秘密や恥、後悔がローカルルールを生き延びさせている。

 

 先日の記事でも書きましたが、秘密というのは、ローカルルールにとっては檻のような役割を果たします。檻は何重にも取り巻き、私たちを縛るようになります。

 この秘密というものは、なかなか厄介です。

 

 ローカルルールとは、公を騙った私的な情動のことです。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 そのため、広く知られてしまって、「それ、おかしいんじゃないの」とか「違うよ」とツッコミが入ったり、疑問を呈されたりすると簡単に壊れてしまいます。ですから、それを他人に話さないように秘密にすることでローカルルールは延命できるようになります。

 

 ローカルルールそのものではなく、ローカルルールによって「悪」「恥」とされたものについて、他人に話せなくすることで、ローカルルールはもっともらしく生き残ろうとするのです。

 

 いじめでもそうで、多くの場合は、いじめられていることを家族に話せなかったりする。話せるような環境であれば解決に大きく前進するのですが、家族にもいじめの陰湿さが及んでしまうのではないか、ということでそれができなくなる。

参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 

 レイプといった犯罪についてもそうで、それ自体もひどい出来事ですが、そうした犯罪を犯す側が持つローカルルールの呪縛(秘密の共有、自分が穢れた、など)を被り続けるという側面もあります。そして、人に話せないということがそのローカルルールを延命させてしまうのです。
 

 機能不全家族において観られる現象に、「ファミリー・シークレット」というものがあります。親が理不尽な振る舞いや、依存症、場合によっては虐待といった家族の中では外に出したくない秘密というものがあった際に、子どもがそれを自らの秘密として背負い続けてしまう、ということです。

参考)→「<家族>とは何か?家族の機能と機能不全

 

 家族の病気や死といったものを、子どもに言わずに隠す、という行為も、ファミリー・シークレットになる場合があります。

 秘密があることで、社会との関わりが限定されたり、断絶したりすることや、自分そのものも普通の人とは違う、という感覚を持つことで、ローカルルールに縛られ、生き生きとした生活を妨げられてしまう。
 

 さらに、親自身が、ローカルルールに縛られていて、なんでもないことでも秘密にしたったり、世間に情報が漏れることを極度に恐れたり、というケースは結構もよくあります。もちろん、個人情報保護が重んじられるから、ではありません。そうしたことを越えて、過剰に秘密にしたがったりする。
 

 親に影響されて、子どもも知らず知らずのうちに、なんでもないことを秘密とするような傾向を持たされるようになります

 親のローカルルールの延命を子が手伝わされたり、あるいは自分もその呪縛にかかったり、といったことが起きてしまいます。

 

 

 さらに、そうしたことを強化するトラップとしてあるのが「恥」という発作のような感覚です。恥とは、本来、共同体の規範から外れたときに生まれる感情を指します。
 
 規範からみておかしな行動をとったときに「恥」を感じる、というのは自然な感情です。

 しかし、「共同体の規範」というのもが、「本当の社会」ではなく「ローカルルール」がすり替わり、本来ならば「恥」とする必要のないものまで、「恥」として感じさせるようになります。

 例えば過去の失敗や、ちょっとした言動についても、後悔とともに、「恥」の感覚が湧いてくる。
 

 その恥の感覚というのは、感情というような生易しいものではなく、さながら発作のように強くわきおこってきて、その場から飛び跳ねたくなるような、
逃げたくなるような衝動に襲われます。ついつい、恥の発作をそらすために、独り言をつぶやいたりしてしまう。

 

 自分の過去の言動全てが恥であるように思えてきて、関わった人と再度関係を持つことをためらったり、億劫に感じたいさせられるようになります。

 

 実は、これは、ローカルルールに基づく「恥の発作」です。

 

 本当の恥ではありません。造られたものです。
造られたものなのですが、その恥の感覚が起きないように(寝た子を起こさないように)起きないように行動してしまう。
 自分の中にある恥の感覚を刺激されるようなものがあれば、それを避けてしまったり。

 

 
 もう一つ、ローカルルールを延命させる檻としてあるのが「後悔」です。

 「あのときもっとこうしておけばよかった」とか、「あんな行動を取らなければよかった」というような感情です。

 後悔についても、発作のように強く湧いてきて、目を閉じて頭を抱えたくなるような感覚に襲われます。

 これも恥と同じく、それを刺激するようなものは避けたくなります。

 刺激を避けることで結果として知らず知らずのうちに行動は大きく制約されるようになります。 

 

 繰り返しになりますが、ローカルルールとは、偽のルールです。本物の常識ではありません。ですから、その存在の根拠はかなりあやふやで、脆いものなのです。

 しかし、その周囲には、「秘密」というものであったり、「恥」「後悔」といった強い感情といった檻によっってぐるぐるに守られていて、簡単に壊れないような仕組みになっているのです。

 ただし、メカニズムが分かればアプローチしていくことが可能になります。

 
 ローカルルール(人格)の影響を壊して、自由になっていくためには、こうした「恥」「後悔」そして、「秘密」というのものも壊していく必要があるのです。

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

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バレていない欠点があって、それを隠してコソコソ生きている感覚

 

 愛着が不安定な方、トラウマを負っている人によくあることとして、「自分には他人にはバレていない欠点がある」という感覚があり、「それがばれないように隠してコソコソ生きなければならない」という意識があります。

 
 実際に他人が聞いてみたら、なんてことはない話だったりします。

 しかし、当人の中では、それは致命的な欠点であるかのように思わされていて、ずっと秘密にしなければ、と考えているのです。

 

 これは、ローカルルール人格によってなされていることです。

 なんでもない出来事がさもその方にとって致命的であるというニセの常識を強いてきます。

 

 

 恥や後悔といった念が湧いてきます。この念は、本当の感情ではありません。ニセモノの感情ですが、とても強く、全身がしびれるようにめぐります。

 その恥や後悔から逃れるためには、ローカルルール人格の言うことに従って、世間の目から逃れなければならない、と感じさせられます。
(当人にとっては、自分の考え、常識だと感じられます。)

 その結果、ローカルルール人格が延命してしまい、バレていない欠点というのは永続することになるのです。 

 

 

 実際にセッションでも、かなり長く行っているにも関わらず、そうした秘密というものが出てくることがあります。ようやくローカルルール人格の呪縛が解け始めた頃に起こります。

「先生、実は・・・」ということで話を始めますが、一般の方が聞けば、「誰にでもあるから大丈夫ですよ」「あなたはなんにも悪くないじゃないの」と思う、なんてことはない話だったりするのです。

 でも、本人にとっては重大な秘密を暴露する、というような深刻さがあります。

 

 造られた欠点を他者に話す、ということはとても大事なことで、それを通じて、ローカルルール人格が生き延びる根拠(正統性と協力)が崩れていきます。

 しかし、ここに至るまでにはかんたんではありません。
 この秘密の暴露がなされるまでには、かなり厄介なトラップがあることもしばしばです。

 

 特にローカルルール人格の存在に気がついていない、あるいは、ローカルルール人格がまだまだ元気なときは、仮にその秘密の暴露がなされたとしても、ローカルルール人格の邪魔が入り、「誰にでもある話だなんて、ちゃんと話を受け止めてくれなかった」とか、「自分をおかしな人間を見るような目で見た」といったようにニセの文句を言わされたりすることがあります。

 それによって、「やっぱり、自分の欠点は世間の目からは侮蔑にさらされるのだ→秘密にしなければならない」ということにされてしまいます。

 

 ローカルルール人格というものの存在や影響に気づくことは大切ですし、その上で、自分の中にある、植え付けられたローカルルールとそれによって造られた秘密というものを白日にさらしていく、ということは悩み解決のためには大きな一歩になります。

 

 秘密というと大きなことのように見えますが、コンプレックスといったものなどもそれに当たります。

 「容姿のコンプレックス」
 「学歴コンプレックス」
 「過去に仕事でうまく行かなかったコンプレックス」
 「人間関係でうまく行かなかったコンプレックス」
 「いじめのコンプレックス」
 「恋愛のコンプレックス」
 「人生に失敗したというコンプレックス」
 などなど

 こうしたことは、実は事実ではなく、ローカルルールによって造られたものであるということです。

 

 ただ、当人にとっては、「事実なのだから、コンプレックスがあるのは当然だ」とおもっていて、見過ごされていますが、実はそれらは造られたもので、ローカルルール人格が延命する根拠にさせられています。
 
 
 もとを辿れば、ローカルルールとは外部から感染するものですが、あるときに人格単位でローカルルールに感染します。それから雪だるま式に、新しいコンプレックスを作り出していって、肥大化していく。
 

 気がつけば、「欠点を隠して、コソコソしている」感覚を持ちながら生きている、というようなことが起きているのです。

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

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目の前の人への陰性感情(否定的な感情)もローカルルールによるものだった!?

 

 ローカルルール人格が厄介なのは、目の前の人への陰性感情(否定的な感情)を伴って現れてくるということです。目の前の人とは、家族とか、友人とか、あるいは治療者に対してです。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 否定的な感情をぶつけられる事自体もとても嫌な体験ですが、それ以上に対処に困る厄介なものです。

 なぜ、陰性感情が厄介かというのは、否定的な感情を浴びせられて傷つけられた側は、皆「あれ?おかしいな」と違和感を感じているのですが、その違和感を言葉にすることがためらわれてしまうからです。

 

 一つは自分自身の中にある自己否定感、自責感のゆえに。
「人からの指摘は受け止めなくては?」とか、「自分が間違っているのでは?」という意識があるためです。
 ローカルルール人格はそれを悪用しています。間違ったリアリティを信じさせて、自分を延命させようとします。

(参考)→「モジュール(人格)単位で悩みをとらえる重要性~ローカルルールは“モジュール(人格)”単位で感染、解離し問題を引き起こす。

 

 

 もう一つには、一つ目とも似ていますが、自分に都合が良すぎないか?というためらいによるためです。
 「それって、ローカルルール人格によるものじゃない」とおかしくなっている相手に指摘をしたいのですが、どうしても、自分に都合が良すぎないか?というためらいから、違和感を口にすることを躊躇してしまうのです。

 

 

 例えば、「あなたの~~が嫌い。もうあなたとは付き合わない」といったことを言われた際に、言われた側はそれを受け止めなくては、と思いながらも、身体感覚(ガットフィーリング)としては「なにか変だ」と違和感を感じます。
(参考)→「頭ではなく、腸で感じ取る。

 

 その違和感から「今のは、本来のあなたじゃないんじゃないの?」と指摘したいところですが、「欠点を指摘された自分が都合の良い言い訳をしているのでは?」「相手をコントロールしたいという気持ちの現われでは?」というためらいを感じてしまい、その場で突っ込めなくなってしまいます。内省的な人、良心的な人ほどそれができなくなる。
 

 また、「相手がこちらのいうことを信じず反論され、泥仕合のような言い合いになったら嫌だ」という気持ちもあるでしょう。

 

 そうした結果、言葉を飲み込んでしまい、ローカルルール人格を延命させてしまうことになります。

 

 

 治療の現場でもこうしたことはあります。

 医師やカウンセラーへの否定的な言葉やクレームを理不尽につけられて、あれ?と思っても、それを「ローカルルール人格のせいですよ」とはその場で言えなかったりします。

 特に、ドロップ(治療を中断)しそうになっている人に対しては「ローカルルール人格の邪魔によるものですね」というのは、何やら都合よく引き止めているように思われて、躊躇してしまうことはしばしばあります。

 

 本当は勇気を持って、ローカルルール人格の邪魔によるものだ、ということは伝える必要があります。それがクライアントさんを護ることにつながるからです。クライアントさんの中にある本来の自分は文句を言いたいわけでも、治療をやめたいわけでもないのですから。
 

 

 

 ローカルルール人格の違和感というのは、経験を積んでくると直感でわかります。ローカルルール人格に接すると何やら違和感を感じたり、怒りが湧いてきたりします。心に聞ける場合は、最後に心に聞いて裏付けを行います。

(参考)→「「心に聞く」を身につける手順とコツ~悩み解決への無意識の活用方法

 

 治療者ではない、普通の方でも、違和感はちゃんと感じています。ただ、上に挙げたような様々な雑念から違和感を否定してしまって、わからなくなっているだけです。

 

 

 

 実は、目の前の人に文句を言いたくなる、ということ自体が常識から考えるとおかしいことなのです。普通の感覚ではありません。自他の別を越えて、相手の存在に因縁をつける、という権利は誰にもありません。

目の前の人に文句を言いたくなる、というのは、最近ニュースになるあおり運転と実は変わりません。全く同じメカニズムによるものです。本来の自分の感情ではないのです。

 ローカルルール人格にスイッチした、あるいは、本来の自分が影響して、因縁をつけている、ということです。

 

 「それ、ローカルルール人格じゃん」と気が付く必要があります。

 

 ローカルルールがなぜ、目の前の人に陰性感情をもたせようとしているか、といえば、それはその人を孤独に陥れて、自分自身を延命させようとしているから。沢山の人と交流されては、ローカルルールが嘘だとバレてしまって効力を失ってしまうからです。
 だから、できるだけ人との関わりは少なくさせたい。とりわけ、治療者は治療するために関わってきますから、より遠ざけたいという力が働きます。

 

 

 人間が人格に分かれている、というのは以前からも指摘されていましたが、あらためて注目する必要があります。ローカルルール人格が様々な問題を生み出しているということも常識になることも必要です。
(従来のように投影とか無意識の働きとか、妄想という解釈では、どうしてもその方自身の問題と感じられて抵抗を生じさせてしまいますが、人格の影響による、ということがわかれば、そうしたこともなくなってきます。本来の自分は問題がなく、むしろ被害を受けて苦しんでいるわけですから)
 

 

 例えば、これまでだったら「境界性パーソナリティ障害」だとされるようなキレてしまう人や、治療が中断してしまう人たちもケアすることができます。
 本来の自分の意に反してとった行動が”人格”によるものだとわかれば、自分が責められることもないですし、その呪縛からも逃れることができるからです。

(参考)→「境界性パーソナリティ障害の原因とチェック、治療、接し方で大切な14のこと

 

 私たちたちは、よくありそうで、もっともだけど、なにかおかしいということに振り回されてきました。陰性感情(否定的な感情)を持つ側も、それをぶつけられる側も、もう真に受けることはやめていくことです。

(治療者やスーパーバイザーなどはなおのこと真に受けてはいけない。真に受けると、クライアントさんがローカルルールの呪縛から抜けられなくなってしまいます。)

 

 

 目の前の家族や職場の人、治療者などへの否定的な感情(陰性感情)が湧いてきたら、「これって、本来の自分の感情ではなく、ローカルルール人格のよるものなんじゃないの?」と検証してみる。

 

 反対に、相手から理由なく否定的な感情(陰性感情)をぶつけられたら「それって、ローカルルール人格によるものなんじゃない?(本来のあなたではないのではないの?)」とツッコミを入れていくことが大切です。

 

 真に受けることでローカルルールは延命されていきますので、ツッコまれたり、違和感を表現すると徐々に力が落ちていきます。

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

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「正統性」と「協力」~ローカルルールのメカニズムを知り、支配を打ち破る。

 

 ローカルルールというのは、それを受け入れる人がいて初めてなり立ちます。

ローカルルール自体は根拠が薄弱なニセモノ(幻想)だからです。

(参考)→「ローカルルールとは何か?

 

 ローカルルールの最たるものは、ファシズムや全体主義です。
 なぜ、全体主義の国では警察が個人の思想や内面まで取り締まろうとするか、といえば、ローカルルールがそれを支える人たちの幻想がなくなれば存在できなくなるほど脆いからです。

 だから、人々の頭の中を常に取り締まっておいて、恐怖や罪悪感でしばらないと壊れてしまうのです。

 

 

 ローカルルール人格という存在に対しても同様です。
 たしかに厄介で面倒な存在なのですが、それはそれを真に受けて支えさせられている部分が私たちの中にあるから。

真に受けさせることでローカルルール人格は延命している。

 ローカルルールを壊すためには、そうしたメカニズムを知り対抗していく必要があります。 

 

 

 支配のメカニズムを知って、独立を勝ち取る、ということで参考になるのは、インドのガンジーの戦略です。
 
 インドのガンジーたちは、イギリスの植民地支配からの独立を勝ち取りました。
 非暴力・不服従運動と呼ばれるものによって、それは達成されました。
 非暴力ということで、理想主義的なもののように捉えられがちですが、実は単なる理想主義の運動ではありませんでした。

 

 支配には実はメカニズムがあります。
 どのような国でも、支配する側のほうが人数では圧倒的に少なく、支配される側のほうが圧倒的に多い状況です。
 そのため、支配する側に「正統性」がなければ続かないし、支配に協力する人たちがいないと成り立ちません。

 つい、軍隊とか警察の暴力で押さえつけているだけ、と思いがちですが、それではなかなか続かないもので、支配する正統性を権威で示し、協力させて、暴力というのは権威を維持するために用いられています。

 

 つまり、支配は「正統性」と「協力」というこの2つの要素で成り立っている、ということです。
 (いじめも同様で、いじめっ子たちが唱えるルールの正統性が信じられ、協力する人たちがいなければ成り立ちません。ハラスメントも同様です)

(参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 

 

 ガンジーの運動というのは、「正統性」と「協力」というその支配のメカニズムを見抜いた上での対抗措置です。
 
 具体的には、 
 暴力という行為に対しては応酬しないことで、イギリスの「正統性」を剥がし、不服従によって「協力」しないことで、支配というローカルルールを支える機能を壊す、ということをしました。
  
 結果、独立が達成されていきました。 
 

 

 ここで勘違いしてはいけないのは、不服従運動とは、無抵抗ではありません。

 ハラスメントに対しては抵抗しないとしばしばエスカレートしたりします。
 
 失礼な発言に対しては、「失礼ですね」と突っ込んだり、
 場合によっては、叱責一発で解決したりするし、そうしないといけない。

 

 でも、トラウマを負った人は、しばしば無抵抗の呪縛にかかっている。
 筆者も昔そうでしたが、無抵抗であることが良い人である、とか、人間としてできているということである、といった考えにとらわれていたり、
 あるいは、家族から、抵抗そのものができないように、呪縛をかけられてしまう。

 例えば、「嫌だ」といえば、「頑固だ。かわいくない」とか、怒ったら、「怒りっぽい」「父親(母親)に似ている」と言われたり、とか 抵抗力を奪われてしまっていたりする。

 無抵抗にさせられている。

 おかしなことには抵抗したり、声を上げないといけない。

 

 その際にはローカルルールのメカニズムを壊すようにする。

 正統性を奪い、支配に従わない。
 

 「正統性」を奪うというのは、まずはローカルルールだと気がつくこと。
 自分が内面化しているもの、日常で直面するものそれぞれについてローカルルールの存在に気がつくということです。

 

 そして、協力しない、従わないというのは
 日常直面するものについては、真に受けない、失礼なことに対してはツッコむということ。
 内面化している部分については、自分の中にもそれに感染して協力している人格がいて、それが解離して前に出てきたり、本来の自分に影響したりしていることに気づいて、それに従わないことです。

 

 支える基盤がなければ、徐々にローカルルールは消えてなくなっていきます。

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

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意味深というのは、ローカルルールに巻き込むための方策

 

 「大切なものは目に見えないんだよ」

 

 という台詞で有名な「星の王子さま」です。

 素敵な童話というように考えられてきましたが、東大の安冨歩教授によると、これは、モラルハラスメントについて書かれた作品だ、といわれています。 

 
 王子さまはバラとかキツネとか、出会うキャラクターたちの意味深な発言に混乱させられ、罪悪感を植え付けられて、徐々に支配されていくさまが描かれています。

 「ハラスメント被害者の物語」というのが、「星の王子さま」の別の姿です。

 

 「大切なものは目に見えないんだよ」というのは、一般には素敵なセリフとして紹介されていますが、とんでもない。その逆で、意味深さで王子さまを縛る呪い言葉だったのです。

 

 
 私たちも星の王子さまのように、ハラスメントの呪縛にかかって苦しんでいるのですが、その中でも厄介なのは、身近な人が発する意味深な発言です。

 意味深な発言というのが、さながら、コンピュータに演算不能な関数を打ち込んでダウンさせてしまうように頭をぐるぐるとさせて、私たちを縛り続けてしまうのです。

 

 世の中には、意味深なことを言ったりする人は少なくありません。

 予言めいたことを言う人もいます。

 「あなたは将来こうなる」とか。

 

 特に家族は厄介で、家族からの意味深な言葉がずっと残っていて、クライアントさんを縛っていることがよくある。

 

 実は単に、ローカルルール人格が発した世迷い言でしかないのに。

(参考)→「共感してはいけない?!

 

 

 現代は人間が理性的な存在である、という前提があるために、私的環境においては、人間が日常的におかしくなるのだ、ということが忘れられている。
おかしくなるというのは、よほどの酩酊、錯乱状態のときだけとされている。

(参考)「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

 その為、日常で発せられる意味のない意味深な発言を真に受けさせられている。

 

 実際はそんなことはなく、
 たとえ地位のある人の言葉でさえ、日常においては戯れ(戯言)でしかなく意味などない。
 

 それなのに、なぜ意味があるように聞こえるかといえば、ローカルルール人格というのは、“神化”しているから。

 

 ニセ神様のようになってしまっていて、あたかも自分がすべてを知っていて、相手を支配する力があると錯覚した存在だから。
 ただ、認識できる範囲は狭いので、具体的に言うことができない。独自の不思議世界の中にいる。そうしたこともあって“意味深な”発言となってしまうのです。

 

 

 一方、真に受ける側の事情もあります。
 

 長い間、理不尽なストレス環境にあると、安心安全がないために物理的な現実を信頼することができない。世の中というのは理不尽に突然襲ってくるものだ、という感覚があります。
 
 また、あまりにも現実がうまくいかないために、それらを迂回したり、寄る辺を求めるためにスピリチュアルなものに対しても親和性を持ってしまうことがある。

 さらには、トラウマを負った人というのはいつも深刻なのです。リラック史できず過緊張でガチガチです。そのため、真に受けなくても良いことまで深刻に受け取ってしまう。

 すると、意味深な言動というものが何やら聞く必要のあるかのように感じられてしまい、真に受けてしまうようになる。

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

 相手が意味深なことをいうときは、ローカルルール人格にスイッチしているのですが、実際の治療現場でも意味深発言というのは起こります。

 

 あるセッションで、クライアントさんが“本音”を吐露し始めました。
 幼いことからのこと、治療者への要望や陰性感情などもふくめて、とっても意味深な内容で、治療者としてはなんとか話に耳を傾けて理解しようとします。特に要望は聞かなければとがんばります。

 なんとか、こういうことかな?と意味がわからない部分がありながらも懸命に受け止めた、と思って、セッションが終わりました。

後日、しばらくして何回かあとのセッションの機会で、

 「あのときのことは実は、治療者を巻き込もうとしてやっていたことだったとおもいます」

 とそのクライアントさんがおっしゃったそうです。

 「あれは本当はそうは思っていませんでした」と。

 

 治療者は驚きました。

 「ええ~!一生懸命聞いていたあれは何だったの?」

 やっぱり、人格ってスイッチするし、意味深な発言っていうのは意味がないんだ、ということを示す出来事です。

 

 

 要は、「意味深」というのも、巻き込むための方策でしかないことをあらためて教えられるエピソードです。

 

 

 「ドクターハウス」というアメリカの医療ドラマがありますが、その主人公の口癖は、「患者はウソをつく」といいます。

 

 さすがに、「治療者が患者さんの話を嘘と思って聞いてはまずいでしょう」「そんなひどい治療者にはなりたくない」と思ってしまいますが、「私はクライアントさんのすべてを受け止めます」とやっているとでも、はじめのうちは良いのですが、しばらくすると本当にやられてしまいます。ある日ひどいクレームにさらされて、治療者を辞めないといないところまで精神的に追い込まれます。

 これは、カウンセラーなどの治療者あるあるですね。

 

 ベテランの治療者はそのことを知っていて、うまく流して本質を捉えようとします。特に依存症などを扱う(依存症は人格が顕著に変わる症状です)医師やカウンセラーなどは、真に受けないように、巻き込まれないようにトレーニングをされているそうです。

 

 ドクターハウスの主人公は、要は「本質に目を向けろ」といっているわけです。人間というのは弱い生き物でいろいろな事情を抱えていて本当のことが言えない場合もあるし、人格もスイッチするから真に受けていたら二進も三進もいかなくなる。

 
 カウンセリングでも同様に、クライアントさんの本来の人格の言葉を聞くためには、表面的な言動に惑わされてはいけないし、その奥にあるものを捉えないといけない、ということになります。

 

 治療場面だけが特別ではなく、私たちは日常でもにとってもこうしたことはしばしば接します。特に親族、友人、知人、会社の上司、意味深発言、というのはまともに聞いてはいけない。

 スルーするか、「なにうさん臭いこと、いってるねん!」と突っ込み返さないといけない。相手は神様ではなく人間なんですから、分をわきまえない意味深な言葉なんて発する力ありませんから。

 

 実際に、よくあるお笑い芸人の漫談で、すごく伝統や権威のある、と思っていた人とか占い師めいた人の話を真剣に聞いていたら、ただのおじいさんだったとか、実はそうじゃなかった、いい加減だった、みたいな笑いばなしがありますが、まさにそんな感じ。

 

 

 人間の言葉は本当に意味がない。
言葉が意味を持つのは公的環境においてのみです。

 

 特に意味深発言は耳を傾けてはいけません。意味を考えてはいけません。前回の記事でも書きましたが、日常の会話というのは戯れとして流していくものなのです。

(参考)人の話をよく聞いてはいけない~日常の会話とは“戯れ”である。

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

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世の中は、実はニセのクレームだらけ

 

 妻夫木聡さんが主演している「悪人」という映画があります。
 吉田修一さんの小説に基づいたものですが、その映画の中で、登場人物がむしゃくしゃしてラーメン屋を出る際に「ああ、まずかった!」と大きな声で行って出ていくシーンがあります。

 これは明らかにその登場人物が物事がうまくいかない不全感からラーメン屋の店主を傷つけようとして行ったものです。
 
 当然、発言の内容には意味はありません。

 もし、ラーメン屋の店主が真に受けてしまったら、ラーメン屋を廃業する、なんてことが起きるかもしれません。

 

 

 以前、TV番組で、藝妓さんが取り上げられていました。
 伝説的な藝妓さんということで芸も一流ですが、会話の仕方からすべて相手のことを気遣って接していらっしゃいました。
 

 そんな伝説の藝妓さんでも、仕事をしていて辛い体験はあったそうです。
 それはある宴会の席でお座席に呼ばれたときのこと。会話を磨いていた藝妓さんは、相手が盛り上がる話題を提供し、自分では自信を持って接客できた、と思っていたら、後日、「あいつはもう呼ぶな」とお客さんから言われそうなのです。とてもショックな出来事です。

 問題なかったはずだけども、どこか自分に慢心があり、お客さんの気に触ったのではないか、ということだそうです。

 それ以来、会話など接し方を見直して今に至る、というエピソードが紹介されていました。
 

 

 別の例では、ある店員さんが普通に接客していました。そのお客さんは問題なくお帰りになられたと思っていました。
 
 しかし、後日会社のカスタマーセンターに
 「笑顔が嘘くさかった」「親切さが押し付けがましかった」とか、
 「上から目線に感じて不快だったから、二度と利用しない」とのクレームが入った旨の連絡が来て驚いたそうです。

 

 対応している側としてはそれで他のお客さんからは文句もないし、普通に接している。ただ、なぜか1年に1~2回は必ずそうしたお客さんが現れたりする。

 気にしなくて良いとはわかりながらも、店員としてはやはりショックを受けて傷つく、徐々に萎縮する感覚を感じてしまう。 
 
 「自分に問題があるのでは」という気持ちが拭えなくなってしまったそうです。

 

 

 冒頭からの3つの例について、ここで起きていることは、実は全てローカルルール人格が引き起こした現象です。

 (参考)→「モジュール(人格)単位で悩みをとらえる重要性~ローカルルールは“モジュール(人格)”単位で感染、解離し問題を引き起こす。

 

 顧客が自己の不全感から何かの引き金でローカルルール人格にスイッチします。すると、普通にサービスを提供しているのにもかかわらず、クレームを寄せてきて、言い返せない相手を傷つけるだけ傷つけます。

 

 一流のホテルや旅館、レストランでもクレームのないところはありません。

 
 もちろんミスからクレームになることはありますし、それに対応して改善することは当然ですが、多くのものが、要は「自分を大事に扱っていない」という過剰な(ニセモノの)クレームだったりします。

 

 飛行機の中では豹変してローカルルール人格になる人はとても多い。いい大人が駄々っ子のようになって、CAさんを相手に文句を言っている場面をよく目にします。

 CAさんなどの仕事は「感情労働」と呼ばれていますが、そのストレスは大変なものです。

 

 人間はどれだけしっかりと接していても、仕事などでローカルルール人格に変身した方に遭遇します。サービス業であれば必ずある一定の割合と頻度で、ローカルルール人格に変身した人たちが訪れてきます。ローカルルールに相手を巻き込むためだけにサービスに申し込む人もいます。

 

 サービス業などを中心に生じるクレーム(ローカルルール)というものは、「お客様は神様です」「お客様の言うことはどんなことでも応えなければならない」「お客様の方が正しい」といった観念を悪用して成り立っています。
  

 最近は、それを「カスタマーハラスメント」というそうですが、もしかしたら日本では特に生じやすいのかもしれません。
 

 

 以前記事に書いたことがありますが、海外だと、お店に入ってもスマイルもないし、店員さんも無愛想にしています。

(参考)→「社会性を削ぐほど、良い「関係」につながる~私たちが苦しめられている「社会性過多」
  
 良いサービスを受けるためには、その分のお金を払わないといけない。ただでサービスは求めることができない。

 対価と提供するものとがしっかりと対になっている。

 

 実はこれが本来の姿ではないかと思います。

 一方、日本だと、安くてもサービスは良かったりするので、ついつい当たり前に思っていますが、お金も出していないのに、良いサービスを当たり前としているのはどこかおかしい。
 

 

 例えば、コンビニやファーストフードの店員に笑顔がなかった、といってクレームをつける人がいたとしたら、どこか勘違いをしています。
 わずか数百円しかお金を払っていなければ、それだけのサービスしか受けれません。

 

 「いつでもどこでも、一流のホテルマンみたいな対応をしろ!それが常識だ。ただし、追加のサービス費用は払わないから、タダでお願いね」
 
 と言っているということですから。

 

 もし、本来いただいている費用によって提供を約束しているものを厳密に定義したとすれば、正当なクレームというのは半分にも満たないかもしれません。

 

 多くのクレームは、「お客様は神様です」という慣習にタダノリして、自分の不全感を発散しているだけ。

 一般の店員さんに対して、チップを渡しているわけでもないのに、一流の接客を求めるなんて冷静に考えれば変なことです。

 海外でチップが必要なのは、日本人から見たらドライですが、とてもフェアなことではあります。

 

 そう考えると、
 例えば、
 タクシーの運転手が道がわからないとすぐに腹を立てる人もいますが、(もちろん、道を知っていてほしいのはやまやまですが)特別料金を払っているわけではなく流しのタクシーを安く利用しているのであれば、稀にそうした事があるのはやむなしとしてある程度は許容しないといけないのでしょう。 

 

 

 以前、習い事のグループレッスンで先生が自分にアドバイスをくれなかった、と怒っている方がいらっしゃいましたが、それも、もちろん丁寧に対応してくれるに越したことはないのですけれども、グループレッスンであるために割安で利用できているのであればぼちぼちで許容しないといけない。
 手厚く対応してほしいのであれば、本来はマンツーマンのレッスンを申し込まなければいけないということなのでしょう。

 

 

 本来提供を約束しているものと期待のミスマッチ。その間を「お客様は神様です」という気合・慣習を背景に「自分だけは特別に優遇してもらえるはず」という幻想が生まれ、「自分は大事にされていない」という失望がきっかけでそこにローカルルールが付け入って炎上(クレーム)を引き起こす、という構図と言えます。

 

 

 その点、日本は異常かもしれない。

 同様に、個人同士でもさながら日本人全員が伝統芸能の弟子さんにでもなったかのように、過剰な礼儀や気遣いを求められることもおかしなことです。日本はあまりにも細かなことにうるさすぎて、それが自分にも返ってきて、互いに拘束しあっている。もはやローカルルール化している。

 そのために、「対人恐怖症」というのは、日本独自の悩み(文化依存症候群)とされるまでになっています。

(参考)→「対人恐怖症、社交不安障害とは何か?真の原因、克服、症状とチェック

 

 

 
 ローカルルールは、社会で一見正論のようでいておかしな慣習を悪用して、生き永らえようとします。

 例えば、いじめは、「学校の中は自治が行われる聖域で、外の社会とは違い特別だ」といった観念、慣習を悪用をして、社会の常識や法といった外部の介入がなされないまま、被害者が命を断ったり、消えがたいトラウマを負ってしまうということが起きてきました。

(参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 
 DVやパワハラもそうで、「家庭や職場の中は特別(私的領域)」「私がおかしいと判断した相手を指導して良い」という意識がハラスメントの温床となります。

(参考)→「あなたの苦しみはモラハラのせいかも?<ハラスメント>とは何か

(参考)→「家庭内暴力、DV(ドメスティックバイオレンス)とは何か?本当の原因と対策

 

 

 外で人と殴ったり暴言を吐いたら警察に捕まります。しかし、「家や職場の中では良いのだ」といっているのですからおかしなことです。
 外でダメなことは家や職場の中でも当然ダメなのですが、ローカルルールは、内密な関係から外れたら生きていけないような気にさせて、常識がわからなくさせてしまいます。

 本来それぞれ独立した人間ですから、正当な権限でもなければ、相手を指導することなどできません。
 会社でも指導できるのはあくまで業務の改善だけです。人格に触れることはできません。

 

 ローカルルールがはびこりやすいのは、権限の範囲などが曖昧にされていて、曖昧さから生まれる不具合が個人の人格の問題とされたり、擬似的な私的領域が生まれやすい状況といえます。
 
 日本の職場は、仕事の権限や責任が明確ではありません。
 そのために、「これは私の仕事ではありません」「人格に関わることについて言われる筋合いはありません。」とは言えず、曖昧さの隙間にハラスメントが生じます。 

 

 会社と顧客の間にも同様に曖昧さは生じます。

 
 サービス業の方が身につけているのは、当たり障りなく、そうした曖昧な隙間を埋めて、ローカルルール人格にスイッチする確率を減らすための所作やあるいはそれを鎮めるための方略や身を護る術、と言えるかもしれません。

 

 人間は公的な環境では本来の状態でいることができます。
 「礼儀」というのは公的環境を作り出すには最適なものであるためです。

(参考)→「親しき仲にも礼儀あり

 

 しかし、ローカルルール人格の言っていることを真に受けてしまうのであれば、それは全くの間違いです。ふりまわされているだけになります。

 結果、世の中のビジネスはクレームを恐れて過剰に設計されていて余計なコストを負担している。野菜などの食品がわかりやすい。クレームが来そうなものは食べれるものでも廃棄されている。過剰防衛になっていると言えます。 
 

 本来、おかしいのはローカルルール人格の側なのですから。

 

 かつては、ローカルルール人格の言うようなことも意味があるとして受け止める風潮はありました。

 理不尽な部活の先輩や監督の要求に耐える。

 弟子は師匠の気まぐれに応える。

 会社上司の言うことはすべて受け止める。

 などなど

 「理不尽を受け止めたり、耐えることで成長することができました!」というスポ根的な美談は数多くありました。
 (特にトラウマを負った人にとっては、理不尽なことは全て自分の責任であり、応えて当然、と思いがちです。)

 

 
 でも、それらは全く意味がなかったのかもしれない。その事に気がついた人たちが、最近は、モラルハラスメントだとして告発するようになりました。

 告発された側が地位を失うような自体になっています。

 「ハゲ~!」と絶叫していた国会議員は、まさにローカルルール人格に変身した姿を記録されて、失職してしまいました。

 

 冒頭の藝妓さんも、クレームを受けてそれに応えたということで美談となっていますが、現代の基準で言えば、それに応えなくても良かったのかもしれません。
 もちろんクレームに応えて成長できた部分もあることは否定しませんが、受け止めた結果、萎縮して抑えてしまった本来の自分の良さもあるでしょうから。

 

 例えば、好きな芸能人のランキングに上る人が、同時に嫌いな芸能人のランキングにも登場することがしばしばあります。

 その芸能人は、嫌いと言っている人のクレームを聞いて、改善しなければいけないのでしょうか?
 この世には万人に好かれる人はいないのですから、改善したら確実に良さが失われてしまいます。

 

 

 プロ野球の投手は打たれても反省することはありません。

 反省するような性格であれば、投手としてはやっていけない。
 では、独りよがりになるか、といえばそんなことはなく、自分の感覚を信頼して改善していきます。
 
 

 世の中にあるクレームのおそらく9割はローカルルール人格がからむニセクレームで、真のクレームというのは1割といってもよいのでしょう。 

 あおり運転などを見ればわかります。
 並走している車へのクレーム行為ですが、いかに異常であるかがよくわかります。

 

 あおり運転の加害者は異常だとはっきりわかりますが、日常のクレームについてはなぜか真に受けてしまいがちです。
 それは「お客様は神様です」といった慣習が邪魔をしているから。

 世の中には、ローカルルール人格というものが存在するということ、そして世の中はニセのクレームだらけだということを知る必要があります。

 

 ニセのクレームがあるということについてわかりやすいのは、モラルハラスメントを行う会社の上司、DVを行うパートナー、いじめっ子、虐待する親などの発言です。
 私的感情を隠すために彼らは理屈をこねますが、言っている内容が耳を傾けるに値しないことは明らかなことです。

 

 

 虐待死事件で、死に追いやられた子供が痛ましい反省文を書かされていましたが、あれも、親のニセのクレームにさらされ、本来改善する必要のないものを改善するように強いられていたわけです。

 もし、親にインタビューしたら、もっともらしい理屈を語るでしょうけどもたわごとであることは自明です。

 同様のことが、じつは私たちの身近な仕事の現場でも起きています。

 

 ニセのクレームを真に受けて心に傷を負ってしまう人や、場合によっては仕事を辞めてしまう人もいるでしょう。(以前ご紹介したカウンセラーの例もその一つです)

(参考)→「共感してはいけない?!

 

 ニセのクレームだということと、そのことが世間でも浸透し、会社全体でも真に受けなくなれば、過剰防衛によるムダも減るかもしれないですし、トラウマを負ってしまう人も少なくなるかもしれません。
 「カスタマーハラスメント」という言葉が出てきたのは良いことです。

 

 

 こうした前提から考えると、

 仕事において、普通にサービスを提供して、普通に応対していて、それでもクレームが来るなら、それはすべて相手がおかしい、と捉えて間違いではない。
 いじめられっ子が、いじめっ子の理屈を真に受けないでいいのと同様。ローカルルール人格が絡んでいるということ。  

 (会社の中での上司の叱責や、学校や家庭の中での心のない言葉もです。)

 

 

 冒頭のラーメン屋の例であれば、もちろん受け止める必要もなく、店主がその失礼さを叱りつけて、「二度とのれんをくぐるな~」と、水をまいても良いくらいかもしれません。
 叱責によって公的環境にいると目が醒め、人間はローカルルール人格への変身から目が覚めやすくなります。

(参考)「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

 

 万が一、提供すべきサービスが提供できていなければ、それは謝罪し、改めたものを提供し直すということは当然のことですが、

 私たちは、自分の立ち位置は、常に日の当たる側、常識の側においておく。
 そして、しっかり普通に仕事をする、予定されたサービスを提供する。

(参考)→「「常識」こそが、私たちを守ってくれる。

 それでもクレームが来たとしたら、それはニセのクレームだと知る。
 

 

 本当のクレームというのは、意識を向けていれば身体で自然とわかるものです。 

 

 お客さんと会話していく中で、改善のヒントにハッと気がついたり、仕事をする中で不意にアイデアが降りてきたり、といったことがおきます。それが本来のカタチ。 

(参考)→「真の客観とは何か?

(参考)→「頭ではなく、腸で感じ取る。

 

 「本来の自分」同士のやりとりというのは、安心安全で創造的なものです。

 私たちはもっと、常識を背景とした自分の感覚を信頼しても良いのかもしれません。そうすると、何を受け止めるべきことかは自然が教えてくれます。

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

あの理不尽な経験もみんなローカルルール人格のせいだったんだ?!

 

 私たちが、不快な経験を忘れられない、記憶から拭えないのは、
それは、「自分に問題があるのでは?」という考え、恐れがあるためです。

 

 自分に原因がある、という考えがアンカーとなって、悩みを払うことができなくなる(「自分に原因がないと思うと、独りよがりになる。自分が成長できなくなる」といったことを考える人は実はかなり多い)。

 

 「失礼なことを言われたのは、失礼なことを言われるにたる原因が自分にいくらかでもあるためでは?」

 とか、

 虐待といった明らかに加害者側に問題があることでさえ

 「ひどいことをされるのは自分に問題があるからだ」といったことや
 「呪われているからだ」
 「(結果として)自分は穢れてしまった」

 といった観念があるために、悩みはずっと消えなくなってしまいます。

 そして、次も同じ目に合うのではないか? と思うと、萎縮してしまったり、人と接するのが怖くなったりする。

 

 

 本来は人見知りではないのに、人と話すのが億劫になる人見知り状態になります。

 

 

 人というものは面倒でモンスターのような存在で、社会というのもいつどこから嫌なことが降ってくるかわからない、とてもつらく、恐ろしい場所だと感じられてしまいます。
 

 

 理不尽な出来事というのは、基本的に全ては偶発であり、自分に原因はありません。

 しかし、人から来たハラスメントというのは、まさか自分がハラスメントを行っています、と言う人はおらず、それを正当化しようとする理屈も同時に仕掛けてきます。そのため、「被害者側に問題がある」という偽りの正当化も含めて、ハラスメント行為が成り立っています。

 

 私的な情動によるものなのに、それがルールなのだ、正当なものなのだと騙ることを「ローカルルール」といいます。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 ローカルルールは意識して行われることもありますが、多くの場合、ローカルルールは人間の人格部分に感染して、ローカルルール人格を作り出します。

 

 そのローカルルール人格は、刺激によってスイッチ(変身)します。
 その刺激とは、自分の中の不全感、コンプレックスを刺激するような情報です。眼の前で相手が幸せそうだ、といったことなどです。過去の記憶がフラッシュバックして刺激となり、スイッチすることもあります。

 

 

 では、不全感のまったくない人なら起きないか、といえばそうではなく、嫉妬という動物的な刺激もあります。嫉妬はどれだけ自分を磨いても、抑えることができません。 

 どんな人格者でも、ローカルルール人格に変身することは起きるのです。
 ただ、その閾値が低いか高いかだけ。

 

 

 身体のコンディション、つまり栄養や、睡眠、運動がしっかり取れているかもかなり影響します。 睡眠不足だけでも、変身の閾値は急激に下がります。
 
 洗脳セミナーでは、睡眠を制限するなど身体のコンディション低下をうまく使って、ローカルルールを出席者の人格に感染させるのです。
 
 栄養の不足だけではなく、グルテンやカゼイン、カフェインの摂取なども変身のしやすさに影響します。 

 

 

 環境に追い込まれているときも、閾値は下がります。

 仕事で追い込まれているときは睡眠不足も相まって、メンバーにひどい言葉をかけたり、急に怒り出したり、ということがあるのはそのためです。

 

 

 

 人間というのは例外なく誰でもローカルルール人格への変身を起こします。
 
 そのため、

  気さくで人当たりのいい人が急に理不尽なことを言ったり、失礼なことを行ってきたり、
  
  仲良くしていた友達が急に自分を攻撃してきたり、

  公平であるべきはずの上司や教師といった人がハラスメントをしてきたり、

 といったことは日常茶飯事に起こります。

 

 

 

 ローカルルール人格というのはもっともなようでどこかおかしく、その言動には正当性がありません。

 だから、失礼なことを言われたり、されたりしたとしても、全く真に受ける必要はありません。

 

 例えば、
 日常生活で失礼なことを言われたり、理不尽な目にあっても、それはすべてローカルルール人格によるもの、全く真に受ける必要はありません。

 記憶にある、過去の対人関係でも様々な嫌な出来事も、すべてローカルルール人格によるものです。自分には全く原因はありません。
 

 すべて自分からバッサリと切り離して良い。

 

 

 ローカルルールとは、巻き込まれる人が必要ですから、「自分のせいかも?」と真に受けることでローカルルールは生きながらえます。

 

 

 一方で、 ローカルルールとは、根拠がとても薄弱ですから(私的情動でしかないので)、真に受けなくなると、魔女の魔法のりんごように消えてなくなっていきます。
  

 

 これまでも、心理療法は、様々な方法や考え方で、悩みで苦しむ人を免責しようとしてきました。
 しかし、「人格を一つ」と捉えてきた限界から、どうしても自責感(自分に問題がある)が被害者に残り続けたり、なぜ、あの人があんなことをしたのかがわからず、ぐるぐると理由を考えたり、相手をモンスターのように恐れたり、こき下ろしたりすることが頭の中で止まらない、ということが起きていました。

 

 

 人格が一つである、としているために、”いい人”であるはずの人たちがなぜ自分に対しておかしな言動を取るのかが腑に落ちず、結局自分にも問題があるに違いない、という思考を招き、結果ローカルルールを延命させてきました。

 

 

 自分の中にあるローカルルール人格がフィルタをして、情報を歪めて、関係念慮を起こすこともあります。
 それも自分では直感的におかしいと気がついていても、人格は一つと捉えているために、歪んだ情報を払うことができません。
 しかし、自分の中にも「本来の自分」と、「ローカルルール人格」がいるのだ、と明確にわかれば、自分の感じる違和感に基づいて、関係念慮に気づくことがもできます。

(参考)→「「関係念慮(被害関係念慮、妄想)」とは何か?

 

 

 

 臨床の中でわかった、「ローカルルール人格が存在する」という発見と、「私たちはしばしば人格がスイッチしている」ということが見えてきたことで、理不尽さの理由がどうしてもわからず自責感を持ち続ける、という悩みをしつこく残し続ける要因を打ち払うことができようになってきました。

(参考)→「モジュール(人格)単位で悩みをとらえる重要性~ローカルルールは“モジュール(人格)”単位で感染、解離し問題を引き起こす。

 

 

 

 長く苦しんできた悩みが取れることはもちろんですが、世界の見え方が全く変わってきます。

 

 自分がよって立つ常識や感覚を堂々と信頼してよいという自信。
 おかしいことは、ただおかしな存在によるものであるという確信。

 
 これから将来も、自分に問題があるために人から失礼なことをされるのでは!? と恐れる必要はなくなります。
 実際に理不尽なことは起きても、自分に原因を求めることなく、さっと払うことができるという自信が湧いてきます。
 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

心理療法の”常識”も実は違っていたの?!

 

 心理療法に関わる人たちの間では、なんとなく常識となっていることがあります。

 

 それは、
  クライアントさんの話はすべてを受け入れなければならない、とか
  悩みも肯定的な意味、意図があって、解決のためにはそれを認める必要がある、
 
 といったもの。

 

 日常の生きづらい生活の中では、清涼感、潤いを感じるような考え方です。 
 競争的でギスギスしたり、コンプレックスを感じたりしているなかではなおさらです。
 ただ、自分が悪く言われて、欠点を直しましょうなんて考えはうんざりするでしょうから。
 

 

 例えば、認知行動療法など、のセラピーにおいては、
 私たちの悩みの原因は「非合理的な信念」にある、と捉えます。

 そして、「非合理的な信念」というのは、
 「いつも一生懸命でなければならない」だとか、「楽しむべきではない」「完全でなければならない」
 であるといったこと。

 

 

 認知行動療法などの説明では、

 人間は過去のある時点では、自分の身を守るために、そうした信念をインストールする。 
 その時はそれでいいけども、問題は、状況が変わっても、そうした信念を持ち続けてしまうことだ。それが悩みの原因だ、とします。そのことを「非合理的な信念」といいます。

 

 ただ、信念を変えようとしても抵抗が強い。 

 そのため、その信念を持つに至った意図(肯定的な意図)は尊重しながらも、信念を捨てるか、別の形に変化させることで悩みや問題行動がなくなる、というのが認知行動療法の基本的な考え方になります。

 

 認知行動療法は多くの実績があり、確かに悩みは軽くなります。エビデンスがあり認められた手法です。筆者も自分で試してみて悩みが軽くなった経験があります。

 

 ただ、生きづらさといった大きな問題の核は解決するかといえば、そうはならない。なかなかうまくいかない。問題はオールクリアにはならない。

 

 そこで、ビリーフにも深さがあって、コアビリーフを変えればいい、というアイデアで取り組む方法が登場します。
 深く、深く、より深く、というわけです。

 ただ、それもなぜかあまりうまくいかない。
 アイデアはいいけど結果は伴わない。

 仮説を信じれば、核となるビリーフを変えれば良くなるはずなのですが、そうではない。

 

 

 繰り返しになりますが、

 
 「問題とはもともとは悪ではないので、その意図を否定せずに受け入れれば解決する」

 という考えは、心理療法に関わる人からすると常識ともいうべき、ポピュラーな考えです。善悪を切り捨てずに、融和させるという、特に日本人が好むアイデアです。

 

 

 そして、人格は一つ、という前提があります。

 

 多重人格なんていうのは特殊な例だけで、普通の人は人格が一つだ、と漠然と考えています。その前提では割り切れない、様々な現象をなんとか解釈しなければならない。(例えば、「どうして自分ではしたくもないことをしたり、否定的な感情が止まらないのか?」といったこと。)
 そこででてきたのが、無意識や自己内自己に原因を求めたり、問題(悪)にも意識していないなんらかの意図があり、真っ向否定するのではなく、融和させるというアイデアです。 

 

 

 

 実はそれでは解決はもたらされない。

 その”問題(悪)”というものの正体をうまく見極めることなく、理想主義的に受け入れてしまうことで、実はクライアントさんの中にある”本来の自分”をないがしろにしてしまう。解決を妨げてしまっている、ということが見えてきました。
 (先日の記事でのドラマのNHK記者のように 参考)→「寄り添いすぎて目がくもる」)

 

 それは様々な事例から、

 ・人間の人格は一つではなく、誰もが複数の人格が束になっていて日常生活でも容易に解離する存在であること、

 ・ローカルルールに影響された人格が、本来の自分の邪魔をしたり、スイッチして前に出てきたりということが起きること、

 が、わかってきたためです。
 

 
 臨床から見えてきた人間の実態から考えたときに、
 「人格は一つ」との前提から無差別に問題症状の「肯定的な意図をくむ」とか、「クライアントさんの話はすべてを受け入れなければならない」というこれまでの心理療法の常識は、「本来の自分」をないがしろにしてローカルルールの延命を助けてしまうだけ。

 

 さながら、「いじめっ子にも理由があるに違いないから、叱らずに耳を傾けなければ」といって、いじめを見逃す教師のようなものです。
 毅然としていじめっ子を叱って教室内の全体主義的な状況を正常に戻してもらわなければ、いじめられっ子はたまったものではありません。

(参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 

 

 ローカルルール人格というのがさまざまな問題を引き起こしていますから、肯定的な意図を汲もう、なんていうことをしている場合ではありません。本当に耳を傾けなければならないのは、「本来の自分」の声なのです。

 

 「ローカルルール人格」が前に出てきて悪さをしたり、あるいは、本来の自分に影響を及ぼして苦しめている状態であれば、それを解き明かして、あるときは「ローカルルール人格」をバッサリを切り捨てないといけない。

 

 

 事実、クライアントさんは、本来は自分の考えではないことを本心だと思い込まされたり、本来の自分が起こした感情、行動ではないことに責任を感じて、ずっと悩み続けたりしているのです。
 そこを切り分けて「ローカルルール人格」が起こしていたんだと明確にしていく必要があります。

 

 

 「人間は解離する(人格は一つではない)」そして、「人格はローカルルールに感染して、本来の自分に悪い影響を及ぼしている」ということが見えてきたことで、これまで言われてきた心理療法の”常識”が、どうやらそうではないということが浮かび上がってきました。
 

 

 悩みがなかなかよくならないのは、実はクライアントさんや治療者も巻き込まれて、悩みの要因を延命させされているからではないか? さながらイネーブリング(世話焼き行動)や、共依存のように。

 

 実際に、セッションの中で、
 「ローカルルールを真に受けている自分に意識を向けてください」
 とお願いすると、

 クライアントさんが、
 「あっ!自分にハラスメントを仕掛けてきた家族のことがかわいそうだと思っていることに気づきました」
 と気が付きます。
 
 
 「家族が可愛そうだから、私がその家族の考え(ローカルルール)を聞いてあげないといけないのだと思っていました」

 とおっしゃるのです。

 

 まさに私達の中には「人格は一つ」であるとの素朴な前提から、自分の中にあるおかしなローカルルールを自分の本当の感覚だとして真に受けさせられて、さながら、共依存のように世話焼きしている自分がいるということがわかります。

 本来であれば、ローカルルールはバッサリと切り捨てなければならない。
 

 

 

 

 クライアントさんの内面を例にしてあげていますが、対人関係の場面でも同様です。私たちが日常で接する理不尽な行為に対して、「相手にもなにか理由があるのでは?」といった、盗人にも五分の理を探す必要はないということです。
 相手の理を考えさせられることから支配が始まります。

 そんなことをする必要はなかった。

 

 「悪(問題)も懐柔したり、包摂しなければならない」という考え自体がローカルルールだ、ということ。

 

 

 スピリチュアルや、自己啓発の世界はローカルルールだらけですから、その親戚格である心理療法もローカルルールの影響が及んでいるのも無理はありません。
 (実は、スピリチュアルな考えを真に受けていればいるほどローカルルールに影響されて悩みは解決しにくくなります)

 

 

 落ち着いて、感情を込めずに、自分の中にあるローカルルール人格に対しては、NO と言う必要があります。

 

 「肯定的な意図?!そんなこと私には関係ありません。とにかく私に迷惑なことはやめてください」
 「非合理的な信念?!それも私のものではありません。邪魔しないでください」

 というだけ。

 

 そうすると、これまでは巻き込まれていた”本来の自分”が巻き込まれなくなるために、ちょっかいを出せなくなり、だんだんと力が削がれてしまい、ローカルルール人格は、前に出てこれなくなります。

 

 不思議なことですが、長年何をしても解決しなかった問題が氷解してくるようになります。

 

 実際、筆者も長年苦しんできた問題が取れたり、人や物に対する感覚が変わってくるのを感じます。不思議とこれまでとは別の捉え方になってきます。自分を責める必要って本当にないんだ、とわかります。
 あの人がおかしくなったのも、あの言動もローカルルールだったんだ、自分とは全く関係ない、とわかります。

 

 自分にとって嫌な感覚はすべて自分の中にある「ローカルルール人格」の影響なのだ、と捉えて大丈夫です。

 そして、「本来の自分」は何も問題がないのだ、と捉えてさらに大丈夫です。

 
 心に聞く、の「心」も実は”本来の自分”のことです。
 (心に聞く、の邪魔をしているのは「ローカルルール人格」だということもわかってきました。)

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

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理不尽な家族(他者)の都合の良い“カウンセラー”役をさせられていた。

 

 社会心理学では、「ソーシャルリアリティ」といい、現実は社会的に作り出されている、と捉えます。

 特に人間関係では、それは顕著で、他者からの承認がなければ成立することがありません。

 例えば、ジャイアンがジャイアンとして成立するためには、スネ夫とかのび太がいないといけないでしょうし、その反対もそうです。
 人間関係では、無意識に配役が当てられて、それを演じさせられるということは起こります。

 

 ローカルルールで作られる関係においては、特に顕著です。なぜなら、ローカルルールは私的な情動で作られたニセルールですから、現実にしっかりとした足場がありません。

 ローカルルールが維持されるためには、それに巻き込まれる人たちが必要になるのです。

 

 その巻き込まれる人たちとは例えば家庭であれば「子ども」、学校であれば「いじめられっ子」や「傍観者」「教師」、会社であればそこで働く「従業員」であったりします。

 
 不安定な人が発する理不尽な言いがかりを、受け止めることを強要されます。

 

 

 もちろん、その言いがかりは、私的な情動から発しているのですが、まさか「これは個人的な感情です」とはいえませんから、「これが常識だ」「これがノリということだ」「仕事のルールだ」と騙ります。
 それで、その騙ったことをハラスメントを受ける側の人が真に受けます。
 こうしてローカルルールが出来上がります。

 (参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 ローカルルールを真に受ける側は様々なスタイルの役目を押し付けられます。

 「(自分が思うように弄んでいい)被支配者」
 「(気の利かない、仕事ができない)教育すべき人間」
 
 といったようなこともそうですが、

 
 結構多いのは、
 「いい人」役、や「世話人」役、
 「カウンセラー」役をさせられるケースです。

 これは、家庭、特に親子関係で多く見られます。

 

 

 理不尽で、気分の上限の激しい親を、子どもがあくせく共感したり、気を回したり、あたかもカウンセラーのような役割を押し付けられてしまうということです。
 (カウンセラーは一般に立場が弱く、共感しなければ、受け止めなければ、といった縛りも多いので、支配には特に都合が良い役目です。傷つけたいときには簡単に傷つけることもできます。)

 

 

 「共感したり、受け止められなければ冷たい、人として十分ではない」という罪悪感を刷り込まれて、そして、振り回される。

 

 一生懸命対応していても、
 「冷たい」だとか、「自分のことを理解していない」だとか言われて、ヘトヘトにさせられてしまう。

 

 本当に正しい対応は、「もうこれ以上、付き合っていられません。勝手にしてください」と静かに伝えることであり、完全に距離をおいて離れることなのです。

 ローカルルールを維持することに協力させられ、そして、そのローカルルールによって、自分が支配されたり、傷つけられたりする。

 

 ローカルルールに影響されていることに気が付かなければ、成長して、別の場所に行っても、同じようにローカルルール人格にスイッチした人に振り回されて、カウンセラー役をさせられる羽目になってしまうのです。

 

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

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寄り添いすぎて目がくもる

 

前回、共感してはいけない?! と書きましたが、

(参考)→「共感してはいけない?!
「でも、共感こそが大切で、どんな状態の人にも共感することでいつか雪解けがくるのではないですか?」と思うかもしれません。
実は、筆者も昔はそう思っていました。

 

 

例えば、映画やアニメでも、悪魔にとりつかれた主人公が愛情のちからで呪いが解ける、ということはよく見ます。
また、一見、悪者に見えても、悪の部分を深く理解することで改心する、というストーリーもよくあります。
特に、日本人は、妖怪も尊重して味方にする、というような価値観があるように思います。
(西洋の人たちが日本のアニメなどを見て驚くのは、悪と思っていたものが味方になったりするところだそうです)

 

でも、それはどうも違う、間違いである、ということが最近見えてきました。

 

 

 

わかりやすく言えば、例えばこんなことです。

学校でいじめが発生した際のことです。
いじめる側にも“論理”があります。

「あいつ(いじめられっ子)が協調性がないから」
「あいつ(いじめられっ子)は気持ち悪いから」

「なんか、態度がムカつくから」

などなど。

でも、その論理に共感して、

「そうか~、わかる、わかる」「たしかにあいつは協調性がないからなあ・・」なんていう教師がいたら、その人は教師失格になってしまうでしょう。

 

 

真に共感する対象は”いじめの被害者”であるわけで、
いじめる側の論理は「おかしい」と一刀両断にしてあげないといけない。

 

 いじめというのは、中間集団全体主義と呼ばれるように、いじめる側がローカルルール人格にスイッチしておかしくなっている状態です。

 もっと言えば、私的情動をグループ内の常識だ、と騙って、異常なファッショ状態に陥っている状態です。

 そのため、いじめを生み出すに至ったいじめっ子が抱える不全感には理解、共感することには意味がありますが(たとえば、いじめっ子もじつは家で両親の喧嘩が絶えないだとか)、その不全感から(ローカルルール人格にスイッチして)生じた全体主義のような論理にはいくら耳を傾けても全く意味がありません。

(参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 

 

 はっきりと「君のやっていることや考えは全く間違っている」「おかしい」と伝えることで、いじめっ子もローカルルールの呪縛から目が覚めますし、そうしてあげなければ本当の解決(教育)にはなりません。

 

 

 

 

 昔、NHK特集の「未解決事件」という番組で、オウム真理教について関係者の証言とドラマとで真相を再現するという内容が放送されていました。

 その中で、萩原聖人さん演じるNHK記者が、元オウム信者に当時のことを聞いて真相を明らかにしようとするドラマシーンがありました。
NHK記者は、元信者にオウム真理教の教義の意味を問いただしたり、教祖の説法のテープを聞いてみたり、できる限り、関係者に寄り添って取材をしていました。

 

 元信者たちにも様々な背景があって、単に悪人たちが起こした事件ではないということも改めてわかってきます。むしろ、世の中の人よりも正直で純粋であったりします。

 

 

しかし、あるとき、豊原功補さん演じる上司に屋上で声をかけられます。

心配そうな表情の上司が、説法テープを聞いて考えにふけるNHK記者のイヤホンを取り上げて声をかけます。

 

上司「取材はどうだ?」

 

NHK記者「元信者に取材をしていますが、すぐに教義が出てきて、弁護を始めるんです。まだ思いがあるんですね。」
   

それを聞き、上司は何か引っかかる表情をします。

 

NHK記者「元信者を取材するたびに思うんですけど、彼らはみんなピュアなんですよ。純粋に何かを求めてオウムに入ったのに組織が勝手に暴走しちゃって」ため息をつくように心情を吐き出します。

 

上司「お前・・オウムに寄り添いすぎていないか?」

 

NHK記者「いや・・ そんなことは・・」

 

上司「お前、遺族や被害者をどれだけ取材してきたんだ?!」

 

NHK記者「わかってますよ!! でも、向こうの言い分をちゃんと聞かないと、真実はわからないじゃないですか。被害者も遺族もオウムが何かを何かを知りたがっているんですよ。」

 

上司「寄り添いすぎて目が曇るってこともあるんだよ!!」

 

 

 上司は記者を一喝し、事件によってどれだけの被害者がいて今も苦しんでいるのか、裁判で真相が明らかにされず二重の苦しみを背負っている。そのことを説きます。そして、“寄り添う”という一見もっともな態度に潜む落とし穴を気づかせるのです。

とても印象的なシーンでした。

 

 

 人間は完璧ではありませんから、誰しも不全感を抱えています。社会にも問題はある。なにか事件を起こすような人というのはどこか魅力があります。特に独善的であっても社会変革を旗印に掲げるような場合には。

 ジャーナリストや研究者といった立場の人間が、事件の加害者側の人に、いつのまにか自分の不全感や社会への違和感を投影することで、ローカルルールに感染するという倒錯がおきることがありますが、NHK記者に起きていたことはまさにそれに近いことです。

 これは、共感ではありません。真相を深堀していることにもなっていません。単に感染し、巻き込まれているだけです。結果、遺族や被害者はないがしろにされてしまう。

 

 

 

 先ほど上に書いたいじめっ子に共感する教師もこれとにています。
共感するポイントを明らかに間違っています。いじめの加害生徒の全体主義のような論理に共感してしまっている。その背後には、教師が自分の中の不全感を投影していたり(協調性のない人は問題がある、等)しているだけ。
結果として、加害者のローカルルールに感染してしまって、巻き込まれてしまっている。

 いじめの事件では、教育委員会レベルまでもがローカルルールに感染して、「いじめはありませんでした」などと報告を出したりする事が起きます。

 まさに「目が曇る」状態です。

 

 
 いじめとは、不全感が連鎖するとも言われていて、いじめをする側にももちろん背景はあります。機能不全家庭に育っているとか、親のストレスをぶつけられている、とか、そうした背景に対して、治療(教育)のために理解することは必要ですが、加害者が生み出したローカルルールやそこで語られる論理(あいつは協調性がないからいじめられても仕方がない、など)に共感することは誤りです。

 

 寄り添っているように見えて、結局は加害者も目が覚める機会を奪われてしまい、被害者も両成敗というようなあいまいな状態におかれ、何の解決ももたらしません。

 

 常識をもとにローカルルールの論理に疑問を挟むこと、「おかしい」「わからない」ということは、たとえ一時あつれきや反感が返ってきたとしても、実は、相手をまっとうな人間として尊重するということ、ローカルルールを壊して常識に引き戻す、ということに気が付きます。

  
こうしたことと同様のことが、悩みを抱えているクライアントさんや、治療者にも当てはまります。

 それは、クライアントさんが解離してローカルルールが感染した人格にスイッチした後に語られる理屈に共感してしまう、といったことです。

 

 

 人格がスイッチしておかしくなって、家族や周囲を巻き込んだり、暴言を吐いたり、あるいは治療者に怒りをぶつけたり、
「あなたの態度で傷ついた」

「理解してもらえていない」といったり、
「今までのはウソで、私の本音は~~」とこれまでと違うことを述べだしたり、といった状態というのは、いじめっ子が「あいつはいじめても当然だ。なぜなら~~がムカつくから、~~だから」という理屈をこねることとまったく同じ現象です。

 

「もっと理解してほしい」「もっと共感してほしい」という訴えもそうです。
これは解離したローカルルール世界の人格が「ローカルルールに同意しろ!」といっている状態です。

 

そういう状態は、本来の自分ではなくなっている状態なので、共感しても治療的には全く意味がありません。むしろ「目が曇って」解決の妨げになったりする。

 

 

 また、その状態でクレームを伝えられたとしても反省や謝罪をする必要もありません。
(現場では、ものすごい勢いで詰め寄られますから、謝らざるを得なくなりますが)
そのクレームとは、ローカルルール世界のニセクレームであり、ホンモノのクレームではないからです。

 ローカルルール世界の人格というのは接してみるとわかりますが、いかにももっともらしいことを言います。でも、どこかおかしい。

 

 事実が捻じ曲げられていたり、おかしくなっていたりする。周囲からおかしいということを指摘されると、「私の言っていることを妄想だとか、関係念慮といいたいんでしょ!?ひどい!」といったりして、家族や友人を振り回したりします。

 怒って訴えますが、聞いているほうは訳が分からないし、理解しようとしても直感的に違和感を感じます。

 

 

 ローカルルール世界の人格を理解しようとしたり、受け止めようとして寄り添ってしまうことはクライアントさんの中にある、まともな本来の人格や、その周囲にいる家族や友人をないがしろにしてしまうことになります。
さらに、加害者の理屈というのは、実は、加害者自身も拘束してしまうようになります。

 果ては、前回の記事のエピソードのように、解離した破壊的な人格が起こしたニセのクレームによって、サポートする側の治療者が職を辞してしまうという事態にまで発展したりします。

(参考)→「共感してはいけない?!

 

 

 もしかしたら、境界性パーソナリティと呼ばれる症状がなかなか難しいのは、単に不安定である、といったことだけではなく、ローカルルールに感染した人格(モジュール)の存在があるからかもしれません。

 

たしかに、

「理解してくれ」

「もっとかかわってくれ」

「妄想ではない」

あるいは、

「ただ、黙って話を聞いてくれればいい」

と訴えますが、それがホンモノの本心かといえばそうではない。
「あなたの態度は冷たい!!」と文句をつけてくるかもしれませんが、それも本当の本心ではない。
 ローカルルールに人格スイッチしていて、いじめっ子と同じようにローカルルール世界の理屈を無意識に述べているだけ。

 

 

 本来は、その人自身と、解離した状態とを分けて、解離したら巻き込まれず、またいでスルーしないといけない。共感されるとかえってその人もしんどくなってしまう。

 

 

 人間は解離する。そして、モジュール(人格)の束であり、ローカルルールに感染することがしばしばある、ということを考えた時に、どんな状態にも共感して寄り添うことが大事、という考えは臨床を取り巻く大いなる幻想なのかもしれません。

 

 ローカルルール世界の理屈は共感してはいけない。本来の人格をないがしろにすることになります。

 

 状態を見極めて、理屈や訴えをまたいでスルーしたり、疑問を挟むことが必要です。それが、その人の本来の人格を助け、尊重することになります。

 

 

 人間には、“二重の見当識”といって、解離している裏にも理性的な人格が控えています。だから、まっとうな人間として、正論を伝えたり、常識をもとに疑問を挟むことは、その時は軋轢や反発を生んだとしても、ローカルルールの感染を取り除く良い効果をもたらします。

 

こうしたことは、今、悩みを抱えている人にとっても大きなヒントになります。

 

 例えば、日常の職場や家庭、学校で受けるもっともらしい言葉も実はハラスメントを仕掛けてくる人が解離(スイッチ)して起こすローカルルールによるニセのクレーム、本音である、ということに気づけるようになる。

「~~さんって冷たいところがあるよね」とか、
「~~さんは、仕事ができない」とか、
「~~さんの態度が気に入らない」とか、

もっともらしく見えるけども、全部根拠なし。
相手は、単に自分のローカルルールに巻き込みたいだけ、因縁つけたいだけ。

そこに共感したり、寄り添いすぎると、まさに目が曇って、やられてしまいます。

 

まったく何とも思う必要はありません。またいでスルーする。

 

 さらに、自分が抱えるしつこい悩み自体もローカルルール世界の人格が起こしていたりする。例えばイライラや、不安、恐れといったこと、これも、実は自分の中にある、ローカルルールに影響された人格(モジュール)が起こしているのではないか?
 自分が当たり前と思っていることが不思議世界ではないか? と考えてみると、面白い。

 自分の悩みについても、モジュール(人格)単位で悩みを考えてみる。
ローカルルールというものの影響を考える。

長年解決できなかった悩み解消の切り口が開けていきます。

 

 

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

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