複数箇所での常識を揺るがされるハラスメント経験

 

 トラウマを構成する2大要素のひとつは「ハラスメント」になります(もう一つは、ストレス障害)。

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの原因と克服

 

 ハラスメントとは、不全感をルール、規範と偽って飲み込まされることです。

 それによって、いきいきとしたその人本来の感情や思考のプロセスが働かなくなってしまうのです。資質が発揮できなくなってしまいます。

 心理的な支配とも言い換えられます。
 

 トラウマからの回復のプロセスでは、ハラスメントの影響を解く必要があります。

 ただ、その影響が長引く場合は、必ず、ハラスメントが複数箇所で生じています。

 例えば、

 1.まず、家でハラスメント体験があった(自分は変な人間だ。でも、いやいやそうではないはず)、

 2.さらに、学校でも受けた(あ、学校でもそうなんだったら、やっぱり自分は変なんだ)

 3.そして職場でも(ああ、もう決まった、自分はダメ人間が確定した・・)

 

 というような感じです。

 あるいは、親戚が関与する場合もあります。

 「親は変なのはわかるけど、親戚にも言われるということは、自分は変なんだ」と言う感じで、親戚≒世間という捉え方から、社会からも自分はおかしいと認定されてしまう、というようにとらえてしまう。

 

 物理的にも、1点だけであれば、不安定で除去も容易です。

 2点になると取り除きにくくなります。

 さらに、3点になると“鼎立”と言う言葉があるように、強固になり、容易には取り去ることは出来ません。

 

 ハラスメントの影響が強固な場合、かならず複数箇所で生じていて、ハラスメント≒世の中、社会となっていて社会不信、自己不信となっています。

 座標軸が狂わされていて、足場が失われてしまっています。

 そして、社会が怖いところ、という風に思わされて、家に引きこもらざるを得なくなります。

 しかし、家とは、たとえ一人暮らしだとしても、そこはローカルルール(偽ルール)の世界。 そこにいても改善には繋がりません。

(参考)→「ローカルルールとは何か?」 

 

 

 人間は「社会的存在」ですから、社会にこそ居場所がある。

 そして、本来は、常識こそ私たちを助けてくれます。

 しかし、ハラスメントの影響で、社会は怖いところ、おかしなところだと感じさせられていて、結果として、身内の理屈(ローカルルール)のほうが愛着があり、そちらの論理に堕ちていってしまうのです。

 前提が複雑にねじれてしまう大きな原因にもなります。

(参考)→「“足場(前提)”の複雑なねじれ」

 そうならないように、自分はおかしいというスティグマを取り去り、ローカルルールを脱して足場、反抗の起点をつくっていくことがとても重要です。

 

 

 みきいちたろう『発達性トラウマ 「生きづらさ」の正体』(ディスカヴァー携書)

 

 

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臨床心理学、トラウマ研究自体も、実は「王様は裸だ」と言えず、核心の外をループしていた。

 

 前々回の記事で、トラウマを負った方の特徴として、核心を言語化できなくなる、ということをお伝えしました。

(参考)→「王様は裸だ、と言えない。核心の外をループさせられてしまう。

 それは、ハラスメントであったり、場合によってはストレスによる脳の失調(※もちろん、治ります)であったり、といったことが影響します。

 

 

 実は、振り返ると、臨床心理学やトラウマに対する研究自体が、この「王様は裸だ」といえない時代が続いていたことに気づきます。

 もともと、現代心理学の祖の一人であるフロイトは、ヒステリーの原因として心理的なトラウマというものを想定していました。

 つまり、トラウマは臨床心理の中核にあったはずのものでした。

 中核であるはずなのに、しかし、トラウマは、いつのまにか扱う人も限られるような特殊なテーマとなっていました。
 

 「トラウマだ!」と核心をつければ良いはずの問題を、核心を突くことが出来ず、その代わりに、「パーソナリティ障害だ」「HSPだ」と、その周辺をループするような状態が続いてきたのが、ここまでの数十年でした。

 まさに、トラウマを負ったクライアントが通るような道を、臨床心理学やトラウマ研究、トラウマ理解の歴史もなぞってきたようです。

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの原因と克服

 

 

 

 フロイトは、性欲に原因を求めたりというようなことが必ずしも受け入れられず、また、社会自体も、性的な虐待、あるいは児童虐待という問題を直視できない、ということ。

 あるいは、戦争においても、PTSDの症状は第一次大戦などで注目をされていましたが、本格的に取り上げられるのはベトナム戦争以降を待たなければなりませんでした。
 
 フロイト以降も研究はいまいち厚みをまさない中、ハーマンという女性の医師が「複雑性PTSD」という概念を提起しましたが、激しい反発も産んできました。
  
 拙著(『発達性トラウマ 「生きづらさ」の正体』)にも書かせていただきましたが、愛着研究、ACE研究など周辺に様々なエビデンスが揃い、さすがに逃げ場のない状況になって、ようやく認められるようになったのがトラウマという事象です。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その特徴と悩み、メカニズム

 

 

 そんなこともあってか、トラウマについての本は、つい数年前までとても分かりづらいものが多かった(『嫌われる勇気』などトラウマを否定するような本もありしました)。
 専門家が読んでも分かりづらいのですから、当事者や一般の方が読んでもピンと来るはずもありません。

 

 そのために、多くの方が自身がトラウマと気がつけずに来ました。

 なぜなら、書いている著者、研究者自体も核心がわかるようでわかっていない、うまく言語化できなかったからです。

 そのために、書いている内容が衒学的、あるいはポストモダン的な表現になってしまったり、PTSD=トラウマとなっていたり、重い事例の紹介に終止したり、特定の理論の紹介や開発したセラピーの解説だったり、ということが起きていて、当事者をますます遠ざけることになっていました。

 

 
 中核を捉えられない空白の時代に、当事者や治療者の困惑に対して仮の答えを提示して、隙間を埋めてくれていたのが、「パーソナリティ障害」や「発達障害」といった周辺の概念たちです。

(参考)→「パーソナリティ障害の正しい理解と克服のための7つのポイント

 

 しかし、周辺の概念はあくまで”代用“に過ぎませんから「そうかもしれない」けど、「いまいち、解決には繋がらない」というものでもありました。
 (バターの代わりのマーガリン、お酒の代わりにルートビア、というような趣でしょうか?)

 

 トラウマというものへの忌避感、嫌悪感が強かったり、あるいは言語化出来ない、というような経緯を振り返ると、「人はみな、トラウマ(不全感)を負っている」ということは、比喩ではなくまさに妥当ではないか、ということを感じます。  

 核心を言語化出来ないのは、トラウマを負った人だけではなく、社会に暮らす人々全体がそうなのではないか?と捉えても大げさではありません。※トラウマというのは、よほど経験、体験、知識が揃って核心を捉えないと、専門家でさえ、言語化できずモヤッとぼやけてしまうものなのかもしれません。
 
 
 今年発売しました本は、トラウマという事象に対して、できる限り核心を捉え、言語化し、当事者や治療者、読者の皆様も「王様は裸だ」と言えるようにするための本です。

 

 

 みきいちたろう『発達性トラウマ 「生きづらさ」の正体』(ディスカヴァー携書)

 

 

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飽きる、疲れる、愛想が尽きる、は健全・健康的

 

 「三日坊主」という言葉がありますが、飽きてしまう、続かないことは良くないことだとされます。

日記などは典型的ですが、続けようと思っても続かずに終わってしまう。

 ブログなども更新されずに日にちが数年前のままのものがたくさん転がっています。
 

 「疲れ知らずの~」ということも、なにやら良いように考えてしまいます。

疲れずに続けられる。働き続けられる。

 3日徹夜して頑張った、なんて武勇伝を耳にすることがありますが、そんなことを真に受けるとすぐに疲れてしまう自分が駄目なように感じてしまいます。

筆者も昔は、疲れない、飽きない状態に憧れて、毎日遅くまで仕事をしていました。

 自己啓発などの世界でも、常に好奇心があってやる気があって、「ワクワク」しているのがいい、というような価値観があります。

 人に対する関心についても、愛想が尽きるというと、なにか情が浅く、冷淡な感じがします。
 
 永遠の愛、永遠の友情というように、困難があっても続く感情こそが上位であり、変わるものは良くないことのように感じてしまいます。

 

 

 しかし、実は、トラウマという視点から見れば逆です。

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの原因と克服

 

 飽きない、疲れない、愛想が尽きない、というのは、トラウマの特徴と言えるものです。

 「トラウマは無限の世界観を特徴とする」、と拙著でも書きましたが、ずっと物事が続くように捉えています。
 通常ならば、疲れ、飽きが来るタイミングでそれらがこない。
 だから、不眠症になったり、依存症になったりしてしまうのです。

 ずっと食べても飽きが来ない、満足がないのです。

(参考)→「トラウマの世界観は”無限”、普通の世界観は”有限”

 

 愛想が尽きないというのもそうです。「そんなひどいことをされれば普通は愛想が尽きますよ」というような人間関係を続けてしまう。

 家族などは典型的ですが、「家族だから・・」という理屈のもと、おかしなことをされても自分を犠牲にして関係を維持してしまう。

 健康な世界で当たり前の有限の循環ギブアンドテイクが機能していないためです。

(参考)→「循環する自然な有限へと還る

 

 
 なぜ無限か?といえば、一つには、他者や自己の不全感(痛み)に支配されているためです。

 不全感は暗闇のように底(限り)がありません。

 物事はDoing(行為) Being(存在) とに別れますが、
 DoingとBeingとは別の次元にあります。

(参考)→「存在(Being)は、行動(Doing)とは、本来全く別のもの

 

 基本的にDoing(行為)によっては、Being(存在)レベルの不全感を満たすことはできません。
しかし、その区別が曖昧にさせられ、Beingレベルの不全感に巻き込まれると、自分のDoingを動員してBeingの欠損を埋めようとしますが、次元が異なるので、いくら穴に土砂を放り込んでも限りがなく、満たされることがないのです。
 (アルコールなどの依存症などはまさに”底なし”に飲んでしまう。)
 

 そのために、ずっと”無限”の飽きない、疲れない、愛想が尽きない状態が続いてしまうのです。
 

 

 

 もう一つは、安心安全の欠如です。

 安心安全がない、世の中への信頼感がないために、ずっと危機の状態が続くように感じられてしまう

 

 さらに、時間間隔の歪みです。
 
 これは、頭で全てを捉えようとすることから起きます。
 健康な状態では、身体も含めて、世界のダイナミクスを捉えようとします。
 誤配、偶発性も含んで世界が展開していくという感覚があります。

 しかし、トラウマの世界は、頭で認識できる歪んだ範囲が、「現実」「事実」とされ、「どう考えても、良い展開になるはずがない」となってしまうのです。
 
 こうした感覚も、無限さを産みます。 

(参考)→「未来に対する主権~物理的な現実には「予定(未来)」が含まれている。

 

 

 

 トラウマケアをしていると、徐々に、疲れが感じられたり、愛想が尽きてくることを感じられたり、飽きが来たりするようになります。

 
 クライアントは、「~~に飽きてきました」「疲れるようになってきました」ということを自身では良いこととは思っていないのですが、カウンセラーからすると、「良くなってきましたね」ということになります。

 私もよく、「”飽きる、疲れる、愛想が尽きる”はとても良いことです」とお伝えしています。

 飽きたらどうなるか?といえば、次の展開がやってきます。

 疲れたらどうなるか?といえば、休んでエネルギーを充填し、次の取り組みに取り掛かることができます。

 愛想が尽きるとどうなるか?といえば、おかしな関係からは抜け出すことができます。

 いずれも、無用な固着にとどまることを防いでくれます。とても健康で有用な機能であることがわかります。

 

 

 

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王様は裸だ、と言えない。核心の外をループさせられてしまう。

 

 トラウマを負うと、しばしば自分の言葉が失われてしまいます。

問題の核心を言語化できなくなる。そのまま表すことができなくなります。

 眼の前のりんごと、「これはりんごです」とは言えなくなる。

 

 「ええっと、赤くて、丸いもので、人によってはそうは見えないかもしれませんけど、なにやらそのようなものがあるような気がする」

 

 

 となったり、あるいは、

 「テーブルがあるんですけど、私がそこが気になっていて、うーんと、よく人間は、そこでご飯を食べますよね?たまに、そこにいろいろなものを置いたりすると思うんですけど、例えばお菓子とか、お皿とか、あるいは、まあ、ええっと、そうですね、 別に私は気にならないんですけど、例えば、果物とかが置かれたりすることもありますよね。 でまあ、あの、私が子供の頃に、妹が・・」
 
 みたいに、さらに周辺を描写したり、

 結局言いたいこと、言うべきことは「これはりんごです」だけなのですが、これだけ回りくどくなってしまう。

 

 

 まだ、準備が整っていないと、カウンセラーが「りんごじゃないですか?」といっても、「そうなんですけど、妹が・・」といって、無意識にそらしてしまう。

 

 

 昔、京極夏彦か誰かが書いた推理小説などで、死体がそこにあってもそれが認知の具合から見えない、みたいなストーリーのものがありましたが、まさにそんな感じ。「そこにある」と第三者が言っても、どうしても目がいかない。

 

 これらは、いろいろなものに拘束されているために生じています。
 

 例えば、人を傷つけてはいけない、ぐちを言ってはいけない、 弱くてはいけない、とか、いろいろなニセモノの”前提”が入っていたりするためです。

 

 まさに、前提を支配され、相手の問題を自分のものとして、言葉の主権が奪われているために問題の核心にたどり着くことを妨げられています。

 いくら知識で、第三者が「これが核心だ」としてもあまり意味はなく、土台となる前提のねじれを解消していく必要があります。

 

 

 前提を見ないままにしているから、言葉が多くなってしまう。理屈が増えてしまう。

 ”オッカムの剃刀”という言葉がありますが、説明はシンプルなほうが良い。事実、真実というものはさっぱりしています。
 
 

 トラウマの世界観は妙に複雑に見えますが、実は、それは、真実が複雑なのではなく、ただ、前提がねじれていて、「王様は裸だ」「これはりんごだ」といえないために、ぐるぐると言葉が複雑になっているだけなのです。

 論理とは、前提があってこそ成り立ちますが、前提を操作されると、操作されたねじれた前提の上で、延々、答えの出ない連立方程式を解かされ続けるようになるのです。

 まさに、賽の河原の石積みのようです。

 

 

 複雑になってしまうと、その複雑さを理解、共感しない他者が無理解に見えます。
 しかし、それは他者が無理解なのではなく、他者は「これはりんごだ」ということが見えているだけ、ということがよくあります。

 
 他者が「りんごでしょ?」というと、なにやら細やかな情緒を汲めない、理解のない、がさつな人に見えたりもします。

 しかし、他者のほうがよほど真実に迫っていて、トラウマを負っている側が、無用に物事をこねくり回されているだけだったりするのです。

 他者の“無理解さ”身も蓋もない切り捨て方にこそ、真実があったりします。
 ぐるぐると回る”説明”やそれに伴う悲しさ、苦しさ、怒りに付き合わず、「王様は裸でしょ?」という他者の態度にこそ救いがあったりします。

 ですから、治療者は時に、回り回る言葉や感情にはあえて共感せずにスルーすることがあります。いっしょにトラウマのダンスを踊らずに、ログインする方向に進めるためです。
 
 

 こうした核心を突けずにループさせられてしまう、というのは、実は悩みにある場合に誰しもに共通します。

 

 

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