アルコール依存症は、本人の甘さ、人格のせいか?

 

 最近、TOKIOの山口達也さんが、飲酒と、未成年へのわいせつ行為に及んだ件で、ワイドショーなどで話題となっています。

 アルコール依存症では、との疑いもあるようです。

 (参考)→「依存症(アルコール等)とは何か?真の原因と克服に必要な6つのこと

 カウンセラーの立場から見た場合に、実際にどうなのだろう? ということを少し書いてみたいと思います。

 

 飲酒の量などや行動や関係者の話から見た場合に、アルコール依存症の可能性はかなり濃厚であると思われます。
本人が「依存症ではない」と否認したり、「今は飲まない」ということも依存症の特徴です。

 

 アルコール依存症の方は、普段はとても“いい人”であることが多いとされます。でも、飲むと、たちが悪くなるし、本当に憎らしい姿になって、周囲を困らせてしまいます。

 

 今回、「お酒のせいにするな」「本人の甘さのせいだ」という批判も多いようですが、社会的にはもっともな意見です。ただ「アルコール依存症」の見地からすると、それは違うと思います。

 

 アルコール依存症とは、「病気」ですから、問題が生じるとしたら「お酒のせい」「背景にある問題のせい」です。イスラム圏などアルコールがない社会では依存症はそもそもありません。欧米でも限られた店でしか買えなかったり、公共の場所では飲酒できない国は多いです。
 日本はアルコールにはかなり寛容な社会で簡単に手に入り、専門家からは問題であるとされます。

 

 本人が節制して、上手な付き合いをするのが大人の責任、という考えることは普通ですが、依存症は病気なのでどうしてもそれはできません。

 

 実は、依存症の方は、いい加減とか自分に甘くなく、むしろ自分に厳しく、人をうまく頼れない、というところがあります。そのため、依存症は「未熟な自己治療(自分で何とかしすぎてしまう)」と呼ばれています。

 だから、本人の人格のせいではありません。

 本人の中で抱えきれないものがあって、それをアルコールで一時的に治療している、という状態です。
 (背景には、家族の問題だとか、気質などいろいろなことが考えられています。)

 

 飲酒で問題、失敗を起こしてしまって→社会的な責任も問われ→さらに、自分の中で問題を抱えて→お酒で治療せざるを得なくなって→また失敗して→また治療しなくてはいけなくなって→・・・ という努力の悪循環に陥っている状態です。

 

 人格のせいだとされると、余計に悪化してしまいます。

 

 もちろん、今回のように社会的な問題を引き起こした場合は、社会的な責任を負わなければなりません。被害者の方にとっては、本人の状態などは関係ないからです。

 

 ただ、治療においては、社会的な責任の部分と、本来の“人格とは分けてとらえることが必要です。

 アルコール依存症だけではないですが、治療において人格は無答責(=責任がない)であることがとても重要です。
 最新の脳科学や心理学でも明らかなように、意識とは行為の主体ではなく、ほぼ無意識に動かされているのが人間です。意志に関係なく、あるいは意志が強い方ほど暗示の力に引き寄せられて問題に陥ってしまいます。

 

 問題状況から抜け出すためには、周囲が「その方がおかしい」「哀れな人だ」という暗示をかけ続けていては抜け出すことができなくなってしまいます。

 

 問題は本人の甘さのせい/人格のせい、というのは近代個人主義の教義、社会の仮の約束事にすぎず、人間の実態に即したものではありません。
 

 社会的な責任と本来の人格とを分ける工夫は、「罪を憎んで人を憎まず」といったように、ある種の知恵でもあり、問題状況にある人を救ってくれます。

 

 

 また、社会的な位置と役割があることは、私たちが健全に生きるためには重要です。 

 山口さんについても、罪は罪でしっかりと償った後は、周りは憐れむことも、おかしな人だと思うこともない治療に専念できる環境ですごし。できれば、社会的に許されるタイミングで早く何らかの仕事に復帰することがご本人の回復にとっては一番良いように思います。もちろん、体調面、社会的な責任面でも、生涯、断酒を続ける必要があります。

 

 

 (参考)→「依存症(アルコール等)とは何か?真の原因と克服に必要な6つのこと

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

世界に対する安心感、信頼感

 

 筆者が、子どものころ、学校の成績はあまりよくなく、おそらくせいぜい真ん中くらいだったのではないかな、と記憶しています。
 小学校のころはそもそも成績を意識することはありませんでした。

 

 中学に入ると、本格的なテストというものがスタートしますが、勉強するのはテストの時だけでした。
普段はそれほど真剣に勉強をするわけではありませんので、ずーっと真ん中を行ったり来たりしていました。
 英語は最悪で、20点台の時もあったのを覚えています。勉強していないので当然ですが・・。

 

 ある時、秀才の転校生がやってきました。その転校生は、子どものころから塾に行っていていたようで、勉強の仕方を知っていました。自分で中間、期末の予想問題集をつくって、配ったりしていて、実際、その通りの問題が出たりしていました。
 当時の筆者にしてみたら、どうして何がテストに出るのか最初からわかるの? という感じですが、勉強に慣れた立場であればなんてことはないことなのかもしれません。

 

 筆者は、その転校生に勉強の仕方を教えてもらうようになったことと、このままじゃだめだ、という危機感もあって成績が一気に伸びたのを覚えています。
目からうろこというか、ああ、こういう風に取り組むものなのか! と思った経験があります。

 

 勉強が得意ではない人にとって、数学でも英語でもなんでもそうですが、世界は無秩序で、安心できない感覚があります。そわそわするような感じ。結果が悪いと放りだしたくなるような感覚。あるいは、テストの結果が自分の人格と連動しているような感覚。自分が良い成績が取れるとはおよそ想像もつかない。いや~な感じです。

 

 一方、勉強が得意な人を見ていると、そもそも落ち着いている。世界には秩序があって、冷静に適切に向き合えば、そこには取り組み方やコツ、対策というものが必ずあるという確信がある。結果が悪くても、無用な反省や、自分の人格と結び付けてへこむ意味はなく、淡々と問題点を洗い出して、修正をする。

 このような感覚が教科の勉強だけではなく、世界全体に及ぶと感じられる人は、社会に出てからも同じように取り組んで成功できる。
 おそらく、勉強だけではなく、スポーツや芸術などの分野でもトップクラスの人はそのような感覚があるようです。
 (プロの選手などを見ていると失敗してもケロッとしていたりしますね。「ごめんなさい」なんて基本的には言いません。)

 

 勉強が得意な人の中でも当然レベルの違いがあって、
 本当にありのままに世界をとらえる人と、自分独自のマイルールで世界をとらえる人とがある。
 自分独自のルールでとらえる人は調子の良い時はいいけども、調子を崩すと立ち直りにくくなったり、不得手なものは不得手なままだったりする。
 自分独自のルールでとらえる気持ちの裏には、どこか世界というものが信頼できないので、呪い(まじない)のようなもので何とか抑え込んでいる、という感覚があるように思います。

 本来、出来る限り、世界をありのままにとらえられる人であればあるほど、癖や偏りなく世界とかかわることができます。

 

 それを支える能力のことを「非認知能力」といって、子どもの学力やソーシャルスキルの土台となるのではないか?と最近では指摘されています。「非認知能力」とは、目標に向かって頑張る力、感情のコントロールや対人関係に関する能力などのことです。

 

 受験勉強とか、部活などは、社会とのかかわり方、付き合い方を鍛える役割があって、そのために、就職の時は学歴や、体育会系が評価されるのでしょう。
 ただ、受験勉強については、一人だけで取り組めて、自分独自のルールでも突破できてしまうので、社会に出てから、人間関係などで躓く場合もあります。

 

 

 最近注目される、「愛着」というのは、「非認知能力」の土台となるものを、パソコンのオペレーションシステム(OS)のように、ドライバやアプリまでワンパッケージで提供してくれます。
 そのため、本人が一つ一つ必要なものを自分で集める必要がない。自然体でいればそこそこに世界とかかわることができます。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 

 子育ての費用対効果は早いうちのほうがよく、年齢が立つにつれて挽回しづらくなってくる。
 (特に、1歳半くらいまでは、親ができるだけ頻繁に抱きしめて愛着を形成を促したほうが結局後が楽なようです。)

 

 「愛着」で何より大切なのは、世界に対する信頼感というか安心感というものです。
 

 

 冒頭に書いた、勉強が得意な人が「この世界というのは、秩序があって、そこにはルールやコツ、対策が必ずある」という確信があるのもまさにこのためです。

 

 

 世の中の裏ルール、二階建ての構造になっている、ということについても、世界に対する信頼感や安心感があれば、自然と感じ取って、身についたりします。
(参考)→「世の中は”二階建て”になっている。

 

 

 安心感や信頼感が崩れれば崩れるほど、世界をありのままに捉えることができなくなり、そこに呪い(まじない)のような解釈やマイルール、ローカルルールが入ってきて、世界を「知る」のではなく、「信じる」ような関わり方になってしまいます。

 

 

 

トラウマを解消する、とは、〝非常事態モード”を元に戻すこと

 

トラウマの中核にあるものは何か?といえば、それは「非常事態モード」です。

本来人間は、リラックスしている状態が通常です。
ストレスに対応してテンションが上がり、またリラックスに戻る、ということをしています。

しかし、ストレス応答系が過度なストレスを受けることで、モードの切り替えがうまくいかなくなり、
常に「非常事態モード」が入りっぱなしになってしまいます。

これがトラウマ(心的外傷“後”ストレス障害)という現象です。

過覚醒といった症状は象徴的で、
あたかも、戦場の兵士のように、いつも緊張して、警戒しているような状態になります。

 

非常事態というのは、周りがすべて危機に見えます。
何もしていなくても漠然とした不安があります。
人生の意味がよくわからない空虚感があります。

 

 

 

また、非常事態モードでは、なにもかもが仮設の作りものです。目の前の役割が終わったら撤去されてしまいます。
そのため、自分のスキルや成果などが積み上がる感覚がありません。いつも結局、どこかそわそわと落ち着かない。

 

 

アメリカの映画などで、ベトナム戦争などから帰ってきた人を描いたものがありますが、平和な社会を生きている人と、非常事態モードが抜けない自分との間に戸惑うというものがあります。

トラウマを負った人、というのは、同じような感じで、
普通の人とテンションが合わず戸惑います。

 

 

「トラウマを解消する」というと嫌な記憶を取り除く、といった意味にとらえる方が多いのですが、本当の意味での「トラウマを解消する」とは、非常事態モードを平時モードに戻す、ということになります。

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

 

ユートピアの構想者は、そのユートピアにおける独裁者となる

 

生きづらさを抱えているときは、どうしても現実を迂回したくなります。
自己啓発、スピリチュアルなもの、自分独自の理想主義などに傾倒してしまったりします。
(生きづらさが顕著に出るアスペルガー障害では、ほぼすべてといってケースでスピリチュアルなものへの傾倒が見られる、とする専門家もいます。)

 

筆者も、成功法則とか、「引き寄せの法則」とか、そういった本を読んだり、話を聞いたりした時期もありました。

 

その通りに取り組んでみますが、
だいたい、結果は出ません。

 

出ないので、自分の取り組み方が悪いのかな、と思って気を取り直してまた、取り組んでみます。

 

でもやっぱりそのようにはなりません。

 

「新しい」とされる、別の方法を試してみます。
やっぱり結果はでません。

 

だんだん、「これは正しい方法なのか?」と、違和感を感じてきます。

 

 

また、本では素晴らしいことを書いているカリスマがいますが、本人に会ってみると、どうも様子が違う、ということもあります。

 

本の内容は温かい内容だったのに、

著者本人は、少し怖い雰囲気だったり、

カウンセリング、コーチングと称して、お客さんをただ詰めているだけだったり・・・。

 

当センターのクライアント様が報告してくださる経験でも、「本は素晴らしいけど、自己啓発のマスター本人に会ってみると、思ったようではなかった」とか「セラピーがうまくいかないと、こちら側のせいにされた」とおっしゃるケースは少なくありません。

 

いろいろと経験してみてわかったのは、世の常識を超える、と称する自己啓発、スピリチュアルはじめとする理想主義も、それは常識を超える理想でも何でもなく、実は、それもローカルルールをもとに弱い相手を支配するような道具である場合も多い、ということです。

 

実は、現在流布されている自己啓発やスピリチュアルの源流は、もともとはキリスト教の異端の思想であったり、近代化の中で派生したオカルトの現代的な焼き直しでしかなかったりします。
(実際に、そうしたことを調べた研究書などもあります。)

その効果・効用のほどはすでにかなり昔に決着がついているものでもあるのですが、ただ消費する側は、そんな歴史をたどって、原典を当たるようなことは面倒くさいからしません。焼き直して「海外から来た新しい方法です」と紹介されたものを定期的に消費されていく、という構造であるということのようです。

 

これも二階建ての構造の一階部分の現実なのかもしれません。

(参考)→「世の中は”二階建て”になっている。

 

 

ただ、生きづらさを抱えているときは、ウブなもので、ついつい期待してしまい、結局いいように利用されがちです。

 

 

 

 一方、筆者は、たとえ来歴がどうあれ効果があれば何でも利用すればいい、悩んでいる人が楽になれば何でもいい、エビデンスは後からついてくるもの、とも考えます。そのため先入観なく試してみようとします。
 少ない経験ではありますが、素朴な好奇心からそうしたものを実際に試してみても、効果は宣伝されるほどでもありません。正確に言えば、効果はないことはありません。ただし、認知行動療法でも同じくらい効果は出ます。運動ならばもっと出るでしょう。魔法のような効果があるとするのは、結局、主催者側のマーケティングのうまさであったり、誇大宣伝だったりするようです。

 

 さらに、面倒なのは、その世界の思想に乗らないとだめだ、というものもあったり、その世界の中で人間同士のしがらみや支配、メンバー間で競争意識が渦巻いていたりもします(世間と変わらないか、それ以上にややこしかったりします。)

 

 

 

ハンナ・アーレントというドイツの哲学、思想家が鋭いことを述べています。

 

「ユートピアの構想者は、そのユートピアにおける独裁者となる」

 

結局、私たちに、現実を超えるユートピアを提供するとする心理療法や自己啓発といったものの結末は、ここに尽きると思います。

 

現実を迂回してニセ成熟の道から悩みを解決しようと目指しても、達成されることはありません。
ポップ心理学、スピリチュアル自己啓発などは、「見たいものを見ている」だけで、実のところ内容もとても薄っぺらい。

 

 当然ですが、現実の世界のほうがよほど深く、多様性があります。自然がそうであるように、厳しくも優しく、ただそこにあります。その現実を探求する学術的な心理学や哲学、社会学、文学、生物学などのほうがどこまでも深いもので、はるかに面白いものです。

 

 

 もちろん、名医とされる神田橋條治氏が、気、代替療法などを活用しているように、利用できるものは偏見なく利用すれば良いですし、科学ではまだよくわからないけど臨床では役立つものは当然あるとおもいます。ただし、魔法ではなく、臨床家の道具として機能するものと思います。

 心理療法の様々なテクニックでさえも、それはユートピアへの案内ではなく、現実の世界でよりよく成熟していくための方法です。ここを誤解してはいけないと感じます。

 

 いろいろなものを経験しまわりまわってみると、どうやら私たちは迂回せず、本来の成熟の道、常識の世界に還るほうが良いようです。

 

 そこは多元的で、奥行きがあり、真の意味で私たちが自分らしく生きられる場所があるように感じます。