ユートピアの構想者は、そのユートピアにおける独裁者となる

 

生きづらさを抱えているときは、どうしても現実を迂回したくなります。
自己啓発、スピリチュアルなもの、自分独自の理想主義などに傾倒してしまったりします。
(生きづらさが顕著に出るアスペルガー障害では、ほぼすべてといってケースでスピリチュアルなものへの傾倒が見られる、とする専門家もいます。)

 

筆者も、成功法則とか、「引き寄せの法則」とか、そういった本を読んだり、話を聞いたりした時期もありました。

 

その通りに取り組んでみますが、
だいたい、結果は出ません。

 

出ないので、自分の取り組み方が悪いのかな、と思って気を取り直してまた、取り組んでみます。

 

でもやっぱりそのようにはなりません。

 

「新しい」とされる、別の方法を試してみます。
やっぱり結果はでません。

 

だんだん、「これは正しい方法なのか?」と、違和感を感じてきます。

 

 

また、本では素晴らしいことを書いているカリスマがいますが、本人に会ってみると、どうも様子が違う、ということもあります。

 

本の内容は温かい内容だったのに、

著者本人は、少し怖い雰囲気だったり、

カウンセリング、コーチングと称して、お客さんをただ詰めているだけだったり・・・。

 

当センターのクライアント様が報告してくださる経験でも、「本は素晴らしいけど、自己啓発のマスター本人に会ってみると、思ったようではなかった」とか「セラピーがうまくいかないと、こちら側のせいにされた」とおっしゃるケースは少なくありません。

 

いろいろと経験してみてわかったのは、世の常識を超える、と称する自己啓発、スピリチュアルはじめとする理想主義も、それは常識を超える理想でも何でもなく、実は、それもローカルルールをもとに弱い相手を支配するような道具である場合も多い、ということです。

 

実は、現在流布されている自己啓発やスピリチュアルの源流は、もともとはキリスト教の異端の思想であったり、近代化の中で派生したオカルトの現代的な焼き直しでしかなかったりします。
(実際に、そうしたことを調べた研究書などもあります。)

その効果・効用のほどはすでにかなり昔に決着がついているものでもあるのですが、ただ消費する側は、そんな歴史をたどって、原典を当たるようなことは面倒くさいからしません。焼き直して「海外から来た新しい方法です」と紹介されたものを定期的に消費されていく、という構造であるということのようです。

 

これも二階建ての構造の一階部分の現実なのかもしれません。

(参考)→「世の中は”二階建て”になっている。

 

 

ただ、生きづらさを抱えているときは、ウブなもので、ついつい期待してしまい、結局いいように利用されがちです。

 

 

 

 一方、筆者は、たとえ来歴がどうあれ効果があれば何でも利用すればいい、悩んでいる人が楽になれば何でもいい、エビデンスは後からついてくるもの、とも考えます。そのため先入観なく試してみようとします。
 少ない経験ではありますが、素朴な好奇心からそうしたものを実際に試してみても、効果は宣伝されるほどでもありません。正確に言えば、効果はないことはありません。ただし、認知行動療法でも同じくらい効果は出ます。運動ならばもっと出るでしょう。魔法のような効果があるとするのは、結局、主催者側のマーケティングのうまさであったり、誇大宣伝だったりするようです。

 

 さらに、面倒なのは、その世界の思想に乗らないとだめだ、というものもあったり、その世界の中で人間同士のしがらみや支配、メンバー間で競争意識が渦巻いていたりもします(世間と変わらないか、それ以上にややこしかったりします。)

 

 

 

ハンナ・アーレントというドイツの哲学、思想家が鋭いことを述べています。

 

「ユートピアの構想者は、そのユートピアにおける独裁者となる」

 

結局、私たちに、現実を超えるユートピアを提供するとする心理療法や自己啓発といったものの結末は、ここに尽きると思います。

 

現実を迂回してニセ成熟の道から悩みを解決しようと目指しても、達成されることはありません。
ポップ心理学、スピリチュアル自己啓発などは、「見たいものを見ている」だけで、実のところ内容もとても薄っぺらい。

 

 当然ですが、現実の世界のほうがよほど深く、多様性があります。自然がそうであるように、厳しくも優しく、ただそこにあります。その現実を探求する学術的な心理学や哲学、社会学、文学、生物学などのほうがどこまでも深いもので、はるかに面白いものです。

 

 

 もちろん、名医とされる神田橋條治氏が、気、代替療法などを活用しているように、利用できるものは偏見なく利用すれば良いですし、科学ではまだよくわからないけど臨床では役立つものは当然あるとおもいます。ただし、魔法ではなく、臨床家の道具として機能するものと思います。

 心理療法の様々なテクニックでさえも、それはユートピアへの案内ではなく、現実の世界でよりよく成熟していくための方法です。ここを誤解してはいけないと感じます。

 

 いろいろなものを経験しまわりまわってみると、どうやら私たちは迂回せず、本来の成熟の道、常識の世界に還るほうが良いようです。

 

 そこは多元的で、奥行きがあり、真の意味で私たちが自分らしく生きられる場所があるように感じます。

 

 

 

「常識」こそが、私たちを守ってくれる。

 

 筆者は、昔、「常識」というものが嫌いでした。

 モラハラとかで苦しんでいたこともあってか、そうしたことに縛られて、自分を決めつけられることを嫌悪していたと思います。

 

 それよりももっと人間の「本質」で、互いにやり取りをすることが大事と考えていました。

 ある種の理想主義の下、いろいろなことを試みてきました。

 

 

 今から見ると、ニセ成熟の迂回ルートといえるような道筋なのですが、それも良い経験であったかもしれません。

 

 

 そこで見えてきたものは、常識を盾に苦しめられてきたのは、実は本当の常識ではなく、単なる中間集団全体主義の「ローカルルール」にすぎなかったのではないか、ということです。

(参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 

 常識とされているのは、支配してくる人たちの”個人的な信条”にすぎず、なんら、社会的一般常識ではない。巧妙に常識をすり替えられていただけ、ということが見えてきました。

 

 また、常識に代わるものとして、理想主義(ユートピア)に居場所を求めても、薄っぺらいものであったり、当てにならないこともわかってきました。

 

 結局のところ、現実に戻るほうが安全であり、素朴な常識こそが、私たちを守ってくれるものである、ということに気づくようになりました。

 

 そのころに知ったことですが、経営学者のピーター・ドラッカーが同じようなことを言っているそうです。
ドラッカーは、ナチズムや共産主義といった、理想が吹き荒れる時代にキャリアをスタートしています。

 

 当時、時代を分析した本の中でドラッカーは、理想主義の危険性やうさん臭さを指摘し、そして、変革の原理としてよりどころになるのは伝統的な保守主義しかないとしています。
 ドラッカーのいう保守主義とは、簡単に言えば、素朴な常識のことです。素朴な常識こそが社会が多元的であると知り、うまく均衡させるすべを持っている。

 

 一方、理想主義というのは、表面的には良くても、多元な現実をとらえる幅はない、危険な「ローカルルール」ということです。(ナチズムも、当時は新しい理想でしたし、千年安泰の帝国を作る、としていました。)

 

 つまり、常識こそが現代を生きる知恵となりえますし、多元な私たちの在り方についても尊重してくれるものです。

 

 実際、ドラッカーは、常識を駆使して、経営学の巨人と呼ばれるような業績を残していきました。日本でも多くのファンがいます。

 

 ハラスメントの研究で知られる東大教授の安富歩氏は、
ドラッカーは「常識人に愛好された」「常識人の常識を守りつつ、しかもその常識を揺るがす、という高度な技が展開」した、としています。
(参考)→「あなたの苦しみはモラハラのせいかも?<ハラスメント>とは何か

 

 あらためて常識とは何か?といえば、特定個人の信条でもなければ、堅苦しく固定された決まりでもありません。

 

 それは人それぞれであるという多様性があり、人は弱いものであるという前提や限界も踏まえているものであり、弱者への目配りも忘れないものです。社会の1階部分と2階部分を併せ持っています。その中で時代や社会の歴史も背負いながら導き出そうとするある種の態度です。固定されたものではなく、学習され日々更新されていくものでもあります。「社会通念」という言い方をすることもあります。

 

 

 ブラック会社などは、一番わかりやすい例で「人間としてあるべき理想」を語り、極端だと「24時間いつも仕事のことを考え続けろ」といったことを強要してきます。
疑う社員のほうを「逃げた」として追い詰めたりもします。
「常識」で見ればあり得ない、「ローカルルール」が支配しています。

 それに対して「それ、おかしいんじゃないの?」と声を上げるのも常識の力です。

 

 働き方についての価値観、意識は様々ですが、例えば、「残業は月何時間までが適正だ」とか、「残業代がないのはおかしい」といった常識は、価値観の多様さを支えてくれます。

 

 家族の問題も同様です家族の在り方は多様で、他人が口を出すことではありません。
しかし、ではどんな家庭でもよいかといえばそうではなく、家族がその「機能」が果たしていなければ、「それ、おかしいんじゃないの?」と苦しんでいる家族のメンバーは声を上げる権利があります。

 

 そして、その苦しんでいる家族のメンバーが参照する先は「社会通念」での家族の機能、常識です。

 

 多くの場合、常識というのは、愛着を通じて、社会とつながり、そこから体得されていくものです。ただ、愛着が不安定だったり、機能不全家庭だと、常識はゆがめられているため、自信が持てず、「おかしい」と声を上げることができない状態にさせられています。

 

 ローカルルールでしかない、ニセの常識を見破って、
素朴な常識から「おかしい!」と堂々と声を上げていい、常識こそが自分を守ってくれる、ということを知るだけでも、生きづらさから自分を守るすべを得ることができます。

 

 

 
 

 

「無限」は要注意!~無限の恩や、愛、義務などは存在しない。

 

 機能不全にある家族、夫婦、恋愛に関することでしばしば起こることとして、「恩」とか「愛」とか、「義務」が無限に続くように思わされてしまうことです。

 

 どうしようもない親やパートナーなのはわかっているのに、離れられない。離れようとすると罪悪感を強く感じてしまう。どこまでも面倒を見ないといけない、どこまでも義務を果たさないといけない、と思わされて、離れたほうがいいとわかりながらも関係を続けさせられてしまうのです。

 こうしたケースはとても多いです。

 

 これは、無限の愛は美しい、他の関係と異なり、家族(恋愛)だから当然だ、といったことではありません。

 

 実は、「無限」という感覚は要注意で、ストレス障害(トラウマ)で、報酬系、算数機能が失調して生じる症状の一つです。「恩」とか「愛」とか、「義務」に対する見積もりが狂っているために起こるのです。

(参考)→「トラウマの世界観は”無限”、普通の世界観は”有限”

 

 

 

 無限の「恩」「愛」などは、少なくとも人間には存在しません。

 人間にとってものごとは常に有限であって、適切に見積りされて、「貸し-借り」がまわりまわってバランスされるものです。

 

 もちろん、家族はほかの関係とは違って、貸し借りの総量は大きいわけですが、たとえ家族の同士であっても、目に見えない「貸し-借り」で本来やり取りしています。
(それは2者間だけではなく、世代間で申し送りのようになっているとも考えられます。今、子どもの面倒を見るのは、それを前の世代がしてくれていたりしていたものを次の世代返している、というところがあります。しかし、それも「無限」ではありません。)

 

 もし、無限のものが存在してしまうと危険なことです。
人間には代謝、更新が必要ですが、無限なものは代謝がなく、常に縛られてしまいます。

 

 トラウマによって起こる症状の一つがパーソナリティ障害です。自己愛性パーソナリティ障害の特徴に「限りない成功、権力、才気、美しさ、あるいは理想的な愛の空想へのとらわれ」といったことがあるように、トラウマを負うと、「無限(限りない)のもの」を求めるようになってしまいます。

(参考)→「パーソナリティ障害の特徴とチェック、治療と接し方の7つのポイント

 

 

 トラウマによっておこる別の症状に依存症があります。
ご存じのように、依存症には限りがなく、アルコールや薬物、ギャンブルを身が破綻するまで「無限に」行います。

(参考)→「依存症(アルコール等)とは何か?真の原因と克服に必要な6つのこと

 

 

 もう一つ、摂食障害も同様です。
必要を越えてどこまでも(無限に)痩せようとしたり、飽くことなく(無限に)食べ続けたりしてしまいます。

(参考)→「摂食障害とは何か?拒食、過食の原因と治療に大切な7つのこと

 

 

 このように、「無限」というのは生物にとっては異常なことです。

 

 家族(やパートナー関係)の「機能」も有限であり、常に更新、変化し続けるものです。そして、機能不全な状態が長く続けば、貸し借りのバランスが崩れて、最後は「愛想が尽き」て当然です。そうすることで、支配を避け、別の環境を選択できるようになります。

 

 最近話題になっている、介護問題などは、有限な貸し借りのバランスが大きく崩れたところに起きる問題といえます。(あまりにも負担が大きく、家族だけではその収支を背負えないので、外部のサービスを活用する)

 

 無限の「恩」「愛」「義務」などはありませんし、罪悪感を持つ必要もありません。親しい関係ほど、距離を取ったほうが関係は続くものであったりもします。

 

 無限とは、ニセ成熟の感覚で、本来の成熟とは有限を知ることにあります。

 

 もし、ご自身の中に「無限(と思わされているもの)」があるならば要注意。それは不自然なものではないか?見積もりが狂っていないか?とチェックしてみるとよいかもしれません。何かそこに歪なものが隠れています。

(参考)→「更新されない人間関係

 

 

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

ブリーフセラピー・カウンセリング・センター公式ホームページ

お悩みの原因や解決方法について

「学校スキーム」を捨てる

 

 学校とは、文字通り、社会に出るために必要なことを学ぶ場所の一つです。

 そこでは、教科教育から始まり、美術、音楽、体育、道徳、進路選びなど様々なことを学びます。

 

 一番大きなことは集団での生活、人間関係になれることです。クラスの仲間との付き合いは、その後の社会に出るためには必要なことです。

 

 ただし、多様な人間をクラス単位で特定のルールでまとめ上げることについては、弊害も指摘されています。

 社会学者の内藤朝雄氏は、中間集団全体主義と呼んでいます。

(参考)「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因」

 

 合わないタイプの友達とも仲良くしなければいけないとされます。学校という空間の過度な密着がいいじめにつながるのです。教科ごとにクラスを変えるなどの解決策が学者から提案されています。

 

 もう一つ学校で学ぶこととしては、特定の環境・ルートで挫折を乗り越えて頑張る、ということです。様々な紆余曲折はありますが、その中で苦手なことにも取り組んで小学校‐中学-高校-専門学校・大学と進学していく。真っ直ぐレールが引かれていてその中を忍耐と努力で通っていくというスキーム(枠組み)です。

 

 

 さらに、表向きは、とても道徳的できれいな善の価値観のスキームです。正直で、ずるをするよりも真向努力することなどが優等生として、奨励されます。
(実際、容量の良い子や、不良っぽい子は、ずるやショートカットを身に着けますが)

 

 こうしたことは社会に出ていくうえで、役に立つとされていて、だから教育で教えられますが、実は社会に出ると、全く真逆の環境が待っています。

 

 社会では、360度選択肢がある中で、自分がどの方向に進むかを選ばなくてはなりません。一か所でかんばっていればよいわけではなく、その場所がダメならば、場所を変えなくてはいけない。頑張るべき時と、他へ移るべき時とを見極める目が必要です。

 

 また、社会で出会う人たち、上司や先輩、配偶者、もそうですが、彼らは「先生」ではありません。彼らは、私たちを必ずしも庇護してくれるわけではありませんし、実はその義務もありません。

 

 上下の権力関係にあり、パワハラ、モラハラもしばしば受けます。ダメなら関係を切られることもあります。単に業績や出世のために、社員を利用する、といったことは珍しくありません。
(もちろん学校でも良くない先生がいたり、会社でも良い上司はいますが、「教育」現場と社会とは違います。)

 

 

 「学校スキーム」を真に受けたままに社会に出ると、特に相手が年上だと、先生-生徒の関係のように面倒をみてもらえるのかな、とか、理不尽なことをされても、厳しい中にも教育的な意味があるのかな、と思ったりして、ずっとその場にい続けてしまいます。

 

 

 また、人間関係についても、学校と社会とは異なります。
合わないお友達とも仲良く、ではなく、合わなければ適度な距離を取ったり、関係性も変わっていったりということは当たり前ですし、そうしたほうが良い。社会的なネットワークは日々変わりゆくものです。

 

 「学校スキーム」の過度な密着のまま、対人関係をとらえていると、社会ではうまくいかなくなってしまいます。

 

 さらに、社会は清濁併せのむ二階建ての世界です。悪もあるし、嫌なこともあって、それをうまくいなさないといけないし、世の中にある見えない仕組みやコツを盗むことも必要になります。まじめにやっていてはそうしたことはなかなか見えなかったり、見えていても利用できなかったりします。

(参考)→「世の中は”二階建て”になっている。

 

 

 トラウマを負っている人に多いのは、「学校スキーム」をそのまま引きずってまじめに世の中を歩いてしまうことです。「学校スキーム」と社会人になってからの景色は全く異なります。進路の選び方も人間関係も、社会への向き合い方も。

 

 比較的安定している普通の人は、「学校スキーム」と社会人のスキームとは異なることを育つ中で薄々感じて、スタイルをチェンジしていきます。

 

 例えば、会社があまりに変(ブラック)だな、と感じたら、極端に言えば、入社式の段階でも会社を辞めてしまいます。そして、次の環境へと移っていきます。とてもさっぱり、あっさりしています。

 

 人間関係でも、おかしいなと思ったら、さっと距離を取ります。

 建前で語られるきれいごとと、裏の仕組みとを切り分けて感じ取ったりします。

 

 しかし、トラウマを負っている人は、「学校スキーム」を守って、妙に耐強く、義理堅いので、そのまま変な会社に居続けてしまい、ボロボロになるまでやめないで頑張るようなことが起こります。人間関係でもおかしな関係を続けてしまい、支配されてしまったり。表のきれいごとを真に受けて信じたり。心身共に疲れ果てて、自信も喪失させられてしまうようになります。

 

 

 筆者も昔、モラハラ環境で働いていたことがありますが、そこに入ってきた後輩たちは学歴もあり素直で優秀な社員たちでした。彼らは、職場に違和感を感じるや否やあっさりと辞めていったのが印象的でした。

 

 ある後輩は大学の応援団出身でしたが、忍耐強く理不尽な環境になれていそうなその後輩でさえ、ブラックな職場だと見るや、サッとやめていったのは驚きました。一方、筆者は頑張らねば、とストレスを浴びながら耐えていたのはトラウマを負ったものによくある態度だったのかもしれません。

 

 実は、親も、学校スキームをカーボンコピーしたような教育方針を取っていることもあります。相談をしてみると、「一か所で頑張れ」「人間関係がうまくいかないのはお前が悪い」といった間違った後押しをして、環境を変えることを妨げてしまいます。

 

 もし、ひどい環境であるにもかかわらず、「そこから逃げたらだめだ」とか、「自分にも原因があるかも」といった考えがよぎったら、自分は「学校スキーム」で目の前の問題を捉えていないか?と考えてみる必要があります。

 

 「学校スキーム」は、正常な発達ルートに鎮座しながら、とても特殊なものであり、社会に出た後は、スタイルチェンジをして、あらたなスキームを獲得しなければなりません。

 

 「学校スキーム」を捨てる、というのも、二階建ての社会の一階部分に相当するものであり、わざわざ教えてくれない世の中の“裏ルール”の一つといえます。

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

ブリーフセラピー・カウンセリング・センター公式ホームページ

お悩みの原因や解決方法について