昔、ドラゴンボールで、「元気玉」という技がありました。
世界のみんなからほんのちょっとずつ元気を分けてもらって、大きなボールを作って、それで敵を倒す、というもの。
それぞれからはほんのちょっとずつ元気をもらうだけなのであげた側もあげたことにも気が付かない。
少しずつの力ですが、まとまると最強の敵も倒すようなものになる必殺技です。
ただ、それぞれからは気づかないくらいちょっとずつ、というところがミソです。
実は私たちのBeing(存在)もそのような構造でできています。
目の前にある人や物事(仕事とか趣味)からは、ほんのちょっとしかBeingを満たすものは得られない。
100が満タンだとしたら、最大でも0.01くらいしか得られない。
それは、親であろうと、家族であろうと、恋人であろうと、教師であろうと、治療者であろうと。
だから、日常では、目の前からは、気づかない程度の充足しか得られないまま過ごします。
(参考)→「一つのモノや人、コトからはすべては得られない。」
どうしてそれで満足できるかといえば、生育歴の中で基本的な充足が完了する状態になっているからです。
それが「愛着」というもので、内燃のサイクルである程度満たせるようになっているから。
だから、Being とDoing が分離できていて、Doingのやり取りに集中することができている。
(参考)→「「愛着障害」とは何か?その特徴と悩み、4つの愛着スタイルについて」
しかし、Beingを内燃的に充足できる体制にないとどうなるかといえば、目の前の人や物から10、20、場合によっては100の充足を得ようとしてこだわってしまう。
本来は、0.01しかもらえないことがわからずに、「なんで0.01なんだ!? 対応が悪い!大事にされていない!」といって、怒ってしまう。
自分が否定されたように、負けたように感じてしまうのを防ぐために食い下がってしまう。
相手を非難して巻き込んで、なんとか10、20を得ようとする。
しかし、実際にはそんなにたくさんのものは得られない。
(参考)→「100%理解してくれる人はどこにもいない~人間同士の“理解”には条件が必要」
さらに、困ったことに、Beingの受容の閾値が高い状態に設定されているので、せっかくもらった0.01以下のものをうまく吸収することができない。
そうして、余計に飢餓感を感じてしまうのです。
「愛着障害とは愛着が得られないことではなく、受け取れないこと」といわれますが、まさにそのような状態になってしまいます。
(参考)→「「愛着障害」とは何か?その特徴と悩み、4つの愛着スタイルについて」
健康な状態では、Being とDoing が分離している、ということをお伝えしたことがありますが、上に見ましたように、それは世界の構造的にもそのようになっている、ということです。
日常では、ほんのちょっとのBeingしかえられないのですから、一体であると捉えていると世の中の実際と適合しなくなる。
日常のDoingに集中することができなくなります。
(参考)→「存在(Being)は、行動(Doing)とは、本来全く別のもの」
最大でも0.01しか得られないと知っておくと、世の中や、普段関わる人に落胆がなくなります。まあ、こんなもんだな、と思える。すると、閾値が下がって、愛着に対する感覚が適正なものになってきます。
また、こちらから人と接する場合の感覚も変わってきます。
今までは、Beingを20、30も与えないと見捨てられると思っていて、0.01しか与えられない自分を責めたり、こだわっていたのが、誰でも0.01程度しか与えられないんだ、とわかれば、もっと軽く接することができるようになる。
自他の区別がついて、ドライに接することができるようになります。
(参考)→「「自他の区別」を見捨てられている証拠と歪曲される~素っ気ないコミュニケーションは大歓迎」
反対に、なにか失敗したとしても、それは最大でも0.01分のBeingを失うことでしかない。
だから、気にせずにまたチャレンジしていけばいい、となっていく。
つまり、日常では、Being というのは意識に昇ってくることはないということです。日常は、ほぼDoingの世界であるということ。
Being はなにかじんわりと感じるもので、強く感じられるものではそもそもありません。
愛着障害の回復というのはこうした世の中のしくみがわかることでもあり、心身のBeing受容体が適切な閾値に戻ることでもあります。
(参考)→「「愛着障害」とは何か?その特徴と悩み、4つの愛着スタイルについて」
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