トラウマを負った人は、私って呪われているかも?!と感じる。

 

 

 トラウマを負った人は、なぜか人とうまくいきません。

 波長が合わないために、人といると緊張している(ように感じるし)、へとへとになるし、その割に報われないし、で本当に嫌になります。

 

 

 
 例えば、人と接しているときには内面では、
「最初はいいけど、そのうち、このにこにこしている人は私の内面を見破って、嫌いになるのではないか?」
「私がダメな人間であることがバレるのではないか?」
「今はいいけど、私のことを批判してきて、結局、険悪な関係になるのではないか?」
とびくびくしながら接しています。
「失礼があってはいけない!」として、一生懸命に接しますが、空回りしてしまいます。

 

 会話も上ずっているような気がしてきます。

 

 

 
 で、実際に相手とはうまくいかなくなったり、こちらの声が伝わったかと思うように、相手が自分を攻撃してくることも起こります。

 

 

 
 そんなことが続きますから、
「私は、本当に呪われているのではないか?」
「私は、本質的に、何か見えないものを背負った人間ではないか?」
「私は、人格的にどうしようもない人間なのではないか?」
と感じるようにもなります。

 人が怖くもなりますし、人が億劫にもなります。

 

 

 そのどうしようもなさを解消するために、ある人は途方に暮れる
ある人はスピリチュアルな世界に救いを求めるようになるかもしれません。
呪いを解くためには、そういう世界のほうが良いようにも見えます。

 

 
 従来あるセラピーであれば、それはあなたの選択次第で、それを解除すればいいんですよ、といった説明をするものもあります。
 実際にセラピーを受けてみても、効果が芳しくなかったりします。

 

 

 

 なにをやってもうまくいかない、と途方に暮れてしまったときに、呪われているのではないか?と思うのも無理はありません。

 
 普通の人たちは例えば、
「あいつは、俺に挨拶がなかった」といったり、
「あの人はご近所にも挨拶して、いい人だったわ」というように、
挨拶を重視しています。挨拶をしているだけで好意を持たれたりします。

 

 コミュニケーションにもツボ(プロトコル)があって、
ちょっとしたツボさえ押さえていれば、問題にはならず、人と一体感を得ることができるのでしょう。
 たった挨拶だけでOKをもらえたりする。これは目に見えない1階部分に相当します。

(参考)→「世の中は”二階建て”になっている。

 

 

 人間の自己愛は安定している人でさえ、尊重されたいと願っていますから、リスペクトを伝える、は基本となります。

 挨拶はその一つだし、
コミュニケーションにおいて、視線を交わしたり、
ポイントポイントで了解を取ったり、ということは、
人と接するうえでは必要になります。

 

 ただ、普通はオートマチックに動くようになっていますから、さほど難しいことではありません。

 

 

 トラウマを負っていると、ストレス応答系の失調が起こります。そうすると、他人とリズムが合わずに、相手からの些細なコミュニケーションが強いストレスとなり、対人関係は怖いものになります。

 

 できるだけ人を避ける、
目を合わせられない、
話をしているときもニコニコしているけど、内心はビクビクしている。
本当の意味でのリスペクトではなく、恐れや蔑視で人と接している。

 ツボを外してコミュニケーションをしてしまいます。

 

 

 一つ一つは何でもないことですが、
相手からするとプロトコルが異なる接し方からをされるので、
「あれ?なんか、普通とは違うな、おかしいな」
「自分はバカにされているのかな?嫌いなのかな?」
「なんか不快だな」

となって、嫌悪感がわいてきたり、怒ってしまったり、ということになるのです。
呪いとか、その人の人格のせいではもちろんなくて、単にストレス応答系の失調故に起きた問題であって、

 もともとは誰も悪くありません。

 

 

 しかし、日常では、だれも(1階部分の)理屈を説明してくれないし、

 セラピーや自己啓発の本を読むと、マニュアル的な説明や、「あなたが変われば、相手も変わる」といった引き寄せ系の説明ばかりで、
実践しようとしてもうまくいきません。

 

 理屈を頭に入れるだけではなく、ストレス応答系がオートマチックに働いてくれないと対人関係は機能しないからです。

 

 そのうち、
「やっぱり、自分は人間的におかしいのかも?!呪われているのでは?」と思うようになって、混迷の度合いを強めて、迷いの森へと入っていってしまうのです。

 

 

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

他人といると意識は気をつかっていても、実はリラックスしている

 

 カウンセリングやセラピーにおいては、しばしば関係を切って孤独にあるときに変化が起きる、とする考えが唱えられてきました。

 家族療法という手法も存在するように、関係は人間を拘束し、支配する。そこから自由にならないといけない。

 

 そのためには、呪縛にきずき、そこから解き放たれ、本当は立派な人間であることに気が付かないといけない。

そのような考えはよく耳にします。

 

 

 確かに魅力的な考えで、説得力もあります。ただし、実際に実践してみると苦しくなってくる。すぐに限界がやってきてしまうのです。結局は、もともとそれができる人にとっての「強者の論理」であることがわかってきます。

 

 

 
 一方、関係が人を癒す、という考えもあります。人の中でこそ人は癒されていく、という考えです。

 

 

 いずれが正しいのか、理屈で論じてみても神学論争になってしまいがちです。

 

 最近は、スマートウォッチ、活動量計と呼ばれるものを用いて、簡単に心身の状況を自分でモニタすることができる便利な時代になっています。歩いた歩数や睡眠の状況はもちろんですが、最新のものでは、脈拍数、血圧などもわかります。自分がリラックスしている状況か、そうではないかも確認することができます。

 

 あるクライアントさんが、活動量計を購入し、身につけていました。そして、面白いことを発見したと報告してくださいました。

 

 その方も、対人関係などで大変な悩みを抱えていらっしゃいます。他人といるといろいろな気を使ってしまいますから、一人でいるほうが楽だと思っていました。

 しかし、その方が活動量計をつけて状態をモニタすると意外な結果が出ました。

 

 

 それは、連休などで一人でいるときは血圧や脈拍も高く緊張している。逆に、人と一緒にいるときのほうがリラックスしている、というものでした。

 本人も想像していたこととは逆の結果が出たのです。

 

 やはり、一人の時よりも、他人といたほうが実は人はリラックスをしている。でも、本人は逆に感じていたりもするのです。

 
 もちろん大規模な量的調査ではありません。ただ、数値で確認できたことは大きな気づきをもたらせてくれました。

 


 解釈できることとしてはおそらく、

一人でいるときはたしかに気を遣わずに気楽ですが、自分を悩ませてきた親や過去とつながってしまって、ストレス応答系のシステムは乱れる。そのために交感神経が優位になる。

 

 一方、気楽な他人といると、気は使うかもしれないけれども、でも、利害関係のない人たちとつながって、同調することで、ストレス応答系は整う。副交感神経が優位になる。結果、脈拍、血圧などは落ち着く。

 
 統合失調症などでも、一人でいるよりは、社会の中で役割を持ったほうが回復は早いことが知られています。依存症では自助グループの活動が知られています。

 

 前回の記事でも書きましたが、心理療法など大げさなものではなくても、町で出会った気楽な人たちとの触れ合いが、とても大きな安心感をもたらせてくれる経験を私たちはします。

 
 これらのことは、人との一体感を回復して生きづらさから抜け出す方法を知るためには何が必要なのか?
私たちに多くの示唆を与えてくれます。

 

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

カウンセリング、心理療法側も「人間は立派なもの」と思っていたりする

 

 

 トラウマを負った人たちだけではなく、解決を提供するカウンセリング、心理療法自体も「人間とは立派なもの」という価値観を持っていたりします。

 

 本屋で目にする書籍の中でも、「あなたは立派な存在だから、それに気づきなさい」というメッセージが様々なかたちで表現されているかと思います。そして、実際にカウンセリングを受けると、そうした視点からサポートが提供されます。

 

 

 

 現代のカウンセリング、心理療法は、1950-60年代に源流があります。エサレン研究所などがメッカとなっていましたヒューマンポテンシャルムーブメントと呼ばれる運動がその一つです。

 アポロ計画が61年からですが、科学などにおいても人類の可能性が強く信じられていた時代といえます。実はロジャーズもその時代の人物です。
(自己啓発は、19世紀のニューソートと呼ばれるキリスト教の一派などに基づいているといわれています。)

 

 

 

 今、数多くあるセラピーの流派も基本的にそれらの焼き直しで作られていたり、知らず知らずのうちに影響を受けていたりします。


 現代のカウンセリングや心理療法の人間観をとても荒っぽくまとめれば「人間とは可能性にあふれたものだ、本来はとても立派なものだ(ただ、その可能性は制限され、開花させられていない)」ということになるかもしれません。

 

 

 そして、
「カウンセリングや心理療法で、本来の立派な状態になることをお手伝いしますよ」
「そうなれると思えないのは、あなたが自分で制限をかけているだけですよ」
という前提でカウンセリングは提供されています。

 

 

 

 

 ここで不思議なことに気が付きますが、
 解決をお手伝いする側のカウンセリング、心理療法自体が、トラウマを負った人たちを同じような独特な人間観を持っているということです。

 

 

 

 これは、近代・現代そのものが自己愛社会であること、トラウマティックな時代であることが影響しています。
 神によってではなくて、人間自身が存在証明をしなければならない時代。実存が問われる時代ゆえの独特な考え方によるものです。

 

 

 また、人間性を探求する哲学者やカウンセラー自体も傷を抱えている。結果として、トラウマを負った人が持つ人間観と同じような考えに行きついている。

 

 

 

 「人間は立派なものだ」という前提でサポートを受けることは、最初は良いように思うのですが、そのうち、しんどくなってきます。

 

 本来は弱くて、どうしようもなくて、だらしがなくて、といった落語の登場人物たちのような存在であった私たちが、「立派なものだ。それに気づきなさい。頑張りなさい」と鼓舞されるわけですから。

 

 どうしても実態と理想とが合わないわけです。その乖離で苦しくなってくる。最後はブーメランが戻ってくるように、自己否定に襲われる。

 

 
 理想に添えないことが分かると、「あなた自身が変わる気がない」といって切り捨てられたり、暗に責められているように感じたりするようになります。

 

 カウンセラーに見捨てられないように立派なことを言わなければ、良くなってきていますと言わなければ、と勢い込んだりするようなおかしなことも起こります。

 これは、ユートピア思想を信じているコミュニティで虐待が起きるようなもので思想の前提によってそのコミュニティの人間の行動が規定されるのです。援助者の人格の問題ではなく、構造的な問題です。

 

 

 

 一方で、私たちは、町で出会った気楽なおじさんや、のんびりした犬や猫と触れ合う瞬間に本当に楽になった、という経験をすることがあります。
学校でいえば、保健室、会社でいえば暇な部署のベテラン社員などはそうした存在かもしれません。

 

 なぜなら、おじさんたちには人間とは立派でなければならない、というような前提はないからです。

 

 「私はダメな人間だから、自分を磨いてもっともっと高めていかないといけないんです」なんて言っても、
ニャーッ、ワン! と返事が返ってきたり、「まあまあ、そんなに気張らなくても。ぼちぼちで」と返ってきます。

 落語に出てくる旦那さんだったら、「どうしちまったのかね、自分を高めるだなんて。朝から酒でも飲んでいるのかね」と突っ込まれることでしょう。

 

 

 よく考えれば、悩みを解決するために、立派な人間にならなければならない、だなんて、おかしな話です。

 

 依存症治療でも、人間のいい加減さに気づいて「底をつく」と回復が始まる、といわれますが、人間の可能性、云々、といったような立派なものではなく、人間のいい加減さ、気楽さに触れる体験をしたときに、人間は本当に悩みにある状態から変われるのかもしれません。

 

 
(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

 

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トラウマを負った人たちの独特な人間観

 

 トラウマを負った人たちは、人間観も独特なものです。

 

 簡単に言えば、人間は〝とても立派な存在”ととらえています。
 他者もとても立派で優秀な人だと妙にあがめたり、あるいは、本来は立派あるはずなのに、堕落してそのことに気が付いていないとして、とてもこき下ろしてみたり、します。

 

 

 例えば、サービスが悪い、仕事ができない、といったことで他者にイライラするのはなぜか?といえば、本来は立派であるはず(べき)なのに、努力もせずに堕落している姿に腹が立っているのです。

 だから、あれほどイライラする。
とにかくこき下ろして、“人間”という枠から除外したい。

 

 

 

 

 また、神のように立派な存在から堕落したサタンのように恐ろしい存在として見えている場合もあります。
 そのため、トラウマを負った人にとって「人が怖い」というのは、単なる「対人恐怖」といった言葉では形容できないような感覚です。

 

 

 クレームが寄せられたら、まさに立派な存在からのダメ出しであり、神か悪魔からの天罰のように感じられ、委縮してしまいます。おろおろして、うまく対応することができません。ミスは絶対にしてはいけない、間違いは罪、といった感覚です。言われたことをすべて真に受けてしまい、深く傷ついてしまいます。

 


 一方で自分は、一生取れない呪い、罰を受けて放伐された存在、と言ったように感じられています。ずーっと消えない罪悪感を感じて生きています。罪悪感を感じながらも、自分も本来は立派であるはず、と思っています。

 そのために、自分が何でもできる、本当はすごい存在なのだ、という意識も裏にはあります。人に対して尊大になったり、妙に自信家になったり、することもあります。

 

 ストレス応答系のリズムに置き換えれば、立派な人間とはテンションの波がない、一定の存在です。大人になることとはテンションの波がないものだと誤解しています。


 そこに自分も立派な人間になろうとして、テンションを一定にしようとしますが、すると、尊大になったり、へりくだったり、逆に社会の中で自分は傷ついてしまいます。

 本来は波を作りながら、真ん中(センター)であるものなのです。

 

 

 

 

 対して、普通の人たちの感覚とは何か?と言えば、わかりやすくいえば、「落語の世界のような人間観」です。
人間というのは立派なものではない、どうしようもないもの、弱いもの、という感覚です。

 

 仕事でミスすることもあるし、飲んだくれることもあるし、浮気をしちゃうかもしれないし、どうしようもない。

「もう、しようがないね~」「ちゃんとしておくれよ!」という感覚。

 

 人間が立派な存在だなんて感覚はない。化け物に見えることはない。
(たまに、どうしようもない人間に狐がついておかしくなることはありますが)

 

 自分だって、そんなたいしたことはない。
お互いさまで、とぼけることもある。そういうもの。

 

 もちろん、ミスがあれば怒られるし、いいかげんが良いわけではないけども仕方がない、と言ったことです。

 

 人間がどうしようもない、といったこと、そうしたことを「業」というそうですが、そうしたことが肯定される世界観です。

 

 

 ストレス応答系のリズムに置き換えれば、テンションに波がある。他者同士で互いにリズムを刻みながら、ダンスをしあうような関係。ストレスに合わせてリズムを刻むので、ほのぼのと生きられる。他者とも一体感を感じてつながることができる。

 

 

 そのリズムの存在は、トラウマを負った人の目から見たら、「どうしようもない」、未熟で、感情的で、動物的なもののように見えるかもしれませんが、自然で美しいものです。

 そのリズムの先には一体感や平和な世界が広がっています。

 

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

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