人は、自己愛が傷つくと、相手を「負かして」、自分が「勝つ」ことで存在を保とうとする

 

 私たち人間というのは、関係性の中で、「位置と役割」を得て、自分の自信や存在価値というものを感じ取ることができています。

 その一番の土台は「愛着」というもので、コンピュータのOSのようにワンパッケージで提供してくれます。
 そこから得られる自信、存在価値という感覚は、身体レベルのものです。
 身体レベルでの「安心安全」。頭で理屈付けする必要のないような感覚です(「理由わからないけど、当たり前」という感じ)。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 

 愛着不安やトラウマ(ストレスによるストレス応答系の失調)、発達障害などになると、そうした身体レベルでの安心安全が崩れます。すると、コンパスが乱れて自分自身の「位置と役割」が感じにくくなり、根拠のない自信、存在価値というものが感じ取れなくなります。

 

 すると、頭(論理的に)で、自分自身の存在価値を構築する必要があります。ただ、この作業は本当に難しい作業です。

 なぜかというと、人間が自分の存在価値を証明する、というのは、たとえば、哲学者カントとかヘーゲルとかハイデガーとか、そうした天才たちでも完全にはできなかったような、とてつもない作業を一人でしなければならないからです。
 

 トラウマを負った人というのは頭のいい人が多い、という印象はここから来るのかもしれません。自分で色々と考えざるを得ないからです。
 

 

 生きづらさも極まったり、自分で考えることに疲れてくると、一足飛びに承認を得たい、という感覚になります。

 超越的ななにかとつながって、自分の価値や自身を認めるような関係がほしい。それがスピリチュアルなものへの関心、という形で現れることがあります。

 

 筆者も昔、天を指差す海外のスポーツ選手の仕草を見て
「キリスト教とか、一神教というのは羨ましいなあ」と感じたことがありました。自分で考えたり、煩わしい人との関係は抜きにして、自信を構築できる手段があるように見えたからです。

 

 問題なのは、人間にとって正しい正しくないとはしばしば相対的です。すると、頭のレベル(論理的に)で自分の正しさ( I’m OK )を証明するためには、誰かを敵として相手を貶めるしかない(「勝ち」を得る)、というところがあります。
 
 宗教などでも、異端とされる側の人たちを徹底的に殲滅しないと、自分たちが正しいと証明が難しい。ですから、苛烈を極めます。

 

 

 トラウマを負った人にとっても、「You are Not OK」という態度になりやすい。もちろん、自分にも根底ではどうしても自信がないのが拭えないのですが、躁的防衛で自分を高めて、相手を「You are Not OK」と思うこと(自己愛性パーソナリティ障害的な状態)で、自信をなんとかこしらえることができます。

 それが外に向くと、事業や仕事で一時的に活躍できたりすることがあります。

 

 

 自己愛が傷ついている状態の人というのがいます。トラウマを負った人たちにとっては、ハラスメントを仕掛けてくる側の人たち、といえるかもしれません。

 自己愛が傷ついているということは、常に「負け( I’m NOT OK )」を抱えている、ということです。
 
 人間、「負け( I’m NOT OK )」を抱えている状態を解消するためには、相手に「勝つ(You are Not OK)」しかありません。

 

 それが事業、仕事とか生産的なものに向く場合は良いのですが、そうした手段も奪われている人たち、あるいはあまりにも「負け」が混んでしまっていてにっちもさっちもいかない人、身体レベルでも強い不安、自信喪失を抱えている人は、他者を貶めることで、「勝ち( I’m OK )」を得ようとします。

 

 無意識に「勝てる(You are Not OK)」人を探そうとします。

 
 そうして「勝てる(You are Not OK)」人を見つけて、相手の行動に因縁をつけて、相手をコテンパンにやっつけようとします。

 例えば、ちょっとした態度や仕草、言葉尻、メールの文面を取り上げては「失礼だ」として怒り出したり。応じた相手を徹底的に人格攻撃をしたり。
 

その時の攻撃というのが、徹底しているのは、「勝つ」ためです。
 そのため攻撃(ハラスメント)を受けた側は、「こんなに非難されるということは、自分はよほどひどい人間なんだ」、と真に受ける必要はありません。
 なぜなら、「勝つ=相手を徹底的に負かす」ということだからです。
 相手を全くだめな人間だ、という形にしなければ、「勝ち」がつかないからです。

 自己愛が傷つくと側頭葉に怒りがたまり、認知に歪みが生じていますから、本人も半分無意識的に行っていることです。

 そうして「勝ち」を拾って、自分を一時的に癒そうとします。ただ、一時的なものですし、根本的には、何も解決しませんので、次の対象を探して、回ることになります。

 

 

 こうした人達が、世の中の「サービス業」の周辺を回遊していたりします。
 (境界性パーソナリティ障害、発達障害の一部の人達などがそれに当たると考えられます。)

 サービス業で目指すのは経済的にはWin-Win ですが、精神的には「Lose-Win」(お店側が負け-お客様が勝ち)という体(演技)をあえてとっているのは(「出血大サービス」という表現を使っているのは、まさにそうですね。「私達は大負けして、あなた達が勝っているんですよ」というニュアンス)

 

 トラウマを負った人は、この負ける演技をすることがうまくできない。ニュートラルな関係の中で、演技(=儀礼)をすることなのですが、すごくへりくだりすぎてしまったり、演技をせずに棒立ちになったりするので、相手は嫉妬を起こしたり、あるいは脅威、「負け」を感じてこちらに勝とうとして、失礼なことを言ってきたり、輪をかけてこちらを攻撃してきたりするようになります。

 人間は相手に「負け(You are Not OK)」を負わせて、自分の勝ちを得ようとする生き物、ということも世の中の裏ルールと言えるかもしれません。

そのルールを知った上で、うまく対処する必要があります。

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

親の主務も、「安心安全(承認)」の提供だけでよい~「あれもこれも」は幻想

 近年はワークライフバランス、働き方改革、ということで、残業や働きすぎを見直そうという取り組みが広がっています。良い傾向ではないかと思います。

 しかし、一昔前は、現場の社員が創意工夫でサービスを作り出して、いろいろな仕事をこなすことを求め、「あれもこれも」という時代がありました。
 

 例えば、リッツカールトンホテルなどでは、ホテルマンが自分の裁量でお客様にサービスして感動させることが伝説となっています。忘れ物をわざわざ届けたり。誕生日を演出したり。そんな姿を理想として、一般の会社でも真似しようとしたり、といったことが流行りました。 
 
 筆者の知人は、大手の宅配便のドライバーをしていましたが、当時、ドライバーなのに名産品を宅配先で売る?ということをしていました。会社からノルマがあるとのことで。もしかしたら。これも現場の社員に、いろいろな役割をこなさせることがはやっていた例の一つかもしれません。

 結果、どうなったかというと、やることがあれもこれもと増え、残業しても追いつかず、現場は疲弊していきました。筆者も昔、そうした現場の中にいた一人です。営業から契約、入金管理、サービスの設計、プロジェクトの管理から何からをやらなければならず、見積もり一つ作るのでも徹夜でヘトヘト、といった具合です。

 

 試行錯誤して、日本の会社がようやく気付いてきたのは、「どうやら、人間は、あれもこれも、いくつもの役割をこなすことはできない」ということです。高学歴な人が集まる大企業でさえ同様です。コンサルタントといった優秀に見える層でも何でもできるわけではありません。専門化され、役割が絞られていないと、力は発揮できないものです。

 反対に、うまくいっている会社は「あれもこれも」ではなく、役割が絞られていて、会社全体でよい商品、サービスを作って、シンプルに提供する、ということに徹しているようです。

 

 今、サッカーのワールドカップが開催されています。最近は、ボリバレントといって複数のポジションができることが推奨されています。それでもせいぜい2つ程度まで。ロナウド(世界最高の選手)がキーパーをしても活躍できませんし、メッシ(これも世界最高の選手)がディフェンダーをしても活躍できません。スーパースターも案外不器用なのです。そして、優勝候補はチームの戦略が一貫しています。

 「あれもこれもできる」というのは幻想です。

 

 あれもこれもできているように見える人というのは、実は主の役割が明確で、そこで活躍出来ている、ということがあります。

 主務で力を発揮できているから、余裕が生まれて、その他のこともできるし、出来ているように見える。

 

 スポーツ選手でも、長所で活躍できるから、短所もカバーできたり、いろんな才能を発揮できたりする(出来ているように見えたりする)。

 

 

 親業もこれにあてはまるのではないかと思います。

 特に母親にはいろいろな役割が求められています。食事、洗濯、掃除、買い物のみならず、しつけ、教育、PTA、習い事の送迎、さらに外でのパート、親戚づきあい、近所付き合いなど。最近は宿題の採点も親の仕事だったりします。

 ここに子供が病弱だとか、さらにシングルマザーなどの条件が重なると本当に大変になります。

 イライラして途方に暮れるのも当然のことです。  
 

 上の会社の例と同様ですが、
 親に「あれもこれも」と複数の役割を求めるのは、そもそも限界があります。

 複数の役割がこなせているように見える場合は、なんらかしら周囲のサポートがあってぎりぎりに成り立っていることがほとんど。

 でも、厄介なのは、中学、高校のテストの時に、「勉強していない」と真顔でうそをつくクラスメイトが必ずいたように、人間はうまくいっていることは表に出し、自分が家事、育児ができていないことは、隠したりする傾向があること。

 

 また、周囲からの有形無形のサポートがあって親業は成り立っていることに気づかずに(子どもの育てやすさも生まれ持っての気質にもかなり左右されます)、自分の力だと勘違いして、そんな人が育児の指南書を書いたり、雑誌のインタビューを受けたりして・・・そんなものも幻想です。 本は売りやすいように内容が極端に装飾されますし、芸能人はイメージの商売ですからなおさらです。

 

 トラウマを負った人は真面目なので、そうしたことを真に受けて、「自分はいろいろなことをうまくこなせない」と自分を責めてしまったりします。

 

 私たち人間は、能力が高いそうに見える人でさえ、いくつもの役割をこなすなんて、そんなことはできないものです。

 親業における「あれもこれもできて当たり前」というのも、私たちを苦しめている幻想かもしれません。

 

 では、親業においては、主たる任務(機能)は何か?

 それは、「子供にとっての安全基地であること」。この1点。
 動物にとっての巣のように、社会に出る冒険から戻ってこれる場所であり、そこでは安心安全が約束され、生きるために必要な養育の機能と、社会に出るための基本的な教育や導きが提供されるところです。
 安心安全は主に母親、社会に出るための導きは主に父親から提供されます。

 

 「安心安全」とは、食事とか健康など物理的にももちろんですが、精神的には「存在の承認」という形で行われます。

 安心安全は、赤ちゃんのころ(生後半年から2歳ごろまで)は、しっかり抱っこしてスキンシップをとることで果たされます。その時期ではぐくまれる絆が「愛着」と呼ばれます。
(参考)→「「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 

 成長してからも、家の中が物理的にも、精神的にも安全で安心できる環境を提供することはとても大切です。さらに、言葉や態度で、「あなたは大丈夫」ということを折に触れて伝えることです。すると適度に距離が取れて、自立にもつながっていきます。
 過保護が良くないのは、「あなたは大丈夫じゃない(だから私が面倒を見る)」という前提があるから。

 

 家庭の中では、家の外の人がするような弱点を修正するようなアドバイスは二の次。

 私たちが家族にされて一番腹が立つのは、外でトラブルがあった時に、家族が味方をしてくれないことです。
「あなたにも悪いところがあったから、そんな目にあったんじゃないの?」とか、「ここを直せば」なんていうことが一番頭にくることです。
 大人になって私たちが痛切に願うのは、家族からの「あなたは大丈夫」というメッセージがほしい、ということです。

 

 もちろん、人間ですから、社会的スキルは学ばなければならないのですが、そのためにも家庭は揺るがない「安全基地」であることが必要。安全基地が揺らいでいては、安心して探索には出れない。
 

 学力で重要とされる非認知能力も「愛着」を土台としています。「安心安全」感が保たれていれば、そこを土台にスキル、経験ははぐくまれていきます。
(先日の記事で紹介した、ロジャーズの受容されることで人間は成長する、ということの根拠があるとしたらここにあると考えられます。)
(参考)→「「安心安全」と「関係」
 

 

 そして、主として父親が、社会への導きを行う。教育など必要な機会を提供したり、アドバイスをしたりする。
安全基地から出て、社会への探索行動の手引きを行うイメージです。

 しつけや教育はどうか?といえば、研究者が明らかにしていますが、実は、厳しいイメージのある戦前の家庭は家でしつけをしていなかった、しつけは、仕事を通じて行われていたようです
参考:広田照幸「日本人のしつけは衰退したか」)。
 

 どうやら、しつけや教育とは、親の本来的な役割ではないようです。どちらかというと戦前よりも「ゆとり」といわれる現代のほうが家のしつけはしっかりしている。

 「昔は厳しく、今はしつけが甘い」とは、先入観でしかないようです。よくTVなどで、厳しくしつけをしていることを誇る芸能人などもいますが、親が植え付ける超自我(規範)が強すぎることは、成長してから生きづらさ(呪縛)を生んだり大きく問題になります。

 

 実際、自閉症への療育でも、かつては厳しいしつけで成果を上げ注目されましたが、成長してから問題行動が頻発するようになり、今では厳しいしつけは行われなくなりました。定型発達においても同様のことは考えられます。 

 A・グリューンなどは、厳しいしつけのことをある種のハラスメント、「闇教育」と読んでいます。
(参考)→「あなたの苦しみはモラハラのせいかも?<ハラスメント>とは何か

 

 教育やしつけは大切ですが、親がすべてを行おうとすると「あれもこれも」となって、イライラしたりして、結局一番大事にな「安心安全(承認)」が脅かされることになりがちです。

 本来しつけや教育は家族以外の場で行われていましたし、教師や奉公先の主人が行うように家族以外の人のほうが適していることも多い(生みの親より育ての親)。戦前は家庭の外や仕事の現場で行われていた。

 一方で、家族以外の人が「安全基地」になれるか、といえばなかなか難しい。学校の先生やカウンセラーでも、親代わりにはなれないものです。

 

 そのため、親は主務(安全基地の提供)をしっかり行うことだけ意識して、教育、しつけは基本的に外の力を借りるつもりでいる(余力があれば家庭の中で行ってもよいですが、余裕がなくなりイライラして家が安全基地ではなくなるくらいならやらないほうがいい)。※もちろん、放任主義ということではまったくありません。

 

 現代の親は、「あれもこれも」と多機能を求められて、なかなかつらいものがあります。「あれもこれも」は誰もできません。それは難しいこと。

 

 主務は「安全基地の提供」だとして、優先順位を明確にできると、「あれもこれも」がなくなり、親としての負担感もヘリますし、子どもへのイライラも少なくなります。なにより、昨今、重要とされる非認知能力を高めることにもつながりますし、「愛着」理論その他、臨床の現場の感覚からしても、負担なく合理的なスタンスだと思います。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 

 

 実際、「安全基地の提供」だけを意識したクライアントさんは、子どもへのかかわりがすごく楽になった、とおっしゃいます。

 

 本来の親の役割は何か?ということをポイントを絞って意識すると、子育てはもっと楽になるかもしれません。

 

 

(参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

階級意識

 

 現代の日本に生きているとあまりピンと来ないかもしれませんが、人間社会には、長く階級が存在してきました。

 

 日本でも、「貴族」や「武士」といった分け方や、「士農工商」といった分類がありました。
 現在でも階級のある国は少なくありません。

 

 インドのカースト制度は有名ですし、知らない人も多いですが、イギリスは今でも階級社会です。
「ジェントルマン階級」や「労働者階級」という区分が存在します。
(ちなみに、ロンドンの土地は20数名のジェントルマンたちが所有していて、一般の人はそれを長期間賃貸にて利用しているそうです。)

 


 こうしたことから、人間には、「階級意識」というものが原的に存在することは考えられます。

 

 その「階級意識」が意味なく過剰に作用してしまうことで、自分を他人よりも下に置いたりしてしまって、「自信のなさ」や「うしろめたさ」といったものが根拠なく出てきてしまう、可能性があります。

 
 一方で逆に、階級意識が機能低下していることも問題です。

 結果として、他者を尊敬できず、他人の嫉妬を招いてしまう、というケースもあります。フランス革命の後の混乱は、秩序が壊れて嫉妬や恐怖が渦巻く、まさに狂気の時代でした。
 逆の意味で階級意識が壊れてなくなるというのも恐ろしいことです。

 

 なぜかというと、階級があるほうが、社会としては安定していたり、そこで生きる人の心情も分をわきまえて穏やかということがあります。
 自分の住む小世界の中で勝者になれて、ほかの世界のことはまったく関心、関係がない(敬意を払うが、別世界)ということです。

 

 階級がなくなっても、環境に伴った差が相変わらずあるにもかかわらず、機会の平等の結果であるということで個人の責任にさせられてしまい、理不尽さはさらに強まります。そのため嫉妬といった俗な感情が際立ってしまうのです。

 

 

 インドのように因習となると問題ですが、階級意識があることが悪いことであるとは一概には言えません。


 平等な社会のほうが差別はむしろ苛烈になることがあります。

 愛着不安や、トラウマにさいなまれると、人に対して妙にへりくだったり、尊大になったり、他者からいじめられたり、ということが起きやすいのです。

 

 その原因として「階級意識」がうまく働いていないのかも?
という観点から見るとなかなか面白いです。

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

 

それ、単に攻撃されているだけですよ

 
 トラウマを負った方は裏ルールが分からないために、二階建てになっていることが分かりません。

 きれいな二階部分のみが世の中全体であるように見えています。

 

 そうすると、他人からの悪意、敵意や邪念に接したときに
それが世の中では当たり前の一階部分であることが分かりません。

 

 するとどうなるかというと、

 きれいな二階部分のみであるはずの世の中で、相手から悪意、敵意や邪念を向けられる自分はよほど何か問題があるのではないか?自分が悪いのではないか?
本来は善人であるはずの相手を怒らせるようなとても失礼なことをしでかしたのではないか?

としてダブルバインドにかかり、自分を責め、罪悪感を感じるようになるのです。

 

 
 もっといえば、相手に罪悪感を抱かせるのも攻撃の一種です。
 世の中が二階建てになっていることをわかっている普通の人たちからしたら、


「それ、単に攻撃されているだけですよ」

「いじわるされているだけですよ」

「嫉妬されているだけですよ」

という話なのですが、そのことがどうも理解できません。

 

 さながら、カルト教団に入っている信者さんが、教祖のおかしなふるまいを見て、そのように見える自分の頭がおかしい、と自分を責めるかのようです。

 

 信じていない人から見たら、

 「それ、教祖さんがおかしいだけですよ」

で終了なのですが。

 

 

 自分のコミュニケーションの能力の問題だ、として、自己啓発に励んでみたり、NLPなどを学んでみたりするのですが、根本的な解決策にはなりません。

 

 それはそうですが、前提がずれているのですから。
(二階部分しかない世界で自分がおかしいから問題が起きている、と思い込んでいる)

 

 相手からの悪意、敵意、邪念が飛んで来たら、それをキャンセルする力が必要です。その大元は「愛着」になります。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 

 

 ただ、トラウマを負った多くの人の場合、愛着が持てていません。そのため孤独な中、自分で自分を支えなければなりません。

 

 頭を使って自分の正当性の根拠を探そうとして、攻撃してきた相手の不正の証拠を見つけようとします。

 そのために、ぐるぐると頭が回り続けるようになります。

 

 

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