あの理不尽な経験もみんなローカルルール人格のせいだったんだ?!

 

 私たちが、不快な経験を忘れられない、記憶から拭えないのは、
それは、「自分に問題があるのでは?」という考え、恐れがあるためです。

 

 自分に原因がある、という考えがアンカーとなって、悩みを払うことができなくなる(「自分に原因がないと思うと、独りよがりになる。自分が成長できなくなる」といったことを考える人は実はかなり多い)。

 

 「失礼なことを言われたのは、失礼なことを言われるにたる原因が自分にいくらかでもあるためでは?」

 とか、

 虐待といった明らかに加害者側に問題があることでさえ

 「ひどいことをされるのは自分に問題があるからだ」といったことや
 「呪われているからだ」
 「(結果として)自分は穢れてしまった」

 といった観念があるために、悩みはずっと消えなくなってしまいます。

 そして、次も同じ目に合うのではないか? と思うと、萎縮してしまったり、人と接するのが怖くなったりする。

 

 

 本来は人見知りではないのに、人と話すのが億劫になる人見知り状態になります。

 

 

 人というものは面倒でモンスターのような存在で、社会というのもいつどこから嫌なことが降ってくるかわからない、とてもつらく、恐ろしい場所だと感じられてしまいます。
 

 

 理不尽な出来事というのは、基本的に全ては偶発であり、自分に原因はありません。

 しかし、人から来たハラスメントというのは、まさか自分がハラスメントを行っています、と言う人はおらず、それを正当化しようとする理屈も同時に仕掛けてきます。そのため、「被害者側に問題がある」という偽りの正当化も含めて、ハラスメント行為が成り立っています。

 

 私的な情動によるものなのに、それがルールなのだ、正当なものなのだと騙ることを「ローカルルール」といいます。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 ローカルルールは意識して行われることもありますが、多くの場合、ローカルルールは人間の人格部分に感染して、ローカルルール人格を作り出します。

 

 そのローカルルール人格は、刺激によってスイッチ(変身)します。
 その刺激とは、自分の中の不全感、コンプレックスを刺激するような情報です。眼の前で相手が幸せそうだ、といったことなどです。過去の記憶がフラッシュバックして刺激となり、スイッチすることもあります。

 

 

 では、不全感のまったくない人なら起きないか、といえばそうではなく、嫉妬という動物的な刺激もあります。嫉妬はどれだけ自分を磨いても、抑えることができません。 

 どんな人格者でも、ローカルルール人格に変身することは起きるのです。
 ただ、その閾値が低いか高いかだけ。

 

 

 身体のコンディション、つまり栄養や、睡眠、運動がしっかり取れているかもかなり影響します。 睡眠不足だけでも、変身の閾値は急激に下がります。
 
 洗脳セミナーでは、睡眠を制限するなど身体のコンディション低下をうまく使って、ローカルルールを出席者の人格に感染させるのです。
 
 栄養の不足だけではなく、グルテンやカゼイン、カフェインの摂取なども変身のしやすさに影響します。 

 

 

 環境に追い込まれているときも、閾値は下がります。

 仕事で追い込まれているときは睡眠不足も相まって、メンバーにひどい言葉をかけたり、急に怒り出したり、ということがあるのはそのためです。

 

 

 

 人間というのは例外なく誰でもローカルルール人格への変身を起こします。
 
 そのため、

  気さくで人当たりのいい人が急に理不尽なことを言ったり、失礼なことを行ってきたり、
  
  仲良くしていた友達が急に自分を攻撃してきたり、

  公平であるべきはずの上司や教師といった人がハラスメントをしてきたり、

 といったことは日常茶飯事に起こります。

 

 

 

 ローカルルール人格というのはもっともなようでどこかおかしく、その言動には正当性がありません。

 だから、失礼なことを言われたり、されたりしたとしても、全く真に受ける必要はありません。

 

 例えば、
 日常生活で失礼なことを言われたり、理不尽な目にあっても、それはすべてローカルルール人格によるもの、全く真に受ける必要はありません。

 記憶にある、過去の対人関係でも様々な嫌な出来事も、すべてローカルルール人格によるものです。自分には全く原因はありません。
 

 すべて自分からバッサリと切り離して良い。

 

 

 ローカルルールとは、巻き込まれる人が必要ですから、「自分のせいかも?」と真に受けることでローカルルールは生きながらえます。

 

 

 一方で、 ローカルルールとは、根拠がとても薄弱ですから(私的情動でしかないので)、真に受けなくなると、魔女の魔法のりんごように消えてなくなっていきます。
  

 

 これまでも、心理療法は、様々な方法や考え方で、悩みで苦しむ人を免責しようとしてきました。
 しかし、「人格を一つ」と捉えてきた限界から、どうしても自責感(自分に問題がある)が被害者に残り続けたり、なぜ、あの人があんなことをしたのかがわからず、ぐるぐると理由を考えたり、相手をモンスターのように恐れたり、こき下ろしたりすることが頭の中で止まらない、ということが起きていました。

 

 

 人格が一つである、としているために、”いい人”であるはずの人たちがなぜ自分に対しておかしな言動を取るのかが腑に落ちず、結局自分にも問題があるに違いない、という思考を招き、結果ローカルルールを延命させてきました。

 

 

 自分の中にあるローカルルール人格がフィルタをして、情報を歪めて、関係念慮を起こすこともあります。
 それも自分では直感的におかしいと気がついていても、人格は一つと捉えているために、歪んだ情報を払うことができません。
 しかし、自分の中にも「本来の自分」と、「ローカルルール人格」がいるのだ、と明確にわかれば、自分の感じる違和感に基づいて、関係念慮に気づくことがもできます。

(参考)→「「関係念慮(被害関係念慮、妄想)」とは何か?

 

 

 

 臨床の中でわかった、「ローカルルール人格が存在する」という発見と、「私たちはしばしば人格がスイッチしている」ということが見えてきたことで、理不尽さの理由がどうしてもわからず自責感を持ち続ける、という悩みをしつこく残し続ける要因を打ち払うことができようになってきました。

(参考)→「モジュール(人格)単位で悩みをとらえる重要性~ローカルルールは“モジュール(人格)”単位で感染、解離し問題を引き起こす。

 

 

 

 長く苦しんできた悩みが取れることはもちろんですが、世界の見え方が全く変わってきます。

 

 自分がよって立つ常識や感覚を堂々と信頼してよいという自信。
 おかしいことは、ただおかしな存在によるものであるという確信。

 
 これから将来も、自分に問題があるために人から失礼なことをされるのでは!? と恐れる必要はなくなります。
 実際に理不尽なことは起きても、自分に原因を求めることなく、さっと払うことができるという自信が湧いてきます。
 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

「仕事」や「会社」の本来の意味とは?~機能する仕事や会社は「支配」の防波堤となる。

 

 近年、ブラック企業や組織内のパワハラ、モラハラなどがニュースでも取りざたされることが多くなってきています。人が持つハラスメント、といった負の傾向に焦点が当たるようになってきたことは、健全な傾向かもしれません。

(参考)→「あなたの苦しみはモラハラのせいかも?<ハラスメント>とは何か

 

 筆者も会社員の経験がありますが、モラハラ、パワハラが横行していた職場をいくつか経験しています。そんな経験をしていると、会社や仕事って嫌で、億劫なものだと、思えてきます。

 引きこもりなどで、働くことができていない方などはいらっしゃいますが、そうした方たちにとっても、社会や特に会社というのは「恐怖の対象」でしかないようです。

(参考)→「ひきこもり、不登校の本当の原因と脱出のために重要なポイント

 

 

 その恐怖の場所に、家族などから、無理矢理、「働きに行け」とけしかけられることはとても恐ろしいことです。
養育環境に問題があった場合は、「家庭という地獄」から、「社会(会社)という別の地獄」へと、理解のない家族に追い立てられるというとても理不尽な図に見えます。

 

 「働く」という言葉自体に拒否反応があって、例えば、医師やカウンセラーから「働きに行くにあたって、どんなことが妨げとのなっていますか?」とニュートラルな質問されただけで、「この治療者は暗に仕事に追いやろうとしているのではないか?!」「何もわかっていない」とラポールが途切れてしまうこともあるくらいです。
 

 

 そういうネガティブなイメージもありますが、一方で、「仕事」は、悩みからの回復では要になるものです。統合失調症でもそうですが、「仕事」や「役割」があると、症状が軽快することが知られています。

(参考)→「統合失調症の症状や原因、治療のために大切なポイント

 反対に、ずっと部屋にこもっている、家にこもっている状態ではなかなかよくなりません。
 やはり、人間はクラウド的であり、社会的な動物であるために、他者からの期待、そして社会の中での位置づけがなければ十分には生きていけないのです。

 

 

 

 ただ、多くの人にとって、「会社」や「仕事」っていうのは鬼門であり、厄介なもの。そうすると、そもそも「会社」や「仕事」とは何か? について捉えなおす必要があるようです。
 

 

 

 あまり知られていませんが、実は、現代の「会社」というのは、それを機能させることで「自由を守るための場所」「反支配の砦」として構想されました。
 

ピーター・ドラッカーという経営学の祖とされる人がいます。十年ほど前に「もしドラ」という本が流行りましたが、日本でも著名で、経営者の中にもファンが多いです。

 
 ドラッカーは、1909年にオーストリア、ウィーンで生まれました。大学教授の父を持ち、子どものころからフロイトやシュンペーター著名な知識人たちとも面識があったそうです。ナチスが政権を取った後、イギリス、アメリカへと移住し、「マネジメント」など現代の古典ともいうべき著作を発表していきました。

 

 ドラッカーが仕事を始めたころは、商業社会から産業社会(大規模な工業や企業が主役となる)への転換点であり、その混乱の中でナチス、共産主義など全体主義が台頭しはじめた時代でもありました。

 そうした時代で、来るべき産業社会の中で自由を守るために必要なものとしたのが「マネジメント(とそれによって適切に運営される会社)」だったわけです。

 なかなか難解で、実際にその著書を読んだ人は少ないとも言われる本ですが、そこに書かれていることは、極端に言えば「人が人を支配しあわないような組織の作り方のメソッド」でした。

 ※支配というのは、経営者から従業員、だけではなく、従業員同士、従業員から経営者への支配も含みます。
  

 

 そのためにドラッカーの本には、経営者の心得、組織作り、マーケティング、給与の設定の仕方などまで細かく書かれています。時代を先取りしたような、時代を超えた本質を示しているため、今でも高く評価されています。

 特に戦後の日本企業は、ドラッカーの経営論の申し子ともいうべき存在でした。

 
 ブラック企業などが取りざたされる一方で、働きがいのある会社としてしられたり、生き生き働いている人たちがいるのも事実です。

 

 家族に置き換えればわかりますが、機能している家族は、安全基地としてメンバーにとってはなくてはならないもの。反対に、機能不全家族というのは、ストレスに満ちた環境になる。ちょっとした運営の仕方の違いで、機能するかしないかは大きく分かれる。

(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 

 「会社」も、ドラッカーが考えたように「反支配」という視点で適切に運営されれば、実は私たちが受ける社会や家からの圧力やハラスメントの砦となってくれる場所でもあるのです。

 近代化するプロセスでの会社というのは家父長的な「家」の呪縛から逃れる場所でもありました。
 個人が一人ではできない力をふるうことができる。事業によっては何千万、場合によっては何億、何十億という単位のプロジェクトにかかわれるのは、会社という組織があるためです。

 

 「仕事」「用事」もそれがあることで、人同士をつなげる媒介となったり、私たちを守ってくれるものです。   

(参考)→「100%理解してくれる人はどこにもいない~人間同士の“理解”には条件が必要

 

 

 会社に属するメンバーにとって、機能する会社の第一のポイントは何かといえば、「位置と役割」を提供してくれるかどうか?にあります。会社の中にいれば、自動的に働き甲斐があるというわけではありません。

 そのなかで自分にふさわしい「位置と役割」が与えられていなければ、潜在的に失業しているのと、何も変わりません。

 

 高度成長期の会社は、いろいろと問題はありながらも、メンバーがやりがいを持ってモーレツに働けたのは、日本全体が成長期で、働けば働くほど会社も結果が出たからです。そして、成長がもたらす豊さが「位置と役割」を自然と与えてくれました。

 「売り上げはすべてを癒す」という言葉がありますが、社内で細かな問題はあっても、好業績で結果が出ているうちは皆幸せなのです。

 

 反対に、精緻にマネジメントしているような会社でも、業績が悪い会社はメンバーのやる気も下がるし、雰囲気はギスギスするし、ブラック企業として問題になるような問題も起きやすい。
 特に、社会全体の成長率が下がっているときに、売り上げ至上主義で厳しく社員にあたるような会社は最悪で、結果は出にくいのに、メンバーには厳しいものだから、
社員に自殺者が出たりといったような問題を引き起こしてしまいます。
 

 

 実は、自分にとって良い会社を選ぶときには、相性云々も大事ですが、会社や属する業界自体が業績が良いかどうかは大切なポイントです。業績が良いというのは、その会社が社会から必要とされている(位置と役割がある)ということであり、当然そのメンバーもそのように評価されているということだからです。
 反対に業績が悪い常態が続くと、「不要」として社会から退場(倒産)させられてしまいます。
 

 

 さらに、可能であればなんらかの「技術」を身に着けられるようになると、業績などの変動に対して、自分の位置と役割をまもりやすくなります。

「技術」や手に仕事があるということは、仕事の主体性を自分中心にすることができるということ。

 実際、筆者の経験でも、会社内で社内で自分の位置を守るためには、業績の良い部署にいるか? あるいは自分だけの経験、技術が必要でした(エキスパート職)。
それがないと、年とともに厳しくなっていき、「位置と役割」を奪われて、生殺与奪を他人にゆだねてしまうことになるのです。
 

 

 社会学者なども指摘していますが、
 「生きづらさ」の問題というのは、本来は社会、経済的な問題でした。
 現在は、個人の心の問題とされてしまう(私事化、個人化)。でも、それは間違いで、やはり構造の問題であることに変わりはありません。

(参考)→「あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服

 

「生きづらい」と感じているならば、それはまず第一に、「経済・社会問題」であり、次に「人間関係」であり、最後の最後が自分の問題ということが常識です。

 

 今、状況から抜け出せないのは、当人の問題というよりは、社会構造の問題であったり、その中でうまく社会の階段を上ることをアシストできなかった家族の機能不全問題であります。

 社会は低成長、ゼロ成長の時代ですから、成長の果実を得て、自分たちの「位置と役割」を実感しにくい。
 IT化やグローバル化で、かつてはあったような単純な仕事は日本にはなくなりつつある。
 会計士や税理士のような資格が必要な仕事でも、IT化されたり価格競争などでかつてのような仕事はなく、仕事にあぶれてしまう。
 さらにAI化の波が来ているため、将来安泰な仕事はどこにもない。

 

 現代は、私たちが人間らしく生きるために必要なもの、人づきあいの要件でもある「用事」「仕事」が徐々に失われていく社会です。かなり難しい時代の中で揉まれて生きているのが私たちです。

 
 そんな私たちが感じる不安や恐れを、「個々人の意識、心の問題だ」なんていう人がいたら、どうかしています。

 先に取り上げたドラッカーは、
 「位置と役割を持たない者にとって、社会は不合理に満ち、計算できず、かつとらえどころのない存在である。位置と役割を持たなければ社会からつまはじきにされる。根無し草の目に社会は見えない。彼らにとって社会は半分しか見えない。半分しか意味がなく、半分は暗闇という予測不能な魔物の世界にすぎない。自らの意思ではその生活の糧さえどうすることもできない。何がどうなっているかを理解することもできない。」

 

 「魔物の世界」とは、まさに、引きこもりで苦しんでいる人が感じる、社会への恐怖の感覚をそのまま言い当てているようです。

 仕事や会社とは、「位置と役割」がなければ、計算できない、不合理で、おそろしい魔物として立ちはだかりますし、「位置と役割」があると、「支配」の防波堤ともなります。

 私たちは、自分の尊厳、自由を守るためには、何とかして自分の「仕事(位置)」を獲得する必要があります。

 機能している「職場」や「仕事」というのは、「家」や「養育環境」からの悪影響から自由になれる場所になりえるのだ、ということを知ることはとても大切です。

 

 もちろんトラウマ(ストレス障害)などの影響で、社会恐怖が先行している場合もありますが、実は、「位置と役割」がないことが、生きづらさの原因の一つとなっている。「卵が先か鶏が先か」というようにねじれ合っている。そのため、「生きづらさ」から逃れるためには、家にずっといても解決は訪れず、社会の中で「位置と役割」をなんとか獲得していく必要があります。

 

 成人した後の家(実家)とはあくまで緊急避難先で、長期の滞在には適さないのです。家族の呪縛にとらわれたり、仕事に就けない期間が長くなることで条件は悪化し続けていき、身動きが取れなくなるためです。
 中国古典でも「恒産なくして恒心なし」といいますが、本当の“安全基地”である「自分の家」は、自ら経済的に自立して築く必要があります。

 

 上にも書きましたように大変な時代なので、なかなか長期に安定した仕事を得ることはだれにとっても難しい。
 それでも、就職支援、就労支援、カウンセリングなどもうまく活用して、働くためのスキルを身に着け、したたかに経験を積み重ねていく。
実際に、それまでうまく働けなかった方が、就労支援を経て、生き生きと活躍しているという例はたくさんあります。

 

 また、仕事を得たことで、それまでの悩みが緩和していった、というクライアントさんがいます。
 (以前にも書きましたが、人とのかかわりの中にいるほうが実は悩みは軽くなる)

(参考)→「他人といると意識は気をつかっていても、実はリラックスしている

 

 もちろん、職場はうまく選んでいく必要はありますし、右から左へと容易なものではありませんが、生きづらさの解決のためには、避けて通れないものです。

 医師やカウンセラー、そして公的サービスと連携していくことで、徐々に「位置と役割」を得て、悩み、支配から自由になる階段を上っていくことができます。
言葉を変えれば、一人で悩んでいた状態から、大変な時代に生きる私たちと共に悩めるようになっていきます。

 

 

 

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「You are Not OK」 の発作

 

 「この人といるとなんだか居心地が悪い」
 「この人といると、なんだか自信がなくなる」
 
というタイプの方がいます。

 かなり昔、筆者が出会った方で、ある組織の長である中年の男性がいらっしゃいました。この方は、「You are NOT OK」が体から溢れていました。一緒にいるとものすごく居心地が悪い。

 ある時、別のメンバーがその方とのやり取りでミスをしたのですが、そのメンバーはとても落ち込んでいました。

 普通でしたら、次から挽回すればいいや、というところなのですが、その方に関しては「You are NOT OK」が強すぎて、「どう頑張っても挽回できない」という雰囲気が出ていて、そのメンバーも絶望感や、自信喪失しか感じない、ということでした。

 

 

 こうした方は、私達の周りで少なくありません。
 仕事でもプライベートでも接していると妙にこちらが罪悪感や自信をなくすような感じを感じる方。
 

 他の例としては、他人の些細なルール違反やミスを突いて、大騒ぎをしないと気がすまない、という方もいます。世の中には、状況や慣習、価値観の差でルールの例外で運用されていることは多いものです。

 そこを正論でついて大騒ぎをして、「You are NOT OK」から「I’m OK」を得ようとする行為です。

 

 ドラマに出てくるような昔の姑さんタイプはこんな感じかもしれません。
「日常の掃除は、できる範囲で良い」ということも立派な割り切りであり、価値観ですが、「徹底しなくてはならない」という正論で、相手をやり込めて、自分の「勝ち」を得るわけです。

 

 会社などでも、文書の形式や、事務処理のルールが慣習的にゆるくなっていることもあります。そこを意図的について、部下をやり込めたりする上司というのはいます。 「お前はこんなルール違反をするようなルーズでおかしなやつで失格だ(≒だから俺の支配に服せ!)」という感じです。

 

 

 そうした自己愛が傷ついているために、「You are NOT OK」の発作が出てしまう人というのは世の中に多く存在します。
 「I’m NOT OK」を「I’m OK」にしたいからなのですが、それがどうしてもできないために起こります。

 

 養育環境がひどくて、特に親が、「You are NOT OK」のコミュニケーションを取っていたということも影響することがあります。周りを否定することで自分をなんとか保つ、ということが行われていて、家族はその配役とされていました。 親が他人の悪口ばかりを言う、ということは珍しくありません。

 

 別の場合は、「関係念慮」といって、あまりにも被害者意識が強くなりすぎたり、身体の失調から、認知に歪みが生じていたり、ノイズをキャンセルできない場合。これも、「You are NOT OK」の発作が促進されます。

(参考)→「「関係念慮(被害関係念慮、妄想)」

 まわりは、ちょっとした仕草、態度も自分を否定しているとしか見えず、「ひどい奴ばっか」「自分のことを悪く言っている」という風にしか見えなくなります。

 そこから逃れるためには強い不安を払拭して自分を保つためには、相手を徹底的に否定するしかありません。 (「関係念慮」はその方にとっては真実ですから、その渦中にいる人を疑念の渦から掬い上げるのは容易なことではありません。 周囲が「それはさすがに思い込みすぎでは?」と事実を伝えると「あなたもひどい(You are NOT OK too)」と逆恨みされて大変なことになりますので、
辛抱強く共感して、安心安全感を高めることが必要になります。)

 「You are NOT OK」は、発作のように起きていることなので、とても厄介。他人を巻き込みながら、かろうじて「I’m OK」を得ようとします。

 

   

 そうした「You are NOT OK」のメッセージを浴びたときは、まずは真に受けない。発作のような現象であり、背景には自己愛の傷つきがあるのだ、と知ること。多くの場合、真正面から否定すると相手は怒り出しますから、最初は形式的に承って、それからゆっくり、静かに「そのようなことはありません。ご安心ください」と伝えると、ダメージを最小限にして、相手は勝手が違うと思い、去っていきます。
 (頭の中で「あなたは大丈夫」と思ってあげることも、良いかもしれません。自然と伝わって、「You are NOT OK」を作り出さなくても、「I’m OK」を感じてもらうことができます)

 

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

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「反省」するととらわれ、支配される。人間に必要なのは「学習」である。

 

 人の意見を単なる意見として真に受けないなら、反対に、独りよがりになって、人間として間違ってしまうのではないか?曲がってしまうのではないか?と不安になるかもしれません。

 

 トラウマを負った人というのは、とても真面目で向上心がありします。厳しい意見も反省して自分を鍛えなければいけない、とおっしゃる方は多い。
 

 ただ、それは人間の本質や世間のプロトコル(関係の手順)とは異なって、生きづらさを生み出してもいます。
 

「反省」ということもその最たるものです。

 

 実は、人として間違うときというのは、人の意見を聞きすぎたり、それに対抗しようとしたときであることがほとんど。反省しないからではない。

 

 そもそも、人間には「反省」はできない。反省するとむしろ歪んでしまう。

 

 

 なぜかというと、人間の行動の要因というのは、とても多要因、多次元であって、その結果だけを見ると「人」が起こしているように見えますが、実際は違うことがほとんど。

 

 例えば、人が何かを盗んだ、明らかに証拠もある、というとき。法的にはその人の罪です。
 

しかし、その犯罪に至った原因は?ととらえると 

 経済状況
 養育環境
 教育
 体質、気質の問題
 社会、文化的な要因

 など、多岐にわたります。
 
貧しい国でしたら、やむにやまれず窃盗を起こすことがあります。
難しい養育環境で育った可能性があります。
教育が受けられずに、安定した職につけなかった可能性もあります。
摂食障害では、自分でもコントロール出来ないままに、食べ物を盗んでしまうことがあります。
窃盗癖という精神障害もあります。

 

 こうなってくると、原因をその「人」に単純に帰することができなくなってくる。

 

事実、無理に反省させても逆効果になることを描いたのが、元刑務官が書いた
岡本茂樹「反省させると犯罪者になります」です。

 

 

 

 

 

 

 

 

人間は直感的に物事の本質を把握しています。
だから、「あなたのせいでしょ?反省しろ」と言われても、腑に落ちないのはなぜかといえば、人間の直感が物事は多要因、多次元であると知り、本当の要因を察知しているから。
単要因に回帰させていることがおかしい、割り切れないということがわかっているからです。

 

 

こうしたことは統計的にも裏付けられます。
大学などで統計に触れた方はご存知かもしれませんが、社会科学においては、明らかに「AはBの原因だ」とおもうような事象でも、統計解析にかけると、影響力は3割にも満たないことがしばしば(単純に言えば10割だと100%それが要因)。
※状況によっては3割でもなかなか高い割合とされます。しかも、物事は、「因果(原因→結果)」ではなく、「相関(要素←→要素)」の関係です。

 

 

 世の中は多要因ですが、人間はかなり単純化して捉えてしまっているわけです。

 特に、「人」は「人」に惹きつけられますので、多くの場合、自他ともに「人」に原因を帰することを安易にしてしまっています。

 

 さらに、世の中では嫉妬、支配、攻撃、ストレスの処理で相手にイライラをぶつけて因縁をつけるといったノイズも多い。99%はノイズといってもよいくらい。

 本当の問題を把握するためには、ノイズもクリアにしないといけない。多くの場合、ノイズが作り出したニセの問題であることがほとんど。本当に「反省」すべきことは限られてもいるのです。

 

 こうしたことを考えると、「反省」とはなにか?「反省する」ということは、とても難しいことがわかります。結論を言えば、人間には「反省」はできない、ということ。

無理に反省をすると、帰属エラーを起こしておかしくなってしまいます。

 

 実際、皆様もいかがでしょうか?例えば、筆者の経験でも、よく考えればこれまでの人生で「反省」して自分が向上したことは基本的には一度もありませんでした。むしろ、萎縮する、抑制される感じで、良くなったとしても、それは母屋を取られた破産者のような感覚でしかありませんでした。

 

 

一方で、人間は改善したり、成長したりしてきています。

それはどうやって実現しているのでしょうか?

それは、「学習」というメカニズムによってです。

 

ハラスメント研究で知られる安冨歩教授は、
「人間社会は学習を基礎としており、学習は情動と感情を基礎としている」「学習とは、新たなコンテキストを獲得していくこと」としています

もっと簡単に言えば、
学習とは、情動、感情というような無意識的、生体的なレベルから世界との関係を更新していく作業、ということです。

 

 例えば、同じような景色を見ていても、人間の認知能力では全部を捉えきれることはできませんから、省略、削除して捉えています。
 情動に素直になってありのままにみていると、見え方、感じ方は自然と更新されていきます。

 そこに、不適切なラベルやレッテルが入ると、その「学習」は閉ざされていってしまいます。
(例えば、「そんないつもと同じ景色じゃん」とか、「あなたが感じることができるわけがない」といったようなこと)

 私達の日常の体験もそうです。
本来、失敗も成功もなく、ただ、多要因、多次元の出来事が流れていっているだけです。

 多要因のままを身体、無意識で感じ取れば、自然と身体と無意識は修正していってくれます。
フォーカシングや暴露(エクスポージャー)といった方法はまさにそれを利用しています。

 

 

スポーツ選手などは顕著ですが、一流の選手であればあるほど、私達が思うような「反省」などはしません。失敗しても自分を責めてわびたりなどしません。

野球のピッチャーなどは相手にぶつけても、負けても平然としている方がよし、とされる。

 

それで、人間としてだめになっていくか、といえばそうではなく、意識、無意識に「学習」している。
自分の身体と対話したり、あとで総合的に分析していたり。

 

本来の人間のあり方とはそういうものではないか?

 

タモリさんの有名な言葉に、「反省しない」という言葉があります。

なぜ「笑っていいともが長寿番組になったか?」と聞かれた際に、「反省しなかったから」と答えています。
直感的にそのほうが正しいと知っていたからかもしれません。

 

日常では、社会的な約束事として便宜的に、「誰かの責任」とすることはありますが、いたずらに反省しても意味はない。むしろもっと悪くなる。

 

「反省」というのはそれ自体がハラスメント的であって、人間的ではない。
 強いて言えば、すべてを知った「神」であればできるかもしれないけども、人間には扱えない行為。
 「反省は」それを悪用して、相手への攻撃、支配の道具として用いられてきた。

 

 多次元、多要因である世界を捉え、循環する自然に生きる人間に適した行為は「学習」。

 さらに上記でも書きましたが、世の中では嫉妬、支配、攻撃、ストレスの処理で相手に因縁をつけといったノイズも多い。99%はノイズ。

 だから、文句を言われたり、失礼なことを言われたりしても、真摯に承っても、そのまま真に受けない。いきなり反省したりしない。無意識に任せて、構造を捉える。

 

 実際に、明らかに自分が悪いと思わされる場面でも、催眠や筋反射を応用して無意識に聞くと「ちがうよ。悪くないよ」という答えが帰ってくることがほとんど。それは、心(無意識)が多要因を捉えているからだと思われます。

 

 

支配、ハラスメントから身を守るためにも、

「反省」ではなく、「学習」を意識する。

 

このことはとても大切なことです。

 

 

 

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