素直さと生意気さ

 

 トラウマを負った人は、純粋で、とても素直です。理想が高く、本質を求めようとします。

 これまでの記事でも書きましたが、形式よりも心を大事にします。

(参考)→「トラウマを負った人たちの独特な人間観

 

 汚れた大人への反発も手伝って、純粋でありたい、素直でありたい、と思っていることがあります。そうした理想を完成させることが、真に大人になることであり、成熟であるととらえています。

 自分を高めようと努力しています。

 特に弱い人については、理解し、本来のその人はそんなことはない、力が制限されているからだ、と捉えようとします。

 素直であるために、人の話も真に受けやすいです。

 真に受けやすいために、傷つきやすく、人を恐れてもいます。

 

 一方、独特の生意気さも持ち合わせています。

 しばしば人を上から見ているような時があると自分でも気が付いています。素直で理想が高いために、意識の上では、現実にいる人たちよりも一歩先にいる感覚や、人間とは立派なものという感覚などがあるためです。

 

 特に、感情的な人や世の中でスレてしまった人、ずるいことをする人、自分の限界を低く見積もった人などを低レベルとして嫌悪します。

 

 会合で人と話をしていて、盛り上がると、つい上からわかったことを伝えるような、どこか馴れ馴れしいような生意気なしゃべり方をしてしまうことがあります。
 本人も調子に乗りすぎた、浮ついた感じがある、として後で自己嫌悪してしまうことがあります。

 

 「なんか、上からだよね」と人から指摘されると、とても落ち込んでしまいます。
 本人は、そういう人間にはなりたくない、常に謙虚でいたい、という理想があるからです。

 でも、ついついやってしまいます。

 

 言葉では出さなくても、頭の中で、レベルの低いと感じる人を人を評価したり、こき下ろしたりしている場合もあります。

 

 トラウマを負うと過剰適応になりやすいため、謙虚でいるとへりくだりすぎてしまったり、前に出れなくなることがあります。

 逆に自然体でいようと努力すると、なぜか上からの態度になってしまい、生意気という印象を与えてしまいます。

 極端に下から、極端に上からとなりがちで、ニュートラルでいることが難しいのです。  

 

 コフートがまとめている考えですが、
 人間の自我というのは、生まれたときは自分は何でもできる、親(他者)は神のようにとらえていますが、 成長する中で他者や自己のイメージは適切なサイズになっていきます。


 しかし、不適切な養育環境(ストレスフルな環境)に置かれると、他者や自己のイメージは誇大になったままで残り、それがいわゆるパーソナリティの歪み、となって、尊大になったり、他者をあがめて依存的になったりします。
 (パーソナリティ障害のメカニズム)

 

 トラウマを負った人の、他者観、自己観はまさにそうで、素直でありたいという純粋さと人間は立派なものだ、との理想をもち、自己観が誇大なままなのです。

 さらに自分(だけ)は高い意識に触れることができた、という直感があるため、上からの印象に拍車をかけます。

 

 他者観も、じつは誇大です。
 だから、へりくだりすぎたりする一方で、その誇大な他者観に適合しない人は、徹底的にこき下ろしてしまいます。人間はすべていなくなるべきと考えていることもあります。

 

 自分の親などはまさにそうで、立派なはずの人間から堕落した軽蔑すべき存在、という風に見ていることがあります。

 

 世間の大人たちがするような一階部分の現実的なやり取りは嫌悪します。  

 

 自分を研鑽して理想を求めますが、実現するどころか、
他人は怖くなるし、ついつい相手をこき下ろしたくなって自己嫌悪してしまいます。人からは批判されるなど、得たい評価は得られず、ますます生きづらさを感じていってしまいます。

 

 心の中では、「自分はただ本来の自分で素直に生きたいだけ。他者とも心からつながりたい。生意気だなんて言わないで」と泣いていたりします。

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

 

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「形よりも心が大事」という“理想”を持つ

 

 トラウマを負った人は、「人との付き合いは、形よりも心が大事」だと思っています。

 

 心でいかに相手を思うか、
 純粋に愛情を持てるか、
ということを大切にします。

 

 建前やうわべ、社交辞令には嫌悪感を持ちます。
嘘のように思えて嫌なのです。
本当に心からのものではないのに、なぜそのようなことを言わなければいけないのかがわかりません。

 

 純粋な関係を持ちたい、そうあることが本来の在り方だ、という“理想(≒マイルール)”があります。

なので、どこかいつも腰が入りきらない感じで社交辞令を仕方なく使うので、それが相手に伝わってうまくいかなくなる原因にもなります。

 

 普通の人たちが大切に思う「形式」を踏まずトラブルになることがあります。「形式」を踏んでいないために、逆に「心がない」と非難されてしまい、誤解されものすごく傷つきます。そして、「非難してくる相手のほうが、よほど心がゆがんでいる。おかしい」と頭の中でこき下ろして、罰してしまいます。

 

 「人との付き合いは、形よりも心が~」と聞くと良いことのように聞こえますが、やはり、それは難しい。

 

 なぜなら、同じ日本人同士であっても文化や価値観は全く異なるから。そして、私たちはテレパシーは使えないから。異文化同士が分かりあうためには、外交の形式はものすごく大切。

 

 普通の人たちは、その形式(プロトコル)でやり取りしていますから、プロトコル通りでないと違和感を感じます。

 

 また、形式の中には、「“貸し借り”の収支」も含まれます。“貸し借り”とは、互いに何かをしてあげた=してもらった、という互恵のことです。通常はこれを無意識に収支計算をしあっていて、してもらったことはお返しをしたり、気遣いをしたりして、貸し借りがオーバーになりすぎないようにしています。

 

 貸し借りの収支が合わないと、割に合わない不満を感じます。

 

 だから、普通の人たちは、
「私ばっかり~!!」と愚痴をこぼします。

 

 トラウマを負った人はそれを見て、嫌悪感を感じます。
「人間というのは本来立派なもの。愚痴なんて言ってはいけない。愚痴を言う人は低レベルの人」
「この人は人間の本質というものに気付いていない。なぜ、もっと人間を高める努力をしないのか?」
「こんな人と一緒にいたら、自分も汚される気がする」
と感じます。

(参考)→「トラウマを負った人たちの独特な人間観

 

 人間のありのままの姿が分からない。
「貸し借りの収支なんてセコイことを考えるのはおかしい」と思っています。
「与えれば与えるほど人間は幸せになれる」といういった考えも後押しし、さらに加速します。

 

 そのような理想を持っているために、人がしてくれたことへのレスポンスが遅れるようになります。返礼の形式(プロトコル)を軽んじてしまいます。
その結果、普通の人からすると、「なんだ、この人は?!」となってしまう。

 

 そして相手から非難されると恐怖を感じ、「見返りを求めて私に近寄ってきたの?!私は心で感謝しているのだからそれで十分じゃないの?非難するほうが、心が汚れている」とこき下ろします。最終的には、人間とのかかわりが嫌になってきます。

 

 

 トラウマを負った人は、たとえ割を食っても我慢して、飲み込んでしまいます。「それこそが大人のふるまい」であると錯覚しています。
(参考)→「ニセ成熟(迂回ルート)としての”願望”

 

 場合によっては厚かましい相手に支配されてしまう。
本当であれば、反発して、割を食った分収支をトントンに戻さないといけない。そうしないと人間関係のバランスが崩れてしまうのです。成熟とはそのバランスをうまくとれるようになることで、あって我慢することではありません。

 

 それが本来の世界なのにどうしても嫌悪や反発を感じてしまう。特に、裏表のある人、世渡りのうまい人が大嫌いです。

 

 

 では、そうした理想を持つトラウマを負った人は、形式のない本当の心を感じ取れるか?といえば、残念ながらそうではありません。むしろ、普通の人以上に、形式が伴わないコミュニケーションを取られると、強い恐怖を感じます。

 

 例えば、相手が何かの手違いでお礼を言ってくれなかったり、ちょっとした想定外のしぐさをされると、「私は嫌われているのかも?」「私は責められているのかも?」と恐れやイライラを感じてしまいます。相手には厳しいけど、自分は理想通りにはできない。

 

 理想は高いのですが、いくらセラピーを受けたりして努力してもその通りにならない自分を「器が小さい」「自分はおかしい」と責めてしまいます。

 

 

 また、形式よりも心だ、としてしまうことで、自分の本音もよくわからなくなってしまいます。
「本当の“好き”とは何か?」
「本当の“愛”とはなにか」と考えると、よくわからなくなるのです。
「心から好きではないと、それは表現してはいけない」と考えてしまうばかりに、自分の本心がかえって見えなくなる。そして相手に対してもうまく表現できない。

 

 普通の人なら、6割程度の感覚でも「ありがとう」「好きだよ」と言葉や態度で示すのに、トラウマを負った人は、10割の完全な感覚を感じ取れないと表現することができない。

 

 他者から見たら、何を考えているのかが分からなくなり、
「何を考えているのかわかりにくい」といわれて、さらに落ち込んでしまいます。

 

 一年に一回だけ本音のコミュニケーションをするよりも、
形式的でも毎日挨拶をする方が、人間関係ははるかに良くなるものです。それがうまくできない。

 

 形式(身体)が実質を連れてくる、ということもあります。ふるまいや所作を身に着けることで、心がついてくることがしばしばある。実際、運動など行動しないとやる気などの感情は形にならない、と研究では指摘されています。

 

 形式がないことを「形なし」というそうですが、フレームがないところには人間は住めない。

 形式(プロトコル)がないと、他人のみならず、自分の心ともやり取りができなくなってしまうのです。

 

 

 では、トラウマを負った人の理想は達成できないのか?といえばそうではありません。そのためには、本来の世界(1階部分)を回避して、理想(2階部分)へと迂回せず、まずは、めんどくさいことが多くても1階部分を通る必要があります。

(参考)→「世の中は”二階建て”になっている。

 

 めんどくさい1階部分をめんどくさくないものにするのが、「形式」だったりするのです。一階部分を十分にケアして、二階に上がった後に理想は実現されるものです。

そのことに気づくと、生きづらさを解決する糸口が見えてきます。

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

 

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