原罪と免責

 

 私たちは、ニセの責任をたくさん背負わされて、本当に自分の人生に責任が持てなくなる。不調をきたしてしまう。
 

 本当に立ち向かわなくてはいけないときでも回避しようとしてしまったり、問題行動を起こさざるを得なくなる。

 それは、責任を回避するいい加減な性格だから、ではなく、責任を背負わされすぎてしまっていて、それ以上背負うことができないから。

 認知のプロセスがゆがめられてしまっていますから、日常の何気ないことまで、「罪悪感(自分が悪い)」との気持ちを持たされてしまうようになります。
 そのストレスは過大なものです。 
 

 過大なストレスに対してうまく代謝が機能しにくくなりますから、心身に不調をきたすようになります。

 

 日常生活でも、仕事など様々な場面で不都合が生じてきます。

 悩みの中にあって苦しい、生きづらいというとき、
 「誰か、自分が大丈夫だよ、おかしくないよ、って言ってよ!認めてよ」と心から思います。

 ただ、なかなかそれが実現することはありません。一見そうしてくれそうな人が現れても、共依存の関係にしかならなかったり、期待して裏切られたり、といったことも起きます。特に、身近な人間同士ではなかなか難しいのです。
 

 

 

 人間は「外来要素の沈殿物」(パリ大学小坂井敏晶教授)ですから、本来、責任はありません。
 人間とは、環境の影響に押されて、最後にババを引かされているだけで、責任の主体性というものはかなり怪しいものだからです。

 ただし、社会は、秩序を維持する関係上、目の前の人間に責任を問わざるを得ないことがあります。(例えば、自分のものを盗られても「その人の責任じゃないからいいですよ」とは言えない。)
 現代は個人主義ですから、特にその傾向が強い。 どうしても、やむにやまれぬ問題行動も、自分の責任とされてしまいます。

 

 ニセの責任で苦しい状況(I’m NOT OK)を、他者に因縁をつけてこき下ろして(You’r NOT OK)、かりそめの免責(I’m OK)を手にしようとする人もたくさんいます。

(参考)→「人は、自己愛が傷つくと、相手を「負かして」、自分が「勝つ」ことで存在を保とうとする

 

 すると、ニセの責任が連鎖していってしまい、互いに首を絞め合う構造になりどうしようもなくなります。息苦しい社会の誕生です。

 ニセの責任を自分で処理できる人や、他人に投げることができる人は健康に生きることができますが、できない人は、だんだんと苦しくなります。
 人間社会にも「2:6:2」という構造がある、といわれますが、ニセの責任という観点からもそれが言えるかもしれません。
 

 世の中には、「ニセの責任」が生み出されて、流通している、というのも“裏ルール”といえそうです。

 この「ニセの責任」の存在に気づき、それをいかに免責するのか、は私たちが本来の自分で生きていくためには最重要ポイントといえます。

 

 

 

 「ニセの責任」やそれのよる「罪悪感」ということがわかった時に、気が付いたことがあります。

 そういえば、キリストって似たようなことをしていたな、と。

 キリスト教の物語を見ていると、イエスが悩める人の問題を解決する際に、「罪は許された!さあ、立ちなさい」といったようなシーンが出てきます。

 祝福を与えて「免罪」すると、病が治ったりしていきます。

 

 キリストは、現在で言えば、民間の治療者やカウンセラーのようなことをしていたようです。
 

 キリストがユニーク、画期的であったことの一つに、人間が背負わされた「罪(ニセの責任)」に注目したことではないか、と思います。

 キリストは、ユダヤ教の改革者だったのですが、もともとユダヤ教には「原罪」といった観念はなかったそうです。
 旧約聖書にあるアダムとイブの話も、そもそもは「原罪」とは関係がない。「原罪」というのは、キリスト教になってから示されるようになったものです。

 

 人間を作ったのは神ですし、人間の行動もすべては予定されている。
 病や犯罪、様々な問題行動の責任も、本来は神様の責任のはず(全知全能ですから)。
 でも、現場の人間に帰せられる理不尽さ。大きな矛盾です。「原罪」とはまさに「ニセの責任」といってよいかもしれません。
 

 

 私たちは、自分たちがまさにあらがえないものに流されるように生きづらさに悩んでいます。

 例えば、愛着障害(トラウマ)を背負って人生がうまくいかなくなっても、親は選べないし、人生をやり直すこともできない、そのくせ責任だけは取らされる。誰もその構造を理解してくれない。表面的なことだけで非難されてしまう。そのことにものすごく怒りを感じていたりする。
 

 

 『反省させると犯罪者になります』という本にもありましたように、人間というのは、その理不尽さを直感していますから、服役者でさえいくら反省しろ、といっても、効果が上がらないのです。
 かえって腑に落ちず、理解されない孤独に陥ったりして、また再犯につながったりする。そこから抜け出ないといけない。

(参考)→「「反省」するととらわれ、支配される。人間に必要なのは「学習」である。

 キリストは、私たちが感じているその矛盾に直感的に気がついた。キレイごとだけではなくその矛盾から救われないと意味がない。

 

 

 興味深いのは、
 病にある人を治療したり、癒しを与えたりするときには、
  「エネルギーを注入します」でもいいし、
  「光を注ぎます」でもいいし、
  「神様が治してくださいます」みたいなことでもいいわけです。

 罪とか面倒なことを経由しなくてもよいはず。

 しかし、キリストは、
 「罪は赦された!」と宣言して、「免罪(免責)」によって、治療や奇跡を起こします。

 

 キリストは、人間は「罪(ニセの責任)」を背負わされていて「過責任」状態になっていること。それがストレスになって、心身の不調をきたしている、と見抜き、それを「免罪(免責)」することが人々が自由になるポイントであることを知っていたのかもしれません。
 
 
 最後は、自分が「ニセの責任(罪)」を一身に背負って、磔にされてしまいます。(それによって人類を救った、というのが後に作られた解釈です。)
 

 

 

 人間にとって大切なポイントが明らかなのでしたら、キリストのように、「あなたの罪は赦された」と互いに行えばよい。

 トラウマを負っていると、訳の分からない「罪責感」「自信のなさ」にさいなまれています。過去の自分の行動がどうしようもない恥ずかしい、おかしなことのように記憶しています。それを「免責」してほしい。

 
 ただ、なかなかそれは難しい。日常生活では、かえって「ニセの責任」がトランプのババのように回ってきたりする。
 
 いかにして自分が背負った「ニセの責任」を免責していくのか?

 「ニセの責任」に着目して奇跡を起こしたキリストの行動は、私たちが悩みから抜け出すためにもとても大きなヒントが含まれていそうです。

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

ニセの責任~トラウマとは、過責任(責任過多)な状態にあるということ

 

 悩みの根源としてあるのは、「安心安全」の欠如、ということでしたが、
安心安全を得ることを阻む最大のものがあります。

(参考)→「「0階部分(安心安全)」の回復は問題解決の中核」 

 

 それは、「責任」というものの存在です。

 責任とは、人間の自由意思に基づく主体的な行動を前提として、その影響(原因)について、道徳的、法的に応答する義務、といったものです。「responsibility」 というように、応答する、反応する能力とも言い換えられます。

 

 愛着障害/不安定型愛着に「回避型」という類型があるように、私たちは、責任を取ることを極度に恐れます。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 誰かのせいにしたり、ウソをついてしまったり、謝るけども腑に落ちないまま、といったことが生じます。
 応答する能力、ということでいえば、人とコミュニケーションをとる際は、正中と正中同士が向き合って接するというよりも、半身の姿勢で、いつでも逃げれるように接してしまいます。

 

 

 回避、防衛をすることに人間は膨大な労力を使っていて、それが、真にその人が力を発揮することを妨げています。

 「安心安全」に生きたいのですけども、社会で過ごしているとどこからか不意に「責任」を押し付けられて、それで身動きが取れなくなることを私たちは極度に恐れています。

 
 回避するために、問題行動を起こしてしまったり、うつや不安、依存、といった心身の症状に悩むようなことも生じる。

 

 結果どうなるかといえば、人生の主導権というか、主体性を失ってしまう。

 人間が自分の主体性を発揮していて、「責任」を取っていると感じられるときは生き生きしています。

 

 ですから、責任をとれるようになろう、ということで認知行動療法とか、自己啓発などで、自分の回避癖、防衛を取りましょう、という趣旨のセミナーとか、セラピー、ワークなどがあったります。
 しかしながら、うまくいくことはありません。
 やればやるだけ、反対に身動きが取れなくなります。

 

 なぜかといえば、それは、「防衛」「回避」している人は、責任を取っていない、取りたがらない、取れない、のではなく、責任を取りすぎている(取らされすぎてきた)からです。

 実は、ふつうの人以上に過剰に責任を負わされてきている。表面的には回避して頼りなく見えるかもしれませんが、責任感がとても強いのです。過剰に責任を取らされてきて、「もうこれ以上、責任は負えないよ!どうすればいいの!」という状態だからです(過責任)。

 

 しかも、その責任とは、実は本人の責任ではなく、「ニセの責任」や「他人の責任」を負わされてきているのです。
 

 「ニセの責任」とはどういうことかというと、例えば子供のころ、親がイライラしている、親が単に機能不全であるのですけども、そのイライラというのは、親の情緒不安定さ、であるわけですが、その責任を子供になすり付ける。

 「お前がいい子にしないから、私がイライラする(イライラするのはお前の責任だ)」

 親同士がけんかするのも「お前の責任だ」とされる。

 

 カウンセリングをしていてよく耳にするのは、
 子供が親から「お前は(仲の悪いほうの親と)顔や態度が似ている(お前はだからダメだ。その責任をとれ)」、というような暴言を浴びせられること。
 (「お前は、父に似ている」「お前は母に似ている」といった言い方です。)

 まさに、親という役割を放棄して(機能不全)、自分の感情や嫉妬といったことから「因縁」をつけているだけ。子供の責任をねつ造して、自分を優位に立たせたり、パートナーとの関係での不満の腹いせをしているだけ。何ら合理的な意味がない。

 

 

 別のケースでは、いじめがある。
 いじめはまさに、「責任のねつ造(因縁)」の典型。
 「空気が読めない」だの「ぶさいく」だの「くさい」だの、
 無いこと、無いことをでっち上げていけにえを作り出して、ローカルルールの私情を満たそうとする。

 いじめの被害者は、負わされた「ニセの責任」でその後も苦しむことになります。

(参考)→「いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因

 

 

 さらに、いじめという集団といったケースを取らなくても
 1対1でも同様のことは生じます。
 
 自分の嫉妬や支配欲といった、私情でしかないものを、公的なことだとすり替えて、「あなたは~~だ」「これは常識だ」と相手に因縁を吹っかけて、責任をねつ造して、呪縛する。
 (例えば、「~~さんって、××だよね」といった失礼なことをいきなり言われたり)

 呪縛している間は、その相手は動きが鈍りますから、それを見て留飲を下げる。
 

 

 

 「責任」というのは、実はかなり怪しい概念です。実は個人の責任であることはほぼ存在しない。

 会社でも失敗の責任は、担当者の責任にされますが、例えば、売り上げがノルマに達しない場合も、
  ・ノルマが現実的ではない
  ・そもそも商品、サービスが悪い
  ・販売を支援する仕組みが整っていない。
  ・会社のブランド力が低い

 など様々な要因があって、商品が売れる売れないは、一番最後の話。仕事とは総合力。
 
 さらに、日本経済の成長率や、人口動態も大きく影響する。成長というのは近代資本主義の神話でしかありません。常に成長することなどは約束されていない。

 現場でできる工夫などはかなり限られている。
 戦術的成功は戦略を越えられない、というのは軍事上の常識ですが、戦略のないままに、「戦術的に大成功をおさめろ、それが担当者の自己責任だ」といわれているケースはとても多い。

 

 ミスにおいても、同様です。会社自体にミスを防ぐ仕組みがない。仕組み、書類がそもそもミスを誘発しやすい、といったこともある。

 サッカー解説者の戸田和幸さんが本で書いていましたが、サッカーでは、最後にキーパーが脇を抜かれてゴールを決められる、その前にはDFがミスをしたように見えるのでそこだけ切り取られると、キーパーやDFのミスのように見えるけども、そもそも、ボールを失ったときの失い方、あるいはその前の攻撃の時に攻め込みすぎていないか、といったことでゴールは決まってしまっている、といいます。

 

 テニスでも同様で、ポイントを取られる、2,3個前のプレーで決まってしまっている。ダブルスだったら、自分がミスしているように見えて、パートナーのプレーによって、決まってしまっていたりもする。

 

 などなどと考えると、仕事においても、責任とは何? ということはとても難しい、多くの場合、その人の責任ではないものを、無理矢理責任にされてしまっている。

 トラウマを負っている人というのは、しばしばこうした、自他の行動の範囲があいまいな環境、責任がねつ造される環境に置かれています。

 

 健康な状態であれば、ストレス処理の仕組みによって、ガードされて、愛着が安定していれば自他の区別もつきますが、長年のストレスでストレス応答系が失調し、愛着不安で自他の区別がつきにくいために、「自分の責任ではありません」とは言えなくなって、あいまいな中、すべて自分の責任だと思わされてしまう。

 

 そうしていると、「ゴミ拾い」をしているかのように、他人の行為についても先回りして気をもんで、自分の責任ではないものまで自分のものとするようになる。(過剰適応)
 
 常に気をつかってへとへとになる。

 

 本当は主体性からでもなく、自由意志でもなく、ねつ造された他人の責任を取らされているだけ、なので、責任を取っていても腑に落ちないのです。

 さらにいえば、もっと遠回りに環境の影響の積み重ねで追い込まれて、不本意ながら問題行動をおこしてしまうこともある。

 例えば、以前も紹介しました『反省させると犯罪者になります』という本で描かれていることはそうで、犯罪というのは当人が行っているわけですが、でもその背後には、貧困や教育の欠如、養育環境の問題、などさまざまなことがあり、
 追い込まれて追い込まれて、最後に、当人は犯罪を行ってしまう。

 

 最後の瞬間だけを見れば、その人の責任でしかないようにみえるのですが、
 実は長い長い背景がある。追い込まれて追い込まれて、私たちは最後に行動をしてしまう存在です。

 だから、反省させても腑に落ちない。直感的に、自分の責任ではない、おかしいと感取している。

 

 このように、私たちは、ねつ造されたニセの責任によって、責任過多となり、主体性を奪われてしまっている。

 そのうえさらに、「自分の人生という責任に向き合いなさい」といわれても、パンクしてしまうだけ。

 「もうこれ以上どうすればいいの!!」といいたくなります。

 
 場合によっては、医師やカウンセラーからも、「さらに責任をとれ」といわれているような気がして、治療自体が嫌になることもあります。現代は、近代個人主義の時代で、人間は主体的な存在だ、というドグマは根強いものがあるからです。
 

 ただ、自分の責任に向き合えれば好転する、ということは経験的には事実です。確かにその通り。

 
 でも、そこに至るためには、必要なことがあります。

 それは、まずは、ねつ造されたニセの責任をすべて降ろす作業が必要なのです。

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

「自分は他者とは違う」と思って落ち込み、「他者は自分と同じ」と思ってイライラし、不安になる。 

 

 先日の記事でも書きましたが、トラウマを負っていると、「自分は他者とは違う(おかしい)」として、自分の感覚を信じられなくなります。

自分が感じる腑に落ちない感覚や、気が乗らない状況を不調、うつ状態であるととらえて、治すべきものだ、と考えてしまう。
そして、ソワソワに巻き込まれて、しなくてもいいことをしてしまう。

 

 

 以前筆者の家の洗濯機の「乾燥モード」が動かなくなったことがありました。操作して動かすと最初は動くのですが、しばらくすると、「ピーピーピー」と止まってしまうのです。
 
 こちらは腹を立てて、「なんだよ、ちゃんと動いてよ」「故障だ」と思っていましたが、よく調べてみると、排気口にホコリがたまって排熱できなくなっていたために、センサーが作動して自動停止していたようなのです。つまり、洗濯機は正しく機能していたわけです。ただし機能して、停止してくれていた。

 正しく機能していたのに、それを「故障だ」と決めつけていた。

 もし動いていたら、熱がたまって本当に壊れてしまっていたことでしょう。
 
 この洗濯機と同じように、私たちも私たち自身の感覚を「異常だ」と思わされて、自分の感覚がわからなくなってしまっています。

 

 

 

 もう一つ、それと対になるように、私たちは「他者は自分と同じだ」として、同じように考えてくれない、動いてくれない相手にイライラしたり、相手の気持ちを考えて不安になったりすることがあります。

 
 

 

 「自分は他者とは違う」と「他者は自分と同じ」ということは矛盾しているようですが、実は、一貫しています。

 

 一貫しているトラウマティックな人間観、社会観が背後にあります。

 それは、「社会、人間というものは一元的で一つの基準でできている」と考えています。それを自他に当てはめてる。そして、次に、「その基準から見て、自分は劣っている」というもの。

 

 ただ、現実には人間は多様、多元的ですから、他者はその基準に従って必ずしも動くわけではありません。こちらが思っているようには、社会や他者は動いていないのでズレが生じます。

 そのずれは、「他人は自分が思う通りには動いてくれない」というイライラ、不安につながります。

 さらに「自他の区別」が弱いために、相手のことを考えすぎて振り回されてしまうのです。

 

 

 

 なぜ、「相手は自分と同じだ」となるか、といえば、不適切な環境(親など)がそれを強いていたからでもある。

 自他の区別がついていない未熟な自分の理不尽な言動を正当化するために、「私の気持ちを考えろ」と親が子供に強いたりすることがある。

(参考)→「トラウマ(愛着不安)を負うと、自他の別を越えさせられちゃう

 

 

 あるいは、他者の理不尽の原因について、「お前がいい子ではないからだ」と本人に原因帰属をさせる。

 

 理不尽な人や物ほど、「相手の身になれ」「私のことを理解しろ」と巻き込んでくるものです。でも、それは相手を支配する手段だったりする。

 

 そうすると段々と「自他の区別をつける」という大事なことがわからなくなってしまう。

(参考)→「「自他未分」

 

 

 大人になってもそれが習性になってしまう。

 大人になると、そのおかしなことを言う人が、恋人や上司となって現れる。 
 

 パートナーは、「私の気持ちを考えろ」「このイライラはお前のせいだ」といって、自分の不安定な情動に一体化させようとする。
  

 
 上司は、「顧客の気持ちを考えろ」とか、「上司や同僚の身になって考えろ」といってくる。もっともらしく見えますが、実は相手の身になって考えると、うまくいかなくなる。

 

 

 TV番組で、「帰れま10」という番組があります。
 その飲食店で人気10位以内のメニューを当てるまで帰れない、という番組ですが、
 出演者は、
 「やっぱり、レストランといえば、〇〇でしょ」
 「女性が多い店だから、△△が受けるはず」
 とか、顧客の身になって、人気メニューを想定するのですが、なかなかうまくいかない。

 絶対これは当たるはず、というメニューでも、30位代なんて言うこともザラ。

 つまり、身になって考えたことは当たらない。それではわからない。

 (撮影が長時間になり、疲れて頭(意識)が働かなくなってどうでもよくなった時に、うまく距離が取れて、当たったりする。)

 

 

 母子が密着した親が、私は子供のことがわかっていると考え、「子どものために」といったことは、大抵がずれている。子どもは渋々、着たくない服を着たり、進みたくない進路に進んだり、陰鬱な顔をしている。

 

 マーケティングが進んだ会社では、相手の身になってなど考えず、統計データなどで自他の距離をとって、感覚ではわからない解を見出す。

 大学の研究室でも、対象物から距離をとった研究者が客観的な結論を導き出す。

 

 

 本来、相手を理解する、というのは、相手も自分と同じだ、として相手の気持ちを考える、ことではない。

 「相手は自分とはまったく違う、異文化である」として、まずはしっかりと距離を取って、“外形的”に理解する。
 
 さながら、自然科学者が生物を研究するかの如く、社会科学者が異文化を研究するかの如く、相手を見ます。
 
 私たちは、生物とか、外国の文化などに接したときに、容易には感情移入することはありません。

 もちろん、頭で「擬人化(自分に擬して)」すると、理解の助けとすることはありますが、同一化して、という感覚ではない。

 ある意味ドライに見えるかもしれないが、そうしたほうが本当に理解ができる。これが、本来的な自他の関係、ということ。

(参考)→「カエサルのものはカエサルに

 

 他者を理解するためには一度十分に距離を取らないと、相手の身になることもできない。身になったつもりでいると、それは単なる陶酔であったりする。
 (相手に距離を詰めた理解を求めれば求めるほど相手は自分を理解できなくなる。)

 

 
 「自分は他者と同じく健全」であり、同時に「他者は自分とは異なる」という感覚、

 これが本来的な感覚といえそうです。
 (負の暗示が入ると、これができなくなります)

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

自分がおかしい、という暗示で自分の感覚が信じられなくなる。

 

 自分はダメだ、自分はおかしい、と思わされていると、自分の感覚というもの、ガットフィーリング(腑に落ちる感覚)というものを感じることができなくなってもきます。

(参考)→「自分は本質的におかしな人間だ、と思わされる。

(参考)→「頭ではなく、腸で感じ取る。

 

 自分の感覚、というと何やら難しい、修行しないと感じ取れないもの、と思うかもしれませんが、そんなむずかしいものではありません。誰でも感じているもの。

 

 普通、何かを目の前にしたときに、「ハラ(腑)に落ちない」というときはやる必要がない、あるいは、もう少し待ってみる、ということであり、「ハラ(腑)に落ちる」感じがあるなら、やってみてもよい、ということ。

 

 自分はおかしい、とおもわされていると、「ハラ(腑)に落ちない」という感覚を不調やうつ状態と勘違いして無視されてしまい、自分の体に鞭を打って、やる必要のないことをしてしまったり、ということが生じます。

 

 本当は、ゆっくり待っていればいいだけのことなのに、不安からソワソワして、必要のない動きをしてしまう、なんていうことも生じます。

 

 筆者も昔、常にやる気があってワクワクしているのがあるべき姿だ、と勘違いしていて、ピンとこない自分の感覚を否定していたことがありました。それでずいぶん、しなくていいこと、余計なことばかりしていた痛い記憶があります。)

 

 自分の感覚を否定・無視して努力を続けると続かず、その結果、「学習性無力症」のようになってしまって、本当に機会が来て動くべき時に動けなくなってしまいます。

 

 本来、自分の感覚を信頼するための練習が、親子での適切なコミュニケーションになります。子供の感覚について、親が感じ取って言語化して、フィードバックを繰り返すことで、子供は自分の感覚を信頼できるようになる。
 「おなかがすいた」と体が訴えているのに、「だからお前はダメなんだ、寝なさい!!」みたいに返されると、自分の感覚を信じることができなくなってしまいます。

 (参考)→「「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 大人になると親とのきずなを内面化していますから(内的ワーキングモデル)、愛着が不安であるというのは、言い換えると、自分の感覚を信じられないこととイコールです。

 

 

 トラウマを負っている人ほど、自分がおかしい、という呪縛を超えて、自分の感覚を信じる、ということが大事。偉い人の考えだとか、占いだとか外に答えを求めていると、それがなかなかうまくいかなくなる。
 

 

 乱暴に言えば、
 胸から上のソワソワはニセの感覚、
 腹から下の落ち着いた感覚は本来の感覚

 としてみる。

 頭の中で「~~しなければ!」というのは、だいたいニセの感覚です。

 

 自分の感覚を信じるというのは、「今の自分は、自分の感覚を感じ取れない状態にあるから改善しなければ」ということではなく、本当は問題はなく、そう考えていること自体がトラウマティックな症状なんだ、と思って、ただ、感覚を信じるようにすればいいだけ。
 よほど病的な状況でもない限りは、誰でも感覚は感じ取れていますので、心配いりません。

 

 

 世の中でこれが良い、これが流行だ、としても、自分がぴんと来なければ、自分がやることではないし、タイミングではないということ。
 例えば、「今は○○が流行だ」みたいなことが喧伝されているとしても、頭はソワソワするけど、腑に落ちる感覚がなければ、それは自分がやるべきことではない、あるいは、タイミングではない、ということになる。

 

 ネットとか世の中で一時的に有名になったり、これが新時代の生き方だ!といった人が出て、目立っているように見えても、実はその人自体がいわゆるトラウマを負っていて、自己愛性パーソナリティ状態であったり、胸から上で踊らされているだけで、見た目だけよく宣伝されている、ということも多いのもトラウマティックな傾向がある現代社会というもの。

 自分の願望が実現しました!として有名になった人のその後を追跡してみると、消えていたり、実はトラブルになっていたりすることも珍しくない。
 

 

 実質のあるものしか長く残れない(一時的には実がなくても急激に消費される場合があるが)、ということが社会の裏ルールで

実質がちゃんとあるのに自分には実質がないと暗示をかけられ、ソワソワしなくてもいいことをさせられいるのがトラウマを負った状態、といえるかもしれません。

 

 「自分がおかしい」という思いを捨てて、ガットフィーリングを信じられるようになってくると、そこが見分けられるようになってくる。

 自信をもって、「それは違うな」とか、「ああ、今は必要ない」といえるようになってくる。

 

 

 「仕事や学校の勉強みたいに、嫌でもやらないといけないことはどうなんでしょうか?」と思う方もいるかもしれません。仕事や学校の勉強のやる気も環境(や習慣)によって決まるとされています。
 
 言い換えれば、行動には、「安心安全+ガイド」が必要。
 自分が安心安全で、支持される環境があり、人生の先輩から手ほどきやガイドがあること。

 そうした環境の影響を内面化して、内側から沸き起こってくるものが「やる気」で、個人の気合というものではありません。仕事や勉強の方法などちゃんと教えてもらって、習慣化して、そうして自分の身体が動くのであれば、それは自分がやりたいことだと思ってよいと思います。

 

 周囲の環境が不適切だと上記のように「学習性無力症」となってしまって、「やる気が起こらない」という状態になります。梯子がないままに壁に上らされるようなもの。だから、一般的に言って家庭環境が良くないと「やる気」も起きないとされる。
 (実際、東大に進学するかどうかは、頭の良さで決まるのではなく、収入など環境で決まっていたりする。)

 
 もちろん、環境が整っていても、それに興味がない、という場合もあります。
 その場合は、その他の選択肢が向いているというケースでしょうし、

 あるいは、発達の段階は人それぞれですから、まだ、そのタイミングではないということが考えられます。

 

 適切な環境で習慣作りをして、機会を待っていると、勉強やその仕事がしたくなる、ということが自然と起きてきます。
 (ただ、放任ということではありません。ある程度は手ほどきを受けたり、周囲は関与をし続ける必要はあります。そうしないと判断のきっかけさえなくなりますので。その点では「一見嫌なことでもやってみることだ」という助言もその通りだといえます。)
 
 

 環境を整えてコツコツ日々を生活していて待っていると、機会がやってきて、湧き上がってくる感覚をもとに行動に移せる、というのは、人間にとっては本来的なスタイルなのではないかな、と思います。

 そのためには、「自分はおかしい」ということ自体が思い込まされていることではないか?ということに気が付く必要があります。

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

自分は本質的におかしな人間だ、と思わされる。

 

 先日も書きました「トラウマティックな世界観」ということにも通じますが、

(参考)→「トラウマチックな世界観と、安定型の世界観

トラウマを負っている人は、

「自分っておかしい人間だ。自分は改善しなければならないところがたくさんある」
「他の人は幸せに過ごしている(自分は違う)」
と思わされています。

 

 

 どうしてそう思うか、といえば、これまで、親などから受けた暗示、嫉妬を内面化しているということや、ストレスからくる身体の失調などから、安心安全が損なわれているから。

 

 人間というのは、生きていればストレス、ノイズを常に受け続けています。
 船が外洋で航海していて、波や風を常に受けているのと同じように。

 ストレスやノイズを受けない人はいません。ただ大切なのは、それを跳ね返す仕組み(ストレス応答系)が機能しているかどうか、ということ。
 

 ストレス応答系というのは、自律神経とか、免疫系、ホルモンとかを差しますが、短期的には、栄養、睡眠、運動がちゃんと取れているか、ということが大事であり、長期的には環境(支持、応援してくれる人たちがいるか)が影響します。

 後者を「愛着」といいます。

 

 前者の栄養や睡眠も極めて重要で、そこが欠けていることで「安心安全」が失われて、おかしくなっているケースは大いのですが、わかりやすく後者で説明すると、親との絆がうまくできていないと、心理的な「安心安全」が不十分となります。

 一番大切なのは、1歳前後にしっかりと抱きしめられて育てられたかどうか、ということです。

 

 成長してからも、親からストレスを受けたりしていると「安心安全」はなくなってしまいます。
 「外で嫌な目にあった」と相談しても
 「あなたの態度が悪いからじゃないの」なんて本人に原因帰属されると、ストレスを跳ね返せなくなってしまいます。
 

 だんだんと、「自分だけがおかしい」という世界観、人間観を持つようになります。

 世界をありのままに見れなくなってしまう。

 

 実際の世界はどんなものかというと、みんなそれぞれダメなところがあって、見栄をはって生きている状態。
 「禍福は糾える縄の如し」といいますが、幸不幸というようなものも景気循環のように波になってきているだけ。

 実はそれがありのまま。

 

 

 「そんなこというけど、明らかに金持ちとか、恵まれている人はいるじゃないの」と思うかもしれません。

 それはその通り、です。世界は平等にできている、とは誰も言っていない。ただ、誰も苦からは逃れられない、とは言われている。ブッダも、何不自由のない王族の出身だった。

 ふたを開けてみたら、それぞれに不幸があったりする。

 

 明石家さんまさんは絶頂期に、実はバブルの後で家の借金が何億もありました、と最近テレビで言っていました。
でも、絶頂期にはそんなふうには全く見えなかった。

 

 サウジアラビアの王族もすごいお金持ちですが、どうやら王族内で権力闘争や粛清が頻繁にあるらしい。安心してはいられない。

 

 はたから明らかによく見える人も、それぞれに事情があるのでしょう。

 

 「いや、それでも、恵まれている人いるでしょ!?」

 そのとおり、
 

 でも、私たち日本人の庶民たちも、貧しい発展途上国の人たちから見たら、「明らかに恵まれている人たち」です。
過去の王族、貴族よりも恵まれた生活をしている。コンビニはあるし、病気になったら薬もあるし、スマホで簡単に何でもできる。そんな私たちにも、それぞれに事情、不幸があります。

 

 

 トラウマを負っていると、「なんで、自分だけがこんな目に!?」と思ってしまうことは多い。

 セッションでも「どうしてこんな目に合うのか、心に聞いてもらえますか?」理由を尋ねられることがあります。

 

 たとえば、人から急に失礼なことを言われた、というような時。

 「なんで、あの人は急にあんなことを言ってきたんだろう!?」
 「ふつうはそんなことは起きないはずだから or 他の人からは評判のいいあの人があんなことを言うということは、私は知らない間に失礼なことをしたのか?わたしはどこか呪われていて、根本的におかしな人間なのか」
 と考えてしまいます。

 

 愛着が安定していれば、考えの途中で、「そんなことないよ」と内面化された親や友達が応援、支持してくれるのですが、それもなく、反対に「お前はだめだ~」と否定してくるので、悪い考えは自己否定の行きつくところまで行ってしまいます。

 

 これは筆者も経験したことがあります。

 「えっ、立派な立場の人が、何で急にこんな失礼なことを言ってくるの?!」とか、
 「友達と思っていたのに、急に敵意を向けてくるの」
 といったようなこと。

 それで「自分はよほどだめなのか」と思って悩んだことがあります。
 

 

 実際、ありのままの世界は、はどうかといえば、人間は、嫉妬や支配欲があり、そこからは誰も逃れることができません。
 また、私たち自身は、他者から見れば、思っている以上によく見えていることがある。

  社会では立派な立場の人や、人気者と思われている人でも、内面はコンプレックスが渦巻いていたりもする。実は不安定なバランスで人格は成り立っている。

 だから、相手がこちらに恐れを感じて、嫉妬を向けてくること、揶揄されることは、誰でも日常茶飯事なのです。

 

 

 世の中では礼賛される「友達」という存在も、実はかなり微妙な存在であり、文学者や哲学者などが友達をテーマに本を書いたりしていますが、友情というのはかなり脆弱なもので、状況が変わるとそもそも成り立たなくなるし、関係が近い分、嫉妬や裏切りも起こりやすいものなのです。
 

 

 それを「自分はおかしな人間で、支配されているからでは?!」なんて、自分だけが!?・・、といったようにとらえる必要はない。
 そのように感じさせられていること自体が呪縛だ、と知るだけでよい。

 
 自分が駄目だ、とおもっていると、「改善のために反省、アクションしなければ!!」となって、安心安全も持つことができず、さらに自尊心も下がり、ゆっくり待つことができなくなる。
 待つことができなければ、本当の機会も逃してしまう。

 

 

 トラウマを負っていると、「このような目にあうのは、自分が根本的におかしいからだ」思わされるものだ、と知っておくと、霧が晴れた先にある、ありのままの現実を感じることができるようになります。

 

 

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 

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過剰な合理性や意味づけ

実は、トラウマを負った人は、とても“合理的”です。

日常のあらゆる行動について、考え、合理的に動こうとする。

合理的に最短で動こうとする。動かなければならないとする。

休みのときも無駄なく過ごそうとする。

だから、ちょっとした失敗にも厳しい。
なぜ、最善ではなかったのか!と自分や他人を責めるようになります。

なぜこのようなことが起こるのかといえば、トラウマを負った人は、無秩序で“安心安全”がない世界で生きていて、自分で秩序を作り出さなければならないから。

そのために、“合理的”に動かなければならないのです。

 

一般的には、悩みを負っている人は、理性的ではない、非合理な行動を取る、と思われていますが、実は逆です。その意図するところは、とっても合理的、論理的。

過剰な合理性がある。

ただ、脳の機能には限界がありますから、過活動、過緊張となり、CPUの活動が高くなりすぎたパソコンのように反対にフリーズしてしまう。人間はクラウド的存在であるから、重い処理はクライド側に任せておけばいいのに、全部自分で処理しようとする。

 

すると、本人は合理的にと意図するのに、そのように動けなくなる。

 

いつもリラックスした感がなく、いつも満足が得られず、どこかソワソワ、イライラしてしまいがち。

そのソワソワを解消するためには、自己治療が必要となり、非合理な行動が必要となり、周りから見るとおかしな行動を取ってしまったりするようになる。他者から見ると合理的ではなく、「こだわり」になってしまって、仕事でも、結局は最短距離で仕事ができなくなる。

こうして、合理的に動こうとした結果が、非合理な行動へとつながってしまう。

 

 

また、合理的であろうとするために、身の回りに起こるあらゆる事象に「意味」を見出さなくてはならなくなり、その結果、意味を取り違えたり、あるいは、人智を超えた事象に怯えるようになります。(占いとかにもお金を使わないといけなくなります)

なんの意味のない事象でも、
自分の何かを示しているのではないか?
人から嫌われてしまったのではないか?
と考えてしまったりする。

あらゆるものに意味を求める結果、ほんとうの意味がつかめなくなる。

 

 

反対に、安定型の普通の人は、どうかといえば、もちろん、いつも合理的には動かなければ、とは思っていない。ふだんは、ダラダラと意味のない時間を過ごしている。

 

でも、仕事とかいざというときは、結果として合理的に動ける。
なぜかといえば、リラックスできて、テンションのコントロールができているから。

そして、なによりクラウド型である人間の特性を自然に活かしているから。動き方のルールとか、情報とかは、自分の外(社会、公的環境)にあって、それを無意識に内面化(ダウンロード)して、それで動いている。

自分のCPUはそれほど使わなくても良いので、楽に動ける。

 

また、自他の区別があり、万能感がありませんから、自分に関連した、過剰な意味づけも持たない。

占いなども、あくまで娯楽として戯れることができる。自然なものに対しても、変に巻き込まれずに時に割り切り、時に成熟した畏れを持てる。

 

トラウマを負った人は、社会から切り離されてローカルネットワークに接続しているので、ローカルネットワークからの妨害が入る中で、すべてを自分の中で完結して処理しなければならず、処理が追いつかずにフリーズを起こしてしまう。経験がつみあがらず、記憶も処理されない。

 

本来、世界には私達が安易に求めるような「意味」などは存在しない。
だから、俗に占いとかスピリチュアルに言われるような「意味」はほとんどインチキ。それは単なるローカルネットワークの世界。

おそれるようなことは何も起きません。

 

本当の「意味」というのは、科学者とか哲学者とか長年探求して見出すようなものに近い感覚。それは、「0階部分(安心安全)」を土台として、社会(ワールドワイドウェブ)とつながる中で、腑に落ちるように内部から捉えられてくるもの。

 

もし、本当の意味で私たちを変えてくれるような機会というものがあるとすれば、それは、常に合理的に動こうとか、安易な意味を見出そうとすることは捨て、リラックスしながら日常を生きて、なんの意味のない時間を過ごしたりしながら生活すること。
その中で、ふいに向こうからやってくるものではないか、と思います。

 

過剰な合理や安易な意味づけの世界を捨てると、
本当の意味と邂逅することができ、その時の喜びやハッ!とした感覚というのは何物にも代えがたいものがあります。

 

 

 

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「0階部分(安心安全)」の回復は問題解決の中核

 

 人間は、「0階部分(安心安全)」が欠如すると、それを補うために、さまざまな問題行動を起こすようになります。

 例えば、対人関係では、過剰適応であり、過緊張であり、回避であり、しがみつきであり、様々な防衛が働きます。

 身体的には、強迫行動や、依存・嗜癖、不眠、免疫不全、といったようなことも引き起こされます。

 

 これらは、「問題行動」、「疾患」とも言えますし、0階部分(安心安全)が欠如したために、心身が「非常事態モード」に切り替わった、つまり、「0階部分(安心安全)」が欠如した環境に適応した、とも考えられるのです。

 

 戦争、災害など社会全体が「安心安全」ではない環境であれば、それでよいのですが、(非常事態モード自体が臨時の「0階部分」となってくれる。) 実際の社会は平和ですから、自分だけが非常事態モードになるということは、結局は不適応を起こしている、ということになり、本人も、そして周囲も困ることになります。

 

 アメリカでは、戦争から帰還した兵士を描いた映画がいくつかありますが、そこで描かれているのは、自分だけ「0階部分」が「非常事態モード」から「安心安全」へと切り替わらずに、平和な日常とのギャップに苦しむ姿です。

 ずーっと緊張や過覚醒が続いて、落ち着いて何かを行ったり、人とうまく付き合ったりできなくなる。
  

 その結果か、あるいは要因の一つとして、「関係」が壊されてしまう。
自分の感覚と、周囲との感覚、常識があまりにも合わず、無理解の壁に苦しみ、自分は孤立を感じてしまうようになる。

 
 その苦痛を和らげるために、未熟な自己治療として様々な行動をとってしまうようになり、それが嗜癖とか、依存症とか言われるものだったりします。
 (リストカットとか、抜毛症とか、アルコール依存とか、ギャンブル依存とか)

 

 

 免疫機能もおかしくなってしまうために、自責的になって自分を攻撃したり、強迫的になったりします。

 その他、発達障害、ADHDなども様々な問題も、「0階部分(安心安全)」の欠如のゆえではないか、と考えられます。
 (発達障害の方が、反復するものが好きなのは、そこに秩序、安心安全があるからです。)

 

 

 ストレスの研究などでわかっていますが、人間(動物)というのは、急な非常事態に対応することはどちらかといえば得意ですが、長くだらだらと続く、日常のストレスには弱い。

 
 おそらくは、人間(動物)はモードが急に切り替えたり、適応することはできるのでしょうけども、反対に微調整(融通)がきかない。
 

 非常事態モードになった状態を、安心安全のモードに切り替えることが、なかなかできない。だから、皆そこで苦しむ。
 

 

 さらに、ほぼ、身体的な問題なのに、「心」の問題にされてしまい、その人の責任とされてしまう。

 「心」は、インターフェースであり、インプット、アウトプットの入り口にはなりえますが、原因ではない。
  

 

 

 心身が、非常事態モードから、「安心安全」へと切り替わるツボになる部分を探す必要があります。
 (ある理論では、そのポイントとなるものが「耳(声、音)」であったり、顔や喉の「筋肉」であることがわかっています。)

 

 「0階部分(安心安全)」の回復のポイント探しこそが、これからの臨床のメインテーマの一つとなるものです。

 

 

 

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「0階部分(安心安全)」

 

 以前、「関係」がどのように成立するのかについてまとめました。

 「関係は1階、2階、3階といった階層構造になっている」
 また、「私的領域では人間はおかしくなる、公的な領域こそが本来の居場所である」ということを見てきました。

(参考)→「「関係」の基礎~健康的な状態のコミュニケーションはシンプルである

    →「「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

    →「関係の基礎3~1階、2階、3階という階層構造を築く

 

 

 実は、これまで明らかにした関係や公的領域にはそれが成立する前提があります。

 それが、今回お伝えする「0階部分」ともいうものの存在です。

 

 
 私たちはクラウド的な存在であり、「関係」によって成立しています。
 そしてその「関係」とは、公的領域でなければ正しく機能せず、私的領域(個人の情動やローカルルール)にとどまった場合、嫉妬や支配といったおかしなものに堕してしまうようになります。

 

 ただ、こうしたメカニズムの以前に、カウンセリングをしていると、「関係念慮(妄想)」といった状況に陥って、周囲への不信や被害感情に苦しんでいる方に多く出会います。

 

 関係念慮というのは、特別に病的な人がなるものではありません。
 誰でも、体調が崩れたり、睡眠不足になったり、あるいは人間関係のストレスにさいなまれると、容易にそのような状態に陥ります。

 

 「周りの人が私のことをネガティブにとらえている。悪口を言われている気がする」
 「周囲がひどい人ばかり」

 といったようなことです。
 

 そのために、クラウド的な存在であるにもかかわらず、「関係」を構築できず、周囲とつながることができず、代わりに、家の中で嫌な家族やつらい過去の記憶とつながるしかなく、余計に苦しくなってしまう、ということが起きます。

 

 これは、トラウマを負っている方に多い傾向があります。
 (内分泌の疾患、発達障害の方などでも同じような問題が生じます)

 なぜ、そうした方に多く見られるかというと、それはトラウマを負っている方は「安心安全」が脅かされやすいためです。

 「安心安全」の欠如とは、身体的な不調、心理的には不安定型愛着に起因します。

 

 
 人間というのは、免疫やホルモン、自律神経によって、外的なストレスに対処しています。ホルモンなどが国境の壁や軍隊の役割をしていて、防御が利いている間は、その内側は平和でいられます。
 

 ボクシングでいえば、ガードしている状態。
 極端に言えば、どんなにパンチがきつくても、ガードしている間は、安全でいられますし、むしろ、打ってくる相手とガードのタイミングが合い、さながらダンスを踊っているかのように、心地よくさえあります。

 

 これが健康な人間の状態で、健康な人から見れば、
 「人間というものは信頼できる。社会とは安全なものだ」と感じられています。ストレスさえも、どこか心地よく感じられる。
 

 

 

 しかし、防壁が壊されたり、ガードのテンポが合わなくなると、ストレスをもろに浴びるようになります。

 物理的には同じ環境にいながら、途端に「人間とは信頼できない。社会とは危険なものだ」と感じられるようになります。

 これがストレス障害(トラウマ)というものです。 

 

 ※出産を基準にして、出産前にお母さんの中でお腹の中でのストレスでその防壁が壊されてしまうことを「発達障害」といい、出産後、環境のストレスで壊されてしまうことを「トラウマ」といいます。そのため両者の症状は瓜二つになるのですが、それはどちらもストレス障害だからです。ホルモンの失調でも似た状況になります。

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

    →「大人の発達障害、アスペルガー障害の本当の原因と特徴~様々な悩みの背景となるもの

 

 

 
 同じコミュニケーションでも、防壁があるときは、肯定的なメッセージは、そのまま「肯定的なメッセージ」としてとらえれます。
 しかし、防壁がないとむき出しであるために、肯定的なメッセージも「否定的なメッセージ」として捉えられるようになります。

 

 むき出しですから、「周りはひどい人ばかり」となります。
 (臨床心理の世界では、「周りはひどい人ばかり」と訴えているケースは、強いストレス障害(発達障害)による記憶の断片化が疑われます。)
 

 

 相手が普通に送ってくるメッセージが正しく受け取れないわけですから、通常のやり取りができなくなる。「1階、2階、3階」とフィルタをかけながら積みあがていくように「関係」を構築できなくなってしまう。

 (参考)→「関係の基礎3~1階、2階、3階という階層構造を築く

 積み上げ=フィルタ式ではなくて、すべてを警戒するか(回避)、すべてを受け入れるか(接近)、といった極端な形になってしまう。

 

 このように、「0階部分」とは、心身の「安心安全」のことを差します。
 「0階部分」が関係を土台となって、私たちを支えてくれています。

 

 トラウマとまではいかなくても、睡眠、食事、運動が不足すると、私たちは容易に土台が崩れてしまいます。

 
  かつての警察の取り調べや、カルトの洗脳などでは、
  ・睡眠時間を少なくし
  ・食事を制限し
  ・自由に運動ができないようにする

 ということがセオリーです。そうすると、正気を維持できなくなるからです。

 小さなお子さんをお持ちの方はご経験がありますが、
 眠たくなると子供はわけがわからなくなる。
 特に、睡眠不足は容易に人間をおかしくするものです。

 

 

 身体的な健康が脅かされると、人間はだれでも妄想的になります。

  
 そのために、「0階部分」では、「身体」的な健康、安心安全が確保されていることがとても大切です。

 

 

 「0階部分」を整えるためには理屈よりも何よりも、まずは、睡眠、食事、運動から入る。

 睡眠をしっかりとり、栄養を整える。
 
 最近は、鉄分などの不足が精神の不調に大きく影響している、ということが指摘されるようになってきています。

 
 また、たとえばうつ病でも「運動」によって9割が回復するというエビデンスがすでにある(抗うつ剤では2割しか治らない)。

(参考)→「結局のところ、セラピー、カウンセリングもいいけど、睡眠、食事、運動、環境が“とても”大切

 

 

 それほどに「0階部分」は大切です。  

※いわゆる「愛着」というのは、「0階部分」のOS(オペレーションシステム)ともいうべきもので、ソフト面から「0階部分」の機能をサポートしてくれています。
 (参考)→「「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 

 「0階部分」によって、わたしたちの「公的領域」、「関係」というものは支えられています。

 

 

 

 

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トラウマチックな世界観と、安定型の世界観

 

 前回も少し触れましたが、本来の人間の世界観は、
「ゆっくりのんびりしながら、腑に落ちる感覚を「待つ」という」ような感覚です。

 

 トラウマというのは、「ストレス障害」のことです。
災害、事故、日々のストレスによってトラウマになるのですが、
人間はそれによって、安心安全を奪われて、非常事態モードになります。

 

 トラウマを負った人の世界観とは、

 ・次があることが保証されていない(目の前の機会が失われたら次が来ないと思ってしまう)
 ・せっかち(すぐに結果が出ないと安心できない)
 ・明日の能力向上よりは、今の結果を求める(だから、積みあがらない)
 ・Doing偏重(行動への強迫)
 ・世界が秩序だっているとは思えない(そのためスピリチュアルなものにも傾倒しがち)
 ・本当はつながりたいけど、人は信頼できず、億劫な存在
 
 といったことが挙げられます。

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 総じていえば、刹那的で、とてもせっかちなのです。

 「改善のためには常に行動をしなければ」と思い込んでいます。

 

 

 こう聞くと、驚く方もいると思います。
 「だって、例えば仕事では、常に行動を起こすことは基本だし。PDCA、改善(カイゼン)っていうじゃないの?」と。

 

 確かに、半分そのとおり、でもそれは、仕事を支える思想のほうに問題があります。

 

 なぜかというと、現代の資本主義自体、そもそもトラウマティックな性質を持っているからです。

 ・成長に対する強迫
 ・刹那的に利益を追求する

 といった特徴がある。

 

 そのため、会社の社長やビジネスマンといった人には、
 トラウマを負った、自己愛性パーソナリティ障害傾向の方は少なくありません。彼らと資本主義とはある意味、親和性がある。

 (トランプ大統領など極端ですが)

 

 彼らは、抱えた不全感を、Doing(行動)やHaving(成果)で埋めようとする。
 
 すぐに結果が出ないといけない、として、成果を求める期間は、
 1年、半年、4半期とどんどんと短くなってくる。

 結果その無理がたたって、近年は、粉飾、検査不正とかが問題になってきています。

 

 そうした人たちが書くビジネス本とか、発言とかを真に受けると、トラウマチックな世界観に巻き込まれてしまいます。

 

 

 

 一方、本来の仕事、商いというのは、時間がかかるもの、という認識がありますから、コツコツと目の前の仕事をしながら、種を仕込み、のんびりチャンスを待ったり、するもの。
 
 

 

 私たちの個々人の生活、人生もそうです。

 愛着の安定した人間であれば、のんびりすごして、目の前のこと(今ここ)に集中する。そして、3年、5年、場合によっては10年というスパンで、チャンスを「待つ」。

 これが本来のスタイル。
 

 すぐに結果を求めて、強迫的に行動したりしてはいけない。
 本当に自分を成長させてくれる機会に手が届かなくなるから。

 

 

 世にある、自己啓発やスピリチュアルなノウハウ、ポップな心理療法といったものも、そのオリジナルは近代合理主義の亜種だったり、創始者自体がトラウマを負っていて、その不全感から生まれたものだったりします。
 
 実際、「ありのままでいいよ」といいながら、とってもせっかちで自己否定的であったりします。だから、うまくいかない。

 

 

 もし、本当に、世にあるチャンスを最大限に生かすのであれば、それは、安心安全な環境で日常に生きながら、「ゆっくりと待つ」ということが必要。

 焦りは、支配や発作をもたらします。

 

 トラウマを負った人が育った家庭は、親自体もパーソナリティ障害傾向、発達障害傾向があったりするために、とてもせっかち。

 独善的なルールで「早く、早く」と子供の都合を考えず、追い立てるようなスタイルですから、せわしなく、焦り、緊張することが身体に染みついてしまっている。

 

 人間の本来のスタイルは、安心安全な環境でのんびり過ごして「待つ」というものだ、と知ると、自分の体感(ガットフィーリング)を信頼できるようになり、他人に支配されにくくなったり、発作で解離しにくくなります。

 

 

 

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頭ではなく、腸で感じ取る。

 

 真の客観とは何か?ということを書きましたが、

 もう少し具体的に言うと、私たちはどこで知るのでしょうか?

(参考)→「真の客観とは何か?

 

 
 私たちはクラウド的な存在であり、公的な領域にいるときは、常識や社会通念というものを無意識下で身体で感じ取って生きています。

 それがどこで表面化するのかといえば、「内側から」。とくに腸のあたりから湧いてくる感覚で具体化していきます。

 
 よく「腑に落ちる感じ」といいますが、まさにそんな感覚です。

 英語では、「ガットフィーリング」といいます。
 
 歴史上の王や武将なども、この身体感覚というもので判断してきたようです。 

 

 

 反対に、私たちが判断を誤るときはどんな時かといえば、「頭で考えた」とき。もっといえば、「胸から上の感覚」に頼った時。

 腑に落ちるのとは違い、そわそわ、ざわざわ、して落ち着かない感覚。あるいは、頭に血が上って過活動を起こしている状態。

 こうしたときは、ワールドワイドウェブ(常識や社会通念)とつながっているのではなく、ローカルネットワーク(私的情動)につながっている状態です。

 そのため、判断を誤り、失敗してしまう。

 

 

 

 親と子の絆を指す「愛着」というのも、まさに、この「ガットフィーリング」をはぐくむもの。お腹がすいたとき、眠い時、おしっこがしたいとき、などなど
 内臓感覚への信頼を、親との対話で作り上げていくのです。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと

 

 

 トラウマを負うようなストレスフルな環境、というのは、「胸から上」の感覚を強制されるような文化。必ず、周囲から一方的に急かされれたり、内蔵感覚を無視されたりといったことが起きています。
 過剰に気をつかい、未来を先回りして、ソワソワとして落ち着くことがありません。

 そのため、社会とつながることができず、孤独に陥り、判断を誤り、自分を責めて、という悪循環に陥ってしまうのです。
 
 

 

 

 現実の世の中は、実は、「のんびりして」「待っていることのほうが多い」ものです。常に何かを判断したり、動いたり、ということは少ない。

 ゆっくり待ちながら、内臓感覚(ガットフィーリング)が湧き上がってくるタイミングを待っている。
 
 それがいわゆるチャンス(機会)というものです。

 

 自分の「胸から上」がざわっとしたり、熱くなっていたらそれは一度ストップしてみる必要があります。そして落ち着いたうえで、腸で考える。ゆっくりのんびりしながら、腑に落ちる感覚を「待つ」ということが私たちの本来の姿のようです。

 

 

 

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