生きづらさ、悩みがなかなか良くならずに続く場合の要因としてあげられるのが、“正しさ”を守っている、ということがあります。
本人の中では、葛藤があって、おかしいと気づいているのですが、過去に他者から引き受けさせられた規範、常識というものを守らされている。
人間は、社会的な存在(ゾーオンポリティコン)と言われるように、社会的な規範とされるものを守ろうとします。私たちは「ルール」や「正しさ」にとても弱い。
さらに、クライアントさんの多くは誠実で理知的ですから、より強く「ルール」や「正しさ」を守ろうとする。
特に家庭の中で頭の良い子が、気が回る子が、能力の高い子が、家族の問題、親の言葉を背負い続けている、ということはよくあります。
もちろん、学校、職場、パートナーとの関係である場合もあります。
それらは、理不尽でしかないのですが、言葉の表面上は全く正しく見えるので、それに従い続けてしまっている。
家族はおかしい人間でしかないのですが、社会が「親、家族は大切にしなければならない」「人には優しくしなければ」というからそれに従い続けている。
あるいは、理不尽な人たちを反面教師にしている。
頭ではわかっているが、“正しさ”から離れることができない。
カウンセリングにサポートを求めた目的も「“正しさ”に従いながら、自分の苦しみを取り除きたい。悩みをなくしたい」というものであったりします。
しかし、これは矛盾でしかありません。なぜなら、その方の生きづらさは、“正しさ”に従い続けていることで生じているからです。
この“正しさ”に拘束され続けるというのは、簡単な問題ではありません。
理屈でわかっていても長く長く、しつこくしつこく続くのです。
特に、“正しさ”への従属が、自分のアイデンティティとなっている場合は特にです。
(アイデンティティとは、例えば、親から愛される、とか、人から認められる、といったようなことです。)
自分が属した共同体における評価軸があって、そのなかで散々な目に遭ってきた場合は、その評価軸はそのままに、「認められたい」「見返したい」となっている場合があります。
例えば、
・家族、親族での価値観。その中で「お前はよい子だな」と言われたい。
・学歴。学歴に関連して、「立派だ」と言われたい。
・キャリア。「できる人だ」「すごい」と言われたい。
(アカデミアの世界でのコンプレックスみたいなことに陥っている場合もあります。大学に就職したい、教授になりたいなど)
・パートナーとの関係。パートナーとの関係で、認められたい。
などなど
こうしたことはすべて幻想ですが、これらに従い続ける。
今の自分、これまでの自分はダメな自分だったが、自分は何とか改善して、成長して、認められたい、というような感覚です。
カウンセリング、トラウマケアがそのための手段として位置づけられている場合があります。
そうした際には、なかなかよくなりません。
なぜなら、評価軸、価値観自体が、ローカルルール、他人の呪縛でしかないからです。
その中で、自分を変えようと努力するなんてことは意味のないことです。
「でも、あんな社会から評価される一流企業自体がおかしな会社だなんて、信じられない」
「あの強豪の部活の文化自体がおかしいだなんて、飲み込めない」
「あの親族は、有名大学を出て立派に評価されてもいるし、その親族が間違っているなんて」
と思うかもしれません。
さらに、
「たしかに、そうした組織や親族の一部はおかしな人もいて、そうかもしれないけど、私は家族でも学校でも、会社でもいじめられた。だから、私がおかしい、私に問題があることは揺るがない」
というのも間違いです。
愛着が不安定であれば、ハラスメントが連鎖することはよくありますし、仮に安着が安定していても、偶然にハラスメントが重なることは珍しいことではありません。
世の中は、ハラスメントだらけですから。
歴史を紐解けば、国全体がおかしくなるなんて、普通にあります。
ニュースを見れば、会社全体がおかしいなんて普通にあります。
親族なんておかしなことだらけです。
おかしくても、パフォーマンス(良い成績、よい評価、よい地位)を発揮したりもする。でも、それはおかしくないことの証明にはなりません。
最近は、ゾンビ企業なんて言葉があったり、 おかしな企業が上場まで行くことがあるように、20~30年くらいなら、おかしなままでも、むしろおかしいほうがパフォーマンスが発揮できるものです。
だから、結果が出ているから正しい、なんてこともない。
こうした、経験や体験が偽装(偽装とは、自分に原因があるとされること)されてしまうことによって、“正しさ”は全く動かせない世の中の真理のように感じられてしまうのです。
ここまでお話ししましたように、“正しさ”やそれに基づく基準というのは、私たちを苦しめるローカルルールを構成します。
もちろん、それらは全く無視してよい幻想でしかありません。
しかし、幻想とわかってもなお、どうしてもそのことが頭に引っかかってしまう。
この頭に引っかかってしまうという原因として、よくあることが、
「でも、やっぱり、他人に悪用されているとしても“正しさ”は正しいんでしょ?」という感覚です。
ローカルルールの表面をコーティングしている“正しさ”が理屈上は正しいものが並んでいる。
例えば、「人としてこうでなければならない」とか「家族は守らなければ」とか、あるいは、「自分で稼がなければならない」「頑張って努力しなければならない」など、“正しさ”とされるものは無限にあります。
こうしたことがひっかかってしまって、否定できない。
なぜなら、“正しい”から。
この“正しさ”を覆すことができない。
もちろん
「家族にも悪い人がいるのはわかる」
「人には、いろいろな在り方があるのもわかる。その通り」
「頑張るだけが能ではない」「休むことも必要だ」
といったように、“正しさ”を相対化するような考えは頭で浮かびます。これを応用したのが認知行動療法です。
しかし、、でも、もとの“正しさ”は正しいという感覚は保持されたまま、どこか、すっきりしない。
こうした際に、それから抜けるために、大切なことは何か?というと、
“正しさ”とは実は毒である、もっと言えば、“自分の”正しさになっていないものはすべて毒だ という常識を知ることです。
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