「汚言」の巣窟

 筆者が、久々に実家に帰って、親の発言を聞いてみると、「とても言葉が汚い!」と思うことがあります。

 TVを見て文句ばっかり。世の中に皮肉ばかり。
 何についても否定から入る。

 いちいち注意するのもキリがないくらい、汚言、悪口が当たり前になっています。

 聞いているとこちらの頭がおかしくなってきそうです。
体調が万全ではなければ、自分ももしかしたらこんな風に言われているのか?なんて人間不信、社会不信に陥ってしまうかもしれません。

 あらためて、「ああ、自分はこんな環境で生きてきたんだな」と感じたりします。

 

 街でも、ちょくちょく目にする光景に、汚言が止まらなくなっているお父さん、お母さん。子供連れのお母さんが、自転車の後ろに子供を乗せたまま、イライラして、子ども相手にずーっと汚言を吐き続けている。子供は小さいために、自転車に乗りながらおもちゃをもって平然としています。
 もちろん、平然していていますけど、無意識に脳はダメージをうけているのでしょうけども。

 以前、筆者がテニス用具店に行った際に、ずーっと家族に暴言をぶつぶつ吐き続けているお父さんがいて驚いたことがあります。筆者はとても聞いていられず、店を出てしまいましたが・・

 

 クライアントさんに聞いてみると、口の悪い家族に囲まれている、というのはケースはとても多い。経済的に自立できない中、親と一緒に住まざるを得ず、口の悪い家族に囲まれて汚言まみれの中で過ごしてい足りといったケース。

 言葉には、とても強い力がありますから、まさに呪縛のような影響力があります。

 そうした汚言まみれの中を生きているため、本来の力が発揮できなくなる。

 特に、閉鎖的な家庭の中は、まさに「汚言の巣窟」といってもいいような状態です。  

 口の悪い家族は、家の外では外面よくすましているのに、家の中では言いたい放題です。

 

 「汚言癖」という病気がありますが、おそらく、私たちは遺伝的にそうしたものを誰しもが持っていて、家庭内という閉鎖的な環境ではそれらが発火して、止まらなくなるのかもしれません。

 

 トラウマティックな世界の対称として、落語的な世界があります。落語に登場する江戸っ子(上方の町人)は口が悪いようなイメージがあります。

 ただ、口は悪いが愛嬌、ユーモアがあり、人を傷つける感じがありません。

どうやら、口が悪いことが必ずしも、呪縛につながる汚言となるとは限らないようです。

 

 では、呪縛になる汚言と、そうではないものとの違いはどこにあるのでしょうか?

 

 その違いは、

  ・自己愛の強い個人としての発言ではなく、分をわきまえた立場からの発言であること。
  ・上に関連して、ユーモア、愛嬌があること。

 という点ではないか、と思います。

 

 呪縛となるような汚言を吐く家族というのは、まさに自己愛が満たされない個人であるということ。
 本当は大事に扱われてよいはずの自分が認められず、満たされず、世の中から無碍な扱いを受けている。
 不全感から解離して“神化”して超越的なポジション、あるいは本当はすごいはずの特別な自分を認めろ、といった立場から世の中に対する呪詛や裁きのような言葉を吐いているわけです。
 もっともらしいことをいっていても、妬み嫉みでしかない。
 自己愛にひびが入って、“恨み”という放射能が漏れ出すような醜さがあります。

 そのため、聞いている側はうんざりするのです。

 ※少し前にはやったニーチェは、まさにこういう状態を批判していました。
 現代人というのは、満たされずにルサンチマン(妬み、嫉み)のもと突き動かされてしまいやすい、として、もうそれはやめようよ、といってその方策を哲学としてまとめていたわけです。

 

 一方、分をわきまえた立場、というのは、簡単に言えば、カウンセリングなどで目指そうとする、愛着が安定した、成熟した人格です。分をわきまえるとは、自他の区別がつき自己イメージが適切なサイズに収まっているような状態。

 愛着が安定しているため、「個人」として自立しなければならないという強い衝動もなければ、満たされずに恨みを抱く必要もない。そのため、嫉妬も比較的小さく、少なくて済む。

 落語の登場人物のように、口が悪くても、分をわきまえているので、相手を裁くという感じではなく、等身大の目線で、本音をぶつけている清々しさがあります。

 さらに、正論を吐いた時も、「なんちゃって!」という諧謔(ユーモア)も付加されていて、多元性への目配りがあり、押しつけがましくありません。

 これらは、機能している家庭で見られる状態です。
 機能している家庭は、家族の中で閉じきらずに外に開かれているために、ローカルルールの横暴さがありません。
 (参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

トラウマを抱える方にとって家族は、まさに前者の状態、
 家庭が「汚言の巣」になっていることも、呪縛の大きな要因になっているようです。

 

 

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因縁は、あるのではなく、つけられるもの

 私たち人間は、自動的に原因の帰属を考えようとする性質があります。災害などの不幸が起きたときも、「偶然だよ」とあっけらかんととらえる人は少ない。何か理由を求めたくなる。
 自分が悪かったのではないか、と考えてしまいす。

 

 おそらく、人に原因を求める考えというのは、一つには万能感のなせる業です。愛着不安があるほど、万能感も強くなり、理由づけもより行ってしまう傾向があると考えられます。もう一つは、安心安全感がないため。安心安全がないために、理由をつけて秩序をこしらえたくなる。 もう一つは、算数障害。一個体の影響力を過大に見積もりすぎ。最後は未熟さのため。人間というものが行う理不尽さの仕組みを知らないことが背景にあります。

 人間というのは、意識と無意識の世界を行ったり来たりしている生き物で、常に催眠すれすれの状態にあります。脳も未成熟で、すぐにショート(発作)したり混乱を起こしたりします。そのため、人格が変わっちゃっておかしな言動に走ったりすることは日常的に起こります。

 皆さんも、人から急に失礼なことを言われたり、訳が分からないような言動をとらえたりした経験がおありだと思います。でも、訳がわからないから、何かの思い違いだと思って、スルーしてしまっている。実は人間の本質にかかわっている。

 

 さらに、いじめの研究でもわかっているように、人間は、閉鎖的な共同体の中では、おかしなローカルルールがはびこらせてしまう。ローカルルールを常識だとすぐに思い込んでしまって、多様性を欠き、たまたま目に留まった人物を支配しようとしたり、いじめの対象としてしまう。学校や会社、家庭がそうです。

 ※トラウマを負っていたり、発達障害などで体質的にストレスを処理しにくく、脳が帯電しやすいため、相手の解離や発作を引き起こしやすくなると考えられます。

 

 
 家庭でも、子どものイライラすることがありますが、最近では、ホルモンなどの失調、その背景には栄養不足や代謝の異常なども原因として指摘されています。

 でも、人間は理由なく行動することを認めたくないため、相手に原因を帰属します(「あの子は、ぐずぐずして、言うことをきかないから」と) 

 

 ホルモンや脳の発作が原因だとしたら、相手のせいだとすることはまったく意味をなさなくなります。
 チンピラが、「ムシャクシャしていて、気に入らないつらのやつを殴った」という言い訳と何の差もありません。
 人間は、無意識が先にあり、理由は後付けてこしらえる生き物なのです。

 ケンカを吹っ掛けたりすることを、「因縁をつける」といいますけど、人間関係の1階部分を言い当てた、とても興味深い言葉です。因縁とは”原因”、”理由”といった意味です。「因縁がある」といわずに、しばしば「因縁をつける」という。つまり、因縁とは客観的にそこにあるものではなく、相手から無理やりこじつけられるものだということです。これも裏ルールの一つといえそうです。

(参考)→「世の中は”二階建て”になっている。

 ハラスメントとは、自分の中で起きた解離や発作、ホルモンの異常でイライラしていたり、支配欲が沸き起こっているのに、それを偶然目の前にいる相手に原因を帰属する(因縁をつけるて、呪縛する)行為といえます。

 虐待、いじめなどはまさにそう。 

 過去に親からひどい目にあったのも、因縁をつけられていた、ということです。
 日大の選手も、たまたま変な指導者に巡り合って、因縁をつけられた。
(だから、お前が悪いんだ、というメッセージが隠れていて、真面目に受け取って考えてしまうと呪縛で苦しくなるのです)

 真に受けることの背景には、過剰な客観性も手伝っています。
 (参考)→「「過剰な客観性」

 

 因縁をつけられたら、「そんな因縁かけられる筋合いはない」として、理由など考えず、真に受けず、漫才のツッコミのように言い返したり(「なんか、嫌な感じだな」「やめてくださいよ~」)、因縁を相手に返したり、やり過ごしたりすることが必要です。

 

 トラウマを負うと、外から吹っ掛けられた因縁が自分の存在そのものから発しているように錯覚してしまって、「自分はどこか根本的におかしい、間違っているに違いない」と思ってしまうのです。

 

 

 

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理由を考えると、呪縛にかかる~ハラスメントは偶然に

 

 カウンセリングをしていて、質問としてしばしば聞かれることの一つに
「自分の親は、なぜあんなひどいことを(自分に)してきたんでしょうか?」

 ということがあります。

 ひどいことをされるというのは、自分にも理由があるんじゃないか? という趣旨のようです。

 結論から言えば、

 「偶然(たまたま)です。≒あなたに原因はありません」 

 ということです。

 最近、日大のアメフト部の事件が話題になっています。

 強権的なハラスメント体質が事件の背景にあるのでは?と指摘されています。
しごきの対象となることを「ハマる」といって、どうも、その選手の能力や行いには関係なく(たまたま)ターゲットにされていた、そうです。

  ハラスメントにおける対象選択の偶然性をよく示しているように思います。

 
 いじめやハラスメントの研究などによると、いじめの対象になるのは、偶然でしかないとされます。

(参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 

 

 私たちは、いじめにあうのは、いじめられる側にも何かいじめられやすさがあり、問題があると思っていますが、それ自体、どうやらかなり間違った思い込みであるようです。

 例えば、芸能人でも、ロンドンブーツ1号2号の淳さん、AKBの指原さんなどは、いじめにあったことがあるそうですが、現在の活躍からは想像がつきません。

 ハラスメント(いじめや虐待など)は、本人の問題に関係なく、偶然に、たまたまやってくるもの、なのです。

 
 しかし、偶然であることに気が付かず、「理由」を考えると、ハラスメントが仕掛ける精神的な呪縛から抜け出せなくなってしまいます。頭がグルグル回って、最後はやっぱり自分が悪いのでは?何か自分でも気づかない人から好かれない弱点があるのでは?という不安がよぎります。ハラスメントは、呪縛を与えるために理由を考えさせたいのですから、理由など考えてはいけない。

 

 一番よくないのは、他人に理由を聞くことです。他人は一生懸命原因を考えて、親切にも伝えてくれます。「あなたの~~なところがよくないのかも」「もっと愛想よくしたらいいのかも」など。
 
すると、呪縛はさらに強くなります。

 
 物事には自分を中心として因果があると考えるのは、万能感のなせる業で、どう考えてもおかしい。実際は、もっと大きな因果の流れがあって、それにたまたま遭遇するかどうか、でしかありません。

 社会科学の研究でも、社会問題が、一人の人物に原因が還元されることはありません。経済の状況があり、社会のムードがあり、その中に巻き込まれるように人々は動いているものです。
 さらに、社会はあまりにも多因子であるため、単一の原因に還元されるケースは皆無に近く、そのため「原因などなく、解釈だけがあるだけだ」と言われるほどです。

 

  ※明治維新の前に、お侍が欧州に視察に行くのですが、当初の体験記などを見ても、異国が優れているから学ぼうという意識はあっても優劣という意識は見られませんでした。ただ、ある時から、文明国と未開国という劣等感になっていきます。これも、欧米側の差別意識などに触れ、理由を考えてしまい、呪縛にかかったためかもしれません。

 なぜ、欧州が先に近代化を果たしたかについては様々な仮説がありますが、今もって確定したものはありません。極論すれば、どうやらこれも偶然の代物。近代化したほうが優れているという絶対的基準もないのですが、理由を考えることはろくでもありません。最後は劣等感へと落ち込んでしまいます。

 

 私たちが直面する理不尽な出来事も、おかしなムードが先にあり、相手の内的な都合でイライラが始まり、それを目の前のたまたまいた自分が因縁をつけられているだけ。

 
 その偶然が、家族の場合は、因縁が、さも密接に関連があるかのような気になり、妥当性ありとして真に受けてしまいます。でも、どこまで行ってもたまたま(偶然)です。

 冒頭の質問であれば、たまたまおかしな親に出会っただけ、自分の素質とは全く関係がないのです。

 シマウマは、なぜ自分がライオンに襲われたかは、考えない。
 愛着が安定している人も、自分に関連付けることは少ない。

 一方、トラウマを負っている人は、世の中をありのままにとらえる機能が失調しているためか、何でも自分に帰属させてしまう傾向が強いのかもしれません。

 

 

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「逃げる」ことは、私たちの安心・安全のためには欠かせない

 

 理想(ローカルルールやファンタジー)へと回避せずに現実へと入っていく、と聞くと、「逃げてはいけないのか」と感じて苦しくなる方がいらっしゃるかもしれません。
 実は逆で、現実へと入っていくことは、「現実の場面で、逃げられること」であり「逃げてOK」ということが必ず含まれなければならないということです。
 

 動物は、危機に直面したときは、「闘争」か「逃走」とどちらかの反応を示して対応します。

 ライオンに襲われればシマウマは逃げる。立ち向かっても勝てないので。一方、小動物なら立ち向かう。サイや象の場合は群れで立ち向かうこと(闘争)もあるようで、ライオンが必ずしも百戦百勝ではないようです。この場合はライオンのほうが諦めます(逃走)。
 

 

 「逃走」というのは、善悪の判断でとらえるようなものではなく、動物にとっては基本的な反応であるということです。常に立ち向かわなければならないというのは、あり得ません。「闘争」「逃走」を場合により使い分けて生きています。

 

 対して、人間の世界では、「逃走」というと悪いニュアンスでとらえられることが多いです。

 私たちはほぼ全員と言ってよいかもしれませんが、「努力が必要」と並んで「逃げてはいけない」ということが頭の中にあって、行動を縛っています。

 実は精神障害や、依存症などは、「逃げれない」という環境で起こることが多い。本人は、ぎりぎりまで頑張って、それで対処できなくなり、自己治療として問題症状が起こると考えられます。

 本来であれば「逃げてOK」なのですが、逃げることが必要な場面でも逃げることができない。逃げる先(ホーム)がない。

 

 愛着の研究では、子どもは、不安になると親のものとに駆け寄って抱きしめられます。これも、親の元に“逃げて”いるわけですが、逃げる先があるということはとても重要です。

 愛着とは言い換えれば、世界への安心感があると同時に、危険があった場合に“逃げる先があること”とも言えます。
 

 逃げる先があるからこそ、現実に正面から向き合える。
 逃げることはとても大切。

 「孫氏の兵法」でも、勝算がなければ戦わず、ということが書かれているように、自分にとって対処できなければ積極的に逃げるものです。
 

 悩みにある人は、世の中の俗なイメージでは、現実から逃げている印象がありますが、実は反対で、現実から逃げることができない状況に追い込まれてしまった人たち、といえます。

 現実の世界で逃げることができないから、想像(ファンタジー)の世界へ逃げ込んだり、回避、防衛反応を起こして守るしかなくなっている。

 さらに、逃げる先がないということと同時に、「逃げてはいけない」という呪縛が私たちを縛ります。

 

 ハラスメントの研究では、ハラスメントを仕掛けてくる人は、「逃げるな!」といってバインドをかけてくるとされます。

 「(この苦しい状況から)逃げるな」というのは、とても強力な呪縛であり、それ自体が虐待的な言葉なのです。

 本来であれば、対処できなければ、積極的にポジション(居場所)を変えて、対処する。そうすることが正しいのです。

 

 しかし、「関係性の呪縛」は強烈で、私たちは対人関係を壊さないよう「適応」しようとしてしまいます。さらに、その関係がなくなったらやっていけないのではないか、という不安がある場合、レイプ、虐待といった状況の中にあっても、その関係にとどまることを余儀なくされてしまう。

 その場の人間関係を壊すくらいなら黙ってひどい目にあったほうがまし、というほどに現実の中にとどまってしまいます。そして、意識だけファンタジーの中へと仮に逃走することで自分を守るようになります。

 いじめでも、いじめられている側は、「(こんな自分でも)仲良くしてもらっている」として、理不尽な指示に従ったり、どうすれば仲良くしてもらえるか、教えを請うたりしてしまいます。
 (参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 

 トラウマを負うということはどういうことかというと、ストレスに対処する際に逃げれなかった、ということです。

 愛着が安定していると、逃げる先(ホーム)があるため、人間関係での呪縛にとらわれにくく、呪縛にさらされそうになると瞬間的にホームに逃げ込んで、安全なところから対処していると考えられます。
 
 仕事においても、愛着が安定していると、ブラックな職場と見るやあっさりと転職していったりします。夫婦でも、安心安全が保てない場合は、さっと離婚したりします。そこに躊躇はありません。

 
 では、愛着の安定している人は現実に立ち向かわず逃げてばかりいるか、といえば、もちろんそんなことはありません。立ち向かうところではちゃんと立ち向かう。ただ、どこで逃げなきゃいけないか?どこで立ち向かうか?をしっかりと把握している。シマウマやライオンのように。 

 愛着が不安定だと、「自分にも悪いところがあるのでは?」とか、「ここで頑張れなければどこに行ってもやっていけない」とか、「愛情から厳しくしてもらっているのでは?」「収入が不安」などとを考えてしまって、動けなくなってしまいます。

 以前の記事にも書きましたが、学校スキームと異なり、社会に出たら、どこで戦うか?何が目標か?も自分で見極めなければなりません。学校のように単線で目の前のことを逃げずに頑張ればいいというルールとは全く異なります。

(参考)「「学校スキーム」を捨てる」

 

 「逃げる」という言い方を積極的に言い換えれば「ポジショニング」です。
 

 本来であれば、学校でも「逃げ方(≒ポジショニング)」を教えてあげたほうがいいのでは?とさえ思います。立ち向かうことばかり教えているのはどうか。特に日本では、立ち向かう潔さを美徳する傾向は強いかもしれません。
 人生では勝負所を見極め、それ以外はさっと逃げること(ポジション替え)がとても大切です。もしかしたら、これも裏ルールかもしれません。

(参考)→「世の中は”二階建て”になっている。

 例えばカウンセリングの治療でも、積極的に治そうとしない人を逃げているとして、その人のせいにしたり、立ち向かうように勧めたりする傾向がありますけど、実際は逆で、「逃げる場所がないまま、戦うことを余儀なくされてきた人」ととらえれば見方は変わります。
 
 結局、現実で逃げる場所がないから、ファンタジーに頼るしかなくなる。事実、統合失調症などでは、現実社会で役割があると治りはぐんと早くなるとされます。それ以外の精神障害でも、やはり仕事(位置と役割)があるほうがよい。

 

 トラウマを負った人、生きづらさを抱えた人は、さながら逃走という選択肢のないシマウマのようになってしまっています。

 「逃げる」ということは、私たちの安心・安全のためには欠かせないものです。

 

→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

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