「過剰な客観性」


 

一元的価値観になることにも関連する影響ですが、トラウマを負った人の特徴として、「過剰な客観性」というものがあります。
自分の主観で生きているというよりも、世界という舞台の上に自分がいるという感覚。当然そこには外部に善悪、正誤のルールがあり、そこに従おうとする感覚です。

でも、そのルールを自分は「未熟さ」「至らなさ」によって知りえていない、と感じているので、自信がありません。

あるいは、そのルールを知ってそうな人に憧れたり、怖れたりするようになります。

 

 

 

過剰に客観的であるので、自分が行った行為についても、間違っていなかったか、正しかったかを判定しようとします。
自分に厳しく、ちょっとのことでは喜びません。
自責感が強く、「すみません」が口癖です。

会社で会議や、プレゼンをしていても、自分の発言が間違っていないか?浮いていないか?とどこか自信がありません。

 

 

「過剰に客観性」を重んじるために、主観的に生きている、安定型の人たちにはその場の勢いで負けてしまいます。

他人から反論されても、「正しいかどうか?」の判定に頭がグルグルして、自分の気持ちで押し通すことができずに、反論を受け入れてしまい、意見が通らなくなります。

 

 

本当は、この世には、ルールなどなく、多元的であり、主観同士のぶつかり合いですが、そうした感覚がありません。

 

 

「主観」や「感情」を意識の低いものとして嫌悪します。
自分はそうななりたくない、と思っています。でもイライラして、嫌になります。

なぜなら、それらは自分を苦しめた親や周囲の人たちが「主観的」で「感情のまま」にふるまっていたからです。
(例えば、子どものこともかまわず夫婦げんかをしていた。感情的に子どもへの対応がコロコロ変わった、など)

そうした意識の低いものからは逃れたいし、自由になりたいと願っています。

 

 

人からの誘いがあっても、常に、そうしたことを断ってよいか?恐れています。
なぜなら、「客観的に」見て、そうした誘いを断ったらチャンスが減ったり、もう次のチャンスは来ないように感じるからです。

休みでも、どういう過ごし方をしたら適切なのか?を考えて動けなくなってしまいます。結局、街を当てもなくぶらぶらして、ごまかしたりします。

自分の外に、正しい過ごし方の基準があるように感じています。

同時に、どこかむなしい感じがあります。「今ここ」を生きている感覚がありません。

 

 

思わせぶりな人の発言にも振り回されてしまい、とても気になります。占いなども、ばかばかしいと思いつつも、もしかしたら?と気になって仕方がありません。
「過剰な客観性」を持っていると、ハラスメントを行うような、相手をコントロールするタイプの人にはやられっぱなしとなります。
なぜなら、そういう人たちは、相手をコントロールするためのポイントを心得ていて、 自分の都合の良いようにゴールポストを動かし続けるからです。

 

「過剰な客観性」にとっては、ゴールポストは絶対ですから、動かされていることに気が付かずに、自分の蹴ったシュートが外れたことを指摘されて落ち込み、相手のゴールは常に入ることを見て自信を無くして、相手のほうが正しいと思わされ、支配されてしまうのです。

 

→「トラウマ、PTSDとは何か?あなたの悩みの根本原因と克服

 

 
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