心理療法の”常識”も実は違っていたの?!

 

 心理療法に関わる人たちの間では、なんとなく常識となっていることがあります。

 

 それは、
  クライアントさんの話はすべてを受け入れなければならない、とか
  悩みも肯定的な意味、意図があって、解決のためにはそれを認める必要がある、
 
 といったもの。

 

 日常の生きづらい生活の中では、清涼感、潤いを感じるような考え方です。 
 競争的でギスギスしたり、コンプレックスを感じたりしているなかではなおさらです。
 ただ、自分が悪く言われて、欠点を直しましょうなんて考えはうんざりするでしょうから。
 

 

 例えば、認知行動療法など、のセラピーにおいては、
 私たちの悩みの原因は「非合理的な信念」にある、と捉えます。

 そして、「非合理的な信念」というのは、
 「いつも一生懸命でなければならない」だとか、「楽しむべきではない」「完全でなければならない」
 であるといったこと。

 

 

 認知行動療法などの説明では、

 人間は過去のある時点では、自分の身を守るために、そうした信念をインストールする。 
 その時はそれでいいけども、問題は、状況が変わっても、そうした信念を持ち続けてしまうことだ。それが悩みの原因だ、とします。そのことを「非合理的な信念」といいます。

 

 ただ、信念を変えようとしても抵抗が強い。 

 そのため、その信念を持つに至った意図(肯定的な意図)は尊重しながらも、信念を捨てるか、別の形に変化させることで悩みや問題行動がなくなる、というのが認知行動療法の基本的な考え方になります。

 

 認知行動療法は多くの実績があり、確かに悩みは軽くなります。エビデンスがあり認められた手法です。筆者も自分で試してみて悩みが軽くなった経験があります。

 

 ただ、生きづらさといった大きな問題の核は解決するかといえば、そうはならない。なかなかうまくいかない。問題はオールクリアにはならない。

 

 そこで、ビリーフにも深さがあって、コアビリーフを変えればいい、というアイデアで取り組む方法が登場します。
 深く、深く、より深く、というわけです。

 ただ、それもなぜかあまりうまくいかない。
 アイデアはいいけど結果は伴わない。

 仮説を信じれば、核となるビリーフを変えれば良くなるはずなのですが、そうではない。

 

 

 繰り返しになりますが、

 
 「問題とはもともとは悪ではないので、その意図を否定せずに受け入れれば解決する」

 という考えは、心理療法に関わる人からすると常識ともいうべき、ポピュラーな考えです。善悪を切り捨てずに、融和させるという、特に日本人が好むアイデアです。

 

 

 そして、人格は一つ、という前提があります。

 

 多重人格なんていうのは特殊な例だけで、普通の人は人格が一つだ、と漠然と考えています。その前提では割り切れない、様々な現象をなんとか解釈しなければならない。(例えば、「どうして自分ではしたくもないことをしたり、否定的な感情が止まらないのか?」といったこと。)
 そこででてきたのが、無意識や自己内自己に原因を求めたり、問題(悪)にも意識していないなんらかの意図があり、真っ向否定するのではなく、融和させるというアイデアです。 

 

 

 

 実はそれでは解決はもたらされない。

 その”問題(悪)”というものの正体をうまく見極めることなく、理想主義的に受け入れてしまうことで、実はクライアントさんの中にある”本来の自分”をないがしろにしてしまう。解決を妨げてしまっている、ということが見えてきました。
 (先日の記事でのドラマのNHK記者のように 参考)→「寄り添いすぎて目がくもる」)

 

 それは様々な事例から、

 ・人間の人格は一つではなく、誰もが複数の人格が束になっていて日常生活でも容易に解離する存在であること、

 ・ローカルルールに影響された人格が、本来の自分の邪魔をしたり、スイッチして前に出てきたりということが起きること、

 が、わかってきたためです。
 

 
 臨床から見えてきた人間の実態から考えたときに、
 「人格は一つ」との前提から無差別に問題症状の「肯定的な意図をくむ」とか、「クライアントさんの話はすべてを受け入れなければならない」というこれまでの心理療法の常識は、「本来の自分」をないがしろにしてローカルルールの延命を助けてしまうだけ。

 

 さながら、「いじめっ子にも理由があるに違いないから、叱らずに耳を傾けなければ」といって、いじめを見逃す教師のようなものです。
 毅然としていじめっ子を叱って教室内の全体主義的な状況を正常に戻してもらわなければ、いじめられっ子はたまったものではありません。

(参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 

 

 ローカルルール人格というのがさまざまな問題を引き起こしていますから、肯定的な意図を汲もう、なんていうことをしている場合ではありません。本当に耳を傾けなければならないのは、「本来の自分」の声なのです。

 

 「ローカルルール人格」が前に出てきて悪さをしたり、あるいは、本来の自分に影響を及ぼして苦しめている状態であれば、それを解き明かして、あるときは「ローカルルール人格」をバッサリを切り捨てないといけない。

 

 

 事実、クライアントさんは、本来は自分の考えではないことを本心だと思い込まされたり、本来の自分が起こした感情、行動ではないことに責任を感じて、ずっと悩み続けたりしているのです。
 そこを切り分けて「ローカルルール人格」が起こしていたんだと明確にしていく必要があります。

 

 

 「人間は解離する(人格は一つではない)」そして、「人格はローカルルールに感染して、本来の自分に悪い影響を及ぼしている」ということが見えてきたことで、これまで言われてきた心理療法の”常識”が、どうやらそうではないということが浮かび上がってきました。
 

 

 悩みがなかなかよくならないのは、実はクライアントさんや治療者も巻き込まれて、悩みの要因を延命させされているからではないか? さながらイネーブリング(世話焼き行動)や、共依存のように。

 

 実際に、セッションの中で、
 「ローカルルールを真に受けている自分に意識を向けてください」
 とお願いすると、

 クライアントさんが、
 「あっ!自分にハラスメントを仕掛けてきた家族のことがかわいそうだと思っていることに気づきました」
 と気が付きます。
 
 
 「家族が可愛そうだから、私がその家族の考え(ローカルルール)を聞いてあげないといけないのだと思っていました」

 とおっしゃるのです。

 

 まさに私達の中には「人格は一つ」であるとの素朴な前提から、自分の中にあるおかしなローカルルールを自分の本当の感覚だとして真に受けさせられて、さながら、共依存のように世話焼きしている自分がいるということがわかります。

 本来であれば、ローカルルールはバッサリと切り捨てなければならない。
 

 

 

 

 クライアントさんの内面を例にしてあげていますが、対人関係の場面でも同様です。私たちが日常で接する理不尽な行為に対して、「相手にもなにか理由があるのでは?」といった、盗人にも五分の理を探す必要はないということです。
 相手の理を考えさせられることから支配が始まります。

 そんなことをする必要はなかった。

 

 「悪(問題)も懐柔したり、包摂しなければならない」という考え自体がローカルルールだ、ということ。

 

 

 スピリチュアルや、自己啓発の世界はローカルルールだらけですから、その親戚格である心理療法もローカルルールの影響が及んでいるのも無理はありません。
 (実は、スピリチュアルな考えを真に受けていればいるほどローカルルールに影響されて悩みは解決しにくくなります)

 

 

 落ち着いて、感情を込めずに、自分の中にあるローカルルール人格に対しては、NO と言う必要があります。

 

 「肯定的な意図?!そんなこと私には関係ありません。とにかく私に迷惑なことはやめてください」
 「非合理的な信念?!それも私のものではありません。邪魔しないでください」

 というだけ。

 

 そうすると、これまでは巻き込まれていた”本来の自分”が巻き込まれなくなるために、ちょっかいを出せなくなり、だんだんと力が削がれてしまい、ローカルルール人格は、前に出てこれなくなります。

 

 不思議なことですが、長年何をしても解決しなかった問題が氷解してくるようになります。

 

 実際、筆者も長年苦しんできた問題が取れたり、人や物に対する感覚が変わってくるのを感じます。不思議とこれまでとは別の捉え方になってきます。自分を責める必要って本当にないんだ、とわかります。
 あの人がおかしくなったのも、あの言動もローカルルールだったんだ、自分とは全く関係ない、とわかります。

 

 自分にとって嫌な感覚はすべて自分の中にある「ローカルルール人格」の影響なのだ、と捉えて大丈夫です。

 そして、「本来の自分」は何も問題がないのだ、と捉えてさらに大丈夫です。

 
 心に聞く、の「心」も実は”本来の自分”のことです。
 (心に聞く、の邪魔をしているのは「ローカルルール人格」だということもわかってきました。)

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

理不尽な家族(他者)の都合の良い“カウンセラー”役をさせられていた。

 

 社会心理学では、「ソーシャルリアリティ」といい、現実は社会的に作り出されている、と捉えます。

 特に人間関係では、それは顕著で、他者からの承認がなければ成立することがありません。

 例えば、ジャイアンがジャイアンとして成立するためには、スネ夫とかのび太がいないといけないでしょうし、その反対もそうです。
 人間関係では、無意識に配役が当てられて、それを演じさせられるということは起こります。

 

 ローカルルールで作られる関係においては、特に顕著です。なぜなら、ローカルルールは私的な情動で作られたニセルールですから、現実にしっかりとした足場がありません。

 ローカルルールが維持されるためには、それに巻き込まれる人たちが必要になるのです。

 

 その巻き込まれる人たちとは例えば家庭であれば「子ども」、学校であれば「いじめられっ子」や「傍観者」「教師」、会社であればそこで働く「従業員」であったりします。

 
 不安定な人が発する理不尽な言いがかりを、受け止めることを強要されます。

 

 

 もちろん、その言いがかりは、私的な情動から発しているのですが、まさか「これは個人的な感情です」とはいえませんから、「これが常識だ」「これがノリということだ」「仕事のルールだ」と騙ります。
 それで、その騙ったことをハラスメントを受ける側の人が真に受けます。
 こうしてローカルルールが出来上がります。

 (参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 ローカルルールを真に受ける側は様々なスタイルの役目を押し付けられます。

 「(自分が思うように弄んでいい)被支配者」
 「(気の利かない、仕事ができない)教育すべき人間」
 
 といったようなこともそうですが、

 
 結構多いのは、
 「いい人」役、や「世話人」役、
 「カウンセラー」役をさせられるケースです。

 これは、家庭、特に親子関係で多く見られます。

 

 

 理不尽で、気分の上限の激しい親を、子どもがあくせく共感したり、気を回したり、あたかもカウンセラーのような役割を押し付けられてしまうということです。
 (カウンセラーは一般に立場が弱く、共感しなければ、受け止めなければ、といった縛りも多いので、支配には特に都合が良い役目です。傷つけたいときには簡単に傷つけることもできます。)

 

 

 「共感したり、受け止められなければ冷たい、人として十分ではない」という罪悪感を刷り込まれて、そして、振り回される。

 

 一生懸命対応していても、
 「冷たい」だとか、「自分のことを理解していない」だとか言われて、ヘトヘトにさせられてしまう。

 

 本当に正しい対応は、「もうこれ以上、付き合っていられません。勝手にしてください」と静かに伝えることであり、完全に距離をおいて離れることなのです。

 ローカルルールを維持することに協力させられ、そして、そのローカルルールによって、自分が支配されたり、傷つけられたりする。

 

 ローカルルールに影響されていることに気が付かなければ、成長して、別の場所に行っても、同じようにローカルルール人格にスイッチした人に振り回されて、カウンセラー役をさせられる羽目になってしまうのです。

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

寄り添いすぎて目がくもる

 

前回、共感してはいけない?! と書きましたが、

(参考)→「共感してはいけない?!
「でも、共感こそが大切で、どんな状態の人にも共感することでいつか雪解けがくるのではないですか?」と思うかもしれません。
実は、筆者も昔はそう思っていました。

 

 

例えば、映画やアニメでも、悪魔にとりつかれた主人公が愛情のちからで呪いが解ける、ということはよく見ます。
また、一見、悪者に見えても、悪の部分を深く理解することで改心する、というストーリーもよくあります。
特に、日本人は、妖怪も尊重して味方にする、というような価値観があるように思います。
(西洋の人たちが日本のアニメなどを見て驚くのは、悪と思っていたものが味方になったりするところだそうです)

 

でも、それはどうも違う、間違いである、ということが最近見えてきました。

 

 

 

わかりやすく言えば、例えばこんなことです。

学校でいじめが発生した際のことです。
いじめる側にも“論理”があります。

「あいつ(いじめられっ子)が協調性がないから」
「あいつ(いじめられっ子)は気持ち悪いから」

「なんか、態度がムカつくから」

などなど。

でも、その論理に共感して、

「そうか~、わかる、わかる」「たしかにあいつは協調性がないからなあ・・」なんていう教師がいたら、その人は教師失格になってしまうでしょう。

 

 

真に共感する対象は”いじめの被害者”であるわけで、
いじめる側の論理は「おかしい」と一刀両断にしてあげないといけない。

 

 いじめというのは、中間集団全体主義と呼ばれるように、いじめる側がローカルルール人格にスイッチしておかしくなっている状態です。

 もっと言えば、私的情動をグループ内の常識だ、と騙って、異常なファッショ状態に陥っている状態です。

 そのため、いじめを生み出すに至ったいじめっ子が抱える不全感には理解、共感することには意味がありますが(たとえば、いじめっ子もじつは家で両親の喧嘩が絶えないだとか)、その不全感から(ローカルルール人格にスイッチして)生じた全体主義のような論理にはいくら耳を傾けても全く意味がありません。

(参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 

 

 はっきりと「君のやっていることや考えは全く間違っている」「おかしい」と伝えることで、いじめっ子もローカルルールの呪縛から目が覚めますし、そうしてあげなければ本当の解決(教育)にはなりません。

 

 

 

 

 昔、NHK特集の「未解決事件」という番組で、オウム真理教について関係者の証言とドラマとで真相を再現するという内容が放送されていました。

 その中で、萩原聖人さん演じるNHK記者が、元オウム信者に当時のことを聞いて真相を明らかにしようとするドラマシーンがありました。
NHK記者は、元信者にオウム真理教の教義の意味を問いただしたり、教祖の説法のテープを聞いてみたり、できる限り、関係者に寄り添って取材をしていました。

 

 元信者たちにも様々な背景があって、単に悪人たちが起こした事件ではないということも改めてわかってきます。むしろ、世の中の人よりも正直で純粋であったりします。

 

 

しかし、あるとき、豊原功補さん演じる上司に屋上で声をかけられます。

心配そうな表情の上司が、説法テープを聞いて考えにふけるNHK記者のイヤホンを取り上げて声をかけます。

 

上司「取材はどうだ?」

 

NHK記者「元信者に取材をしていますが、すぐに教義が出てきて、弁護を始めるんです。まだ思いがあるんですね。」
   

それを聞き、上司は何か引っかかる表情をします。

 

NHK記者「元信者を取材するたびに思うんですけど、彼らはみんなピュアなんですよ。純粋に何かを求めてオウムに入ったのに組織が勝手に暴走しちゃって」ため息をつくように心情を吐き出します。

 

上司「お前・・オウムに寄り添いすぎていないか?」

 

NHK記者「いや・・ そんなことは・・」

 

上司「お前、遺族や被害者をどれだけ取材してきたんだ?!」

 

NHK記者「わかってますよ!! でも、向こうの言い分をちゃんと聞かないと、真実はわからないじゃないですか。被害者も遺族もオウムが何かを何かを知りたがっているんですよ。」

 

上司「寄り添いすぎて目が曇るってこともあるんだよ!!」

 

 

 上司は記者を一喝し、事件によってどれだけの被害者がいて今も苦しんでいるのか、裁判で真相が明らかにされず二重の苦しみを背負っている。そのことを説きます。そして、“寄り添う”という一見もっともな態度に潜む落とし穴を気づかせるのです。

とても印象的なシーンでした。

 

 

 人間は完璧ではありませんから、誰しも不全感を抱えています。社会にも問題はある。なにか事件を起こすような人というのはどこか魅力があります。特に独善的であっても社会変革を旗印に掲げるような場合には。

 ジャーナリストや研究者といった立場の人間が、事件の加害者側の人に、いつのまにか自分の不全感や社会への違和感を投影することで、ローカルルールに感染するという倒錯がおきることがありますが、NHK記者に起きていたことはまさにそれに近いことです。

 これは、共感ではありません。真相を深堀していることにもなっていません。単に感染し、巻き込まれているだけです。結果、遺族や被害者はないがしろにされてしまう。

 

 

 

 先ほど上に書いたいじめっ子に共感する教師もこれとにています。
共感するポイントを明らかに間違っています。いじめの加害生徒の全体主義のような論理に共感してしまっている。その背後には、教師が自分の中の不全感を投影していたり(協調性のない人は問題がある、等)しているだけ。
結果として、加害者のローカルルールに感染してしまって、巻き込まれてしまっている。

 いじめの事件では、教育委員会レベルまでもがローカルルールに感染して、「いじめはありませんでした」などと報告を出したりする事が起きます。

 まさに「目が曇る」状態です。

 

 
 いじめとは、不全感が連鎖するとも言われていて、いじめをする側にももちろん背景はあります。機能不全家庭に育っているとか、親のストレスをぶつけられている、とか、そうした背景に対して、治療(教育)のために理解することは必要ですが、加害者が生み出したローカルルールやそこで語られる論理(あいつは協調性がないからいじめられても仕方がない、など)に共感することは誤りです。

 

 寄り添っているように見えて、結局は加害者も目が覚める機会を奪われてしまい、被害者も両成敗というようなあいまいな状態におかれ、何の解決ももたらしません。

 

 常識をもとにローカルルールの論理に疑問を挟むこと、「おかしい」「わからない」ということは、たとえ一時あつれきや反感が返ってきたとしても、実は、相手をまっとうな人間として尊重するということ、ローカルルールを壊して常識に引き戻す、ということに気が付きます。

  
こうしたことと同様のことが、悩みを抱えているクライアントさんや、治療者にも当てはまります。

 それは、クライアントさんが解離してローカルルールが感染した人格にスイッチした後に語られる理屈に共感してしまう、といったことです。

 

 

 人格がスイッチしておかしくなって、家族や周囲を巻き込んだり、暴言を吐いたり、あるいは治療者に怒りをぶつけたり、
「あなたの態度で傷ついた」

「理解してもらえていない」といったり、
「今までのはウソで、私の本音は~~」とこれまでと違うことを述べだしたり、といった状態というのは、いじめっ子が「あいつはいじめても当然だ。なぜなら~~がムカつくから、~~だから」という理屈をこねることとまったく同じ現象です。

 

「もっと理解してほしい」「もっと共感してほしい」という訴えもそうです。
これは解離したローカルルール世界の人格が「ローカルルールに同意しろ!」といっている状態です。

 

そういう状態は、本来の自分ではなくなっている状態なので、共感しても治療的には全く意味がありません。むしろ「目が曇って」解決の妨げになったりする。

 

 

 また、その状態でクレームを伝えられたとしても反省や謝罪をする必要もありません。
(現場では、ものすごい勢いで詰め寄られますから、謝らざるを得なくなりますが)
そのクレームとは、ローカルルール世界のニセクレームであり、ホンモノのクレームではないからです。

 ローカルルール世界の人格というのは接してみるとわかりますが、いかにももっともらしいことを言います。でも、どこかおかしい。

 

 事実が捻じ曲げられていたり、おかしくなっていたりする。周囲からおかしいということを指摘されると、「私の言っていることを妄想だとか、関係念慮といいたいんでしょ!?ひどい!」といったりして、家族や友人を振り回したりします。

 怒って訴えますが、聞いているほうは訳が分からないし、理解しようとしても直感的に違和感を感じます。

 

 

 ローカルルール世界の人格を理解しようとしたり、受け止めようとして寄り添ってしまうことはクライアントさんの中にある、まともな本来の人格や、その周囲にいる家族や友人をないがしろにしてしまうことになります。
さらに、加害者の理屈というのは、実は、加害者自身も拘束してしまうようになります。

 果ては、前回の記事のエピソードのように、解離した破壊的な人格が起こしたニセのクレームによって、サポートする側の治療者が職を辞してしまうという事態にまで発展したりします。

(参考)→「共感してはいけない?!

 

 

 もしかしたら、境界性パーソナリティと呼ばれる症状がなかなか難しいのは、単に不安定である、といったことだけではなく、ローカルルールに感染した人格(モジュール)の存在があるからかもしれません。

 

たしかに、

「理解してくれ」

「もっとかかわってくれ」

「妄想ではない」

あるいは、

「ただ、黙って話を聞いてくれればいい」

と訴えますが、それがホンモノの本心かといえばそうではない。
「あなたの態度は冷たい!!」と文句をつけてくるかもしれませんが、それも本当の本心ではない。
 ローカルルールに人格スイッチしていて、いじめっ子と同じようにローカルルール世界の理屈を無意識に述べているだけ。

 

 

 本来は、その人自身と、解離した状態とを分けて、解離したら巻き込まれず、またいでスルーしないといけない。共感されるとかえってその人もしんどくなってしまう。

 

 

 人間は解離する。そして、モジュール(人格)の束であり、ローカルルールに感染することがしばしばある、ということを考えた時に、どんな状態にも共感して寄り添うことが大事、という考えは臨床を取り巻く大いなる幻想なのかもしれません。

 

 ローカルルール世界の理屈は共感してはいけない。本来の人格をないがしろにすることになります。

 

 状態を見極めて、理屈や訴えをまたいでスルーしたり、疑問を挟むことが必要です。それが、その人の本来の人格を助け、尊重することになります。

 

 

 人間には、“二重の見当識”といって、解離している裏にも理性的な人格が控えています。だから、まっとうな人間として、正論を伝えたり、常識をもとに疑問を挟むことは、その時は軋轢や反発を生んだとしても、ローカルルールの感染を取り除く良い効果をもたらします。

 

こうしたことは、今、悩みを抱えている人にとっても大きなヒントになります。

 

 例えば、日常の職場や家庭、学校で受けるもっともらしい言葉も実はハラスメントを仕掛けてくる人が解離(スイッチ)して起こすローカルルールによるニセのクレーム、本音である、ということに気づけるようになる。

「~~さんって冷たいところがあるよね」とか、
「~~さんは、仕事ができない」とか、
「~~さんの態度が気に入らない」とか、

もっともらしく見えるけども、全部根拠なし。
相手は、単に自分のローカルルールに巻き込みたいだけ、因縁つけたいだけ。

そこに共感したり、寄り添いすぎると、まさに目が曇って、やられてしまいます。

 

まったく何とも思う必要はありません。またいでスルーする。

 

 さらに、自分が抱えるしつこい悩み自体もローカルルール世界の人格が起こしていたりする。例えばイライラや、不安、恐れといったこと、これも、実は自分の中にある、ローカルルールに影響された人格(モジュール)が起こしているのではないか?
 自分が当たり前と思っていることが不思議世界ではないか? と考えてみると、面白い。

 自分の悩みについても、モジュール(人格)単位で悩みを考えてみる。
ローカルルールというものの影響を考える。

長年解決できなかった悩み解消の切り口が開けていきます。

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

共感してはいけない?!

 

 あるときに、同僚の女性カウンセラーの先生が落ち込んでいました。

 良いところまで治療が進んでいたのに、クライアントさんが急に「あなたの態度が気に入らない。こちらにかけた言葉が気に入らない。等」とクレームを言われ、受付でも文句をさんざん言われ、カウンセリングがドロップ(途中で終了)してしまった、というのです。

 

 そのクライアントさんは、職場で怒りが止まらない。後輩へのダメ出しが抑えられない、ということが主訴で、過去を見ると、明らかに愛着不安を抱えている方でした。

 そうしたことから考えると今回のことは十分にありえる現象です。別の言い方でいえば、境界性パーソナリティ状態といえます。

 

 対応していた女性のカウンセラーの先生は、とてもやさしく、丁寧に応対をされる方で、共感の塊のような先生でした。

 
 だからとても落ち込んでいた。「なぜ、自分の状況について気づきが深まってこれから、というときに・・・」と反省を繰り返していました。
 
 
 おそらく、スーパーバイザーに報告すれば、「共感が足りなかったのでは?」とか、もっともなアドバイスが帰ってくると考えられますが、どうも腑に落ちません。

 こうしたときに、もっと丁寧な対応を、ということをスーパーバイズされることは、カウンセラーをさらに落ち込ませるだけなのかもしれません。

 

 それが原因かわかりませんが、後日家庭の都合での転勤の際に、カウンセラーを続けるかどうかはわからない、ということをおっしゃっていたことを覚えています。

 

 

 
 そのクライアントさんですが、途中明らかに解離(人格のスイッチ)をおこした、と考えられます。怒りをまき散らすローカルルールに感染した破壊的な人格にスイッチした(もちろん、いわゆる多重人格ではありません)。

 
 怒ったとしても落ち着いて対応できれば・・といいたいところですが、よほど肝が据わっていなければ難しい。慣れていても巻き込まれてしまう。ほとんどの場合は、ひたすら謝って、でも信頼関係は壊れてカウンセリングは続けられなくなって、ドロップしてしまうことになります。
 

 

 おそらく、そのクライアントさんもカウンセラーを変えても、またモジュール(人格)がスイッチして同じことを起こしてしまう可能性が高い。
 だから、なかなかよくならずに転々としてしまう。

 

 

 
 カウンセリングの理論では、共感することで、症状が徐々に軽くなっていくとされますが、こうしたケースを見ると、どうもそうではない。

 

 それは、ローカルルールに感染したモジュール(人格)の存在があるためです。

(参考)→「モジュール(人格)単位で悩みをとらえる重要性~ローカルルールは“モジュール(人格)”単位で感染、解離し問題を引き起こす。

 

 ローカルルールが壊されそうになるとローカルルールを守ろうとして「解離(人格のスイッチ)」が起きて、ちゃぶ台がひっくり返されてしまう。

 ローカルルールは、モジュール(人格)に感染し、解離して現われて、人を巻き込もうとします。
 そして、「治療者の態度が傷つけた」「かけた言葉が気に入らなかった」「プロのくせに本当のことを理解してくれなかった」と“本音”を吐露して、クライアント本人もスイッチが起きていることを知らなければ、それが本心だと疑わず、解離から戻れなくなる。結局、よくならないで終わってしまう。

 

 

 もちろん、怒りやクレームというはローカルルールのそれですから、その方の本音ではもちろんありません。過去に過ごしてきた養育者や友達などが刷り込んだローカルルールの世界であり、そこで語られることは安心安全の世界の住人には理解できない“不思議世界の掟”です。

 

 

 「もっと共感してほしい(共感してもらえていない)」「もっと理解してほしい(理解してもらえていない)」と訴えてくることもしばしばですが、実はそれもその方のホンモノの本心ではありません。

 

 ローカルルールの特徴として、それ自体があたかも人格として自律性を持ち、自らを守ろうとします。ローカルルールはニセルール。根拠が薄弱なために、他者を「You’r NOT OK」としたり、自分の不思議世界に人を巻き込もうとします。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 人格がスイッチしますので記憶が飛んだり、ローカルルールに基づいて物事を解釈するために、家族や治療者についてあることないこと取り上げて、歪めて記憶されます。
 (「関係念慮」は、実はローカルルール人格へのスイッチによって起こっている。)

 

 ローカルルールが「世の中は自分を否定してくるおかしな人ばかり」という価値観であれば、目の前の家族や治療者も「おかしな人」として認識されます。
 もし、笑顔を見せたら「私をバカにした」「見下された」と歪めて記憶されます。

 ローカルルール人格がフィルタのような働きをして、都合の悪い情報はカットし、おかしな解釈をつけて本人の頭の中で情報を伝達します。
 本人も巻き込まれていますから、これを解くのはなかなか厄介です。

 

 

 本人がスイッチに気が付いていればよいですが、気が付いていない状態で、「それは関係念慮がおこっている」と伝えても、「私の言っていることを“関係念慮”だと決めつけている。あなたは私をおかしな人扱いするひどい人だ」とローカルルール人格が出てきて、抵抗してこじれます。

 

 ローカルルール世界に解離したときは、共感しても、謝っても意味がなく、ベストな対応としては常識をもとにスルー、あるいは否定しないといけない。
 

 

 なぜなら、ローカルルールとは、私的な情動が常識を騙っているだけで、根拠が全くないからです。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 いじめもそれを支える存在がなければ成立しないように、ローカルルールが正しいと支えるものがなければ存在できません。いじめを行っている人たちが訴える「だって、A君は気持ち悪いんだもん(そのことを理解してよ、共感してよ)」というローカルルール世界の論理に共感することにはまったく意味がありません。
 「それって歪んだ私的な感情にすぎない」と冷静な突込みが周囲からくる環境(公的環境)ならば、いじめなんてできなくなる。いじめが起きている学校や職場には必ず、それを支える環境があります。

(参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 

 

 
 ローカルルールに感染した人格にスイッチした際に、それが伝えるニセの“本音”に共感すると、ローカルルールの維持を助けることになり、症状は良くならない。

 ローカルルールに感染した人格のクレームはスルーしないといけないのですが、人格がスイッチしているとはいえ激怒している相手に対応するのは、なかなか難しい。

 

 また、ローカルルール世界はとても巧妙で、ニセのクレームの内容で目の前の家族や友人、治療者の欠点を取り上げるために、それを否定する側も都合の良い自己弁護のように感じて躊躇してしまい、「ローカルルール人格によるものだ」と否定しにくくなってしまうのです。
 (クレームには耳を傾けなければならないという俗な常識も邪魔をします。)

 

 ローカルルールのモジュールへの感染、人格化と解離という現象に、一部の人が気づいているだけでは、対処できない。
 いじめにおける教育委員会のようにスーパーバイザーも真に受けてしまう、なんてことも生じます。
 ある程度、こうした対処の仕方が常識とならないと、本格的には対抗できない。真に受けてしまう人が多いと、クライアントさんもよくならない。
 (境界性パーソナリティ障害などは対応が難しいのはこのためですね。)
 

 

 本当は、共感ではなくて、「ローカルルール世界を一刀両断に壊してほしい」ということがホンモノの本心なのだから。  
 (映画やアニメで、本当自分が魔法で作られた世界に閉じ込められていて、「ここから出してくれ」と、その壁を叩いているようなイメージかもしません)

 

 クライアントさんが知識としてローカルルール人格へのスイッチという現象がある、と知るだけでも状況はだいぶ変わります。

 それによって、「本来の自分」と「ローカルルール人格」とを区別することができるので、抵抗や巻き込まれる確率も明らかに下がります。
 (区別されていない状態だと、問題や症状を指摘されても「自分がおかしい」といわれているように考えてて恐怖や怒りを感じてしまいます。)

 
 そして、クライアントさんと治療者が一致協力して、「ローカルルール」という本当の敵に立ち向かうことができます。区別ができていなければ、ごちゃごちゃになってできなくなります。

 

 治療者が真に共感する対象は「本来の自分」であって、「ローカルルール人格」ではないということです。誤って、ローカルルール人格に共感するということは「本来の自分」をないがしろにすることといえます。

 

 

 実際に筆者の経験では、カウンセリングの中でクライアントさんがローカルルール人格へとスイッチした際にそこには共感せず、ローカルルール人格について説明すると、最初はどこかキョトンとしています。
 しかし、ローカルルールによる発言と、本来のクライアントさんの発言とを区分けして、話を進めていくだけで、特別なことはしていないのに、「(今までのセッションで)一番良かった」というフィードバックをいただくことが珍しくないのには驚きます。
 (単に話をしているだけなのに!? やっぱり「バッサリといってほしい」というのが本来の気持ちだとわかります。)
 

 

 今現在、自分自身で悩みに取り組んでいる方は、難しい悩みほど「これってローカルルール世界の人格にスイッチしているのかも?」と自分で疑問を挟んでみることはとても有効。
 モジュール(人格)単位で悩みを考えてみる。ローカルルールというものの影響を考える。

 そうすると、見え方、感じ方がかなり変わってきて、手ごわい悩みの解決が見えてきます。

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

(参考)→「モジュール(人格)単位で悩みをとらえる重要性~ローカルルールは“モジュール(人格)”単位で感染、解離し問題を引き起こす。

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

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