公的な場に現れたものこそが本心

 
 「あの人は、おもてむきは笑顔だけど、裏では私のことを悪く言っているに違いない」とか。
 
 「褒めてくれていたけど、社交辞令にすぎない」と思うことがあるかもしれません。

 自信がない、自己肯定感が低い、といった場合にはそうした感覚になりやすかったりします。

 そして、自分については悪いことばかりを拾ってしまう。

 相手の頭の中を忖度し、想像して、悪く思っているであろうことを探してしまう。

 

 

 こうしたことの原因の一つは、相手の頭の中に本音、本心があると思っているからです。

 先日出させていただきました本にも書いていますが、相手の頭の中には本音も本心もありません。 

(参考)「プロカウンセラーが教える 他人の言葉をスルーする技術」

 

 相手の頭の中にあるのは、ドロドロとした私的領域です。

 たとえていえば、製品ができる前の鉄鋼炉みたいなものです。

 
 人間は社会的な動物です。

 公的な場に現れたものこそが本心です。

 

 

 反対に陰口というのは、その人が内面化した他者の不全感が漏れ出たものである、ということです。

 その陰口が、自分の何かを指している、的を得ている、ということはありません。

 ですから、人の陰口を聞いて真に受ける必要はありません。

 「ああ、不全感を抱えているんだな」と思えばいい。

 相手の頭の中は想像したり、覗き込んだりしない。

(参考)→「忖度とはなにか? 相手の負の世界を飲み込んでしまう。黙ってしまう。

 

 ホテルやレストランのバックヤードを覗きに行くみたいに、意味がありません。
 (これがこのお店の実態だ!と考える人はいません)

 表の整ったところだけを見ていればいい。 
 

 

 

 愛着が安定しているとは、物事の裏側に関するノイズをキャンセルできるということ。

 闇を忖度しようとしたり、覗こうとしたりする動機や誘引を自分の中からも除外しているということ。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その特徴と悩み、メカニズム

 

 そんな愛着が安定している人のほうが、成熟できていて、「世の中いろいろなことがあるからね~」として、人の弱さを客観視、相対視することができたりします。

 それは、これまでもお伝えしたように、多要素で、多元的であることが身体でわかるから。
 

 

 一方で、トラウマを負っていると、闇を忖度する一方で、妙に幼く、純粋なところがあって、理想を求めるからこそ、闇を覗きに行くようなところがあります。

 それは、闇を理想と騙るのがローカルルールであり、その影響を受けているということもあります。 

 一元的に捉えてしまい、自分を中心に、世界を構造で捉えるということが難しくなってしまうのです。

(参考)→「自分の文脈を持つということは、多次元並列や構造、手順で世界を捉えるということ

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

 

自分の文脈を持つということは、多次元並列や構造、手順で世界を捉えるということ。

 

 物理的な世界というのは、つねに多要素、多次元並列で成り立っています。

(参考)→「愛着的世界観とは何か

 そして、それらは構造化されていて、矛盾するようなものが均衡をもって成り立っている。

 多様な存在が、それぞれに存在できる大きな余地(スペース)があります。

 
 そんな現実に対して、どちらか一方、正しい=間違っている、といった一次元的な感覚で語れるわけがありません。

 不思議なことに他人の文脈を丸呑みしてしまい、主体性がないと、
 一次元的な世界観に陥ってしまう。
 

 すべてが一軸に回収されて表現されるような感覚になる。

 その世界の中では、自分は一番下か、根源的におかしな存在として意識されしまう。

 終わらない努力でようやく水面上に顔を出せるような、苦しく、逃げ場のないような感じに感じられる。

(参考)→「トラウマを負うと、手順や段階、多次元多要素並列という視点が抜ける

 

 こうした状態を、単声的(モノフォニー)といいます。

 対して、本来の状態は、多声的(ポリフォニー)と表現されます。

 多元的で多様なものが同時に存在でき、自在に構造化される。

 

 それらを自分の中に内面化して、安心安全に併存させることができるためには、自我、主体性が必要になります。

 自我、主体性がなければ、たちまち、単一の声、次元が圧倒してしまい、単声的(モノフォニー)な状態に陥ってしまうのです。

 
 自分の文脈を持つ、というのは決して、独りよがりになることでも、自分の考えしか持てなくなることでもありません。

 人間は社会的な動物です。

 社会化されなければ、主体性は持てませんし、自我がなければ社会化する基盤もなくなります。
 
 自我というログインIDで、世界に参画して、今度は自分主体で社会を編集する。

(参考)→「世界はあなたがログインすることを歓迎している。

 
 反対に、手順や構造という感覚がなく、「どちらが正しいか?」「どちらかしか成り立たない」という考えに陥っているとしたら、それは自分が失われている、と言えるかもしれません。

 

 

 

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お悩みの原因や解決方法について

 

暗黙のしくみを知るためには、物事や情報を基礎、応用と分けて考える

 

 スポーツなどでは、プロが行っていることを初心者がそのままやると正しい方法身につかない、ということがあります。

 特にプロがやっていることは、見た目には「基礎」とは逆に見えたりします。

 プロは基礎がもちろんしっかりあるわけですが、試合などで行っているのは、基礎に基づく応用だったりします。 

 応用として展開されることは、ときに基礎と真反対に見えます。

 

 

 これが私たちが、生きづらさを克服する際にも当てはまります。

 例えば、人との関わりを回復させるためには、心を開く のではなく、しっかりと閉じなければいけません。 
 

 他人との区別をしっかりと付けて、境界線を明確にする必要がある。

 社交的な人ほど、実は心が閉じています。

 統合失調症の方は、境界線が薄く、それゆえに幻聴などに悩むと言われますが、ある患者さんが、「この病院の中で誰が一番心が閉じていますか?」と聞かれた際に、いちばん人当たりのいい看護婦さんの名前を挙げた、というエピソードを目にしたことがあります。

 

 

 家と同じで、外出するためにはしっかりと鍵がかけられていなければならない。

 しかし、一見するとこれが逆に見えてしまいます。

 社交的になるためには、心を開かなければならない、
 社交的な人は心が開いている、と。

 
 全く逆です。

 しっかりと閉じる習慣ができているから、社交的にすることができる。

 
 社交とは、心を閉じるという基礎ができていてはじめてできる応用であるということです。

 

 

 トラウマを負うと、こうした物事の段階がわからなくなってしまいます。
 すべて一元的で、「どちらが正しいか」と考えてします。

(参考)→「トラウマを負うと一元的価値観になる

 

 ほとんどの場合、基礎、応用と分けて考えれば、両立するものだったりする。

 しかし、基礎というのは暗黙のしくみとしてあり、言語化しにくいため言葉にされることがありません。
 よほど注意深く観察されなければ言葉にできません。

 いっぽうで、応用は言葉にしやすい。見たままに言葉にすればいいわけですから。

  
 本屋に並ぶようなポップ心理学や自己啓発の本の多くは、「応用」が書かれています。

 ですから、いきなり、「応用」から入ってしまい、その気になっているうちはうまくいきますが、「基礎」がないために続かなくなって、それどころか、むしろ調子を崩す、ということが起きてしまうのです。

 
 物事は、基礎と応用とを分けてみれば、世の中の暗黙のしくみがわかるようになります。
 

 

 

 ↓「基礎」を書いてみました。

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お悩みの原因や解決方法について

理想化された概念も単次元化を生み出すことになる。

 

 生きづらさを解消するために展開される考えや概念、道徳にも、実は単次元化を生み出す要因になることがあります。

(参考)→「トラウマを負うと、手順や段階、多次元多要素並列という視点が抜ける

 

 例えば、「許し」といった概念。

 自分がひどいことをされたことを許しましょう、とか

 許しにはすごいパワーがあります、といったように紹介されます。

 たしかにそうなのかもしれませんが、ほとんどの場合は、むしろ、怒りや恨みといった素朴な感覚にふたをするような結果になってしまいます。

それで生きづらさが真に解消したということは、寡聞にして知りません。
 

 

 

 これも段階というものを無視して、単次元的に受け取ってしまうと害になってしまう言葉の例かもしれません。

 人間ですから、まずは、嫌なことをされたら「嫌」という感情や「怒り」を出すということが通常です。

 その上で、その段階を経た果てに「許し」ということが来るかもしれませんが、いきなり最初に「許し」を持ってきて、それで良いというわけではありません。

 

 料理の工程で言えば、いきなり「盛り付け」をするようなものです。
 
 食材を選んだり、洗ったり、下ごしらえをしたり、ということがなければ「盛り付け」もありません。

 

 

 「相手の立場を理解する」といったことも同様です。

 嫌なことをされたり、理不尽な目にあったら、まずはそこに対して自己中心的に拒絶の反応をすることが自然であって、そうした段階を経た先に、「相手の立場を理解する」は登場するものです。

 

 最初から、相手の立場を理解する、とか、自分にも足りないところがある、なんていう気持ちからスタートするというのは不自然なことなのです。

 

 身体の免疫システムとも似ています。

 外部から異物が侵入したら、まずは何はなくとも撃退する。相手の立場を考えたり、許したりしていては生きていくことはできません。

 

 泥棒に入られた人が「泥棒にも生活があるのね」とか、「泥棒も不全感を抱えているのかも?」なんて最初に考えません。

 それは、感情的なこと、法的な手続き、などいろいろなことがすべて解消されたあとでの話。

 
 健康な心身であれば、料理の工程のように、まずは普通に手順を踏みながら、シンプルに反応するものです。

 
 これらが乱されるのが、愛着不安であり、トラウマ、といえるかもしれません。

(参考)→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの原因と克服」「「愛着障害」とは何か?その特徴と悩み、メカニズム

 

 

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