愚痴はどんどん言って良い

 

 トラウマを負うと、自分にも厳しく、理想主義的になります。

 さらにより良い自分になろうとして、「私」というものを抑えてしまいます。

 その結果、ログインではなく、ログアウトしていってしまって、自分の人生を生きれなくなってしまう。

 自分が望む方向とは別の方向へと進んでいってしまいます。

(参考)→「ログアウト志向と、ログイン志向と

 

 理想主義的でログアウト傾向のになってしまうとよくあるのが、「愚痴を言ってはいけない」と自分を規制しているというもの。

 筆者もそうでしたが、愚痴を言うのを避けて、だんまりになったり、口を開けば「大丈夫です」と言ってしまったりする。

 本当だったら、違和感や不満があるのにそれを表に出すことが出来ない。

 そのうち、言葉を発する事自体が抑えられてしまう。喉が固くなってしまったりする。

 

 言葉を発する事自体が抑えられてしまうと、精神的な免疫力が下がります。

 外部から理不尽なことが飛んできたときに、さっと言葉を発して防御することができなくなるのです。

(参考)→「自我が強い力を持ち、ためらいなく“自分”という国の秩序を維持する大切さ

 

 
 昔、サッカー選手の中田英寿が現役のときにTVインタビューを受けていました。
 その際に、すごい愚痴を言っていたのを聞いてびっくりしたことがありました。

 当時の日本代表について不満をグチグチといっていたのです。

 
 愚痴は悪いものだと思いこんでいた当時の筆者は、こんな活躍している人でも愚痴を言うんだ!?と驚いたのでした。

 

 

 
 愚痴を言わないでいると、平気で愚痴を言える他者に巻き込まれて、やられてしまいます。

 もっといえば、自分のIDでログインができなくなる。

(参考)→「“反面教師”“解決策”“理想”が、ログインを阻む

 皆様も、愚痴を飲み込んで高尚にしようとしている場面を思い返していただくとわかりますが、理想主義的になって自分からログアウトしていってしまっているのを感じることが出来ます。
  

 愚痴を言わないというのは、自分のIDでログインして自我が満たされた先にある応用技です。
 いきなりその境地に達しようとすると単にログアウトしてしまうことになります。

 

 ログインする練習の一つとしても、積極的に愚痴を言うことはとてもよいことです。

 

 

 その際は、自分(一人称)を主観にしてカラッと愚痴を言う。

 自分が大切にされていない、とか、なんだか物事がうまくいっていない、といった感じで愚痴を言う。

 それをしていると、自分に主軸が戻る感覚を感じることが出来ます。

(参考)→「「私は~」という言葉は、社会とつながるID、パスワード」 

 

 

 二人称、三人称で「こうあるべきでしょ?」と言うと巻き込まれてしまいます。
 それは愚痴ではなくて自他の区別を失って他人をコントロールしようとしているだけです。それは違います。

 愚痴とは、自他の区別がついた状態で、自分を中心に本音を言うこと。

 他人のことを言うときは、私を視点にして、「まったく、しようがないなあ」という感じで言う。

 ビートたけしが、だめな弟子を見て「まったく、しようがねえなあ」と言いますが、あんな感覚。

 
 落語の世界観です。

(参考)→「愛着的世界観とは何か

 

 
 声に出せればよいですが、難しい場合は頭の中でも良いので愚痴を言ってみる。

 
 失礼なことがあったら、「ほんとに、いいかげんにしなさいよ(私を大事にしてよ)」とこれも一人称でいう。  

 

 アサーション(自己表現)がハードルが高い場合は、その手前の軽い表現(愚痴)に規制がかかっていることが多いです。
 

 だから、気楽にぐちぐち言ってみることはとても良いことです。
 

 自尊心を育てることに繋がります。

(参考)→「自尊心とはどういうものか?

 

 

 

 

常識に還る

 

 このブログでお伝えしてきたことを改めて見ると、どれも本来は“常識”というか、当り前のようなこと、と言えるかもしれません。

 「言葉は戯言」だとか、
 「物理的な現実を信頼する」とか、
 「自我が大事」だとか、
 「俗にまみれる」だとか、、、
 さらには、
 「食事、運動、睡眠が大事ですよ」といったことなど、、

(参考)→「結局のところ、セラピー、カウンセリングもいいけど、睡眠、食事、運動、環境が“とても”大切

 

 健康な人からすれば、人として成熟するため、世の中を渡っていくためには当然なことばかり。

 

 

 しかし、この“当然”とか“当り前”を身につけることは実はかなり難しい。

 特に若いころは体力とか勢いで状況を打破できることが多いために、わからなくなる。

 しかも、常識というのは言語化されない。みんなわかっていても言語化できず・されず、密教のように分かる人にだけじわっと感じ取られているものだったりする。

 

 やっかいなのは、時代の流れで一時的に“当然”とか“当り前”が崩れたように見えることもしばしば起きます。

 “当然”とか“当り前”の反対のことが正しいように見えてしまうし、それを宣伝して商売する人もいますから、さらに厄介です。
(参考)→ 「主婦、ビジネス、学校、自己啓発・スピリチュアルの世界でも幻想のチキンレースは蔓延っている

 

 

 「常識」とつながっていて、「自我」、もっといえば体感が機能していると、なんとなく、何が正しいかの判断ができたりします。

(参考)→「常識、社会通念とつながる

 

 しかし、「自我」が未形成で、焦燥感や不安などで体感を十分に感じ取ることができないでいると、「常識」からのメッセージもキャッチできず、何が当り前のなのかはわからなくなります。
 

 “当然”とか“当り前”ということが全く見えなくなってしまうのが、不全感(愛着不安、トラウマ)の影響の中核ともいえるものです。

 そうすると世の中の当り前が全く真逆に見えてしまう。

 そんなものからは自分を遠ざけることが解決の筋道であるかのように見えてしまって、ずーっと遠回りをしてしまう。なぜかセラピーも創始者自身がトラウマを負っているために、遠回りする方向に持っていってしまう。

(参考)→「心理学、精神医学の由来にも内在するログアウト志向

 

 例えば、失礼なことを言われても、反撃もせずに怒らないことが良いことだ、として、その方法を指南しようとする。
 当然ながらそんなことは実行できないのですが、一生懸命カウンセリングを受けたり言葉を唱えたりして、怒りがスルーできるように頑張ってみようとする。

 

 本来は、失礼なことを言われたら、怒ればいい。
 それこそが自尊心である、ということは、以前の記事でも見てみました。

(参考)→「自尊心とはどういうものか?

 

 免疫システムのように、ウイルスが入ってきたら、まずは有無を言わさずに攻撃する。それが生き物のあり方です。
 

 一方、「ウイルスにも意味があるのだから、すぐに反撃しないようがよい」とか、「免疫を使わずにスルーできる方法を探したい」といっているのがトラウマがある状況です。

 ウイルスの意味などは別の場所で研究者などが考えれば良いことで、現場に生きる人間としてはとにかく免疫を機能させて自分を守る必要があります。

 

 

 ログインするとは、別の言い方をすれば「常識に還る」ことだということができるかもしれません。

 
 常識とは、もっといえば愛着的世界観の中で自分のものにしたルールや作法ということ。

(参考)→「「常識」こそが、私たちを守ってくれる。

 

 常識に還るためにはすべてをいきなり全部実行することは難しいかもしれません。

 だから、まずは運動してみる、とか食事をしっかりとってみる、とか当り前のことから始めてみる。

 「こんな事で変わるはずがない」と思ってもやってみる。

 のんびりと過ごしてみる。気楽に散歩をしてみる。

 
 「私は~」といって、話しはじめてみる。これも当り前。

 そうして、だんだんログインする世界へとスライドしていく。 

 

  
 平凡なことほど、物理的な現実として積み上がっていって、私たちを守ってくれるものです。

 

(参考)→「物理的な現実がもたらす「積み上げ」と「質的転換(カットオフ)」

 

 

 

 

ログアウトしたままの、都合の良い相手への期待

 

 前回の記事の続きです。

(参考)→「問題の根底にある「(作られた)ビビリ」

 さらに深く分析すると、イライラは自分がログアウトしたまま都合よく相手や状況に期待し、裏切られた結果でもある。

 
 自分を出すと危険だからと、ログアウトしたままで、相手が自分の想定通りに動いてくれる、都合よく振る舞ってくれることを期待しています。
 あたかも、赤ちゃんが母親を期待して見るかのように。

 

 赤ちゃんにとっては母親(父親)は全能に見えます。だからなんでもできる、してくれると感じている。

 ある意味相手を理想化して捉えています。

 しかし、当然、目の前の人物は母親でもなければ、全能の存在でもない、こちらを察して相手は思い通りになど動いてはくれません。

 

 期待だけは妙に膨らんでいるために、深い失望となって、理想化がこき下ろしに転嫁して、イライラや怒りに変わってしまう、ということが裏側では動いているのです。
 

 

 自分はログアウトしていて、安全な位置にいながら、相手に勝手な期待をしているのでいまいち腰が定まらない。

 相手もそれを感じ取っているので、イライラをぶつけられても響かない。
(「自分はログインせずに、他人に要求するのはおかしくない?」と無意識に感じます。)

(参考)→「自分のIDでログインしてないスマートフォン

 

 

 過度な要求の割に、それに伴う責任(役割)を負っていないことについてアンバランスが起きている。

 

 こうしたログアウトしたまま、自分は回避したままで、目の前の人や社会に都合の良い期待をかけて裏切られたとして怒りを感じる、というのも本当に多い。

(参考)→「「察してよ!」で、自分の主権、主体性が奪われる

 

 その場合は必ず、頭の中での考え、自分の発言や思考に「主語」が抜けています。

 「普通、こういうときはこうするだろう? なんでしないわけ?!」と怒っていますが、主語がない。

 自分はログアウトしているために「私は~と思う」「私は~~してほしい」というわけでもなくログアウトしたままニセモノの神のような視点に立って「人間なら、~~すべき」という頭になってしまっている。

 そのことに本人も気づいていない。

(参考)→「自分の意見ではなくて、世の中こうあるべきという観点でしか意見や不満がいえない。」 

 

 
 しかし、以前も書きましたが、第三者の視点、神の視点に立ってしまうと、自他の区別が消失し、他人の介入も招くことになる。

 自分の意見が通らなくなってしまう。

 なぜなら、神になる資格もない一人間が、神の視点で「こうだ!」といっているだけだから。

 

 意見が通らなくなるために、余計にイライラしたり、自分の考えが否定されて絶望したりして、相手が気が利かないわからず屋に見えて、さらにイライラとなってしまうのです。

 

 本来は、ログインして、「私は~~が嫌です」とか、「私は~~こう思います」といえば、自分の持分だけ、領域だけは自分の意見が通ります。

 そうやって、それぞれの人間が自分の持分をもち「交流」しあう、というのが健康な人間同士のやり取りです。

(参考)→「世界はあなたがログインすることを歓迎している。

 

 

 

●よろしければ、こちらもご覧ください。

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お悩みの原因や解決方法について

問題の根底にある「(作られた)ビビリ」

 

 

 前回の記事の続きになりますが、いろんな問題の根底には「(作られた)ビビリ」が影響していることはとても多いです。

(参考)→「これ以上私を不安にするな! っていうイライラ

 

 人に対して、「あの人はこうだ」とか、世の中に対して「社会のここがおかしい」とか、あるいは、「やる気が出ない」とか、「何をしていいかわからない」とか、

 当人は、意識ではいろいろな理屈を立てているのですが、そういう理屈を分けていくと、「結局、ビビっているだけちゃいますか?」というのはとても多い。

 「ビビっている」というのは臆病、とか怖がり、ということではありません。

 簡単に言えば愛着不安ということ。
 世界が安心安全ではない、そこにいる人達も得体が知れない、急に豹変するかもしれない、と考えていてビクビクしている。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その特徴と悩み、メカニズム

 

 トラウマを負っている人は努力家の方が多いので、恐怖に立ち向かわなければ! と頑張る。

 でも、どうしても体の芯がビビっていることは止められない。

 

 

 そうして、回避してしまう。

 回避したあとに頭がぐるぐるする。

 そのぐるぐるを抑えるために、社会や他者に対するこき下ろしや、シミュレーションを繰り返してしまう。

 そんな自分を嫌悪する。

 

 

 さらに、その回避が、さまざまな問題行動や、防衛を生み出して、こじれていってしまう。

 いつしか、その回避や防衛が、自分の人格、性格であるかのように振る舞ってしまうようになっている。

 ただ、本人は直感では、「自分はこんなものではない」と勘づいています。
 でも、こじれが激しく、恐怖も襲ってきますから、すぐにその直感は打ち消されてしまい、回避や防衛に奔走することになってしまうのです。

 

 

 

 じゃあ、度胸をつけたらいいのか?
 臆病だったら生きれない世の中なのか?といえばもちろんそうではありません。

 そもそも、世界は恐ろしい、安心安全ではない、と思わせているのは、愛着不安のためです。 

 実際の世の中はそんなふうに恐ろしくは出来ていません。

 

 私たちが住むのは平和な日常です。

 確かに人間は解離する、おかしくなってしまう生き物です。

 しかし、社会を生きるに適切なパスポート、プロトコル(免疫)さえもっていれば、危険にあうということはありません。

 ウェルズの「宇宙戦争」の宇宙人みたいに免疫がなければ地球は地獄ですが、免疫があれば、ボケーッとしてても生きることもできる。

(参考)→「俗にまみれる

 

 
 「いや、それでももしあったらどうするの! 実際ニュースでそんなの見るし、自分も嫌な目にあってきたし」 と考えるのはトラウマの世界観です。

(参考)→「非愛着的世界観

 

 「まあ、大丈夫じゃないの? ほどほどに気をつけていれば」というのは、愛着的な世界観です。

(参考)→「愛着的世界観とは何か

 

 後者は“甘い”考え方に見えますが、健康な方の世界の見え方はそんなものです。 

 

 
 根底にある恐怖感を取るのは時間がかかりますが、すこしずつ取り組んでいくと段々と薄れていって、世界の見え方は変わってきます。

 

 

 

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