トラウマを解消する、とは、〝非常事態モード”を元に戻すこと

 

トラウマの中核にあるものは何か?といえば、それは「非常事態モード」です。

本来人間は、リラックスしている状態が通常です。
ストレスに対応してテンションが上がり、またリラックスに戻る、ということをしています。

しかし、ストレス応答系が過度なストレスを受けることで、モードの切り替えがうまくいかなくなり、
常に「非常事態モード」が入りっぱなしになってしまいます。

これがトラウマ(心的外傷“後”ストレス障害)という現象です。

過覚醒といった症状は象徴的で、
あたかも、戦場の兵士のように、いつも緊張して、警戒しているような状態になります。

 

非常事態というのは、周りがすべて危機に見えます。
何もしていなくても漠然とした不安があります。
人生の意味がよくわからない空虚感があります。

 

 

 

また、非常事態モードでは、なにもかもが仮設の作りものです。目の前の役割が終わったら撤去されてしまいます。
そのため、自分のスキルや成果などが積み上がる感覚がありません。いつも結局、どこかそわそわと落ち着かない。

 

 

アメリカの映画などで、ベトナム戦争などから帰ってきた人を描いたものがありますが、平和な社会を生きている人と、非常事態モードが抜けない自分との間に戸惑うというものがあります。

トラウマを負った人、というのは、同じような感じで、
普通の人とテンションが合わず戸惑います。

 

 

「トラウマを解消する」というと嫌な記憶を取り除く、といった意味にとらえる方が多いのですが、本当の意味での「トラウマを解消する」とは、非常事態モードを平時モードに戻す、ということになります。

 

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

ブリーフセラピー・カウンセリング・センター公式ホームページ

お悩みの原因や解決方法について

 

ユートピアの構想者は、そのユートピアにおける独裁者となる

 

生きづらさを抱えているときは、どうしても現実を迂回したくなります。
自己啓発、スピリチュアルなもの、自分独自の理想主義などに傾倒してしまったりします。
(生きづらさが顕著に出るアスペルガー障害では、ほぼすべてといってケースでスピリチュアルなものへの傾倒が見られる、とする専門家もいます。)

 

筆者も、成功法則とか、「引き寄せの法則」とか、そういった本を読んだり、話を聞いたりした時期もありました。

 

その通りに取り組んでみますが、
だいたい、結果は出ません。

 

出ないので、自分の取り組み方が悪いのかな、と思って気を取り直してまた、取り組んでみます。

 

でもやっぱりそのようにはなりません。

 

「新しい」とされる、別の方法を試してみます。
やっぱり結果はでません。

 

だんだん、「これは正しい方法なのか?」と、違和感を感じてきます。

 

 

また、本では素晴らしいことを書いているカリスマがいますが、本人に会ってみると、どうも様子が違う、ということもあります。

 

本の内容は温かい内容だったのに、

著者本人は、少し怖い雰囲気だったり、

カウンセリング、コーチングと称して、お客さんをただ詰めているだけだったり・・・。

 

当センターのクライアント様が報告してくださる経験でも、「本は素晴らしいけど、自己啓発のマスター本人に会ってみると、思ったようではなかった」とか「セラピーがうまくいかないと、こちら側のせいにされた」とおっしゃるケースは少なくありません。

 

いろいろと経験してみてわかったのは、世の常識を超える、と称する自己啓発、スピリチュアルはじめとする理想主義も、それは常識を超える理想でも何でもなく、実は、それもローカルルールをもとに弱い相手を支配するような道具である場合も多い、ということです。

 

実は、現在流布されている自己啓発やスピリチュアルの源流は、もともとはキリスト教の異端の思想であったり、近代化の中で派生したオカルトの現代的な焼き直しでしかなかったりします。
(実際に、そうしたことを調べた研究書などもあります。)

その効果・効用のほどはすでにかなり昔に決着がついているものでもあるのですが、ただ消費する側は、そんな歴史をたどって、原典を当たるようなことは面倒くさいからしません。焼き直して「海外から来た新しい方法です」と紹介されたものを定期的に消費されていく、という構造であるということのようです。

 

これも二階建ての構造の一階部分の現実なのかもしれません。

(参考)→「世の中は”二階建て”になっている。

 

 

ただ、生きづらさを抱えているときは、ウブなもので、ついつい期待してしまい、結局いいように利用されがちです。

 

 

 

 一方、筆者は、たとえ来歴がどうあれ効果があれば何でも利用すればいい、悩んでいる人が楽になれば何でもいい、エビデンスは後からついてくるもの、とも考えます。そのため先入観なく試してみようとします。
 少ない経験ではありますが、素朴な好奇心からそうしたものを実際に試してみても、効果は宣伝されるほどでもありません。正確に言えば、効果はないことはありません。ただし、認知行動療法でも同じくらい効果は出ます。運動ならばもっと出るでしょう。魔法のような効果があるとするのは、結局、主催者側のマーケティングのうまさであったり、誇大宣伝だったりするようです。

 

 さらに、面倒なのは、その世界の思想に乗らないとだめだ、というものもあったり、その世界の中で人間同士のしがらみや支配、メンバー間で競争意識が渦巻いていたりもします(世間と変わらないか、それ以上にややこしかったりします。)

 

 

 

ハンナ・アーレントというドイツの哲学、思想家が鋭いことを述べています。

 

「ユートピアの構想者は、そのユートピアにおける独裁者となる」

 

結局、私たちに、現実を超えるユートピアを提供するとする心理療法や自己啓発といったものの結末は、ここに尽きると思います。

 

現実を迂回してニセ成熟の道から悩みを解決しようと目指しても、達成されることはありません。
ポップ心理学、スピリチュアル自己啓発などは、「見たいものを見ている」だけで、実のところ内容もとても薄っぺらい。

 

 当然ですが、現実の世界のほうがよほど深く、多様性があります。自然がそうであるように、厳しくも優しく、ただそこにあります。その現実を探求する学術的な心理学や哲学、社会学、文学、生物学などのほうがどこまでも深いもので、はるかに面白いものです。

 

 

 もちろん、名医とされる神田橋條治氏が、気、代替療法などを活用しているように、利用できるものは偏見なく利用すれば良いですし、科学ではまだよくわからないけど臨床では役立つものは当然あるとおもいます。ただし、魔法ではなく、臨床家の道具として機能するものと思います。

 「心に聞く」といったテクニックでさえも、それはユートピアへの案内ではなく、現実の世界でよりよく成熟していくための方法です。ここを誤解してはいけないと感じます。

 

 いろいろなものを経験しまわりまわってみると、どうやら私たちは迂回せず、本来の成熟の道、常識の世界に還るほうが良いようです。

 

 そこは多元的で、奥行きがあり、真の意味で私たちが自分らしく生きられる場所があるように感じます。

 

 

 

「常識」こそが、私たちを守ってくれる。

 

 筆者は、昔、「常識」というものが嫌いでした。

 モラハラとかで苦しんでいたこともあってか、そうしたことに縛られて、自分を決めつけられることを嫌悪していたと思います。

 

 それよりももっと人間の「本質」で、互いにやり取りをすることが大事と考えていました。

 ある種の理想主義の下、いろいろなことを試みてきました。

 

 

 今から見ると、ニセ成熟の迂回ルートといえるような道筋なのですが、それも良い経験であったかもしれません。

 

 

 そこで見えてきたものは、常識を盾に苦しめられてきたのは、実は本当の常識ではなく、単なる中間集団全体主義の「ローカルルール」にすぎなかったのではないか、ということです。

(参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 

 常識とされているのは、支配してくる人たちの”個人的な信条”にすぎず、なんら、社会的一般常識ではない。巧妙に常識をすり替えられていただけ、ということが見えてきました。

 

 また、常識に代わるものとして、理想主義(ユートピア)に居場所を求めても、薄っぺらいものであったり、当てにならないこともわかってきました。

 

 結局のところ、現実に戻るほうが安全であり、素朴な常識こそが、私たちを守ってくれるものである、ということに気づくようになりました。

 

 そのころに知ったことですが、経営学者のピーター・ドラッカーが同じようなことを言っているそうです。
ドラッカーは、ナチズムや共産主義といった、理想が吹き荒れる時代にキャリアをスタートしています。

 

 当時、時代を分析した本の中でドラッカーは、理想主義の危険性やうさん臭さを指摘し、そして、変革の原理としてよりどころになるのは伝統的な保守主義しかないとしています。
 ドラッカーのいう保守主義とは、簡単に言えば、素朴な常識のことです。素朴な常識こそが社会が多元的であると知り、うまく均衡させるすべを持っている。

 

 一方、理想主義というのは、表面的には良くても、多元な現実をとらえる幅はない、危険な「ローカルルール」ということです。(ナチズムも、当時は新しい理想でしたし、千年安泰の帝国を作る、としていました。)

 

 つまり、常識こそが現代を生きる知恵となりえますし、多元な私たちの在り方についても尊重してくれるものです。

 

 実際、ドラッカーは、常識を駆使して、経営学の巨人と呼ばれるような業績を残していきました。日本でも多くのファンがいます。

 

 ハラスメントの研究で知られる東大教授の安富歩氏は、
ドラッカーは「常識人に愛好された」「常識人の常識を守りつつ、しかもその常識を揺るがす、という高度な技が展開」した、としています。
(参考)→「あなたの苦しみはモラハラのせいかも?<ハラスメント>とは何か

 

 あらためて常識とは何か?といえば、特定個人の信条でもなければ、堅苦しく固定された決まりでもありません。

 

 それは人それぞれであるという多様性があり、人は弱いものであるという前提や限界も踏まえているものであり、弱者への目配りも忘れないものです。社会の1階部分と2階部分を併せ持っています。その中で時代や社会の歴史も背負いながら導き出そうとするある種の態度です。固定されたものではなく、学習され日々更新されていくものでもあります。「社会通念」という言い方をすることもあります。

 

 

 ブラック会社などは、一番わかりやすい例で「人間としてあるべき理想」を語り、極端だと「24時間いつも仕事のことを考え続けろ」といったことを強要してきます。
疑う社員のほうを「逃げた」として追い詰めたりもします。
「常識」で見ればあり得ない、「ローカルルール」が支配しています。

 それに対して「それ、おかしいんじゃないの?」と声を上げるのも常識の力です。

 

 働き方についての価値観、意識は様々ですが、例えば、「残業は月何時間までが適正だ」とか、「残業代がないのはおかしい」といった常識は、価値観の多様さを支えてくれます。

 

 家族の問題も同様です家族の在り方は多様で、他人が口を出すことではありません。
しかし、ではどんな家庭でもよいかといえばそうではなく、家族がその「機能」が果たしていなければ、「それ、おかしいんじゃないの?」と苦しんでいる家族のメンバーは声を上げる権利があります。

 

 そして、その苦しんでいる家族のメンバーが参照する先は「社会通念」での家族の機能、常識です。

 

 多くの場合、常識というのは、愛着を通じて、社会とつながり、そこから体得されていくものです。ただ、愛着が不安定だったり、機能不全家庭だと、常識はゆがめられているため、自信が持てず、「おかしい」と声を上げることができない状態にさせられています。

 

 ローカルルールでしかない、ニセの常識を見破って、
素朴な常識から「おかしい!」と堂々と声を上げていい、常識こそが自分を守ってくれる、ということを知るだけでも、生きづらさから自分を守るすべを得ることができます。

 

 

 
 

 

iメッセージを使って「自他の別」を知る。

 

 自他の別を体感する方法の一つとして、「iメッセージ」というものがあります。

「iメッセージ」とは、簡単に言えばすべてを「私」を主語にしてみる、ということです。

 

 私たちはついつい、相手の視点から語ったり、物語の作者のように神の視点に立ってしまったり、してしまいがちです。
 想像力という人間が持つ機能ですが、それが「自他の別」をわからなくさせ、苦しめたりもします。

 

 本来自分にできること、範囲は「私」しかありません。

 

 例えば、職場で嫌な人がいたら、
「あの人は、~~だから、~~すべき」といったような考えや文句が浮かんできます。

 

 「あの人は~」の文章は、相手の視点や、あるいはニセの神様の視点に立っています。
私が思っていることと、相手の在り方についての話とがごっちゃになっていて自他の別を越えています。

 相手の問題と自分の問題が混合されてしまっています。

 

 そして、自他の別を越えていることを正統化するために、無理やり「すべき」という論拠を持ち出さなければならなくなって道義的にも苦しくなります。

 

一方、「iメッセージ」になると

「私は、あの人の~~が嫌です。」
「~~してほしいと、私が思っています。(でもそれは、相手の領分です。)」
という風になります。
 最初の文は、完全に自分だけで完結することができます。
2番目の文は、も自分の要望で思うのは勝手です。ただ、実行してくれるかどうかは、相手次第になります。

 

 「iメッセージ」で始めると、驚くほど自分がかかわれる範囲は限定され、狭いことが分かります。

 

 いわゆる成熟すると、自然と「iメッセージ」となっていきます。
相手にもいろいろな事情があるということを知りますし、
自他の別を越えて結局何もよいことがないことを学んでいきます。

 

 

 いじめの研究などで指摘されますが、
クラスのメンバーが固定されて閉鎖的な小学校、中学校などでは、「ローカルルール」が支配しやすくなります。
「あの人は、~~だから、~~すべき」といった考えになりやすく、いじめの温床となります。

(参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 

 一方、大学などになると、よほど公共のマナーを違反するような行為でなければ、他者に対しても関心を向けず、「私」が主語(「iメッセージ」)になりやすい。

 

 大学の大講義室で、特定のメンバーに目をつけて「あの人は、~~だから、~~すべき」などと思っていたら、かなり妄想的といえるでしょう。

 

 しかし、状況が閉鎖的になると、職場、家庭、街中でもこうした妄想的なことをしてしまいます。

 

 「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」ではありませんが、マネー違反は公共(カエサル=皇帝≒公共)に任せて、神(相手のこと)は相手の領分です。

 

 ニセ神様のようになって、相手の領域を侵犯して、相手を裁くことを正当化する行為はかなり異常だということが分かります。

 

 私たちは弱く、すこしのきっかけで解離してしまって、そうしたことに陥りやすい。

とくに、「あの人は~」で考え始めると、頭がグルグル回って止まらなくなります。

 

 そのため、「iメッセージ」で考える癖をつけることはとても役に立ちます。

 

 

→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

ブリーフセラピー・カウンセリング・センター公式ホームページ

お悩みの原因や解決方法について