適応するとはルール無用になることではない~自分にとっての“正義”の感覚を身に着ける

 

 人間というのは、クラウド的な存在で、内的外的に環境からの影響で生きている生き物です。理性的な存在ではない。

 そのため、「公私の区別があいまいな環境」に陥ると、すぐに解離しておかしな言動をとり始めます。

 例えば、イライラ。

 イライラの原因はいろいろです。

 ただ、多くの場合、環境からやってくるものを自分のものと錯覚してしまう。他者が感じているイライラを自分のものと思ってしまう。

 あるいは、内面化している父母のイライラを自分のものとしていることもあります。

 

 安定型愛着の場合、イライラを公的な表現へと昇華したり、キャンセルしたりすることが比較的上手ですので、イライラに巻き込まれにくいのですが、不安定型(トラウマを追っている)の場合、簡単に巻き込まれてしまいます。

 

 人間の素朴な信念に、「原因があるから結果がある」ということがあるためにこのイライラは、自分のせいではなく、目の前の人間のせいだ、ということで「因縁(原因帰属)をつけたくなります」

 そこで、「あなたの仕事ぶりが気に入らないのよ」とイライラを相手のせいにする。

 解離した意識の上ではそれはいかにももっともなため、因縁をつけている本人も自分がおかしいとは気が付きません。

 

 人間の行う原因帰属の大半は間違っています。
 特に自分のイライラの原因は他者にはありません。

 ただ、もっともらしく、因縁をつけているだけ。

(参考)→因縁は、あるのではなく、つけられるもの

 

 

 先日の記事でも書きましたが、本来、健康な状態の人というのは、コミュニケーションはシンプル。

(参考)→「「関係」の基礎~健康的な状態のコミュニケーションはシンプルである

 

 

 明らかにだれが見てもイライラして当然という際にはイライラしますが、おかしな因縁をつけることは少ない。

 それは、うれしい時にはうれしい、悲しい時には悲しい、怒るときには怒る、というように公的な表現への消化が適切になされてきた(愛着)ために、おかしな状況で起こるイライラに巻き込まれにくいのです。

 

 おかしな状況で起こるイライラは、「ここはイライラするところではない。」

 因縁をつけられても、「私には関係ない」と直感することができます。

 
 
 一方、トラウマを負っている人は、すべての責任は自分にあるとしていますから、
 (個人主義的な心理主義も共犯関係にありますが)
 「相手のイライラもすべて自分のせい」
 「理不尽な因縁もすべて自分のせい」
 としてしまい、何が正しいか、正しくないかがわからなくなってしまっています。

 全方位のゲリラ戦を戦っているような感覚で、すべてに備えて、へとへとです。
 

 

 それは、例えば、子供のころに母親が自身のイライラを「あなたのせいよ!」と子供(本人)のせいにしてきたり
 など理不尽な環境で自他の区別、善悪の区分けが混乱させられてきたためでもあります。

 理不尽なことが渦巻く現実の環境に適応する、とは、ルール無用になることではありません。

 適応とは、何が健康なルールで、何がそうではないか、を見極められることで、あとは、そのルールを持って、「これはおかしい(と感じる)」「これは正しい(と感じる)」と自分で見極められることです。

 

 自分の中で、自分にとっての“正義”の感覚が身につくことも、自分らしく生きていくための条件といえます。

 

 そのためには、ルール無用で適応するのではなく、まずは健康な状態に人間のルールとは何かを明確にすること。
そして、そこに当てはまらないものはキャンセルすること(敬して遠ざける)。

 

 
 健康な状態の人間のルールというのは、先日の記事にも書きましたように、

 ・コミュニケーションはシンプルである、ということ、
 ・成熟した人間とは公的な存在であること(公的な環境を維持する大切さ)
 ・関係の階層構造(階層で構造化する)
 といったようなことです。

(参考)→「「関係」の基礎~健康的な状態のコミュニケーションはシンプルである

    →「「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

    →「関係の基礎3~1階、2階、3階という階層構造を築く

 

 こうした原則を破ってくるケースは、どこかおかしい。要注意して対応する。
 

 ナチスとかカルトとかもそうでしたが、巧妙に善悪の基準が分からなくしてしまいます。
 機能不全家族もまさにそうで、厳格なローカルルールで、公的な善悪の基準を壊してしまう。
 

 そこに育った人は、善悪の基準がないために、自分というものがなかったり、反対に妙に頑固になったり、何でもかんでも気を使って、適応してしまうために不適応を起こしてしまうのです。

 

 そうした状況では、いくらコミュニケーションの本を読んだり研修を受けてもダメで、まずは、親からの価値観や、理不尽な状況で受けたトラウマを捨てて、原則に還ること。

 そこから、スタートして、もう一度、自分にとっての正義の感覚を回復させていくことが必要になります。

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

ブリーフセラピー・カウンセリング・センター公式ホームページ

お悩みの原因や解決方法について

TV番組のノリの幻想~TVは「関係」の見本にはならない

 

 鴻上尚史さんが書いた「「空気」と「世間」」という本は、日本における人との関係の背景を理解する上では好著の一つです。

 

 

 

 

 

 

 

 歴史家の阿部謹也の「世間」の研究や、山本七平の「空気」といった概念をもとに日本の状況を説明しています。

 簡単に言えば、欧米など一神教の世界に特徴的な「社会」ではなく、日本は「世間」が社会の基本スタイルであること。
「社会」とは、独立した個人の契約で成り立つもので、「世間」とは非個人的で、互酬や長幼の序、共通の時間感覚といったことで成り立ちます。「空気」とは世間が崩れたものです。

 厳密に言えば、「社会」がよくて、「世間」がダメだ、ということはありません。ただそれぞれに特徴がある、ということです。

 

 ただ、以前の記事でも書きましたが、「対人恐怖症」は日本にしか存在しない、という事実からすると、日本における「世間」、特に「空気」というのは、人づきあいを怖いものとする、難しくする要素が多いのかもしれません。

(参考)→「対人恐怖症、社交不安障害とは何か?真の原因、克服、症状とチェック

 

 

 

 この本の中で面白いのは、「若くなればなるほど、人間関係の作り方の基本形をテレビから学習している」ということが挙げられています。

 

 実際のTVのバラエティ番組は、修行を積んだバラエティのプロが出演し、さらに編集されて、3時間とったものが1時間に、といったように凝縮されています。
 テロップが入り、効果音、映像が入り。テンポよく面白くする工夫が満載です。

 
 特に日本は、「世間」と「空気」の社会ですが、そのノリに乗るのはとても難しい。

 芸人さんたちも、TVに出られるのは一握りで何万人もの中から選抜されている。それによって、あの軽妙でテンポの良く、絶妙のタイミングで、絶妙な言い回しを繰り出す高度な「TVショー」が作られているわけです。

 

 TV番組とは、さながら世界選抜大会のファインプレー集のようなショーであり、日常では再現することはできないものです。

 

 しかし、私たちは、「その学んだ方法を、そのまま、日常に持ち込もうとして」、うまくいかない・・・、と落ち込んでいます。
  

みんな、マネできると錯覚して、ノリを持ち込んでいる。

 みんなそれが自分たちにもできると信じて、そうしなければいけないと思いこんで、「対人恐怖症」社会を作り上げている。
 

 趣味の集まり、ママ友、会社仲間でも「TV番組のノリの幻想」は覆っているかもしれません。

 

 そうした幻想から自由にならないといけない。TV番組の真似をしてはいけない。

 

 そのためには、関係の「基礎」から始める。
 TV番組的なノリに乗らなくていい。気を使わなくてもいい、愛想もふりまかなくてもいい、心はいらない。

 

 ただ、挨拶や形式的な儀礼を淡々と行って、地味に1階、2階へと上がっていく。合わない人は、1階でサヨナラする。
 幸せにも気の合う人と出会ったなら、3階まで上がって気遣いを交わせばよい。

 「基礎」からコツコツと、薄い、緩やかな「関係」を増やしていくことが大切。
 

 うまくできている人ほど、実は、ノリに乗らず、基礎から地味に「関係」を構築しています。

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

ブリーフセラピー・カウンセリング・センター公式ホームページ

お悩みの原因や解決方法について

「関係」は、基礎から積み上げていくもの

 

 スポーツなどではよくありますが、素晴らしいファインプレーや、流れるような動き、を素人が雰囲気でマネしようとすると、雰囲気はマネできるけども、根本的に違う、ということがあります。
 すると、「やっぱり、自分とプロは違うんだ」と落ち込んでしまいます。

 

 でも、実は、ファインプレーのような応用技とは、正確な基礎の上に成り立っています。

 

 プロほど基礎が正確に反復ができて、その上に応用が成り立っている。

 

 私たちのような素人は、そのことがわからず、基礎が不安定なうえに応用に走ってしまって打ちのめされてしまいます。

 

 コミュニケーション(「関係」)においても同様です。
 人づきあいがとても上手な人は、シンプルな基礎があって、その上に応用がなされています。

 
 例えば、本当に仲の良い関係ができている、気さくに話ができている、気づかいが素晴らしい、という「応用」の裏には、これまで紹介しました、「関係」の基礎ができている。

(参考)

 →「「関係」の基礎~健康的な状態のコミュニケーションはシンプルである

 →「「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

 →「関係の基礎3~1階、2階、3階という階層構造を築く

 

 

 その構造を知らないまま、いきなり仲の良い関係になろう、気づかいをしよう、としてもうまくいきません。

 いきなり応用から入った場合にどうなるかといえば、

 

 ・最初は仲の良い雰囲気だったのに、次第に馬鹿にされるようになり、関係が壊れてしまう(※基礎②:公的環境が整えられていない)。

 ・へりくだりすぎたり、弱みを見せすぎたりして、公私があいまいな状態を生み出し、ハラスメントの標的となってしまう(※基礎②の欠如)。

 ・相手が理不尽な言動をしたときに、自分のせいだと思って振り回されてしまう(※基礎①:健康的な状態のコミュニケーションはシンプルである、ことがわからなくなっている)。
 ・自分がかかわりたくない人を引き寄せてしまう(※基礎③:階層構造を十分に理解していない)。
 ・誰でも彼でも気を使ってへとへとになってしまう(※基礎③の欠如)。

 などなど、

 

 

 個人間の「関係」でのトラブルと似た事象として、ビジネスにおいても、トラブルになってしまう、ケンカ別れになってしまうことがあります。出会ったときは意気投合して始めたけども、うまく行き始めたら思惑がずれてケンカ別れしてしまう、といったようなことです。

 よくよく聞いてみると、最初にちゃんと目的や責任の範囲や取り決めをしていなかった、あるいは、契約書を交わしていなかった、ということはよくあります。

 「その場の雰囲気で気が合うと感じるなら大丈夫だろう」
 「取り決めとか、堅苦しいことを言うと関係を壊してしまうのではないか(だから取り決めなんかしなくても大丈夫だ)」
 「信頼するというのは相手を信じることで、取り決めは疑うことでそれに反する。」
 

 という甘い考えや幻想から起こることですが、ビジネスのプロトコル(手順)から外れているので、やっぱりトラブルになってしまうのです。

 仕事においても、本当に良きパートナー、気の置けない関係、というのはあります。でもそれは、基礎がちゃんとできているから。私たちが錯覚してしまうのは、完成形(応用技)だけを見て、それをまねようとして基礎を抜かしているからです。

 

 

 私たちが個人間での「関係」を結ぶ場合も同様です。

 友達と気の置けない関係を築いている人、人づきあいのうまい人が築き上げた関係の完成形だけをまねたり、あるいは、「私には無理だ。根本的に違う」といったように落ち込む必要はない。

 以前筆者も書きましたが、人づきあいのうまい人でも親友を作るのは困難だ、と感じていたり、仲良さそうに見えても、本人に聞いてみると「そんなに仲良くないよ」「自分は友達少ないよ」と言ったりするものです。

 

 人間関係ではみんなそこそこ苦労している。
 
 

 そうした実態は幻想で見えなくなっている。

 よい「関係」を再構築するためには、応用や完成形から入ろうとしない。幻想や表面的な事象を排して、その本質となる「基礎」から組み立てる。

 

 その基礎を、ワンパッケージでインストールしてくれて、「それでいいのだ!」と確信を持たしてくれるものが「愛着」というものです。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 成人になってから、親からの愛着を取り戻す、というのはなかなか容易ではありませんが、「愛着」がインストールしてくれるはずの「関係」の基礎の要素を分解して、理解して身に着ければ挽回できます。知的な理解から入って、取り組むだけでもかなり楽になります。

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

ブリーフセラピー・カウンセリング・センター公式ホームページ

お悩みの原因や解決方法について

関係の基礎3~1階、2階、3階という階層構造を築く

 私たちが海外旅行に行った際にしばしば経験することですが、飲食店の人が日本のように愛想がありません。

 笑顔がなく、ムスッとした表情で注文を訪ねてくる。飛行機の機内のフライトアテンダントでさえ、無表情だったり。

 よほど高級店で高額なお金を払うのでもなければ、笑顔で気の利いたサービスは得られないことも多い。

 

 そんなことを経験すると、「ああ、日本はいいな」と思うわけです。日本でも、小さな店でも、笑顔で愛想よくしてくれますので。

 ただ、「関係」の基本を考えていくと、どうも外国のほうが普通なのかも?と思えてきます。

 日本は世間の延長でできているためか、ご近所に愛想をするような感覚で、サービス業でも笑顔で接客してくれますが、それは当たり前ではありません。

 

 

 本来の“当たり前”とは何かというと、実は「気づかい」とは信用を得たものにのみ与えられる特別サービスであり、無料で当たり前に提供しあうものではない、ということです。

 

 

 

 私たちのコミュニケーションというのは階層状になっています。

(参考)→「世の中は”二階建て”になっている。

 世界は、混とんとしていますから、すべてを信用しては危ない。また、人間も動物ですから、支配欲、攻撃欲、嫉妬、様々な私的情動にまみれてもいます。

 

 1階部分では、そのネガティブな感情も入り混じる世界で、私的情動といったノイズをキャンセルする場所です。関係する相手を選別するところです。
 自分に合わない相手、関係するタイミングではない相手とは関係を持たずさよならします。
 関係を持つにふさわしい相手であれば、1階のチェックが終わり2階に上がることができます。

 

 

 2階部分とは、公的な環境が整えられた場でそこで初めて信頼のコミュニケーションを交わすことができます。
 安心してやり取りができます。
 
 通常のコミュニケーションとは、2階部分で行います。

 さらに、その上、3階部分があります。実は、「気づかい」というのは、その3階部分で提供されるものです。

 

 

 
 3階部分では、本当に気心が知れた者同士が相手の内面(私的領域)に立ち入ることが許され、互いに気づかいをしあう場所です。
 気づかいは誰もが得られるものではありません。本当に信頼できるもの同士でなければ得られません。

 

図にすると、

 1階部分    2階部分  3階部分
 公私混沌  →  公的  → 私的 という 構造になっています。

 

 

 3階部分で交わされる、本当に気心が知れた親友同士のような「関係」というのは、特別なものです。
 それは、2階部分の公的な環境に支えられています。

 関係が停滞(腐れ縁)すると、2階の公的な環境が失われて、3階部分の私的なやり取りが悪く作用し、「相手から失礼なことを言われた」「もたれられてしんどい」というようなことになってしまいます。

 

 長く続く良い関係というのは、相手へのリスペクト(2階部分の公的環境)が土台となっていて、うまく更新、循環をしているものです。

 

 関係作りがうまい人というのは、1階での選別がしっかりしていること、1階→2階→3階 へと駆け上がるのがスムーズであるということと、なにより、2階の公的な環境を維持することが上手であるということだと思います。

 

 

 会員制の、心地の良いラウンジや、高級店を想像すればわかりやすいかと思います。

 
1階部分 会員証のチェック(入会)

      ↓

2階部分 安定した心地よいサービスの提供

      ↓

3階部分  VIPのみの特別サービス
 
 といった感じでしょうか?

 

 「人を信頼して、裏切られた!もう人と付き合いは嫌だ」「気づかいばかりでヘトヘト」となっているのは、いきなり3階部分からスタートしたり、会員制度(階層構造)がうまく機能していないお店のようなもの。

 

 

 私たちが、大人になる、大人の付き合いができる、というのは、こうした1階-2階-3階 という階層(会員制)構造を築くことだといえます。

 

 

 「そんなことしたら、高飛車になって、堅苦しくてツンツンしそう」というかもしれません。

 そんなことはありません。ツンツンにはなりません。

なぜなら、1階部分では、社交辞令(儀礼)を大事にします。
 それは具体的には、「挨拶」です。

 

 昔、筆者が会社に入って、新人研修に来たベテラン社員が、挨拶の大切さを説いた際に印象に残っている話があります。
それは、

「ニュースで、犯人が捕まった際に、近所の人が『いつもちゃんと挨拶をしてくれていい人でしたけどねぇ・・』というでしょう?捕まるくらいだから本当にいい人かどうかはわからないわけだけども、犯罪を犯したとしても、挨拶しているだけで『いい人』といわれる。そのくらい挨拶には力があります。」

ということでした。

 

 

 筆者もそうなのですが、人が苦手、挨拶が苦手だ、という人は、挨拶に、3階部分で行うような「気遣い」「相手の内面に立ち入る」といったことを盛り込んでいるからではないかと思います。だから疲れて嫌になってくる。

 挨拶というのは、「気づかい」などは盛り込まず(心もこめず)、形式的に、でもたくさん、しっかり行う。

 外交儀礼ですから、心を込めなくてもいい。形こそが大事。

 

 
 子どものころ、大人を見て、外面ばかりで嫌だな、と思っていましたが、でも悔しいけれども、儀礼は大事。

 
 トラウマを負った人の多くは、「心こそが大事」ととらえ、どちらかというと形を軽んじ、さらに、1階-2階-3階 という構造がなく、いきなり、3階部分の「気づかい」を1階部分に持ち込んで、人と接しようと思います。

(参考)→「「形よりも心が大事」という“理想”を持つ

 

 でも、人間世界はそのようにはできていないため、冷たくあしらわれて、心がへとへとになって、傷つくのです。

 例えていうなら、外国の税関や大使館に、形式を踏まないまま、「真心」だけで「入国させてください」とおしかけるようなもの。
「誠に申し訳ございませんが、正式な手続きを踏んでからお越しください。」といわれてしまいます。

 

 

 人間関係においてであれば、まずは挨拶からスタートして、信頼関係ができれば親しくやり取りをする。さらに、仲良くなったら、内面に立ち入る、ということです。これを実際は早いスピードで行っています。

 

 
 どうして、トラウマを負った人は、この階層構造が転倒してしまうか?といえば、一つには、養育環境(家族)において階層構造が機能不全を起こしていた、ということです。それによって本来の構造がわからなくなってしまっている、ということ。
 もうひとつ重要な点としては、社会においては、しばしばそれを「気づかいが足りない」という言い方で表現されるため、勘違いしてしまう、ということです。

 

 実は、ここでいう「気づかい」とは、3階部分の「気づかい」ではなく、1階部分の「形式(挨拶、儀礼)」を求められているということ。

 

 
 それを、「気づかいをしないといけない(心を込めないと)」と真に受けて、本当に親しい人だけの特別サービスであるはずの「気づかい(3階部分)」を1階部分に持ってきてしまうのです。

 

 

 その結果どうなるかといえば、過剰適応でへとへとになってしまう。
 「気づかいをしているのに、なぜか認めてもらえない」。
 それどころか1階部分の形式を欠いているために「気をつかえない奴」と否定されてしまう。
 
 訳が分からなくなってしまうのです。

 

 

 本来、1階部分で大事なのは、心を込めず、軽い気持ちで形式的に挨拶。形式こそが大事。

 

 先日の記事で紹介しました外国では、もしかしたら、そういう構造がしっかりできているのかもしれません。

(参考)→「社会性を削ぐほど、良い「関係」につながる~私たちが苦しめられている「社会性過多」

 皆、1階部分だ、と割り切って気軽に儀礼を交わしている。だから、人々が気楽に付き合えている。電車の中で隣り合った人が雑談をしたりする。
 (日本は〝世間”や〝空気”の社会なので、3階部分がいきなり1階に来るような転倒を起こしやすい。階層構造の転倒の果てに、恐怖症を引き起こしていることが、「対人恐怖症」の本質といえるかもしれません。)

(参考)→「対人恐怖症、社交不安障害とは何か?真の原因、克服、症状とチェック

 

 

 1階-2階-3階という「関係」の構造が再度整理されて、慣れてくれば、1階部分から2階部分までは、かなり早いスピードで駆け上がることができます。(3階部分については、特別な人だけ、ですが。)

 

 「関係」の再構築のためには、階層構造を理解することがとても大事です。理解するだけでも、人間関係はかなり楽になります。

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

ブリーフセラピー・カウンセリング・センター公式ホームページ

お悩みの原因や解決方法について