教育、しつけは基本的に外の力を借りるつもりでいる(余力があれば家庭の中で行ってもよいですが、余裕がなくなりイライラして家が安全基地ではなくなるくらいならやらないほうがいい)。※もちろん、放任主義ということではまったくありません。

 

 現代の親は、「あれもこれも」と多機能を求められて、なかなかつらいものがあります。「あれもこれも」は誰もできません。それは難しいこと。

 

 主務は「安全基地の提供」だとして、優先順位を明確にできると、「あれもこれも」がなくなり、親としての負担感もヘリますし、子どもへのイライラも少なくなります。なにより、昨今、重要とされる非認知能力を高めることにもつながりますし、「愛着」理論その他、臨床の現場の感覚からしても、負担なく合理的なスタンスだと思います。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 

 

 実際、「安全基地の提供」だけを意識したクライアントさんは、子どもへのかかわりがすごく楽になった、とおっしゃいます。

 

 本来の親の役割は何か?ということをポイントを絞って意識すると、子育てはもっと楽になるかもしれません。

 

 

(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 

 

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「安心安全」と「関係」

 私たち人間が自分らしく生きいていくうえで必要なものとは何でしょうか?

 これまでの記事でも書きましたが、人間は有限で循環しながら、秩序を形成し、成熟していくのですが、
 現時点で分かっている知見からみると、 
 そのかなめは
 「安心安全」であり、次に「関係」なのだといえそうです。
  

 最も大切なのは「安心安全」です。それをいかに確保するか?ということ。

 近年再注目されている「愛着」がどうして大事かといえば、幼いころに、親との絆という形で「安心安全」の感覚をワンパッケージでインストールできる効果があるから。
 (参考)→「「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 

 

 母親(父親)に十分に抱きしめられた。適切に応答されてきた経験があることで、世界は秩序があって、安心安全なのだ、と感じることができます。親が、「安全基地」として機能するため、成長の過程での探索も抵抗なく行うことができるようになります。「関係」の形成も後押ししてくれます。

  前回の記事では批判的に紹介したロジャーズの来談者中心療法も、それがなぜ効果があるか?といえば、外では得られない「安心安全」を提供しているから、と考えられる。

 

 もし、いろいろな要因から安定した「愛着」が得られなくても、それが「安心安全」のことなのだ、ととらえれば、取り組みようがあります。

 逆に、「愛着」を“親子の絆”というように狭くとらえてしまうと、“絆”という何やらウェットな関係を取り戻そうと必死になって、親はそれに応えてくれずさらに傷つく、ということになりかねません。

 さらに、「愛着=絆」と考えると、解決のために何をしていいかわからなくなったり、複雑な行為を想像してしまいますが、「愛着=安心安全」と捉えれば、いろいろなアプローチが考えられます。
 

 

 

 安心安全を回復する方法について、いくつかの視点があります。土台となるのは、身体の内部の安定性を高めること。そのために、睡眠、食事、運動、といったことがある。

 どうして、睡眠や食事、運動が有効なのか?といえば、身体のレベルから「安心安全」を取り戻す効果があるから。以前も書きましたが、どんな暗示の言葉などを駆使しても、それはあくまで促進剤であり、体内の治癒力にはかなわない。医療、薬もあくまで治癒力を助けるためにある。

(参考)→「結局のところ、セラピー、カウンセリングもいいけど、睡眠、食事、運動、環境が“とても”大切

 

 

 マインドコントロールなどで悪用されますが、睡眠、食事、運動を制限されると内的安定性が急減し、とたんに人間の精神面での安定は下がります。逆に言えば、それらの質が高まると、精神面の安定は高まるということ。

 

 また、“身体”とは、私たちにとって一番手前にある“自然(世界)”です。
 身体が安定すると、私たちと“自然”としての身体との信頼が高まり、結果、世界に対する信頼も回復していきます。
 パニック障害は典型的ですが、身体への信頼が下がると、世界とのつながりが断絶し、「安心安全」感も急激に下がるのです

 「愛着障害(不安定型愛着)」が原因で悩みを抱えている方の問診を詳しくとると、睡眠、食事、運動に何らかの問題があることがほとんど。ある意味とても、努力家で、能力が高かったり、ということもあるので、自分はもっともっと頑張らなきゃ、と努める結果、「内的な安定」にとって大切な要素が犠牲になって、「安心安全」が不足して、という悪循環に陥っている。

 

 

 私たちは、回避や防衛といった意図しない問題行動をとってしまうのも、「安心安全」がないから。身に迫る危険からなんとか自信を守るために回避や防衛を起こしている。回避や防衛は脳に備わった安全装置ですが、放置しておくと社会生活を送る上ではなかなか厄介なことになりえます。

 認知行動療法などでは、「認知の歪み」が悩みの原因である、と考えますが、実は違います。認知は悩みの原因ではありません。「安心安全」がなく追い込まれた結果として、最後に認知は歪み、問題を起こすのです。
 原因ではなく結果であり、原因のように見えるのは二次的な問題を生み出す元になっているため、と考えられます。

 

 愛着の研究の知見などから考えると、「安心安全」の欠如こそが悩みの真因の一つと考えられます。 悩みの原因を、深層心理だとか、未知なる何か、に求めてしまうと、いかにアプローチをしたらよいかがわからなくなってしまいますが、「安心安全」を回復させればいいのだ、と考えればシンプルになります。

 

 

 例えば、安心安全には、「経済力」も重要。 俗に、「金持ち喧嘩せず」といわれるのは、経済力が安心安全を担保してくれたり、心理的な安定の元となっているため。
「金持ちブーム」というのも、お金があってうれしくない人は基本的にいませんが、生きづらさを抱える人が「安心安全」を求める本質が下地にあるのではないかと思います。

 ただ、すべてを「心理」に求めるのはおかしい。TVや新聞を見ていれば貧困などが問題となっているように、お金にまつわる生きづらさとは「社会的な問題」であることが基本。
 かつてであれば、自殺をしたら「景気が悪いせいかしら」など、と要因を社会に求めるのが普通であって、個人の心理のせいにするのはどこか変なのです。心理学ブームや新自由主義(自己責任の強調)の影響であると考えられます。
 マクロの経済からすれば、個人の努力なんて塵程度のものでしかありません。たとえば、急成長する会社があれば、それは経営者の力もあるけど、基本は時代のおかげ。人間は環境にはあらがえません。

 

 お金の問題を自分の責任とは思わず、社会の問題、政治の問題としてとらえることも大切。そうすると、これまで自責で苦しんでいたものがとたんに軽くなりますし、そのほうが実際に良い方向へと改善していきます。自分の意識の問題だ、なんて言っている状態の時のほうが物事はうまく回らなくなります。

 

 社会の要因から来ている生きづらさが個人に転嫁されることを社会学では「関係性の個人化」といいます。
(参考)→「あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服」 

 

 カウンセリングの役割というのは、「安心安全」が定着するサポートを行うことです。「安心安全」が確保されない要因はいくつもあります。
 生活習慣の乱れもそうですし、運動不足もそう、愛着が不安定で安心安全のパッケージがないこと、ハラスメントなど現在の環境の悪さ、家庭の問題、経済的な問題、など、そこを切り分けて、内的安定を高めて、呪縛で罪まみれになったクライアントさんの“冤罪”を明らかにしていく。「安心安全」を回復させていく。

 

 「安心安全」を確立するためには、最終的には「関係」が不可欠。
「関係」というのものには、社会的な呪縛も大きく、ここをいかにして乗り越えるかは、重要なテーマとなります。

 

 

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誰かに「自分に罪はなく、自分はおかしくない」と証明してほしい。

前回の記事ではアルコール依存症を例に書きましたが、
悩みを持つ方、トラウマを負った人は、どうしようもなく苦しい悪循環に陥らされてしまいます。

 

1.親や周囲から子どものころにおかしな暗示を入れられてしまう。
(あるいは生まれつきの気質で環境になじめず、普通のストレスもトラウマ(暗示)として記憶されてしまう。)
    ↓
2.その暗示をもとに問題行動を起こさせられてしまい、問題行動が暗示を証明しているように感じさせられる。暗示が強化される。
(「ほら?やっぱり、あなたはおかしな人間じゃないの」「何もできないじゃないの?」)
    ↓
3.さらに苦しみが倍加して、その苦しみを癒すために問題行動や、関係念慮、解離など様々な症状が生まれる。

    ↓
4.その問題行動が自分がおかしな人間であるという思いをさらに強くする。場合によっては、治療、支援してくれる人にも疑いの目を向けて、サポートが少なくなり、さらに苦境に立たされる。
    ↓
5.この悪循環(スパイラル)。

 

私たちは、日々、ストレスにされされます。人格にかかわるような批判にさらされることもあります。支持的な人が周りにいたり、「愛着」が安定していれば、都度、そのストレスをキャンセルして、暗示はブロックされます。
しかし、残念ながら、そうした支援がない場合、「自分はおかしな人間である」という意識はぬぐえなくなり、罪まみれになったような感覚になります。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 

 

悩みを持つ人、トラウマを負った人の願いは一つ
「誰か、この罪(暗示)を説いてくれ!」
そして、
「自分に罪はないことを、おかしな人間ではないことを証明してくれ!」
「自分はおかしな人間ではないんだよ!周りがおかしなだけなんだよ!身体、心が言うことをきかないんだ!わかってくれ!!」

ということです。

 

私たち人間は「二重の見当識」といって、どんなにおかしな症状に陥っても、自分を冷静に見る視点や直観を持っています。

私たちは、直観では、「自分はおかしくない」ということを知っています。でも、社会で行う自分の言動は問題ばかりで、それを現実に証明することができないでいるのです。

 

本当だったら、自分の親や家族が「お前は大丈夫だよ」と言ってくれればそれで解決するのに、親や家族に限って、それをしてくれません。
「お前は~~がダメだ」「そんなんじゃ、どこでも通用しない」と否定的な言葉を浴びせ続けます。

 

悩みを持つ人、トラウマを負った人は、自分の暗示を解くカギを自分の親が握っている、と思っています。だから、成人してもなお、親にこだわります。
親に訴えて、訴えて、「まともな親になってくれよ」「そして、私のことを「大丈夫だよ」と一言いってくれよ」と懇願します。

でも、親は応えてくれません。だから、暗示の呪縛はそのままです。

 

カウンセリングや心理療法は、「あなたは大丈夫だよ」「罪も何もなく、問題ないよ」と心から思えるために親の代わりに“代替のカギ”を作り出して、呪縛を解こうとします。

カウンセリング、心理療法の究極目標はここにあって、そう考えると私たちの行っていることは、とてもシンプルなものです。

ただ、実現のためにはいくつものハードルがあります。
(なかなか、その“代替のカギ”がうまく鍵穴に合わない!?)

 

誰かに自分が無罪でおかしくないと証明してほしい、ということを実現するために、その”カギ”を探して、悩みを負った私たちは、長く険しい旅を歩んでいます。

 

映画や文学などの冒険譚で、主人公が呪いを負っていて、その呪いを解くために旅をしている、といったストーリーを目(耳)にしますが、こうした私たち人間の姿を現しているようです。

 

 

→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

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