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公認心理師・大阪大学大学院卒(臨床20年)など

三木 一太朗(みき いちたろう)公認心理師。大阪大学文学部卒業、同大学院修士課程修了。大学院修了後、大手電機メーカー勤務を経て、大阪心理教育センター等で研鑽を積み、ブリーフセラピー・カウンセリング・センター(B.C.C.)を設立。

20年以上の臨床経験を持ち、トラウマ、愛着障害、ハラスメント、吃音などのケアを専門とする。著書『発達性トラウマ 「生きづらさ」の正体』(著書累計約4万部超)のほか、テレビドラマの医療監修やメディア出演・掲載実績も多数。

伝統的なカウンセリングからボディワーク、最新のブリーフセラピーまで幅広く研鑽。臨床での実践と、10年以上にわたる膨大な参考文献に基づいた知見の言語化・発信や、より良いケアの開発と提供に努めている。

礼儀やマナーは公的環境を維持し、理不尽を防ぐ最強の方法、だが・・・

 

 前回の記事でも少し触れましたが、礼儀やマナーは、公的環境を維持して人間をおかしくさせないための装置と考えられます。

 人間は、私的環境に置かれるとちょっとした刺激で解離しておかしくなる性質がある。

(参考)「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

 

 車でも、あおり運転が最近問題になっています。
 これも、私的環境が人間をおかしくしてしまう例です。

 車内という私的環境でちょっとした刺激に解離してしまい、乱暴な運転を行ってしまう。
 殺人にまで至ってしまうというケースもありました。

 バイクや自転車があおり運転する、というのをあまり耳にしないのは、やはり、空間的に外(公的環境)に開かれているためかもしれません。

 

 DVでも、外(公的環境)では紳士的な人が、家(私的環境)では豹変して暴言暴力をおこなってしまう。

 私的環境で問題を起こしてしまう人たちでも、公的環境では紳士的になる。そのくらい公的環境の力は強い。

(参考)→「家庭内暴力、DV(ドメスティックバイオレンス)とは何か?本当の原因と対策

 

 

 対人関係で理不尽な目に合わないようにする方法、簡単な魔法があるとすれば、それは、「礼儀」「マナー」ということになります。
 「挨拶をする」だけで、難しいコンディションの人でも公的環境の“制御”にかかる。

 

 以前、テレビでタクシー会社の社長が出ているのを目にしたことがあります。
その会社では、運転手にマナー研修や清掃を徹底している、と紹介されていましたが、その効果として、

「(暴言や暴力を働くような)お客様でも、こちらがマナーを良くしていれば、おかしくならない」

といったようなことをおっしゃっていました。

 

 確かに、クレーマーは、マナーの瑕疵を取り上げてケチ(因縁)をつけることが多いですね。裏返して言えば、マナーがしっかりしていると付け入ることができない、ということなのかもしれません。

 

 

 筆者が社会人になりたてで新人研修の時に、ある先輩社員が、挨拶の大切さを伝える例として、
「よく、TVで何か犯罪を犯した人について近所の人のインタビューがありますが、『いつも挨拶してくれて、良い人そうだったのにねえ』というのを耳にするでしょう?」

「本当にいい人かはわからないし、実際に犯罪を犯しているのに、挨拶をしているだけでそれだけ「良い人そうだった」なんて好印象を持ってもらえる(だから挨拶はとても強い力がある)」

 と教えていただいたのを印象深く覚えています。

 

 人に対して勝手に「あの人は~だ」とネガティブな感情を持つのは、まさに解離している、ということですが、「挨拶」という行為によって公的環境を作り出すことで相手が私的環境に陥って解離することを防止している、と考えられます。

 

 

 
 これだけ、効果が高い「礼儀」と「マナー」ですが、筆者もそうなのですが、トラウマを負った人の中には、そうしたものをどこか毛嫌いしてしまう心性があります。

 効果が高いのだからうまく利用すればいいし、使えばいいのにと思うのですが、なんだかウソっぽくて嫌だな、納得いかないな、という感覚です。
 

 

 それはどうしてか、というと、
 一つには、「礼儀」や「マナー」をローカルルール化してしまっている人たちがいて、その人たちからのストレスにやられてしまっている、ということがあります。

 例えば、マナーにうるさすぎたり、独善的に礼儀を押し付けたりという人たち。

 そうした人は、自分の不全感(「I’m NOT OK」)を癒すために、相手の些細なミスをつこうとしています(「You’r NOT OK」)。

(参考)→「造られた「負け(You are Not OK)」を真に受ける必要はない。

 
 本来の礼儀やマナーというのは、相互に相手への「リスペクト」が背後にあるものですが、自信の支配欲や不全感をいやすための道具なので、相手への「攻撃(怒り)」や「侮り」がある。

 礼儀やマナーを盾に取っている間は、自分は絶対的な善でいることができる。
 その盾に隠れて、相手を支配して、自分を保とうとしている。

 礼儀やマナーを、ローカルルールとしてまさに悪用しているのです。

 

 

 別の例では、親が子供を支配する道具として、礼儀やマナーにうるさすぎる、という場合もあります。
 本当に子供のことを思っているのではなく、単に支配したいだけ。

 自分の私的情動から発した行為であることを繕うために、礼儀やマナーという建前を持ち出していることも多い。
 実態は、自分の気まぐれでしかないので一貫性がありません。そのため、人に対して厳しく、自分に対しては甘い、ということがあります。

 本当のマナーとは、強迫的なものではなく、相手へのリスペクトやユーモアがあります。
 なぜかというと、世の中は多元的であり、人それぞれ、であるからです。
 本来は世の中の多元性、多様性への橋渡しとしてマナーが存在しているものです。

 

 そのため、本当の礼儀やマナーは、相手を包摂するところがあります。

(参考)→「「常識」こそが、私たちを守ってくれる。

 

 反対に、悪用された礼儀やマナーとは、相手を侮り、攻撃するところがあります。 
 そうした環境に長く置かれると、「礼儀やマナー」というものにうんざりするようになる。
  
 相手の仕掛けてきたの呪縛を解くことにエネルギーを取られたりして、「礼儀やマナー」を肯定的にとらえて、気持ちよく使うことができなくなってしまう。

 

 

 

 二つ目は、過剰適応という問題。

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 慢性的なストレス環境に置かれると、安心安全が奪われます。
 その結果、自分を守るために、過剰に環境に適応しようとしてしまう。

 結果として、適切に他者に合わせることができなくなってしまう。
  

 他人に気をつかったり、合わせたりすることに過剰になって、あるいはくたびれて過少になってしまうために、礼儀やマナーということに意識を向けることができなくなってしまう。
 「これ以上気をつかうのはもううんざり」という感覚になって、結果、うまくつかえなくなってしまうのです。

 

 

 三つ目には、
 これまでに挙げたようなことに加えて、「形式よりも心が大切」といった理想主義的心性も影響します。

(参考)→「「形よりも心が大事」という“理想”を持つ

 これは、機能不全な環境に長く置かれた結果、ストレスフルな現実というものへの反感、嫌悪から理想主義的になってしまい、そのため、人間関係においては「形式よりも、心が大切」という理想を求めるようになります。 
 (理想によって、つらい現実から自分を一気に超越させようとする、という面もあります。)
 

 
 ただ、実際には人間は形式が伴わなければ相互に理解しあえないため、自分が思う「心」は相手に通じることはなく、ただ形式を欠いて相手と通じ合えない、というつらい経験に直面することにもなります。

 そして、理想が敗れてニヒリズムに陥ることになり、結果、礼儀やマナーがうまく使えなくなってしまいます。

 

 

 このように、礼儀やマナーとは、世の中を生きていくための必須のプロトコル(手順)ですが、ローカルルールやトラウマティックな環境というものが、それらを自分のものとして生き生きと活用することを奪ってしまうのです。

 

 社会に出てから公的環境を維持するための最強のツールとしての「礼儀やマナー」をうまく使うことができず、理不尽な目に遭ったり、モンスター化した人にやられたりするようになってしまいます。
 

 

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

ローカルルールと常識を区別し、公的環境を整えるためのプロトコルを学ぶための足場や機会を奪われてきた

 

 物事には、前提となるステップや要素というものがある。

 いきなり実現することが難しいことでも、前提が整えば、それを組み合わせれば宇宙にまで行くことができる。

 宇宙に行く技術も、物理学の研究と、工業化された製品の組み合わせ。

 極端に言えば、子どもでも、要件さえあれば、ロケットを飛ばすことだってできるようになる。
 

 

 目の間にあるパソコンも汎用品の組み合わせ。
 アポロ計画などの時代ではオーダーメイドで何千億円もした機能の何倍もの物が格安で手に入るし、誰でも組み立てられる。

 さらにそれで組み立てたものでプログラムを打てば、大きな資本がなくても新しいサービスを作ることもできる。

 

 でも、もし、パソコンが手に入らなければ、それも不可能になる。それ以前に、そもそも文字が読めなければ、計算ができなければ、チャンスさえつかめない。

 だから、人類は、教育などを通じて、社会全体で補助をしたりして「足場」を作ろうとしてきた。

 人間は環境の影響を強く受ける生き物で、そこからはだれも逃れられない。
 
 だから、前提(土台)を整えるために補助が必要になる。

 

 器械体操も、もし、安全対策や補助マットがなければ、上達することは難しい。

 補助輪(コマ)というものがこの世になければ、自転車に乗れる人はもっと少ないかもしれない。

 安全装置があるから、何百キロで走る車や電車、飛行機をたくさんの人が利用できる。

 スマホも、要件が積み重ねられて、誰でも使えるインターフェースがそなえられ、全世界の人が利用できるようになっている。

 

 

 「要件」が整うと人間は大きなことができるようになる。 
 反対に、整わないと、とてつもないハンデキャップを背負うようにもなります。
 

 人間も同様に、様々な要件を整えながら発達していきます。基礎(要件)が整っていると、その後の発達もスムーズで、トラブルにも強い。

 要件に問題があると、のちの時期にはそれを取り戻すことにはとても苦労します。

 それを「発達課題」と呼び、先達たちが、様々な仮説を打ち出してきました。

 中でも最も大切なのは、生後半年~1歳半の時期です。
 この時期に、「愛着」と呼ばれるものが形成されていきます。

(参考)→「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 

 愛着とは、安心安全を身体のレベルから感じられることであり、社会的な発達の要件の「パッケージ集」とでもいうべきものです。パソコンでいえばプリインストールされたOS(オペレーションシステム)にあたります。

 

 反対に、この時期に強いストレスを受けたり、身体的な愛護が十分ではないと、愛着が形成されず、その後の発達にも支障をきたすことがわかっています。

 パソコンで例えていえば、トラウマを負っているというのは、一からパソコンを組み立てて、動くために必要なソフトを自分で一からインストールしていかないといけない状態にあるということ。
 さらに、インストールも時間がかかったり、途中で不安定になったりして何度もやり直しをしないといけないということ。
 その間、パフォーマンスが上がらず低い評価に耐えないといけない、ということ。こうしたことが支障ということです。

 

 

 

 もちろん、1歳半~2歳以降の環境も大切です。

 家庭の中が安定しているか? 親や親族が機能しているか?といったことはとても大切。

 夫婦喧嘩などはもってのほか。現在では、「面前虐待」といい虐待と認定されてしまいます。一発レッドカードでトラウマになってしまいます。
 (参考)→「夫婦げんかは一発レッドカード」 

 

 あと、よくあるのは、ストレスにはけ口に子どもに親族の愚痴を言ったり、など母親(父親)が悪口が止まらない、というケース。
 小さい頃は本人もあまり何とも思っていないように感じていますが、成長するにつれて蓄積されたダメージは計り知れないものになります。
 自信がなく、人間関係が億劫に感じられるようになります。

 

 ストレスを受けると身体の恒常性が低下しますから、外部からのストレスにも一層弱くなります。

 

 

 環境が不安定でも、人間関係がシンプルな小学校低学年まではまだよいのです。何とか乗り切れます。
 

 問題なのは、小学校高学年以降。多感で複雑な人間関係の測り方、乗り越え方を体得していくには、「安心安全」という土台が不可欠。

 (参考)→「「0階部分(安心安全)」

 

  特に、
   ・人間とは解離しておかしくなる生き物であることや、ローカルルールの存在
   ・常識や社会への信頼感
   ・関係の作り方、コミュニケーションの作法
   ・公的環境の維持の仕方(礼儀やマナーといったプロトコル)
   ・常識とローカルルールの区別

  といったことを身に着けていきます。

 

 

 例えば、同級生や先輩が理不尽なことをしてきた。
 相手が急に不機嫌になった。その原因を自分にせいだとしてきた、といったようなことでも、安心安全という土台があれば、
 
 「あれ?自分のせいではないのにおかしい」
 「そうか!人間というのは、体調やストレスで、急におかしくなる生き物なのだ。」
 「相手が言っていることは理不尽だ(ローカルルールだ)」

 と直感して、理不尽さの背景を冷静にとらえて、ストレスをキャンセルすることができます。

 でも、安心安全がなければ、それができない。

 

 相手の理不尽さの原因は自分にあると勘違いして、傷ついて落ち込んでしまったりする。それどころか、相手の理不尽さに応えて、合わせてしまうようなことが起きる。

 極端な場合は、「理不尽なことは実は愛情なのだ」といった歪んだ理解をしてしまい、理不尽な行為や人に従ったり、執着したりしてしまうことにもなる。

 常識とローカルルールの区分けがうまくできなくなってしまう。

 

 常識とローカルルールとの区別化できるかどうかで、社会や人間が「信頼できる存在」と感じるか、「恐ろしいモンスター」と感じるか、大きくわかれる。
 
 

 
 本来の親や大人というのは、個人のパーソナリティを超えて、社会を流れる歴史や常識を代表する存在であり、それを公的人格として体現して、子どもを保護して伝達していくのが「機能」であると考えられる。

 ネガティブな私的情動が入ると機能不全になってしまう。
 

 

 特に、人間関係というのは、じゃれ合うようなコミュニケーションを通して、学び取る部分がある。

 そして、敬意やマナーや礼儀といった公的環境を整えるためのプロトコル(手順)を身に着けていく。
 私的環境に置かれると人間はすぐに発作を起こし、解離しておかしくなる。
 礼儀やマナーというのは、公的環境を維持して人間をおかしくさせないための装置である。

 

 礼儀というのは、固定されたものではなくて、学習され、更新されていく動的なもの。

 意味を理解して、時と場合に合わせてうまく使っていくもの。

 

 

 安定型の人であれば、こうしたことを、「安心安全」を基盤としながら、地域、学校といった場所で、身に着けていく。

 
 しかし、安心安全を奪われたり、養育環境が機能不全を起こしていると、それができなくなる。特に、相手と距離を詰めて、じゃれ合うようにコミュニケーションを学ぶことは安心安全なしにはできない。
 
 

 

 もちろん、本人のせいではありません。

 本人も知らず知らずに負った気質、体質が問題であるケースや(内的環境)、
 養育環境が問題であるために起きる(外的環境)。

 

 

 本人はむしろ、人よりも苦労をし、もがき、努力をしている。

 安心安全の足場がないために、本来であれば身に着けるはずのものが身につかない。学ぶ機会が奪われてきた。

 

 足場がなく、本来のものが身に着かない結果、他人の理不尽な言動に巻き込まれてしまい、2次的なトラウマを負ってしまったりする。

 礼儀やマナーといったプロトコルがわからず、公的環境を維持できず、
 その結果、相手が解離して、ローカルルールで呪縛してきたり、いじめられたりもする。(解離したとしても、相手が100%悪いのですが)
 

 やがて、自分にとっての社会や人間関係が「ローカルルール」そのものとなってしまう。困惑し何が問題かもわからず、自分はダメな人間だ、受け入れられない、と自分を責めてしまう。
 そして、人が恐ろしく、こわくなる。化け物のように感じるようになります。

 

 さながら、何のサポートもないまま異国の地に一人放り込まれたような状態。
 そして、誤解から差別され、土台がないから抜け出すこともできない、といった状況。さらに、社会への恐怖、対人恐怖を負ってしまい、その3次被害をケアするのにも四苦八苦で、しっちゃかめっちゃかになる。

 

 社会や人間関係は、ストレスをうまくガードしてキャンセルできれば、心地よい空間になりますが、ガードできなければ、途端にひどい所になってします。

 

 同じ国に旅行をしても、犯罪に遭えば「ひどい国」になるし、

 用心の結果、遭わずに過ごせれば「楽しかった」ともなる。

 日本のように比較的安全な国でも、ドアに鍵をかけることを知らなければ、泥棒にも入られて嫌な思いをします。防犯の対策ができていれば、「安全」と感じて安らかに過ごすことができる。

 

 環境を整備する機能が、関係構築するための手順であったり、礼儀やマナーといったプロトコルだったりする。
 基本的な、安心安全(愛着)が欠如すると、身に着ける機会を失ってとても苦労することになる。

 かつての時代であれば、「しごと」が媒介して、関係作りや公的環境を維持するためのプロトコルを身に着ける機会は多かった。
 でも消費社会である現代は、その媒介が少なく、新自由主義的な風潮もあって、個人のせいにされやすい。
 核家族化が進んだ結果、地域の様々な大人が親の機能を担ったりして、機能不全を補う共同体の支えも弱いこともあり、足場を失い、生きづらさを感じやすい。それがニートやひきこもり、といったことが目立つ原因であると考えられる。

(参考)→「あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服

 

 
 加えて、人間関係、とくに親との関係がさらにこじれたり、いじめに遭遇したりしていて、社会や人への恐怖が「恨み」や「不信感」となる「こじれ」を起こしてしまうと、問題はさらに難しくなります。

 身近な人のなんでもない言動まで、自分への非難として受け取ってしまう、
 「関係念慮」にさいなまれてしまう人も少なくありません。

 「関係念慮」とは、ちょっとしたことでも自分への非難や攻撃のサインとして捉えてしまうようなことです。
   何気ない表情で自分はつまらないと思われている、と感じてしまう。
   相手が少し笑顔を見せただけでバカにされた、と捉えてしまう。
   少し声が大きくなっただけで罵倒された、と受け取ってしまう。
   少し体が触れただけで暴力を振るわれた、と記憶してしまう。
  などなど、

 

 人間は、「関係」の中で守られ、回復していくのですが、「関係」が作れなくなって、さらに孤立させられてしまう。自尊心は傷つき、さらに自分を責めて追い込んでいくことになる。

 
 なぜ自分がそのようなことになっているのか訳が分からなくなるため、目に見える、「容姿」「学歴」「職歴」といったわかりやすい要因に問題の原因を帰属して考えるようにもなります。
 でも、それらは本当の原因ではないので、真の解決にはならない。
 

 さらに、サポートを受けるはずの、医師やカウンセラーといった人に対しても些細なことで不信感を持ったり、トラブルになるなどして、
 回復を支える足場さえなくなってしまいます。
 

 自分という成長の糸がもつれにもつれてしまっているような状態です。

 これも、本人に責任はなく、公的環境を整えるためのプロトコルを学ぶ場、足場を奪われてきたために起きていることです。

 
 安心安全という足場さえあれば、なんでもないことが、ないために身につかない。身に着ける機会が奪われ、
 それどころか、理不尽さに巻き込まれて「ローカルルール」を社会そのもののと思わされてしまうことも起きてしまうのです。

 
 「足場」がないつらさは計り知れず、
 「足場さえあれば、自分はもっと大丈夫な状態になれるはずなのに」というまっとうな直感と、でも、現実には「足場」がないために惨めな状態が続くギャップを誰も理解してもらえない。

 自分で「足場」を作ろうにも作れず、それどころか人間や世の中への不安や恐怖が襲ってきて動けなくなる。
 そんな自分の状態をうまく言葉にすることもできず、理解されず孤独を生きづらさにあえぐ、そんな状態にもがき苦しむ方は少なくありません。

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

ローカルルール(偽ルール)とは何か?~私たちを苦しめる関係の構造

 

 臨床の現場にかかわっていると、相談者を長く苦しめ続けている悩みや生きづらさの奥に、共通した構造が見えてくることがあります。

 

 私は、トラウマ臨床を専門とする公認心理師として、『発達性トラウマ 生きづらさの正体』などの書籍で、そうした臨床の知見をまとめてきました。
このブログでは、現場で見えてきた構造を、できるだけわかりやすくお伝えしいます。

今回は、私たちの生きづらさの核にある「ローカルルール(偽ルール)」という構造について解説します。

 

・しつこい生きづらさ、悩み

 

 「鬱々とした気持ちが晴れない」

 「なぜか自信がない」

 「自分が気を遣って、どうしても下手に出てしまう」

 「人間関係で苦手な人がいて困っている」

 など

 こうしたお悩みはよくお伺いするご相談のテーマです。
 読者の皆様も同じようなお悩みでお困りの方がいらっしゃるのではないでしょうか?

 もちろん、カウンセリングに取り組むことで様々な症状はよくなっていくのですが、なぜか根本のところの生きづらさがなかなか晴れないというケースはあります。

 ご本人は何年も苦しんでおられることが珍しくありません。

 どうして長く苦しみ続けるのでしょうか?
 実はそれには構造があります。それが今回のテーマである「ローカルルール(偽ルール)」の存在です。

 

 

・ローカルルール(偽ルール)とは何か?

 

 ローカルルールとは、規範や常識といったもっともらしい理屈を付けて他者に押し付けられる「不全感」のことを言います。

 一見もっともらしく見えますが、中身は個人の不全感でしかありません。

 

 ここでいう不全感とは、
・自分の存在が承認されていない感覚
・愛されていない感覚
・自分が否定されている感覚

などを指します。

愛着不安やトラウマ、短期的にはストレスなどによって生じます。
「I am not OK」と感じられている状態、と言えばわかりやすいかもしれません。

(参考)→「トラウマ(発達性トラウマ)、PTSD/複雑性PTSDとは何か?原因と症状

    →「「愛着障害(アタッチメント障害)」とは何か?その特徴と症状

 

 私たちは成長過程で、親など他者から適切な関りを受け、自分を十分に認められ、安心安全感を感じられることが必要ですが、マルトリートメント(不適切な養育)や家族の不和・機能不全、学校でのいじめなどによってそれが十分になされないと私たちは強い不全感を抱えてしまうようになります。

 こうして抱えた不全感(「I am not OK」)の苦しみは大きく、適切なケアの機会がなければ、個人で抱えることは困難です。
その結果、多くの場合は他者を巻き込むことでかりそめの癒しを得ようとします(心身の不調や、それを解消するために依存症として問題化する場合もあります)。

 それが、他者に「You are not OK」というメッセージを飲み込ませることです。

 本来であれば、適切な関りやケアや自己の研鑽を通じて「I am OK」の状態を作り出すことが必要ですが、それがかなわないとき、他者を「You are not OK」と位置づけることで、一時的に自分を「I am OK」の側に置こうとするのです。

 

 その際に、そのまま不全感をぶつけては、自分がおかしな人間扱いされてしまいますし、相手も受け取るはずもありません。
そのため、
・「これはルールだ」
・「これは常識だ」
・「お前がおかしい」
といった理屈で、表面をコーティングすることになります。

 見た目はもっともらしい理屈ですが、中身は毒(不全感)です。
いわば“毒饅頭”のようなもの、飲み込まされた相手はその毒(他者の不全感)を抱えて長く苦しむことになります。

 不全感には、かつて自分が支配的な関係性を強いられてきた苦しみが含まれていることも多く、その反転として、相手を支配し(支配欲を満たし)、上下関係を作ろうとするケースも少なくありません。

 ローカルルール(偽ルール)とは、一時的な不全感の発散のみならず、飲み込んだ相手を自らの下位に置き、支配する関係性を作り出すことでもあるのです。
 

 こうしたことが半ば無意識におこなわれています。
 これがローカルルール(偽ルール)という現象です。

 

・なぜ、私たちは、ローカルルールを飲み込んでしまうのか?~社会的な存在(ゾーオン・ポリティコン)としての私たち

 

「そんな不全感など受け取らなければよいではないか」
と思われるかもしれません。しかし、それは容易ではありません。

 理由の一つは、
私たち人間が社会的な存在(ゾーオン・ポリティコン)であることにあります。

 人は社会的存在として、規範に従い、他者との関係を維持しようとします。
これは社会性の根幹にあるものです。

 そのため、「これはルールだ」「これは常識だ」として提示されるものにとても弱いのです。
 

 それを否定すれば、自分のほうが「おかしな人間」だと扱われかねません。
もっともらしい理屈を否定するには、強い対抗理由や、関係性が壊れる覚悟が必要になります。

 結果として、違和感を覚えながらも、表面の理屈を真に受け、ローカルルールを飲み込んでしまうのです。

 

 

・行動レベルのミスを口実にする

 ローカルルールを飲み込ませやすくするために、行動レベルでのミスや落ち度が利用されることもよくあります。

 例えば、
 些細な業務上のミスをタテに、指示・指導だとして、上司が部下などに対して一方的な価値観や方法を押し付ける、感情(不全感)をぶつけるといったようなことはその代表例です。自分のミスをあげつらわれているため、部下は指摘を拒否しにくくなります。

 また、仕事においては上司の指示に従うべきという規範もありますから、どこかおかしいとおもいながらも、飲み込まざるを得ません。

 しかし、よくよく見れば、結局のところは、それは上司の不全感でしかありません。

 業務上のミスは誰にでも起こりますし、仕組みの問題であることも少なくありません。それをわざわざ取り上げ、不全感解消と支配の口実にしているのです。

 

 学校などで生じるいじめでもそうです。
 同調的で閉鎖的な雰囲気の中、例えば運動ができない、ノリが合わないといった違いを理由に、「お前は変だ」「お前はダメだ」と位置づけ、
理不尽を飲み込ませることが起こります。
 
 さらに、いじめの場合は、教師や保護者もローカルルールの理屈に巻き込まれるということは珍しくありません。
 (「変わった子だからいじめられても当然だ」というようなように)

 
 こうして、加害者は、相手にダメ出しをするという因縁を付けて、自分を正義の位置に置き、相手を罰するように自分の不全感を飲み込ませて、支配し、かりそめに「I am OK」な状態を作り出して、自分の不全感を癒そうとするのです。
 
 スクールカーストという言葉があるように、傍観している側も下位の人間が生まれることで、自らをカースト上位に位置付け、「I am OK」を感じることができるというわけです。

 

 

・家族でも行われている~不全感は世代を超えて連鎖する

 

 家庭の中でもこうしたことは行われています。

 愛着不安やトラウマは連鎖するといわれるように、そもそも親自身も不全感を抱えているというケースは少なくありません。

 そうした場合に、子どもに対して、しつけや教育と称して不全感を飲み込ませてしまうということがあります。

 特に子どもが見せるわがままさや無邪気さとは、自身が認めてもらえずに、ダメだとされた自分の姿そのものとして親には映ります。
自分はそれを否定され、そして、適応するために努力してきた、大人が望むように姿になろうとしてきた、ということから、子どもの無邪気な姿に触れた時に強い恐れや不快感、拒否感が生じるのです。

 

 ただえさえ子育てには強いストレスがかかりますが、親自身が抱える不全感が刺激されると平静でいることは難しく、その不快感や拒絶の強い衝動を抑えるために子どもに対してローカルルールを飲み込ませるというようなことを行ってしまうのです。

 あるいは、もっと能動的に、親が子どもに干渉、支配するといったケースもあります。

 親の不安やコンプレックスや自分の人生の代償として、子どもに塾や習い事、将来の職業を強いるなどというのも、まさにローカルルールであることがわかります。
(「あなたのため」だとして表面をコーティングしていますが、結局は親の不全感でしかありません。)

 ローカルルールを飲み込まされた子どもは、長くそのことに気が付かず、成長してからそれが心身の不調として現れるといったこともありますし、一見問題なさそうに見えても、ローカルルールに適応した「ニセモノの自分」として生きづらさを抱えたまま生きるということもあります。

 

 

・真面目な人ほど「内面化」してしまう~社会性の虐用(ソーシャリティ・アビューズ)

 

 ローカルルールの恐ろしいところは、被害者がそれを「自分の問題だ」と信じ込んでしまう(「内面化」する)点にあります。
 特に、子どもの頃に親からローカルルールを押し付けられた場合、子どもは親を愛したい、愛されたいという社会性や善性から、自らが否定されることを「自分が悪い子だから怒られるんだ」と誤学習してしまいます。こうした社会性を悪用されることを「社会性の虐用(ソーシャリティ・アビューズ)」と呼びます。

 大人になってもこの影響は続き、「自分はダメな人間だ」という感覚(自己否定感)や、「人の顔色をうかがわなければならない」という過剰適応、過緊張、自分の外側に正しさの基準が存在するという感覚から自信のなさ、自己の喪失といったトラウマ症状として残ります。その結果、職場など新たな環境でも、再びローカルルールを押し付けてくる支配的な人に巻き込まれやすくなってしまうのです。

 

【図解:ローカルルールの構造】

 

 

・ローカルルールという視点がもたらすもの~ハラスメントなど日常の理不尽の構造や対策が明らかに

 

 ここまでローカルルールについて解説してまいりましたが、ローカルルールという視点を持ってみると、悩みや生きづらさはもちろんですが、私たちが日常で感じる理不尽さや違和感の構造がよくわかります。

 例えば、社会で問題となっている「ハラスメント」の構造もより深く知ることができます。
 多くの場合ハラスメントは労務や行政のガイドラインといった表層的な定義ばかりが取りざたされますが、関係性や心理的な背景がわかれば、対策も洗練されていきます。上司がハラスメントとされてしまうことを恐れるあまり生じるホワイトハラスメントといったおかしな現象も防ぐことができます。

 

 別の例では、いわゆる、ブラック職場や、不祥事を起こす会社の風土などもローカルルールという視点を持ってみるとその理由が見えてきます。会社組織の場合は、そもそも創業者やトップの持つ不全感がカルチャーとしてローカルルールとして浸透しているのです。

 上記以外でも、私たちは、ハラスメントとまでは言い切れないけども、なぜかうまく言語化できない、腑に落ちないけど人間関係を維持するために飲み込んでしまっているようなこともよくあります。そうしたことにも光を当てていくこともできます。

 今回解説したローカルルール(偽ルール)のように、関係性や心理の“構造”を明らかにすることで、従来は言語化されてこなかった「現代社会の病理を解き明かす新しい視点」を私たちは手にすることができるのです。その視点は、個人が抱える生きづらさを理解し直す手がかりにもなります。

 

 

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ただ、そこに存在すること(Being)

 

 前回の記事で、責任を捨てると役割が出てくる、ということを書かせていただいた中で、例として、カウンセラーの本来の機能として、「そこに存在すること」と書きました。

(参考)→「無責任」になると、人間本来の「役割(機能)」が回復する。」 

 

 

 カウンセラーに限らず、「そこに存在する」というのは人間にとってとても根源的な機能とでもいえるものです。

 
 私たちは大自然の中にいるときそのことだけで癒されたりすることがある。
 イルカなど動物に接すると、それだけで癒されたりする。

 自然は、ただそこに存在しているだけ。動物もそこに佇んでいるだけ。

 

 
 理想ですが、実はうまくいっている治療現場では、「そこに存在すること」ということから治療の効果は生じている。

 

 心理療法とか薬とかそんなことは脇においておいて、ただ、話を聞いたりしていることで良くなっていくということはある。
 それは、傾聴とかそんなテクニックとかでもなく、そもそもの人間同士の関係がそうさせる。
 
 それは確かにある。筆者も経験することです。

 

 かなり重篤なケースなのに、
 「心理療法とか、カウンセリングはいいから、ただ雑談したい」ということを求められることはあります。

 そんなことをしているよりも治療をしたほうがいいのでは?と治療者側は頭では思いますが、でも、実際に雑談をしているだけのほうが効果があったりすることがある。
 

 それも「そこに存在すること」の効果なのかもしれない。
  

 

 

 クライアントさんの側でも、ただ「そこに存在すること」「そこに存在することで許されている」は心から求めていることではないかと思います。

 それは、私たち人間が持つ根源的な機能であり、土台である。

 そこを土台にして、私たちは社会的な活動を営むとされている。

 

 養育環境などこれまで過ごされてきた環境では、「ただ存在することは許されなかった」という方は多い。

 「そこに存在できない」ということを埋めるために、多動ともいうべき焦燥感で動き回ってみる。あれこれと人の気持ちを先回りしてへとへとになる。
 でも、「そこに存在する」ことはできずに、常に足元にはブラックホールが口を開けているかのような不安定さと空虚さを感じて生きている。

 それではとてもやりきれない。

 

 ただ、前回も書きました「責任」を捨ててみると、どうやら「ただ、存在する」ということが身近にあり、誰にでも備わっていることが浮かび上がってくる。

 

 

 では、「そこに存在する」とは、どのようにすれば可能になるのでしょうか? 

 ややもすると、存在することをなにやら次元の高いことだと感じてしまいそうです。高い人格を備えなければ、とか。トレーニングをして身に着けるものであるとか。

 そんなことはなく、健康な人であれば自然と実現していることでもあります。だから、それは難しいものではない。
 

 
 「ただ存在することができない」という方はどうすればよいのか?

 それは、「存在すること」が妨げられるケース、奪われる場面を見ていくと、「存在すること」の要件が見えてくるかもしれません。

 

 

 悩みにあるとき私たちが失うものは何か?というとまさに「そこに存在すること(Being)」。

 「そこに存在する」ということができなくなる。

 何か行動しなければ、とかき立てられる。追い立てられるようになる。何かをしていないと存在できない、何かを果たさないといる価値がない、と思わされる。

 

 
 「うつ」というのは悩みの症状でも中核的なものですが、エネルギーが下がる一方で、内心とても強い焦燥感に駆られている。

 エネルギーが下がるだけなら、冬眠のようにじっと休んでいればいいわけですが、焦燥感があるのに動けない、それでは価値がない、と感じることが自殺へと追い込んだりするのです。
(参考)→「うつ病の真実~原因、症状を正しく理解するための10のこと」 

 

 ただ、「そこに存在して」いればよいのですが、それができなくさせられる。

 

 

 「トラウマ」もそう。

 トラウマとはストレス障害からくる「非常事態モード」を指します。

 
 非常事態であるからただそこにいることが難しい。何かをしていないといけない、何かをしなければと、行動へとかき立てられる。

 そのうちへとへとになってきて、日常のストレスや人間関係には対応できなくなり、生きづらさを抱えるようになってくる。

 そこにいることができずに、内心は気づかいと緊張とで疲れ果ててしまう。

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

 

 悩みにある人は、
 「そこに存在する」という当たり前のことを回復したいと願っている。

 例えば、リラックスを感じたり、人とのつながりを感じたり、といったこともそうですが、そこにいて怒られない、攻撃されない、といった健康な人から見たら当たり前のことを欲している。

 

 
 「存在する」というのは、「Being」とも呼ばれますが、私たちにとって土台となるもの。

 機能不全家族、あるいはいじめにあったりなど不適切な環境で育つと、ただ「そこに存在する」ということができなくなる。

 何かをしなければいけない。と思われたりする。
 

 

 

 
 「存在すること」が妨げられるまでには順序があります。

 それは、

 1.安心安全が脅やかされる

 2.(公的な)関係・役割が切られる

 3.“(ニセモノである)責任”をかぶせられる
 
 
 ということ。

 それぞれはお互いを助長し、悪く循環するようにできています。

 

 安心安全が脅かされているから、落ち着いて関係を構築できない(1)。
 身体面でも自律神経が乱れているから、他者とペースが合わず孤立してしまう(2)。そうした状態は自分の責任だ(3)として、行動に掻き立てられて、「ただ存在しては価値がない」として、安心安全がさらに奪われる(1)。
 

 安心安全がないことで(1)、公的関係とのつながりが実感できなくなる(2)。私的領域(ローカルルール)に巻き込まれやすくなり、ローカルルールの中で支配されたり、嫉妬の渦で苦しめられたりする。その原因は自己責任であるとされる(3)。

(参考)「私的領域」は、公的領域のフリをすることで、強い呪縛となる。

 

 責任は無限であるために、いつまでたっても解消されない自責感、罪悪感に苦しめられ(3)、安心安全は常に奪われ続け(1)、誰ともつながれず孤独のままにされる(2)。

 

 といったようなループに入ってしまう。

 

 

 本来は、

 1.安心安全を感じている
 2.(公的な)関係・役割がある

 ために、おかしな責任がかぶせられそうになっても、「それ、私のではありません」と直感することができる。

 (参考)→「常識、社会通念とつながる

 この場合、3.は無責任であること  とすることができるかもしれません。
  

 

 カウンセラーとクライアントとの関係も同様で、
 良い関係は、治療同盟といいますが、上記のようだとされます。
 
 イルカや自然が最良のカウンセラーであるというのは、1~3が整っているから。
 
 

 

 近年注目されているオープンダイアローグが効果を上げるのも、クライアント、カウンセラー双方に、

 1.安心安全の保障(何事も合意なしに決められない。合意があるため、治療者側も一方的に責められない。)
 2.関係・役割の提供(クライアントも含めてそれぞれに役割があり、対話を通じて関係が作られる)
 3.無責任であること(責任ではなく役割があるため、1,2がさらに本来の機能を果たす)

 という要件が整っているからと考えられる。
  
 

 このように考えると、「ただ、存在すること(Being)」というのは、何やら精神的なことではなく、要件によって成立する、誰でも行えることだということが見えてきます。

 クライアント側、私たちにとってもそうで、「ただ、存在すること(Being)」とは、実は1~3の要件を整えることだといえそうです。

 

 
 ある種のセラピーや自己啓発でも、
 「そのままでいいんですよ」と存在を認めるようなワークがあったりしますが、うまくいかなかったり、その効果が長く続かないのは、1~3を整えないままに行われるからかもしれません。

 

 1~3を整えるためには、まずは、

 1.安心安全を確保すること   
   具体的には、栄養、睡眠、運動はしっかりと確保して身体の安全を整える。理不尽な環境は避ける。

 (参考)→「「0階部分(安心安全)」

 

 次には、
 3.無責任であること(免責されること)

   ローカルルールや責任という人間の身の丈に合わないものを疑い、棄てることで、本来の関係や役割を自然と浮かび上がり、感じられるようになってきます。

 そして最後に、
 2.(公的な)関係・役割が回復する
  
   公的な環境の中で、自分の役割を感じることができ、人とのつながりを回復することができます。  

(参考)→「常識、社会通念とつながる

 

   
 責任を棄て、浮かび上がってきた関係、役割(ネットワーク)が、「ただそこに存在すること」を位置づけ、意味づけ支えてくれる。
 それは高尚なことではありません。いわゆる愛着が安定していれば、そもそも提供されていたはずのものが戻っただけ。 

(参考)→「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 

 

 効果を発揮するカウンセリング、セラピーというのは、
 分析してみると、1~3の要素がしっかりと手当てされている。
 

 安心安全を確保し、ローカルルールや責任という呪縛から抜けることで、求めてきた「ただ、そこに存在すること(Being)」が回復してきます。
 (実際に、重い症状が急速に解決したり、というケースを目の当たりにすることがあります。)

 

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

ブリーフセラピー・カウンセリング・センター公式ホームページ

お悩みの原因や解決方法について