「関係」の基礎2~公私の区別があいまいになると人はおかしくなる

 

 昔、筆者が、ペーパードライバーの講習を受けて運転の練習をしていたときのことです。

ドライビングスクールの先生と少し雑談しながら、運転をしていました。

  筆者「そういえば、運転すると人が変わる人っていますよね?」

  先生「いますね。」

  筆者「なんででしょうね?あれは」

  先生「車内がプライベートな空間で、自分が解放されるみたいですよ」

  筆者「なるほどそうなんですね。確かに知り合いのおじさんも、車に乗ると、オラー!って人が変わっていました。」

 

 

 このように、
 どうやら、〝私的な空間”というのは(厳密にいえば公私の区別があいまいなところは)人をおかしくしてしまうようです。

 

 

 別の例では、DVを行う男性もこれに似ています。
  公的な空間にいると、紳士的なのですが、
  私的な空間になると、人が変わって、パートナーに暴力、暴言を浴びせてしまう。

(参考)→「家庭内暴力、DV(ドメスティックバイオレンス)とは何か?本当の原因と対策

 

 親が子供にイライラをぶつけたり、暴言を吐いたりするのも、実は同様です。
 
  特に核家族になって、他者からのまなざしがない閉じられた私的な空間の中で親が解離を起こして、人が変わってしまうことから、イライラ暴言は起きます。
 (自転車に乗っているときに後ろに乗っている子供に暴言を浴びせているお母さんがいたりするのも車に乗ったら人が変わる、ということと同じなのかもしれませんね。)

 

 

 

  機能不全家族、というのは、家庭の中に「公的な環境」が失われているために父親、母親といった公的な役割が果たされていない(公私の区別があいまいな)状態を指します。

  「公的な環境」の代わりに、父親、母親の個人的な価値観(ローカルルール)を絶対化して多様性が失われ、過度に厳格になったり、逆に一貫性がなかったり、無秩序になったりしてしまいます。

  ローカルルールというのは、公的な仮面をかぶった私的な価値観の強制です。

 

 
 いじめ、ハラスメント、というのも、まさに公私の区別があいまいな環境で起こる現象です。
 学校や会社などは、「うちはうち、外の常識は関係ない」として、おかしなルールがまかり通りがちです。

 そこでは、私的な情動がむき出しになって、まともな人たちもおかしくなってしまいます。
(先生も、いじめっ子の味方をして、いじめられた側が悪い、と平気で主張したりするようになります。)

 

 こうした環境には、よほど愛着が安定していなければ抵抗することはできません。

(参考)→「「愛着障害」とは何か?その症状・特徴と治療、克服のために必要なこと
 

 

 

 
 前回も書きましたが、「愛着」とは、子どもの中の私的な情動を、親のかかわりの中で公的な表現へと昇華させる作業です。

 おなかがすいたら、「おなかがすいたの?」

 悲しい時には、「悲しいの?」

 と関わることで、子どもの一貫し、情動は安定していきます。

 

 反対に

  楽しい時に、怒られる。
 
  悲しい時に無視される。何もないのに、

  気をつかわなければならない。

 こうした一貫しないコミュニケーションのことをダブルバインドといい、人類学者のベイトソンなどは精神疾患の原因としてきました。

 

 統合失調症などの原因としては否定されていますが、ベイトソンの視点は慧眼で、一貫しないコミュニケーションは人をおかしくしてしまいます。

 一貫したコミュニケーションとは、予測可能性を与え、それが「安心安全」を生みます。反対に、一貫しない応対というのは、不安の温床となります。

 境界性パーソナリティ障害の背景にも、養育環境での一貫性のなさの影響、あるいは自身や養育者の発達障害傾向等の身体的失調による情動の不安定さがあるのはそのためです。

 

 

 

 「私的な情動」というのは、私たちにとってはエネルギーの元となるもので大切なものです。ただ、加工されていない生の資源はそのまま用いることはできないように加工される必要があります。不純物も混じっています。
 加工され、磨かれて「公的な表現」となって初めて、社会で通用するものになるのです。

 プライベートとは、私たちの内面のことです。特に大人の場合、同居者がいれば、家庭の中でも本当の意味でのプライベートはありません。公的な機能を果たすことが求められます。
 (もちろん、家ではくつろいだり、休養したり、気楽に過ごしたりすることは大いにしなければなりませんが、そこにもマナーが必要になります。)
 そこを勘違いしてしまって、親の機能を果たさずに生の私的情動を発散させ、自分の価値観を押し付け、ハラスメントや虐待となってしまいます。
 

 

 

 私たち人間は一貫し、安定した、公的な環境に照らされることで成長し、社会の中で位置と役割を得て、「社会人(市民)」として成熟することができます。
 自分の内面でさえ、内省を経て磨かれて初めて意味のあるものになります。瞑想や禅などはそうした役割があります。

 

 

 社会が混乱したり、あるいは当人の内的環境(健康状態)が不安定なるなどして、公私の区別があいまいになってしまうと、私的情動が適切に昇華されず、自己や他者に対する攻撃や支配となって向けられられるようになります。
 カルト集団内部とか、ナチズムが生まれた社会環境はまさにそうです。

 

 

 私たちは、公私の区別があいまいな環境ではおかしくなってしまう。

 

 ここに、私たちが「関係」を再構築するための大きなヒントがあります。

 

 

 「親しき中にも礼儀あり」とはよく言ったもので、私たちが、心地よい「関係」を築くためには、「公的な環境」をどう作るか?維持するか? 公私の区別をあいまいにしない、ということがとても大事だ、ということです。

 

 ハラスメントを受けやすい方、バカにされやすい方、というのは、対人関係において公私の区別があいまいになってしまっていると考えられます。

 それは、もともとの養育環境が公私の区別があいまいでローカルルールがはびこる中で、混乱した状況を生きてきたために起きます。
 親がそうだったために、対人関係であいまいな対応、私的な対応をしてしまうことが当たり前となっているのです。

 

 例えば、人間関係で大切とされるような「気をつかう」「へりくだる」「相手の内面に立ち入る」といったことは、公私の区別をあいまいにしてしまうもので、実は本来は安易に使ってはいけないものなのです。

 

 

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