「愛」やそれによって完成する「個人」とは、神様のみが達することができるレベルであるならば、人間にとって必要なのは、そういったものではない、ということになります。
もともと人間に自然物、動物としてつながる能力はあるとすれば、「愛」や全体性など、無限の概念などは不要です。それは人生の旅が終わった後や共同体の神話としてあればいい。
「でも、愛が必要ないってちょっと冷たいんじゃない?」と感じるかもしれませんが、
先日も書いたように、特に日本では、「愛」は比較的最近広まった言葉で、それ以前は、「情」とか、「慈悲」とか、「恩」とか、「義理」とか、といったものであったわけです。
私たちが生きる上では、“有限の”情や慈悲のやり取りで十分間に合う。
有限のものは安全だし、楽しい。
なぜなら、必要がなくなればなくなってくれるし、必要ならば自然に表れてくれるから。
貸し借りの収支で計算してくれるから、非常に合理的。
反対に、無限のものは、非合理、理不尽。
無限のものは病的で、おかしなものであることが多い。
ギャンブル依存、アルコール依存症などに見られる、“無限の”欲求は、私たちを苦しめ、破滅に導きます。
普通だったら、飲みすぎたら嫌になる。遊びすぎたら疲れて、飽きる。
これが動物としては普通のことで、そうしてバランスをとっているし、飽きるから新しいことに興味がわいてくる。
身体が健康であれば、また興味は自然とわいてくるもの。
トラウマを負った人が感じる罪悪感も、“無限”
どこまでも、自分を責めて、罪を償わないといけないような申し訳ない感覚に襲われ続ける。
普通なら、嫌なことでも、寝たら薄れていって、だんだん飽きてくるもの。
人との関係で苦しむのも、それが無限になってしまっているから
どこまでも尽くさなければならない、どこまでも関わらなければならない、気を使わなければならない。
一時の関係のはずが、更新されずにずっと続いていく。
普通なら、関係は日々変わって(有限で)更新されていくものなのです。
仏教でも「諸行無常」というように、
人間をはじめこの世にあるものは、本来すべて有限です。
そこに、無限の観念をかぶせようとしたり、無限だと思いたい、一つになってつながれる全体が欲しい、という心情が苦しみを生む、ということです。
すでに、「情」とか「慈悲」とか、「義理」とか、自然で、便利なものがあるのに、そこに、「愛」という無限の観念や、スピリチュアルな「全体性」といったものをもってきてしまう行為は、実は、アルコールのように一時渇きをいやしてくれますけど、そのあと新しい苦がわっと襲ってくるだけ。
無限が欲しくなるのは、自然物である自分自身を信じられないからです。
(参考)→「「無限」は要注意!~無限の恩や、愛、義務などは存在しない。」
孔子とか、ゴータマも、神秘的なことを聞かれても質問には答えなかったそうです。
よくわからない、とか、敬して遠ざけよ、といってはぐらかした。
それは賢者は、有限の人間にとって、サイズの合わない無限は害にしかならないと知っていたから。
反対に、ニセモノは無限や絶対を謡い、神秘的なことに簡単に答えてくれます。無限の富、無限の安心、絶対の幸福、千年の繁栄とか、、
有限なものというのは、良いものです。
記憶も有限だから、嫌なことを忘れられるし、ストレスも消失する。
トラウマなどの病は、代謝の循環がうまく働くなって、無限になってしまっている事から起きます。
悩みを克服するためには、無限の概念に飛びついたりすることではありません。
それではもっと苦しくなってしまうのです。
悩みを克服するというのは、循環する自然な有限へと還っていくことです。