有名人、芸能人をそのまま見本にしてはいけない

 

 臨床の専門家の中のある種の“常識”として、会社の社長や社会的に著名になるようなタイプの人には、「自己愛性パーソナリティ障害」の方が多い、というものがあります。

 

 あれだけのエネルギーで何かを興そう、世の中を変えよう、というのは、ある種の自己愛のゆがみがエネルギー源になっていないとできない。
 自己愛性パーソナリティ障害の口癖は「自分ならできる(自分が何とかしなきゃいけない)」というものです。

(参考)→「パーソナリティ障害の特徴とチェック、治療と接し方の7つのポイント

 

 

 彼ら彼女らは、Being(存在) が不安定ですから、Doing(行動),Having(成果) で埋め合わせようとガムシャラになる。
(「世の中に革新的なものを提供できなければ、自分には存在価値がない」「生きた証を残したい」というのですから)

 

 安定型の人から見れば、「別にそのままでいいじゃないの」「あなたはあなたでしょ?」と言いたくなりますが、「いいや、納得しない!」と反論して、ブルドーザーのように進んでいく。

 

 アップルの創業者のスティーブ・ジョブズなどはそんなタイプの典型といえます。 
 (アスペルガー障害ともとらえられますが)

 

 

 芸能人やスポーツ選手にも多い。
 
 そうした有名人たちが発する
 「これからも挑戦を続けなければいけない」とか
 「常にワクワクしています」
 「自分はいつもエキサイティングなものを求めています」

 といった発言は、まさにパーソナリティ障害のそれ、なのです。

(参考)→「パーソナリティ障害の特徴とチェック、治療と接し方の7つのポイント

 

 

 健康な人間とは”安定”を基礎とするものです。
 常にワクワクを求める人間というのはおかしい。
 いつもエキサイティングなもを求めるのは中毒です。

 前回も書きましたが、テレビのドキュメンタリーで、海外やリゾートでくつろいでいる姿がありますが、裏を読めば、海外やリゾートでもなければくつろげないコンディションであるということ。
 (有名なので、日本ではなかなかくつろげない、という事情もあるとは思いますが)

 

 少し前にTV番組で、
 かつて一世を風靡した経営者が海外で、様々なレジャーを楽しんでいる姿を追跡して、あたかも、「常識の縛られず、心から楽しめるすごい人」みたいなイメージで放送していましたが、臨床家から見るとかなり疑問符がつきます。
 

 

 もちろん、有名人でも安定型の方、健康な方はいらっしゃいます。
 ただ今度は、TVや出版社が演出を加えてしまうので、実像が見えにくくなる。
 

 そうしたTVや書籍で演出された有名人たちの姿や発言を見て、真に受けてはいけない。

 世の中には、イメージや幻想をもとに商売をする人がたくさんいる、ということです。

 真に受けてしまうと、わけが解らなくなる。

 

 例えば、クライアントさんからよく聞くお悩みで、
 「いつもワクワクしていなきゃ、とおもうんですが、できないんです」
 「普段の生活を楽しめないんです」とか
 「やる気が続かないんです」

 というものがあります。

 

 もし有名人や、自己啓発のグルを演じている人たちに憧れたり、真似しようとしたり、自分とを比較してしまっているなら、なにが普通で当たり前なのかがわからず、おかしくなってしまいます。

 

 

 やる気は何もなければ起きないもので、いつもワクワクしているとしたらそれは病気です。普段の日常とは退屈なもので、幸福とは退屈な中にじんわりと漂ってくるもの。
 
 健康な体には波があって、恒常性を維持しながらテンションが上がるときは上がり、何もなければリラックスしているものです。
 やる気もアップダウンするものだし、ワクワクというのはイベントや祭りの時だけ。
 それが普通のことなのです。

 

 有名人には、その人そのものや演出の中にパーソナリティ障害的な要素がかなり含まれる、ということを念頭に置いておいて、見本にするにしても、そうした要素はうまく除いて、エッセンスをとらえる必要があります。

 作り出された幻想に巻き込まれず、比較もせずに、そうしたものから少し距離をとってみると、自分のペース、本来いる場所が見えてきます。

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

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お悩みの原因や解決方法について

 

社会性を削ぐほど、良い「関係」につながる~私たちが苦しめられている「社会性過多」

 

 筆者は、誰とでもうまく話せないし、知らない人と話すのは億劫に感じるし、そんな自分を責めていました。自分は人見知りなんだ、と思っていました。
 しかし、催眠や筋反射を応用して無意識に確認すると、「人見知りではないよ」と答えてくれます。

 

 でも、症状としてはどう考えても人見知りだし、無意識の答えは気休めなのかな?と思っていました。

 

 そんなあるとき、海外旅行に行ったときのことでした。

 現地に着くと「なんか日本で感じる感覚とは違うなあ」と感じます。
 
 あれこれと人を気遣うような電波のようなものを感じない。
 

 そんななか、一泊二日のミニツアーのようなもので、砂漠に行くことになりました。周りはほとんどが外国人。

 すると、最初少しは緊張しますが、でも、相手と気楽に話せたりするのです。

 「あれれ? 人見知りのはずだけど、できちゃうな。」
 人見知りとは思えないようにふるまえるのです。

 

 変に気を遣わず、本当の意味で人と関わる必要がわいてきたら関わる。
 そうでないときは、周りには関心を持たない。
 もちろん、だからといって冷たいわけではない。
 さっぱりと乾いた空気のような感じ。

 

 「無意識が言っていたのは本当だったんだ!」と気がつきます。

 日本に帰ってくると、じっとりした人づきあいの億劫さが戻ってきてしまいましたが、ああ、人と付き合うのはこういう感覚なんだ、と面白い発見でした。

 

 

 「日本人は・・・、西洋では・・・」というようなことは古くからある安っぽい文化論であまり好ましくありませんが、しかし、事実としてあるのは、例えば「対人恐怖症」というのは、日本にしかない症状である、ということです。(特定の国にしかない症状を「文化依存性症候群」といいます。)

 

 対人恐怖には、ちょうどいい外国語訳がないのです。
 「社交不安症」がそれに該当しますが、ピッタリはハマらない。

(参考)→「対人恐怖症、社交不安障害とは何か?真の原因、克服、症状とチェック
 

 

 
 日本社会の特徴は、ご近所に気を遣う「世間の延長」ということもあり、過剰に人に気を使い、周囲に合わせるという傾向があります。

 

 生きづらさを抱える人ほど、そうした社会の特徴を内面化して翻弄されてしまう。

 

 社会学者の貴戸理恵氏は、不登校や引きこもりなど生きづらさを抱える人は、「「社会性」がないのではなく、むしろ社会性が過剰なのです」と指摘します。
さらに、「関係性への志向は、持っていなければならないけれども、持ちすぎてもダメなのであり、」「(「関係的な生きづらさは」)それについて深く考えてはいけないようなものを、ふと意識してのぞき込んでしまうときに、出現するのかもしれません」
と述べています。

 貴戸理恵「「コミュニケーション能力がない」と悩むまえに――生きづらさを考える (岩波ブックレット)」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 確かに、海外に行くと感じることですが、人に気を遣わない(関係性への志向が低い)国民性を持つ人たちのほうが、人との関係は活発に行っている。

 

 筆者がモロッコに行ったとき。“親切な”気楽なモロッコ人たちが声をかけてきて、最初はうっとおしく戸惑いましたが、慣れてくると、これは居心地がいいな、と思うようになります。
 多分、精神的な症状を抱えている人も、この国にしばらくいたら、悩みがなくなってしまうのではないか、と感じるほど。

 

 

 台湾に旅行に行った際にも驚いたのが、電車で乗り合わせた知らないおばさん同士が世間話をしている姿。
 互いに知り合いなのかと思ったら、目的地が来たら、互いにサッといなくなる。

 

 別の場面では、案内してくれた現地の知人が、マッサージ店の店主と古くからの友人と話すかのようにずっと話をしている。
 あとで、知人に「知り合いの店だったの?」と聞くと、「いいえ、はじめての店だよ」という。それを聞いてびっくり。「あの親密さは、どう見ても知り合いやん!?」と。

 日本だと余程コミュニケーションに長けた人が行うであろうことを普通の人たちが簡単に行っている。
 (その台湾人の知人も日本ではシャイになったりするのですが。対人恐怖症もそう、結局悩みはほとんどが環境に依存している。外からやってくるもの)

 

 ほかの国でも、旅行などで訪れてみると、日本人からすると、「何だこりゃ!?」ということばかり。

 

 おとなり韓国も、日本人のように過剰に気を遣うことはない。

 筆者も、学生時代にトラウマや人間不信の後遺症に苦しんでいるときに、留学した先であった韓国人たちが気楽に声をかけて、仲間に誘ってくれたことには大変助けられました。
 韓国で暮らす人の話を聞くと、日本よりも人間関係ははるかに気楽だ、とおっしゃいます。

 

 

 上記でも書きましたが、人間関係で悩む人が、それぞれに国に行ったらそれで解決してしまうのではないか?と本当に感じます。

 台湾などは、普通の人々が、生きづらさを抱える日本人が理想とする気楽なコミュニケーションを交わしてしますから。

 

 

 サッカーのワールドカップで、日本人サポーターが競技後に会場を掃除して称賛されていますが、こうしたことからみれば喜べない。

 その気遣いこそが自分の首を絞める。
 

 「別にそのままでいいじゃないか」
 「誰かが掃除してくれるよ」

 という感覚が大事ではないか。

 

 実際、“生きづらさ”といった言葉が生まれる以前の日本では、電車の床にごみを放ったりしていました。痰をホームにはいたりもしていました。※池上彰さんの番組でよく紹介される事例です。
 (日本が発展したのは日本人の気遣いのおかげではありません。当時の国際環境(資源安、冷戦、旺盛な需要など)のおかげがとても大きい。もし、気遣いが発展の原動力なら、気遣いMAXの美徳の国、現在の日本はもっと成長率が高くないとおかしい)

(参考)→「あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服
 

 

 過剰な気遣いが、今度私たちがありのままに行動することを妨げる。

 

 「対人恐怖症」が日本にしかない、ということを考えても、どうも、私たち日本人が当たり前と思っている「人間関係」観というのは、人間の標準から見て、かなり歪でおかしい「幻想」なのかもしれません。

 

 私たちは、「社会性過多」であえいでいる。そんな日本で書かれた「コミュニケーションの上達のコツ」「気づかいの極意」みたいな本などを読んだらもう大変。社会性過多の上に、もっと過剰になれ、というのですから。幻想の上に幻想を重ねるだけ。 コミュニケーションのヒントは、コミュニケーションの〝カリスマ”にではなく、海外の普通のおじさん、おばさんたちに教わったほうがいいかもしれない。

 

 

 私たちは、良い「関係」を作るためには「社会性」をもっと削がないといけない。必要なのは、「社会性」を削ぐ方法です。

 

 私たちが当たり前と思う「人間関係」観。それは本気で一度解体して、社会性の水準をぐっと下げて壊して、それから社会性を組み上げていく必要があるようです。

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

人間は「関係」でできている。教科書が存在せず、「関係」は幻想だらけ

 人間というのは、クラウド的な存在ですから、「関係」がないと機能しません。

スマホを思い出したらわかりますが、ネットワークを切ってしまったらカメラか計算機程度にしか役に立たなくなります。

 

 人間も同様で、「自分が何者か?」ということも、置かれる状況、関係によって規定される。

 「関係」を切り離して、純粋な「本来の自分」なるものは存在しない。

 

 キリストも、家族の「関係」を断って旅に出ましたが、弟子や支持者(信者)との「関係」は大きく、それらがあるからキリストでいられた。故郷に帰ると奇跡は起こせなくなった。天才でも、個性的な人でも、「関係」がなければその人はその人ではいられないのです。
 

 
 私たちも、「関係」をもとに、公的人格をはぐくむことで、社会の中で“自分”でいられる。「関係」を離れた純粋な個はどこにも存在しない。

 

 

 このことについてはセラピーでもちゃんと言ってくれないし、ここを隠したままセラピーが行われたりします。

 例えばセラピーなどで、無意識にアクセスしたりして、”本当の自分”を見つける手法はあります。実際にそれで答えが出たとしても、その時は感動するかもしれませんが、その答えによって完全に自己一致して納得した、という風にはならない。いくつもある自分の“要素”は答えてくれますが、どれが本当?といったことになってしまいます。占いのように次々知りたいとなってしまう。

 

 

 結局は、自分とは、現実の関係の中にあって、「位置と役割」を得て、そこで影絵のように浮かび上がる、というもののようです。

 

 もし、「自分が何者かわからない」とか、「本当の自分が何かを知りたい」と感じるのであれば、「関係」の大切さを知り、「関係」を回復することが必要になる。

 

 

 「関係」を結びなおせば良いわけですが、「関係」をどう結ぶか?については、注意が必要です。

 世の中には、「関係」やコミュニケーションについては、前提が省略されたある意味間違った情報も多いからです。

 

 

 例えば、誰とでも気さくに接して、仲良くなれて、どんな難しい人とも向き合って、関係を結ぶことができて、というようなことは、明らかな「幻想」です。

 子どものころに聞いた、「友だち100人できるかな~♪」 というのはありえない。

この「ともだち100人幻想」ともいえるような思いは、私たちを苦しめています。

 

 

 友達付き合いが得意そうな人でも、本当に仲の良い人を作るのは難しい。

 以前も書きましたが、
 筆者が、留学した際に、何かのワークをしていて、紙に何かを記入しなければいけないのですが、友達付き合いが得意そうな人が、「親友を作るのは難しい」と書いてあったのは印象的でした。

 

 

 少し前に、NHK教育放送の番組「SWITCHインタビュー」で、糸井重里さんと中井貴一さんが対談していましたが、その際に、中井貴一さんが、最近、しみじみ気づいたこととして「人はそんなに好かれない」と話をしていました。

 いろいろ気を使って、心配りをしていても、それほどには人には好かれないものだ、だから最近はほどほどにしている、というのです。

 それを聞いて、糸井重里さんも笑いながら、「それに気づけたは、百科事典5,6冊分くらいの価値があるかもしれませんね」と同意していました。

 

 そんなものです。
 (でも、クライアントさんにいくら言っても、「いやあ、そんなことない。私は・・」となって、コミュニケーションのスーパーマンを目指そうとしてしまうんですけどね。どうにも気遣いをやめられない。人間関係にまつわる幻想というのはとかく強固なものです。)

 

 

 
 別の幻想に、

 相手の感情、態度は、すべて自分の責任(投影)だ、という考えもあります。

自己啓発などから広まった考えでしょうけども、これも間違い。

 

 人間というのは、ある意味自分の内部の都合で解離して、脳がショートして、感情にまみれる。そして、その収めどころとして相手に因縁をつける、生き物なのです。こちらが刺激して、ということもありますけど、理不尽なことは、ほとんど無意識の作用で起こっていて、それらはこちらの責任だ、なんてどう考えても言えない。

 本当に人間関係が上手な人は薄々そのことがわかっていて、相手の感情は自分とは関係ない、と割り切っていたりする。

 

 

 

 コミュニケーションについて、世に出ている本のほとんどは大きな前提を省略して書かれています。それは、世の中は2階建てになっているということです。その1階部分を無視している。

(参考)→「世の中は”二階建て”になっている。

 

 

 コミュニケーションの本は、1階部分が完璧に整備されている前提で、その上で2階に上がった条件の良い者同士のコミュニケーションについて書いている。
そのため、コミュニケーションがうまくいって当たり前という書き方になっている。
 現実は、1階部分から環境を整えないとコミュニケーションは成立しない。場合によっては、1階部分のやり取りで、コミュニケーションをあきらめないといけないことも多い(ほとんど)。
 

 

 人間とは、基本的には、うまく付き合えない(付き合えたら幸運だ。できなくても幸運だ)というところからスタートするものです。
 

 そのことが全く書かれていない。
だから、コミュニケーションの本を読めば読むほど、自分は苦しくなっていく。
 
 
 私たちが関係を回復するためには、「人間」をありのままにとらえる必要がありますが、まだ、その教科書といえるものはこの世には存在しないようです。

教科書が存在しないため、誤った幻想とチキンレースが続いていしまう。

(参考)→「主婦、ビジネス、学校、自己啓発・スピリチュアルの世界でも幻想のチキンレースは蔓延っている

 

 「関係」は、他人に聞いてもはっきりとは教えてくれない、言語化しづらい裏ルールも含めて構成されています。

 

 

 

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幻想の構造~心理療法やセラピーも現実を知るためにある

 人間というのは、おそらくは動物の中で唯一、抽象的な概念や、想像を用いる生き物です。
そのために、高度な社会を築くことができました。

 概念や想像を共有することで、共同体の枠組み、規範や帰属意識が醸成されて社会が形成されています。
科学でも概念を操作することで、発展してきました。

 さらに、ミラーニューロンを介して人同士がつながり、抽象的な価値観が内面化されている、とも考えられています。

 抽象的な概念を用いることは大いなるメリットをもたらしましたが、同時にデメリットももたらしました。現実を回避することで、問題が大きくなってしまうこと、幻想の中に逃避してしまうことが起きることです。

 

 もともとの私たちは単なる自然物であって、そこには罪も何もないわけです。

 ただ、安心安全が脅かされて、閉鎖的な共同体が持つローカルルールを内面化したりすることで、呪縛とも呼べる幻想(「自分はダメだ」といったこと)を強く持たされてしまう。
 

 

 安定した環境で育っても、ある程度は幻想が入るのですが、安定した環境で内面化したものは、安心安全が確保されているため、多様性があり、変化可能であり、不要ならば循環して「排泄」されていきます。そして、新しい環境に合うものを獲得していくことができます。

 特に反抗期では顕著に「排泄」が行われて、親の価値観はいったん捨ててしまい、再解釈をされることになります。

 その経験があるため、社会に出ても、価値観を真に受けずに、ある程度自分で選択できるようになります。

 

 抽象的な考え、感情は、外部からもたらされます。そのために「関係」はとても重要で、私たちの判断も関係のネットワークによって支えられます。できるだけ多様で、緩やかな関係を多く持てると、安定は増しますし、安心安全があることでより良い関係を持つこともできます。

 

 もちろん、健康な成熟を見せる人も、誰しもほどほどに「幻想」を持っています。ただ、安心安全が担保されているため、多様で柔軟で選択可能性があるのです。
 意図的に、幻想と戯れたり、「ふり」をしたり、また現実に戻ってきたりすることができます。

 

 反対に、トラウマを負っていたりして不安定な場合は、安心安全がなく、さらに関係が少ないため多様性がなく、
「幻想」が信仰のようになってしまいます。
 あたかも「幻想」が、現実をふさいで窒息させてしまうような形になってしまうこともあります。

 

 さらに、「幻想」から抜けるために、さらに別の幻想を持ってこうとそして、屋上屋を重ねる、といったことになります。ますます解決から遠ざかってしまう。
 (先日の記事で書いた、「愛」「全体性」とか無限の観念をもって対抗しようとすることはこうしたことを指します。)
 実際、壮大な理想を唱えた人たちが最後は嫉妬の塊となって仲間を殺したり、テロリストになったりすることは過去の歴史的事件を特集したTV番組を見ればしばしば出てきます。

 図にすると、

  本来の自分 ← 内面化した価値観(呪縛) ← 別の幻想
       

 ますます本来の自分が分からなくなる・・・

 本当は、

  本来の自分 ← 内面化した価値観(呪縛)
            ↑
      これを除いて“現実=本来の自分”に触れるのがセラピーの役割。

 

 ここで、「“現実を知る”っていうと、今の自分で我慢しろ、とか」「自分は結局ダメだ、と告げられるのでは?」と思うかもしれませんが、そうではありません。

 

 例えば、イルカや、犬、自然に触れるようなセラピーがありますけど、そうしたものが教えてくれるのも、やっぱり「あなたは大丈夫」ということです。
 (人間のカウンセラーが言っても、なかなか信じてもらえませんけども・・)

 

 〝現実”のほうが面白いし、楽しいし、優しいし、美しい。

 人間が頭でこしらえた「自然」と、「本物の自然」とを比較すればわかりますが、当然、実際のほうがはるかによいものです。
 私たちは、セラピーを通じてそこに還っていく取り組みをしているわけです。

 

 仏教の「覚る(さとる)」というのも、あたかも学者のように世の中や自分をありのままに見る、というだそうです。(だから、仏教には、いわゆる神といった概念はなく、まるで唯物論みたい、といわれます。)
でも、そちらのほうが、悩みからは抜けやすいと、お釈迦さまは発見した。

 

 理屈はそうだけど、やっぱり幻想が欲しい・・
 
 という場合は、“戯れ(たわむれ)”として利用すればいいかもしれません。すこしすっきりしたら、また現実に戻ってきたらよいのではないでしょうか。

 本当に苦しい時は、幻想を希望に変えてでもしなければ立ち向かえないくらいに、生きづらいものですから。

 でも、幻想を希望にしたままでは、生きづらさからはなかなか抜けれません。だんだん「幻想」に嫌気がさしてきて、飽きてきて、「なんだ、結局、引き寄せとかなんとかいっても、そんなもの当たらないじゃないか!やめた!」「自分は自分だ」と思った瞬間からうまくいったりもするのです。

 そうしたことを、依存症治療の世界では、「底をつく」というそうです。底をついて現実に触れると、幻想がパーッと晴れて、「あれ?自分って本当は能力あるんじゃんか!?」って気がつけるようになります。
  

 

 

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