ありのままの現実は「ニセの責任」を免責し、「ニセの責任」が免責されると、ありのままの現実がみえてくる。

 

 私たちは、「ニセの責任」を背負わされすぎて、「過責任」状態になっている。それによって、自分を守ることに労力を注がざるを得なくなって、本当に大切なことに責任が取れなくなる。主体的になれなくなる。

 「ニセの責任」からいかに自由になるかが、生きづらさから抜け出すポイントになる。

 

 本当を言えば、「機能している家族」「愛着」、というのは、免罪の装置として働きます。親が「安全基地」として存在し、「あなたは大丈夫よ」という態度、言葉で接してくれることで、免罪(代謝)が機能します。
 そして、成長する中で愛着が内面化し、自分の中でニセの責任を免責することができる。 

(参考)→「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 

 ただ、多くの場合、愛着に不安があり、免責が機能しなくなる。 
 親が親の機能を果たせず、親自身が「ニセの責任」発生装置になってしまい、子供を苦しめることになる。

 「ニセの責任」を免責する機能が内面化されていないため、「ニセの責任」がどんどん蓄積していってしまい、大変な苦労をすることになる。

 
 これが生きづらさや、トラウマ、であると考えられる。

 ※生きづらさとのメカニズムとは、社会学者によれば、「関係性の個人化」とされます。「関係性の個人化」とは、環境の影響などをすべて自分のせいだとしてしまうこと、です。

(参考)→あなたが生きづらいのはなぜ?<生きづらさ>の原因と克服

 

 

 

 依存症の世界でも指摘されていますが、「底をつかない」と治療が機能しない、ということがある。つまり、依存症とはそれまでに背負ったさまざまな生きづらさを癒すための自己治療である、ということ。

 元プロ野球選手の清原さんなど、依存症に陥った人を見てもわかるように、とても繊細で強いストレスや生きづらさを抱えていたことがわかる。
 それを癒すために依存が必要であった。

 

 それを、周りが本人の責任のようにお世話をすると(イネーブリング)、周囲から「ニセの責任」が流れ込んできて、本人は余計に問題行動を起こすようになる。

 自助会など様々な場を通じて「ああ、自分には何もないんだな、もう神様、仏様にでも任せるしかない。」「結局、自分は自分だ」と底をついたときに、本当の回復が始まる。

 つまり、「底をつく」とは、「ニセの責任に気づき、免責される」ということだと考えられます。 

(参考)→依存症(アルコール等)とは何か?真の原因と克服に必要な6つのこと

 

 

 

 トラウマも同様です。

 トラウマの主要症状にフラッシュバックというものがありますが、まさに、自分にとってつらい体験が繰り返される。
ふつうは睡眠をとることで、徐々に薄れていって「免責」されていきます。

 しかし、トラウマの場合は、自分にとって過去のつらい経験、嫌な経験が、ずっと反復される。

 「自分は何も悪くないけども、嫌ない経験だったんです」という風にはならず、
 ほぼすべてのケースで、「自分が悪かった。迂闊だった」という恥や罪悪感が伴っている。

 もちろん、トラウマとは、外からやってきたイベントにすぎないのですから、「自分は何も悪くない」でいいわけですけども、自分の中に免責機能が十分に機能していない場合、あるいは周囲がおかしな理屈で、「あなたにも問題がある」といったように責めてきた場合などは、処理できずトラウマになってしまう。

 

 苦の原因というのは、「ニセの責任」にある。
 人間が持つ過剰な意味づけなどが誤った原因帰属がさらに「ニセの責任」を重くしてしまう。

 

 

 こうした側面について、「ニセの責任」から抜け出す方法を提示したもう一人の巨人は、ブッダです。

 ブッダの悟りというのは、要は、世界の仕組みをありのままに真に客観的に捉えることができれば、苦から逃れられるということ。  

 私たちは、嫉妬や支配など、様々なローカルルールに縛られて「ニセの責任」でがんじがらめになっている。ローカルルールの中で、それを解決しようとあくせくしているけども、新たな苦を生み出すだけ。

 

 さらに、過剰な意味づけが働いて、何気ないことにも「自分だけに」とか、「何か良いこと(悪いこと)が起こるに違いない」と思ってしまっている。

(参考)→「過剰な合理性や意味づけ

 

 でも、客観的に見たら、自分だけに、ということはない。

 自分の子供が死んだ婦人が、ブッダに相談した際に、「一度も死者が出たことがない家からカラシダネをもらってきなさい」といわれて、家々を訪問してみたら、「実は、私の家でも・・・」とか、「数年前に、子供が・・」となって、婦人が客観的な事実に目覚め、「ニセの責任(私の落ち度で子供が死んだ。私だけがおかしい)」が免責され、苦から解放されていった。 

 

 通常の人間というの、見栄など、軽い幻想を持って生きている。
 また、嫉妬や支配、あとは、精神障害などさまざまなノイズが飛び交っている。その処理をするために、因縁(ニセの責任)を他人にふっかけて何とか自尊心を保っている人たちもいる。それが社会ですが、裏ルールがわからない状態だと、真に受けてしまって「ニセの責任」を強化する材料とされてしまう。

 

 実際は、「自分だけが・・」とか、「自分が悪い・・」なんてことはない。

 

 そのありのままを捉える方法を「悟り」としてブッダは発見した。「因縁(ニセの責任)」から逃れるのが「解脱」ということなのかもしれません。
   

 実は、客観的に見れば見るほど、迷妄は取れてきて、本来の自分になってくる。

 

 「事実、現実」というと恐ろしいように見えていますが、

実際は、
 「(ニセの現実を回避するための)幻想」-「ニセの現実」-「ありのままの現実」と3層になっている。

 

 私たちが恐れる「現実」とは、「ニセの現実」。
「幻想」と「ニセの現実」の間にも、ニセの責任からもたらされるものすごい恐怖があるので、見れなくなりますし、「ニセの現実」とありのままの現実との間にもさらにものすごい恐怖があります。

 ですから、容易にそこをクリアすることができない。

 

 でも、「ニセの現実」は「ニセの責任」による罪まみれで、みじめで苦しいもの。「ニセの責任」が免責されてくると、ありのままの現実がちゃんとみえてくる。

 

 ありのままの現実は「ニセの責任」を免責し、
 「ニセの責任」が免責されてさらにありのままに客観的に現実が見える。

 そうするなかで生きづらさは徐々に無くなっていきます。
 

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

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原罪と免責

 

 私たちは、ニセの責任をたくさん背負わされて、本当に自分の人生に責任が持てなくなる。不調をきたしてしまう。
 

 本当に立ち向かわなくてはいけないときでも回避しようとしてしまったり、問題行動を起こさざるを得なくなる。

 それは、責任を回避するいい加減な性格だから、ではなく、責任を背負わされすぎてしまっていて、それ以上背負うことができないから。

 認知のプロセスがゆがめられてしまっていますから、日常の何気ないことまで、「罪悪感(自分が悪い)」との気持ちを持たされてしまうようになります。
 そのストレスは過大なものです。 
 

 過大なストレスに対してうまく代謝が機能しにくくなりますから、心身に不調をきたすようになります。

 

 日常生活でも、仕事など様々な場面で不都合が生じてきます。

 悩みの中にあって苦しい、生きづらいというとき、
 「誰か、自分が大丈夫だよ、おかしくないよ、って言ってよ!認めてよ」と心から思います。

 ただ、なかなかそれが実現することはありません。一見そうしてくれそうな人が現れても、共依存の関係にしかならなかったり、期待して裏切られたり、といったことも起きます。特に、身近な人間同士ではなかなか難しいのです。
 

 

 

 人間は「外来要素の沈殿物」(パリ大学小坂井敏晶教授)ですから、本来、責任はありません。
 人間とは、環境の影響に押されて、最後にババを引かされているだけで、責任の主体性というものはかなり怪しいものだからです。

 ただし、社会は、秩序を維持する関係上、目の前の人間に責任を問わざるを得ないことがあります。(例えば、自分のものを盗られても「その人の責任じゃないからいいですよ」とは言えない。)
 現代は個人主義ですから、特にその傾向が強い。 どうしても、やむにやまれぬ問題行動も、自分の責任とされてしまいます。

 

 ニセの責任で苦しい状況(I’m NOT OK)を、他者に因縁をつけてこき下ろして(You’r NOT OK)、かりそめの免責(I’m OK)を手にしようとする人もたくさんいます。

(参考)→「人は、自己愛が傷つくと、相手を「負かして」、自分が「勝つ」ことで存在を保とうとする

 

 すると、ニセの責任が連鎖していってしまい、互いに首を絞め合う構造になりどうしようもなくなります。息苦しい社会の誕生です。

 ニセの責任を自分で処理できる人や、他人に投げることができる人は健康に生きることができますが、できない人は、だんだんと苦しくなります。
 人間社会にも「2:6:2」という構造がある、といわれますが、ニセの責任という観点からもそれが言えるかもしれません。
 

 世の中には、「ニセの責任」が生み出されて、流通している、というのも“裏ルール”といえそうです。

 この「ニセの責任」の存在に気づき、それをいかに免責するのか、は私たちが本来の自分で生きていくためには最重要ポイントといえます。

 

 

 

 「ニセの責任」やそれのよる「罪悪感」ということがわかった時に、気が付いたことがあります。

 そういえば、キリストって似たようなことをしていたな、と。

 キリスト教の物語を見ていると、イエスが悩める人の問題を解決する際に、「罪は許された!さあ、立ちなさい」といったようなシーンが出てきます。

 祝福を与えて「免罪」すると、病が治ったりしていきます。

 

 キリストは、現在で言えば、民間の治療者やカウンセラーのようなことをしていたようです。
 

 キリストがユニーク、画期的であったことの一つに、人間が背負わされた「罪(ニセの責任)」に注目したことではないか、と思います。

 キリストは、ユダヤ教の改革者だったのですが、もともとユダヤ教には「原罪」といった観念はなかったそうです。
 旧約聖書にあるアダムとイブの話も、そもそもは「原罪」とは関係がない。「原罪」というのは、キリスト教になってから示されるようになったものです。

 

 人間を作ったのは神ですし、人間の行動もすべては予定されている。
 病や犯罪、様々な問題行動の責任も、本来は神様の責任のはず(全知全能ですから)。
 でも、現場の人間に帰せられる理不尽さ。大きな矛盾です。「原罪」とはまさに「ニセの責任」といってよいかもしれません。
 

 

 私たちは、自分たちがまさにあらがえないものに流されるように生きづらさに悩んでいます。

 例えば、愛着障害(トラウマ)を背負って人生がうまくいかなくなっても、親は選べないし、人生をやり直すこともできない、そのくせ責任だけは取らされる。誰もその構造を理解してくれない。表面的なことだけで非難されてしまう。そのことにものすごく怒りを感じていたりする。
 

 

 『反省させると犯罪者になります』という本にもありましたように、人間というのは、その理不尽さを直感していますから、服役者でさえいくら反省しろ、といっても、効果が上がらないのです。
 かえって腑に落ちず、理解されない孤独に陥ったりして、また再犯につながったりする。そこから抜け出ないといけない。

(参考)→「「反省」するととらわれ、支配される。人間に必要なのは「学習」である。

 キリストは、私たちが感じているその矛盾に直感的に気がついた。キレイごとだけではなくその矛盾から救われないと意味がない。

 

 

 興味深いのは、
 病にある人を治療したり、癒しを与えたりするときには、
  「エネルギーを注入します」でもいいし、
  「光を注ぎます」でもいいし、
  「神様が治してくださいます」みたいなことでもいいわけです。

 罪とか面倒なことを経由しなくてもよいはず。

 しかし、キリストは、
 「罪は赦された!」と宣言して、「免罪(免責)」によって、治療や奇跡を起こします。

 

 キリストは、人間は「罪(ニセの責任)」を背負わされていて「過責任」状態になっていること。それがストレスになって、心身の不調をきたしている、と見抜き、それを「免罪(免責)」することが人々が自由になるポイントであることを知っていたのかもしれません。
 
 
 最後は、自分が「ニセの責任(罪)」を一身に背負って、磔にされてしまいます。(それによって人類を救った、というのが後に作られた解釈です。)
 

 

 

 人間にとって大切なポイントが明らかなのでしたら、キリストのように、「あなたの罪は赦された」と互いに行えばよい。

 トラウマを負っていると、訳の分からない「罪責感」「自信のなさ」にさいなまれています。過去の自分の行動がどうしようもない恥ずかしい、おかしなことのように記憶しています。それを「免責」してほしい。

 
 ただ、なかなかそれは難しい。日常生活では、かえって「ニセの責任」がトランプのババのように回ってきたりする。
 
 いかにして自分が背負った「ニセの責任」を免責していくのか?

 「ニセの責任」に着目して奇跡を起こしたキリストの行動は、私たちが悩みから抜け出すためにもとても大きなヒントが含まれていそうです。

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

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